9.そして運命は白日のもとに。
「今日は佳(い)い日だ」
騒ぎの去った大通りをゆったりと歩きながら、彼は緑の双眸を細めた。
喜悦と興奮の入り混じったそれは、彼が先刻目にしたものを思えば当然のことだったが、野菜だの果物だの塩漬け肉だのが詰め込まれた箱を腕に抱えた状態でやっても、威厳や迫力には欠けるだろう。
とはいえ、たとえ誰かがそれを指摘しても、威厳や迫力よりこっちの方が大事だ、と彼なら返すだろうが。
フィアナ大通りは、あの騒ぎが終結してからわずか数時間で、元の状態を取り戻しつつあった。
何せ、そもそもが、通路に茣蓙(ござ)や敷物を敷いた上に商品を並べるだけの露店の連なりだ。商品と商人さえ無事なら、いつでもどこでも商売を再開できる。
彼はここの市を心から愛しているので、その点に関しては本気で胸を撫で下ろしていた。
立場や責務の重さゆえに、そう頻繁に来られるわけではないが、ここの商品はどれも飛びぬけて品質がいい。季節の野菜や果物、食肉加工品や新鮮な魚介類、美しい布や紙が安価で手に入らなくなっては一大事だ。
ここに通うようになって早百年、決して完全に交わることの出来ない身ではあれ、愛着のある場所が無事でよかったと思う気持ちに偽りはない。
――もっとも、実際のところ彼は、長い長い生の慰みとばかりに、世の中のすべてを愛しているのだが。
「面白いものを見せてもらったな。こんなに楽しいのは久しぶりだ。三百年ぶり、くらいか……?」
多分に犠牲を孕んだ騒乱を経て世界一の大国となり、今やこの大陸の支配者として世界の中心に立つべく、様々な争いを作り出している国を思い起こしつつ彼はつぶやく。
三百年前、数多の小国を統合してあの国が興ったときは、ようやく世界が平定され、数千年に渡る乱世もこれで終わるのかと期待したものだったが、――そして先代までの国王は確かにそれを目指していたはずだったが、現国王の動きは明らかにおかしい。
現王からはむしろ、まるで世界を完膚なきまでに叩き壊したいとでもいうような、仄暗い情動が見て取れるのだ。
「まったく、人間とは厄介な生き物よな。感情が理性を、己の本来あるべき姿を容易く覆してしまうのだから」
かの王に何があったのか彼は知らないし、特別な興味もない。埒外の者とはそういうものだ。世界から大きな働きかけをされることがない代わりに、働きかけることもなく、またそれを許されてもいない。
それでも、ソル=ダートの、今後ますます深まってゆく混乱を彼は予想していたし、恐らく、彼の予測はほぼ十割に近い確率で当たるだろう。たくさんの血が流され、命が失われることだろう。
「混沌なる君よ……これが、あなたの願いなのか。子らを滅びに追いやり、静寂を撒くことが、――何もない世界が、あなたの目指す場所なのか」
言ったところで無駄と知りつつ、地面を見つめながら呟く。
乱世は、この先更に激しさを増すだろう。
その結果、ソル=ダートという世界が、乱世の終焉に向かうのか、それともすべての終焉を招くのかは、さすがの彼にも判らなかったが、同時に、確信もある。
この先間違いなく世界は変わるだろうという確信が。
「あの黒は……使命の黒か」
実を言うと、今日、彼は祭を観に来たのだ。
運命などという埒外の事象を含むだけに、その発生も、全知でも全能でもない彼には完璧に読みきれるものではなく――そんなことが出来るのは、某国に身を置く賢者くらいのものだ――、今日だと確信していたわけではなかったが、少なくとも彼は、かの強大なるものの降臨を観に来たのだ。
もはや本能とでも言うべき感覚に従って。
何せ、『為った』ばかりの者は、過去の自分とのあまりの差異に暴走してしまいがちなのだ。そのためにひとつの国が滅んだことすらある。だから彼は、先達としての責務を果たすべくここを訪れ、そして必要とあらば導けるようにと思っていた。
――だが、それは妨げられた。
あの、強靭なる黒を身に負う少年に。
「今までに、あのような黒はなかったな。いなかった」
乱世以前のソル=ダートを知る彼ですら、あの少年のような加護持ち、御使いを見たことはなかった。
乱世の始まり以降、異形化しかけた人間を、強引に『あちら側』から引き戻すなどという芸当をやってのけた者はいなかった。
それほどの椿事だったが、彼はそれを喜んでいた。
歪んだ存在へと生まれ変わらずに済んだあの若い母親と、その幼い息子のために。
「あの力が、この先世界にどのような影響を与えるのだろうな……?」
いかに強大な力を得られようとも、ヒトの身から踏み出すなどということが、喜びや幸いであるはずがないのだから。
――彼がそうだったように。
それとて、三千年以上が経過してしまえば、もはや過去の出来事でしかないのだが。
「……楽しみだ」
ぽつりとつぶやき、もう一度フィアナ大通りを見渡してから、彼は踵を返した。
彼にもやるべきことはある。
徒労に近い、終わりのない責務ではあれ。
「だが……まァ、是非もない」
そういう意味で、彼は職分に忠実だった。
無論、誰から与えられた職分なのかは、未だに彼にも判らないが、それが世界を担う一端であることを理解している。
そしてそれを全うしようとも思っている。
今日の収穫物を腕に抱えたまま、ゆったりした足取りで町の外れまで歩いてゆくと、
「お探ししましたぞ、陛下。またこちらにおいでですか」
「いい加減諦めもつこうというものですが、もう少し我々を労っていただきたいものです」
恨めしげな声がして、見慣れた顔がその先にあったので、彼は笑って肩をすくめてみせた。彼の市通いは今に始まったことではないのだ、貴重な息抜きの場なのだから、何を言われても改まるはずがない。
「出迎えご苦労、ヨキア、アキエ。今日もいい品がそろったぞ、帰ってメシの仕度をしよう」
黒髪に白銀の目と黒髪に黄金の目の、そっくりそのまま同じ顔をしたふたりに言うと、銀の目の片割れが大仰な溜め息をついた。
「偉大なる黒王陛下のご趣味が買い物と料理だなどと、配下のものに示しがつきませぬぞ」
「示しなどオレの知ったことではないわ。彼奴らとて好きにやっておるではないか」
「無論あなた様に何を申し上げても無駄だとは承知しておりまするが。それに、また、そのような酔狂な格好をなされて……嘆かわしい」
「たわけめ、元の姿で行って騒ぎを起こしては困るだろうが」
「何故騒ぎになるのかが某(それがし)には判りかねます」
「まったく……これだから生粋の輩は困るのだ。彼我の差異を理解できずにどうする」
「……善処いたします」
銀の目をした男の、心の底から判らないといった言葉に溜め息しつつ、彼は箱を担ぎなおした。
「ひとまず帰ろう。今日はいいものを見たのでオレは機嫌がいい、仕事もはかどろう」
「ああ……『祭』ですか。しかし、気配もありませぬな。立ち去ってしまったのですか? 陛下がここにおられますのに?」
「そうではない、ヨキア。降臨はならなかったのだ」
「……? ならなかった、とは?」
「お前は聞き及んでいるか、この国に滞在する黒の申し子のことを」
「はい、わずかではありますが」
「それが止めた」
「なんと」
「……止められるものなのですか、それは。初耳です」
「オレに訊くな、アキエ。オレとて初めてのことだ。だが、そのために『祭』は為らなかった」
楽しげに彼が言うと、ヨキアは首を傾げ、アキエは小さく頷いた。
「ただの加護持ちではないということでしょうか」
「少なくともオレはそう思う。――後継者に、と思わなくもないな」
「まさか……お戯れを」
「戯れではない。オレは充分に働いたであろうが」
「何を仰いますか。あと千年二千年は踏ん張っていただかなくては困ります」
「勘弁してくれ、そこまで働きたくない。まァ、向こうが嫌がるだろうがな、なにやら色々頑張っておいでのようだ」
「では……我らの敵となり得ますか?」
「お前はいつもそれだな、ヨキア。オレに敵対する意志はないぞ。ただ、なすがまま、あるがままであればよい」
「何を仰いますか、あなたさまが暢気であらせられるからこそ、某が申し上げるしかないのですぞ」
「生来の性分だ、諦めてくれ。他は知らぬが、我が黒派はヒトと敵対せぬ。それゆえに今日とて観に来たのだからな。だが、お陰でよいものを観たのだ、巡り合いには感謝せねばなるまい」
「わたくしどもとてあなたさまのご性分は承知いたしておりますとも。あなたさまがそう仰るのなら従うまでです」
「見栄や酔狂であなたさまに千五百年お仕えしているわけではございませぬ」
生真面目なふたりの側近に再度肩をすくめ、彼は歩き出した。
目の色以外はそっくり同じふたりが、当然のように両脇に並ぶ。
そのまま街の外へ向かい、ひとけのない森の奥へと歩を進める途中、彼はふと思いついたことを口にした。
「そう言えば、他のヤツらはどうしている」
「白王陛下から文が来ておりましたぞ。恐らく、たまには会いに来いとの催促でしょう」
「黄王陛下は相も変わらず居城にこもっておられるとか」
「赤王・青王陛下は連れ立ってお出かけの模様。第一大陸の様子が気になるとのことでしたが」
「……まァ、いつも通りということか。ならば、まだ世は動き出しておらぬ、な」
「そのようです」
アキエの言葉に彼が頷くと同時に、三人の周囲を強い風が渦巻いた。
漆黒の、荒々しくも神々しいオーラが彼を中心に立ちのぼり、先刻まで緑と茶色だった彼の目と髪が、一片の濁りもない黒へと変わる。――否、それは戻る、と言うのが正しいのだ。
「……さて、では帰るぞ」
心持ち威圧感を増した声が告げた次の瞬間、周囲の木々を薙ぎ倒さんばかりの颶風がゴウと吹いた。そして、それが収まると、そこにはもう誰もいなくなっていた。
同時刻に上空を見上げたものだけが、空に輝く漆黒の鱗を目にすることができたという。
* * * * *
「……ん」
包帯だらけの手で剣を握っていた飛鳥は、空に閃く何かを視界の端に認めて動きを止め、上を見上げた。
「どした……お」
同じく剣を手に飛鳥と対峙していたレーヴェリヒトがそれに倣い、神々しいアメジストの目にそれを捉えると、感嘆の含まれた声を上げる。
「……すごいな。竜の王様みたいだ」
飛鳥がつぶやくとおり、ふたりの視線の先では、一枚一枚が完璧なまでに美しい、幾何学的に整った漆黒の鱗をきらめかせた巨大な竜が、悠々と空を横切ってゆくところだった。
双眸はやはり輝くような漆黒、広げられた翼は大きく、絹か天鵞絨のように滑らかで美しい。鬣が風に流れる様は優美の一言に尽きたが、それと同時に、竜が謳うのは絶対的な力の存在だった。
ここからの距離や飛んでいる位置、周囲との対比から考えて、恐らく全長は五十メートルを軽く超えるだろう。
それほど巨大な生き物は、太古を除けば、彼の故郷には存在しなかった。
遠くへ来たのだという感慨と、大きく美しいものを目にした感嘆とで、飛鳥は小さな息を吐く。
「すごいな」
「ん?」
「本当に、ここはすごい」
「なんだよ、急に」
「ん、……いや……なんでもない」
「ヘンなヤツ」
「お前に言われたくない」
「俺だって言われたかねぇや」
竜の周囲を、まるで慕うか守るかのように、これまた故郷ではありえないほど大きな黒鷲が二羽、鋭く風を切る翼で飛んでいる。
不思議で、魅力的な光景だった。
「……まぁ、いい」
「おう」
「とりあえず、稽古が先だ。巧く収めないとな」
「だな。でも、無理すんなよ。今だってちょっと熱出てるだろ」
「この程度で音を上げるほどやわでもない」
「言うと思った。っとにせっかちだな、今日くらい休んだってそう変わることもねぇだろうに」
「気を抜いて負けたら悔やんでも悔やみきれないだろう。言っておくが俺が負けたらお前も色々面倒なことになるんだからな」
「判ってるよ、んなこたぁ。つーかそう仕向けたのはお前だろうがよ。まぁいいや、んじゃやるか」
「ああ、頼りにしてるぞ、師匠?」
「……なんか恥ずかしいな、その表現」
他愛ない言葉を交わしつつ、ひとまず、当初の目的を果たすべく剣を握り直す。
毎度のことだが、やるべきことはたくさんある。