「ホント馬鹿だなぁお前」
筋張った硬い手に包帯を巻きながらしみじみ言うと、
「うるさい」
淡々とした罵声とともに、反対の手、これまた包帯でぐるぐる巻きにされたそれの指先に額を弾かれた。
アスカ的には軽い意趣返しだったのかもしれないが、彼の非常識な膂力でやられるとなると結構洒落にならない。ごしっ、という衝撃があって、レーヴェリヒトは思わず手を止めて呻く。
なにせ、ちょっと涙が出たほどだ。相当である。
「痛っ! なんだよ、本当のことを言っただけだろうが!」
何とか気を取り直して包帯を巻く作業を再開しつつ、レーヴェリヒトが抗議すると、フンと鼻を鳴らしたアスカは、
「馬鹿の総大将のお前に言われる筋合いはない」
恐ろしく不名誉な断じ方をした。
言動こそいつも通りだが、両の頬や額、鼻の頭は膏薬が覆い尽くしそうになっている。ぐるぐる巻き、という印象だ。
「ひでぇ言われようだな……」
どんな時でも、どこまでも自分の都合一辺倒、自分の判断基準こそ正しい、というスタンスのアスカには呆れると同時に感心するばかりだが……そしてレーヴェリヒトとて賢くなりきれない自分を自覚はしているが、実際、馬鹿だと思うのだから仕方がない。
アスカの姿が見えないと探していたのは事実だが、医務室を通りかかったのはほとんど偶然だった。聞きなれた声を耳にした気がして、足を運んでみたら血まみれのアスカがいたのだ。
怪我や血に驚くほど平和な時代に生きているわけでもなく、こんなときくらい、と医者を下がらせて自ら手当てを始めたが、レーヴェリヒトは奇妙な傷に何度も首をかしげた。
アスカ本人は、肌のほとんどを傷で埋め、何で斬られたらこうなるのかというほどにあちこちを斬り刻まれているというのにまったく動じず、いつも通りの態度を崩さなかったが、この分だと夜には熱が出るかもしれない。
ぶつぶつ言いながら手当てを進め、アスカに付き従うふたりの騎士から、一時間ほど前に起きたというそれの話を聞いたとき、レーヴェリヒトは背筋が寒くなった。
ひとつのまちを容易く滅ぼすだけの力を持った魔族の降臨に、ではない。
それがまちを荒らし国を破壊し民を傷つけるのなら、必要とあらば、レーヴェリヒトはいつでも剣を取り、真っ向から挑むだろう。祝福された双ツの色が持つ絶大なる力でもって、完膚なきまでに叩き潰すだろう。
それがレーヴェリヒトのなすべきことで、責務だ。
そこに躊躇を差し挟む余地はない。
彼は命をかけてその責務を果たすだろう、王として立った瞬間からそうしてきたように。
「……無茶すんなよ、あんま。心配するじゃねぇか」
レーヴェリヒトが恐怖すら覚えたのは、己が身を顧みず、傷も流される血もお構いなしで、もとは知り合いであったというその女を救うために、アスカが真っ向からその魔族に挑んだということだった。
そこに一切の利己、一切の保身が含まれていなかったことを、ユージンとイスフェニアの言から察知したからだった。
「しようと思ってしてるわけでもないが、しなきゃならないからするだけだ。言ってみれば必然だな」
返る言葉はいっそ憎たらしいほど冷静だ。
予想通りの答えに、レーヴェリヒトは深々と溜め息をついた。
こいつの馬鹿さ加減は俺にゃあどうしようもねぇ、などと思いつつ最後の包帯を巻き終えて、
「ほら、終わりだ。普通の異形と同じく、魔族の《死片》にも毒がある。何が起きるか判らねぇから、今日は安静にしてろよ」
言って、手足と同じく包帯で埋め尽くされたアスカの背中をべしっと叩くと、
「痛っ」
珍しいことに呻き声が上がった。
「あ」
アスカ相手だとよく忘れるが、正直レーヴェリヒト自身も人間の範疇を大幅に超えた体機能の持ち主なのだ。無造作に、無防備な背中を叩かれれば当然痛いだろう。
アスカにもわりと効いたらしく、ちょっと固まっている。
しかし、相手はあのアスカだ。
ひとつ何かをされれば十にして返すような、一筋縄ではいかない極悪鬼少年である。その彼に攻撃を加えたレーヴェリヒトを、アスカがそのまま済ませるわけがなく、しまったと思ったがもう遅い。
黒々と晴れやかな笑みが、少し薄い唇に張りついていた。
「レ・イ?」
わざわざ一文字ずつ区切って発音された。
「う」
レーヴェリヒトは思わず椅子から立ち上がり、一歩距離を取った。
武人としての経験は彼の方が上のはずなのに、アスカを前にすると何故か身構えずにはいられない――とはいえそれは、アスカと対峙したものの大半が感じることのようだったが――。
「お前それは俺に喧嘩を売ったものと解釈していいんだな? ……そうか、いいのか、いいんだな、判った。なら、これは報復しなくてはなるまい、俺の矜持とか存在意義にかけて」
「報復ッ!? いやあの、うん、そりゃ痛かったのは悪かったとは思うけど、謝ろうとか思う前にその自己完結ぶりってどうなんだ!? 別にわざとじゃねぇっつの!」
「はっ、故意も偶然も関係あるか、結果がすべてだ。この俺の玉の肌を気安く叩いたからには覚悟しろよ? 生まれてきたことを後悔するようなきつい仕置きをくれてやる」
「しお……ッ!? なんでそんなオオゴトに! つーか大体玉の肌とか言うくらいなら最初から傷なんざこしらえるなっつーの! まず第一に考えるべきはそこだろうがよ!?」
このままアスカのペースにはまるのは壮絶に不味い、という、洒落にならない何かを――ちなみに表情にこそ出ていないものの、アスカ自身はものすごく楽しそうだ――感じ取り、レーヴェリヒトがかなり必死で抗議すると、それはさすがに図星だと思ったのか、
「ふむ」
アスカは小さく頷き、顎に手を当てた。
というより、レーヴェリヒトの反応で遊んでいただけなのかもしれない。
「それは確かにそうだ」
何にせよ、矛先が変わったことに、レーヴェリヒトは心から安堵する。
「仕方ない、ここは許してやろう」
「いつものことだがなんて偉そうな……。まぁ、とかいったらいつも通りに言われるんだろうけどな」
一拍置いて、
「「偉そう、じゃなくて偉いんだ」」
レーヴェリヒトとアスカの声が重なる。
アスカが肩をすくめ、レーヴェリヒトは笑いをこらえた。
この、自由で勝手気ままで奔放な、何に対しても構えない性質が、レーヴェリヒトの今の日々に鮮やかな彩りを添えてくれるのだ。
「まぁいいや、何にせよお前が無事でよかったよ、アスカ」
そう、レーヴェリヒトにとって一番大事だったのはそれだった。
彼は今まで通りこのリィンクローヴァという国の王だ。国のために尽くす為政者であり、武人だ。
彼は国のために死ぬだろう、最期の最後までそのために戦うだろう。
けれどもう、自分にとって一番大事なものが何なのか、レーヴェリヒトは悟ってしまっていた。
何故そこまで執着するのか、自分でもよくは判らない。それだけ切実に待ち望んでいたのだと、それだけ強く欲していたのだと、多分そういうことなのだろうと思いはするが。
王である自分は大事だ。
国と民を愛している。
果たすべき責務は果たす。
その立ち位置に変わりはない。
だが、国を守るための戦いに、別の色合いが加わったことも事実だった。
共に生き、どこまでも行きたいという願いと、この破天荒で人でなしで魅力的な少年が、一体何をなすのかを確かめたいという思い、そのふたつが、今のレーヴェリヒトをかたちづくっている。
そして、そのために剣を振らせるのだ。
だから、アスカに対するレーヴェリヒトのその言は、万感の、感慨の含まれたものだった。それが察せられないほど鈍くも愚かでもないアスカは、漆黒に輝く稀有な双眸をほんの少し和ませて、
「……ああ」
そう、小さく頷いた。
レーヴェリヒトも笑って頷く。
それでようやく安堵し、気が済んで、レーヴェリヒトが仕事に戻ろうとしたそのとき、不意に、医務室の向こう側が騒がしくなった。
驚きと困惑と怒り、怖れを含んだざわめきが聞こえてくる。
「……ん?」
そして更にその向こう側に、見知ったふたつの気配を感じ取り、レーヴェリヒトは首をかしげた。
ひとつは鋭く激しい気を、ひとつは深く静かだが重い気をまとっている。そのふたつの組み合わせで構成される人間を、彼は一組しか知らない。ふたりはどんどん医務室へ近づいてきているようだった。
扉の向こう側からは、お戻りを、とか、陛下はご用事中です、とかいう、臣下の人々の慌てた声が聞こえてくる。
扉一枚隔てて、声の主たちと王城の人々は押し問答を繰り返していたが、やがて、
「うるせぇ、怪我したくなきゃ退け!」
ピリピリとした本気を含んだ、斬りつけるような美声が響き、
「興奮しすぎだ、ギイ。少し落ち着け」
静かな声が片割れをなだめるように発せられると同時に、
「オレはいつだって落ち着いてるさ、なァ、国王陛下!」
その声とともに、医務室の扉が蹴り開けられる。
レーヴェリヒトの予想と違わず、入ってきたのは超級討伐士ギイとエルフェンバインだった。鼻息荒く室内を睥睨するギイに、レーヴェリヒトはまたしても首を傾げる。
彼らはアインマールを異形の被害から守るべく、レーヴェリヒトが直接に雇っている討伐士たちで、約束なしにレーヴェリヒトと面会できる類いの人種だが、普段は面倒臭いとか鬱陶しいとか言って、王城になど立ち寄りもしないのだ。
「……どうしたんだ、お前たち。なんでわざわざこんなとこまで」
対するギイは、月長石の色をした目をぎらりと怒りに輝かせ、
「てめぇ、どういうつもりだ……?」
吐き捨てるようにそう言った。
王への敬意も何もない口調と態度に、ギイの周囲の人々が色をなしたが、レーヴェリヒトは苦笑して首を横に振った。格式だの何だのにこだわるつもりは彼にはない。
「何がだよ?」
「何が、じゃねぇだろ! そいつだよ、そいつ!」
しなやかな指が指し示したのは、包帯だらけのアスカだ。
「アスカがどうしたって?」
「オレの仕事の邪魔しやがった。都を守るために存在する、このギイ・ケッツヒェン様の、だ」
「ああ……異形化を止めたってヤツか。よかったじゃねぇか、皆無事で」
「ふざけんなッ!」
ギイの周囲を、殺意すら含んだオーラが渦巻く。
何をそんなに興奮しているのか判らず、困惑したレーヴェリヒトがエルフェンバインを見遣ると、褐色の肌の偉丈夫は軽く肩をすくめてみせた。自分では止められない、ということらしい。
ギイはその美麗な面を烈火のごとき怒りに染めてアスカを睨んでいた。ぎしぎしと奥歯が噛み鳴らされているのが判る。
反面、その怒りをすべて向けられているアスカはまったくの無表情だ。漆黒の双眸には、冷ややかなまでに理知的な光が揺れている。
「言ったよなァ、陛下。契約を交わすときによ」
「ん?」
「アインマールを守ってくれって言われたとき、約束しただろ。オレの邪魔をしねぇ限り、金次第で何でもやってやる、命をかけて都を守ってやるって」
「ああ」
「……そいつはあんたの客人だな。いや、もうこの国の人間なのか。あんたの管理下の人間がオレの邪魔をしたんだ、どう落とし前をつける」
「へ? いや、どう、と言われてもな」
「オレはオレの道を阻まれることが大嫌いだ。今後同じことが繰り返されるようなら、もうアインマールの討伐士ではいられねぇ。だが、どうも繰り返されそうな気がする。だから、さっさとここを見限ろうかと思ってるんだ」
「いや、それは困るっつの。お前ら以上の討伐士なんか、どうやって探しゃいいんだよ」
レーヴェリヒトは困惑して眉根を寄せた。
ギイが言外に要求してくるものを察することは難しくなかった。何の事情があるのかは知らないが、ギイとエルフェンバインがかなりの大金を必要としていることを理解していたからだ。
脅迫紛いの要求ではあったが、事実、今ギイとエルフェンバインに討伐士を降りられると非常に痛い。乱世の影響なのか異形の発生率は非常に高く、討伐士の数は世界的に足りていない。
今ここで抜けられて、他地域に雇われてしまうと、二度と雇い直すことは出来ないだろう。
「……特別褒賞金を出せってことか? 別に、そのくらいなら構わねぇが」
「それだけじゃ駄目だ」
だから、金銭で解決できることならば、レーヴェリヒトが王族として所持している財産の類いでなんとかしようと思ったのだが、
「そうだな、月ごとの賃金を二倍にしてくれるってんなら考えてもいい。異形を一体倒すごとの褒賞金もだ」
「……吹っかけてくるじゃねぇか……」
ギイの要求の大きさにレーヴェリヒトは苦笑した。
現在ですら、ふたりには月で金貨数百枚、多いときは千枚以上を支払っている。それを倍となると、相当な額だ。
無論、リィンクローヴァ王家は代々ほとんど浪費をしていないため、貯まり溜まった財も莫大なものだ。決して払えない額ではない。
しかし、ここであっさり頷くと、これから先、更なる金額を要求されるような気がして――そして恐らくそれは考えすぎではない――、今すぐに答えは出し兼ねた。レーヴェリヒトは暢気でお人好しな王だが、その辺りの計算に頭が回らないほど愚鈍でもない。
さてではどうしようか、と思案していると、焦れたらしく、月長石の目に苛立ちを載せたギイがこちらを睨んでくる。
それは一般人なら青褪めて居住まいを正すだろう凶悪さを含んでいたが、もっとも、眼光の鋭さ、恐ろしさで言えばアスカには遠く及ばず、レーヴェリヒトは短気なヤツだと胸中に苦笑しただけだった。
「無理ってか」
「無理とは言わねぇよ。お前たちにはよく働いてもらってるからな。だが、すぐに返事できる額じゃねぇだろ」
「そうか……じゃあ仕方ねぇ。実は、シャーベフルツ家から打診されてる」
「――引き抜きか」
「ああ。オレたちの言い値で雇ってくれるそうだ」
「領の守護か、それとも軍か」
「さあね、オレにはどっちでもいいこった、金が稼げるならな。ってわけだ、どうする、陛下」
どこか楽しげですらあるギイの口調に、レーヴェリヒトはこっそりと息を吐いた。搦め手で来たか、と、あの一癖も二癖もある、現当主の兄を思い起こす。彼の狙いなど最初から判りきっているが、今更追究する気にもなれない。
「早く決めてくれ、オレは気が短ぇんだ」
「そりゃ前から知ってるがな。待て、もう少し考えさせろよ、せめて」
「待てないね。交渉決裂か? なら、俺はシャーベフルツのダンナに仕えるだけさ。高い賃金、用意してくれてるらしいからな」
「ったく……」
深々と息を吐いたレーヴェリヒトは、仕方なく折れることにした。
下手をするととことんまで増長されるが、アインマールの守護者はこれからも必要だ。特に、絶対的な力とカリスマを持って、国民に安心を与えてくれるような強力な守護者が。
それはやはり、世界的に名の知れたこのふたりであるべきだと思う。
仕方ねぇ、と言おうとしたレーヴェリヒトだったが、
「はっ」
唐突に、嘲笑に満ちた笑い声が聞こえたので思わず口をつぐんだ。
ギイの柳眉がピクリと跳ね上がる。
声の主が誰かなど、今更確かめるまでもない。
「はっきり言えよ、討伐士様」
稀有な漆黒が、侮蔑と挑発と冷ややかな怒りをたたえてギイを見据える。
「あぁん?」
「本当は、高い金額をふっかけて、レイに愛想をつかせようとしてるだけなんだろ?」
「何だって……?」
くっ、と、薄い唇が笑みをかたちづくる。
それは恐ろしく酷薄で、冴え冴えとした敵意をかたちづくっていた。
「……おい、アスカ? 判ってると思うが、俺は話を穏便にだな……」
レーヴェリヒトには、アスカが何かを企んでいることが判った。
強気で腹黒で人でなしな発言に目先をくらまされがちだが、彼の物言いには、根本的に何がしかの目的があり、理由がある。事情も根拠も自信もなしに、こういう断定形ではものを言わない人物だ。
だが、自分の目論見をあっさり横から破壊してしまうアスカを、多少恨めしく思わなくもない。
「なァ、はっきり言えよ、さっきのアレで怖気づきました、ってな」
「な……!」
「俺の活躍を見て、到底敵わないって怖くなったんだろ? だから尻尾巻いて逃げるわけだ。お前には似合いだよ、ギイ・ケッツヒェン。アインマールなら俺が守ってやる、だからさっさと行ってしまえ。その方が清々するだろう、お互いに」
「き、さまアァ……ッ!」
嫌な予感はしてたんだ、と、レーヴェリヒトが遠い目をするより早く、炎すら垣間見せるオーラを噴き上げたギイがアスカに突っ込む。さすがに剣は抜いていないが、思い切り拳を握っていた。
素手でも異形を倒すほどの実力者だ、あの拳で打ち据えられたらただでは済むまい。
もっとも、心配はしなかったが。
「はっはぁ!」
心底楽しげに、獰猛に、侮蔑を込めて笑ったアスカが、突き出された拳をするりと避け、その腕を取ってギイの足を払い、細身ではあるが良質の筋肉によろわれた身体を投げ飛ばす。
「ち……ッ」
その一連の動作は驚くほど綺麗に決まり、ギイは舌打ちとともに吹っ飛んだ。巧く体勢を整えて着地したものの、更に怒りを募らせたようで、アスカを睨む目つきは今にも火を噴きそうだ。
「図星を突かれて実力行使か。憐憫すら涌くぞ、超級討伐士!」
「て、めえええぇッ! オレを怒らせてぇのかッ!」
「はっ! 好きに怒れ、痛くも痒くもない」
こういうときのアスカほど活き活きして見えるものはない。
毒々しい悪意が仄見える黒瞳は、しかしその実、深い揺るぎない理性によって律されている。
あの目を見るだけで、レーヴェリヒトは、アスカが半ば意識してこれを行っていることが判る。判るが、何をするつもりなのかと気が気ではない。
ギイがぶるぶる震える拳を握った。
レーヴェリヒトは半ば以上懇願の目でエルフェンバインを見遣ったが、可愛らしく――という表現が間違っていることはよく判っている――小首をかしげた彼に、あっさり首を横に振られた。ごめんな、の身振りつきだ。
やっぱり、とレーヴェリヒトが溜め息をつくより早く、
「てめぇは殺すっ! オレと死合え、加護持ち!」
咆哮とともに、ギイが指をアスカに突きつけた。
アスカが片方の眉を跳ね上げる。
「ふん? つまらんな、俺に何の得がある」
「てめぇが勝ったらオレの命はくれてやる。好きなようにすりゃァいい」
「……ほう」
「だが、オレが勝ったらてめぇの命はもらう。時間をかけて、じわじわと嬲り殺しにしてやる。だがまァ、そんときゃアインマールの討伐士を続けてやるよ、せめてもの手向けだ。ただし賃金は二倍でな」
メリットよりもデメリットの方が多い、そんな馬鹿な、という内容の挑戦だったが、アスカはことの重大さが判っているのかいないのか、ひどく楽しげに――そして恐ろしく何かを企む表情で――頷いた。
「いいだろう、受けてやる。俺が勝てばお前の命は俺が好きにする。アインマールの討伐士も続けさせる。だが、お前が勝てば俺の命と、二倍の賃金と、」
淡々と、命をかけた勝負を受けたアスカが、そこで言葉を切り、何故かレーヴェリヒトを見る。レーヴェリヒトが首をかしげると、にやり、という笑いが返った。
何故か、レーヴェリヒトの背筋を冷たいものが滑り落ちる。
「レイの貞操もつけてやる。好きに使え」
「んなッ!?」
ものすごく勝手に嫌な賞品をつけられて、レーヴェリヒトは思わず素っ頓狂な声を上げた。
ギイが顔をしかめる。
「要らねぇよ、そんなもん。大体、何に使うんだ」
「俺も要らんが、売れるぞ」
「……はあ? 誰が買うんだよ」
「考えてもみろ、中身はアレだが見目だけはいいんだ。普通の遊びに飽いた貴族や富豪の女なら大枚はたくさ」
「ちょッ……待、おま……」
「なるほど。それはそうかもしれねぇな。よし、いいだろう」
本人の意志完全無視で話が進む。
……というか、すでに完結している。決定項である。
口をぱくぱくさせるレーヴェリヒトを、ものすごく意地の悪い目で見て、アスカはにやりと笑った。
それでようやく、先刻背中を叩かれたときの意趣返しだと気づいたが、こんなところで命をかけた嫌がらせをしなくても、と切実に思うレーヴェリヒトである。
「なら、いつだ。いつやる。出来れば大々的に、どこか大きなところでやりたいものだな」
「ふん、てめぇの無様な姿を民衆にさらしてぇってのか? だが、そうだな、その方が面白ぇ。アインマールの闘技場を借りてやろうぜ。あそこの管理人は知り合いだ、話を通しておくさ」
「ああ、それは名案だ。だが、それなら広報を含めた準備期間が要るな。……十日後でどうだ」
「十日? オレはもっと早くてもいいが……ま、いいだろ。傷の所為で戦えませんでした、なんて言い訳をされちゃァ鬱陶しいしな。それに、この世との別れを惜しむ時間ぐらいやるよ、オレは慈悲深ぇからな」
「はっ、気遣い痛み入る。なら十日後に、競技場でだ。逃げるなよ」
「そりゃこっちの台詞だ馬鹿。今更後悔しても遅ぇぞ?」
「生憎、お前相手に後悔できるほど弱くもなくてね」
「はん、吼えてろ! よし、とりあえず用は済んだ。エルフ、帰るぞ!」
「あーはいはい。なんかなァ、こんな話しにきたわけじゃなかったんだけどなぁ。まァ、言っても無駄なんだろうが」
言うだけ言ってさっさと踵を返したギイの後ろに、溜め息をついたエルフェンバインが続く。
後ろも振り返らずに去って行くふたりの背を半ば呆然と見送り、
「……おい、どうする気だ……?」
レーヴェリヒトが低く問いかけたのは当然のことだったが、
「お前はあいつらに討伐士を抜けられたら困るんだろう、レイ」
「ん、ああ。でも、だからってお前を危険にさらしたいなんて言ってねぇし、自分の貞操を売りたくも売られたくもねぇぞ……」
つーか本当にそんなもん売れるのか、売れるとしたらどうやって売るもんなんだ、などとぶつぶつつぶやくレーヴェリヒトに、
「心配するな、巧くやる」
晴れやかに、黒々と猛々しく、邪悪に笑ったアスカがそう断言する。
この極悪鬼少年のすべてを理解しているわけではないが、どこまでも本気の自信を含んだその言葉を信じられないほどつきあいが浅いわけでもない。
「判ったよ」
レーヴェリヒトは苦笑して頷いた。
「……信じてる」
「当然だ」
言いつつも、アスカの漆黒の双眸には、どこか穏やかな光が揺れた。
こうして、もうひとつの騒動の幕が上がる。
双方に、譲れない事情を含んで。