なんにせよ、飛鳥がまずやるべきことはレーヴェリヒトの側近となるに相応しい知識と技術を溜め込むことだ。絶対的に最優先されるべきはそれのみなのだ。アルヴェスティオンのことはひとまず置いておくしかない、と思いつつ、眷族ふたりのもとへ戻ると、圓東が小さくなってゆくヴェーエトロース一行の背中を複雑な目で見ていた。
「どうした?」
「いや……うん、なんか、通りすがりにすごい目で睨まれた……」
「ああ、それは仕方ないな。一悶着あったばかりだ、眷族なんぞ奴らにしてみりゃ『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』の代表選手みたいなもんだろ。よかったな、眷族として認められて」
「えっ、そこって喜ぶべきとこ!?」
「当然だ、この俺の身内として認識されるなんて、こんな名誉なことはないぞ。偉大なる雪城飛鳥様の身内として恥じない行動を取れよ」
「恥じない行動をとか言ってる人が最初からいろんな問題を起こしてるような気がするのは気の所為ですか……ってええ全然気の所為ですよね気の所為。はははおれったら何言ってんだか」
「賢明な判断だ」
 間抜けで日常的な会話をしつつ、大ホールを突っ切って外へと向かう。
 その途中、優美なローブに身を包んだ国王付き賢者とすれ違った。
 手に分厚い本と魔法の精製に使うという特別製の紙の束を持っているところからして、新しい警備魔法の開発中なのかもしれない。
「あ、ハイルさん」
 女性と見紛う……というより、骨格以外女性にしか見えない、華奢で美麗な顔立ちの青年賢者は、何故かちょっと嬉しそうな圓東の声にやわらかく微笑み、一礼した。
「おはようございます、キース。今日もいいお天気ですね」
 外面だけなら優しげで穏やかそうに思えるが、飛鳥には、アルヴェスティオンとはまた別の意味でそれが作り物めいて見え、ハイリヒトゥームの笑みが、どこか淫靡な闇を含んでいるようにも思える。
「これから、市(いち)ですか、アスカ?」
「ああ、朝飯だ」
「そうですか、お気をつけて」
「ああ。そうだ、明日はアルディアに勉強を教わることになってるから、忙しいのに悪いけど送り迎えを頼む」
「ええ、よろしいですよ。私も、アルディア様にお借りした本を返しに行きたいと思っていましたから。先日のように、早朝にお連れして夕方にお迎えに行けばよろしいですか?」
「ああ、それがあんたの都合に合うなら」
「判りました、ではそのようにさせていただきます」
 そう言って、ハイリヒトゥームは、色鮮やかな、ところどころに金が散った瑠璃色の目をやわらかく細めた。
「そんなわけでよろしく頼む」
「はい、それではまた」
 互いに軽い会釈をして、同時に歩き出そうとしたところで、
「ああ……そうだ、アスカ」
 そういえば、といったニュアンスでハイリヒトゥームが声を上げたので、飛鳥は小さく首を傾げた。
「何か、問題でも?」
 するとハイリヒトゥームは、やはりどこか淫靡な、毒の蝶を髣髴とさせる笑みをほんのかすかに浮かべ、
「六つ目の通りと、足元にはお気をつけになった方がいいですよ、今朝は」
 なにやらよく判らないことを言うだけ言って、飛鳥に質問の余地も与えず、そのまま歩み去ってしまった。
「……何だ、今のは」
「さっぱり判んない。魔法使いってみんなあんな感じなのかな、やっぱり。アルディアのおっちゃんも大概ヘンな人だけど」
「あれは天然気味なだけだろう。――まぁいい、気にしていても始まらん。とっとと行って飯にするぞ」
 考えても判らないことを据え置くのは飛鳥の得意技でもある。思考の切り替えの速さは自他ともに認めるところだ。くよくよ思い悩まないところに、彼の強さの秘密がある。
 さっさと王城を後にした三人は、そこから二十分後にはフィアナ大通りの朝市にいた。雑多な露店と買い物客と活気とがあふれた市場は、今日も色鮮やかで賑やかだった。
「おはようございます、アスカ!」
「おはようございます、眷族の方々!」
「キース! いい野菜が入ったよ、見て行ってくれ。オマケするよ!」
 『国王陛下の客分』たちが二日に一回はここを訪れることを知っている、すでにすっかり顔馴染になった露店商や買い物客たちが、親しげな笑みと言葉を向けてくるのへかすかな会釈で応じつつ、いつものように物色を開始する。
 なにせ、あまり時間がないのだ。
 もしかすると就職先になるかもしれない細工師の工房と居宅とを行き来するのが日課になりつつある圓東や、かなりの好条件で様々な職業を提示されているのにそちらへは目もくれず飛鳥の護衛官になりたいと希望し続けている(らしい)――そしてそろそろ飛鳥の方で折れてしまいそうな予感がする――金村などはまだまだのんびりしたものだが、今日も予定目白押しの飛鳥としては、九時には王城に戻って勉強の準備をしておきたい。
 ヨーロッパとよく似た文化圏だけに、皆あまり時間にうるさくはなく、遅刻したところで叱責や罰則を受けるわけではないが、予習復習に余念のない飛鳥としては、きっちり準備を終えてから学習に臨みたいのだ。
 そんなわけで、あいつらは放って帰るにしてもひとまず自分の用を済まそう、と、軽やかに人でなしなことを思いつつ、飛鳥は気に入りの露店で真赤に熟した大きなトマトと白百合茸の香草焼きを買い、隣の店で蕎麦粉のクレープ(のようなもの)を買った。
 野菜をクレープに包むと、褐色の生地にトマトの赤とキノコの白が映えてなんとも鮮やかだ。
「……食欲をそそる、ってのはこういうことを言うのかな」
 少しずつ増えてゆく食への感覚に妙に感動しつつ、野菜のクレープ包みを行儀悪く齧りながら辺りをぶらぶらする。レーヴェリヒト用の串焼き肉その他を買いに行こうと思い立ち、踵を返すと、赤と灰金の眷族が目に入る。
 圓東は金村と一緒に惣菜屋の前にいた。
 見かけによらず薄口が好きでしかも少食な金村が、軽くあぶった薄焼きパンにチーズとトマトを挟んだだけのシンプルなサンドウィッチを――といっても、この世界にサンドウィッチ伯爵は存在しないだろうが――、コーヒーっぽい味わいのある黒琥珀茶と一緒に食べているのに対して、圓東はこの朝っぱらから、ステーキ並に分厚い牛肉を野菜と一緒に挟んだ特大サンドウィッチに恐ろしい勢いでかぶりついている。
 飛鳥なら五分の一でギブアップするサイズのサンドウィッチを、しかも三切れも抱えてものすごく幸せそうな顔をしている圓東の姿も、結局のところいつものことなのだが、やはりあまりたくさんの食物に耐性のない飛鳥には喧嘩を売られているといって過言ではない視覚的暴力だ。
「本当に、あいつのハラの中は一体どうなってるんだ……?」
 心の底から首を傾げつつ、馴染みの串焼き屋で大きな串焼き肉と肉厚の椎茸を思わせるルクル茸のバター焼きを買い、持ち帰り用に包んでもらって、氷菓子屋とスープ屋が休みだったので、揚げ菓子屋でカレーパンを髣髴とさせるスパイシーなリングドーナツ(仮称)を買ってから、その隣の蜜果屋でシロップ漬け果物がたっぷり入ったゼリー(仮称)を購入する。
 現代の食糧事情、食の好みとは違った位置で発展を遂げているとはいえ、これもまた文明や文化の収斂と言うべきなのだろうか、東京で売られていても違和感のないものも多く、バラエティの豊かさも市場の魅力となっている。
「あとは……何か、第二大陸産の……」
 約束に対してかなり律儀な飛鳥は、アルヴェスティオンのためにキャラメルを思わせる香りのする第二大陸原産の香草茶と、それによく合うと勧められたチョコレート菓子を買った。
 チョコレートなど、地球では近世に入ってからようやく『チョコレート』としてのかたちをなした代物で、ほんの百年二百年前までは一般市民の口には到底入らない超高級品だったのに、質の違いこそあれ、ここでは普通の、一般的な嗜好品であるらしかった。
 少し違う部分があるとしたら、これの原産が、ペルシャを思わせる文化圏の第二大陸であるというところだろうか。
「……なんか、大荷物だな。圓東に任せるか」
 任せるイコール押しつける、なわけだが、ごくごく当然のことという認識でそうつぶやくと、飛鳥は柴犬もしくはハムスターの異称を(飛鳥の脳裏に)持つ眷族の姿を探した。
 明日の朝食用だろうか、玉子や野菜を買い込んでいる圓東の姿を見つけ、そちらへ向かって歩き出した飛鳥は、ふと、自分が今通り過ぎようとしているのが、フィアナ大通りに交差する、端から数えて六本目の小通りだということを、何の脈絡もなく唐突に思い出した。
 気をつけた方がいいですよ、という、ハイリヒトゥームの声が脳裏に翻り、何の気なしにそちらを見遣ると、
「……?」
 そこには、四人の男たちがいた。
 フィアナ大通りとは比べようもないほど小さな通りではあれ、そこは人々が普通に使う通路の一本だ。奥へ進めば、一般市民や奴隷たちが住む居住区がある。
 だから、そこに人がいること自体は、決して奇妙なことではないのだ。
 だが……その男たちは、明らかに、一般市民ではなかった。
 身にまとった衣装が妙に着崩されていたり、派手だったりするのも確かにその一因で、商人や農民にしては身体の作られ方がごついのもそれを思わせたが、何よりも、彼らの目の放つ光、世の中の闇を目の当たりにしたものだけが持つその色彩が、彼らが物騒な社会の住民であることを物語っていた。
 そしてその男たちは、間違いなく、飛鳥を見ていた。
 そのうちのひとり、もっとも体格のいい、三十代半ばと思しき男、赤茶の髪と淡い翠の目をした彼が、飛鳥を手招きしてから身を翻した。残った三人もそれに従う。
「……」
 彼らからは、刺々しい非友好的な雰囲気しか漂って来ず、ついていったところで碌なことにはならないという匂いがプンプンしたが、飛鳥は眉をひそめて一瞬思案したものの、何故か、ここで彼らを無視すると、暴力とかそういう問題ではない、もっと恐ろしい何かが起きるような気がして、手にした包みを道の隅にそっと置き、周囲を伺いながら小通りへ踏み込んだ。
 どうも、いつも飛鳥の姿を視界に入れている風情のある金村が、すぐに追いついてくる。
 他者の気配に敏感な飛鳥だからこそ目敏い奴め程度で済ませられるが、もし飛鳥が圓東のような一般人だったら、四六時中見張られていると疑うか、もしくは心を読まれているんじゃないかと思うところだ。
「どうした、若」
「俺としてはあんたがどうしたと問いたい気分だが。なんか、真剣に、百キロ離れた先で呼んでも来るような気がしてきた……」
「そうだな、最終的にはそのくらいにはならねぇとな」
「いや、頼むからなるな」
 真顔で――少々頭痛を覚えつつ――返し、男たちの気配を追って路地を進む。奴隷たちが多く住む区画なのだろう、すでに社会が動き出している現在、小さな家が連なったこの通りは、ひどくシンとしていた。
 リィンクローヴァにおいての奴隷という存在もしくは職種が、飛鳥たちの故郷の、古い歴史で言うところのそれとは違い、人間としての権利も自由もあり、容易く売買できるわけでも譲渡されるものでもないというそのあり方には興味をそそられるが、今はそれどころではない。
「何かあったのか?」
「……気になる連中がいた」
「誰だ?」
「予想はつくが……どうかな」
「わざわざ、敵の手の中に飛び込むようなもんじゃねぇのか?」
「それは俺も思う。ただ……なんだろう、すごく不吉な予感がするんだ」
「……?」
「俺自身にもよく判らん。だが、追わなきゃいけないっていう、強迫観念みたいなものがある。行かないと、もっともっと恐ろしいことが起きるような気がする」
「それは……一体……?」
「何だろうな、この感覚。なんて説明したらいいのかも判らん。――判らんなら、行ってみるしかないだろう」
「ふむ、違いねぇ。ま、若がいりゃ何とでもなるだろ」
「あんたもな。何かあったら遠慮なく盾にさせてもらうとしよう」
「おお、そりゃ下僕冥利に尽きるってもんだな」
「自分で言っといてなんだが、尽きなくていい。というか頼むから尽きるな」
 飛鳥の言動にツッコミ満開の圓東とは違い、格段に下僕慣れ(という言葉があるのかはさておき)している金村の言葉にちょっと脱力しつつ一本道を三分ほど行くと、小ぢんまりした広場に出た。
 小ぢんまりといってもこの国では、という程度の、日本で言うところの『公園』の五六倍の広さがあるそこは、休日には小さなこどもたちが遊びに使っているのだろう、そこには、木を組んで作った玩具や、余り布で作ったボールなどが転がっていたし、少しかたちのいびつなベンチがあったり、自然に生えたとは考えにくい木が植わっていたりと、どうやらここは、下層民たちの憩いの場であるらしかった。
 飛鳥は、その姿に、故郷の、親しい慕わしい人たちと一緒に創り上げた、あの雑多な緑の公園を思い出していた。
 脳裏を、甘く苦くやわらかい、今では百年も昔のことのようにすら思える感覚がよぎる。
 だが、そんな感傷も、広場の真ん中でこちらを睥睨する、一ダース弱の男たちの姿を目にすると、あっという間に遠くへ行ってしまう。
 その、徒党を組んだ姿から思い出されるのは、十日前のあの騒ぎだ。
「……ああ、もしかして、ブレーデ一家か」
 金村が小さくつぶやく。
 飛鳥はかすかに頷いてそれを肯定した。
「よく逃げなかったな、加護持ち!」
 赤茶の髪に薄翠の目の巨漢が胴間声を張り上げる。
 ――男たちの手には剣があった。
 飛鳥は肩をすくめる。
 傍から見れば飛鳥は、彼らの手に容易く乗って誘い込まれた絶体絶命の愚か者だが、飛鳥にせよ金村にせよ、十人二十人の敵に恐怖するようなやわな肝はしていない。
 飛鳥などはむしろ、レーヴェリヒトの仕事がひとつ減る、とちょっと喜んだくらいだ。
「騎士団に掃討されたんじゃなかったのか」
 飛鳥が飄々と問うと、男たちが色もかたちも様々な目に、これだけは一様に同じ憎悪の色を載せて彼を睨んだ。中には剣を抜いた者もいる。
「テメェでそう差し向けておいて何言ってやがる! テメェの密告のお陰で、おやじさんもアニキも皆殺られっちまった。ちくしょう、ブレーデ一家はもうおしまいだ!」
「……密告……?」
 そんな黒々と心躍る行為を働いた覚えはないのだが、飛鳥のその口調及び態度は、彼らからは責任逃れをしようとしているものと思われたらしい。中央の男が憎々しげに唾を吐き、周囲の十人は今にも飛びかかってきそうなほど殺気立った。
「しらばっくれてんじゃねぇぞ! テメェでやったことくらいきっちり認めやがれ、みっともねぇ!」
「しらばっくれようにも、実際、やってないんだから仕方がない。ここまでこうやってつきあってやったんだ、今更嘘なんかつくかっつーの」
「信用できるか、そんなもん!」
「いやまぁ、別に、好きにしてくれて構わんが。そもそも、誰にそれを聞いたんだ?」
「知るかよ。部下の奴らが何人も聞いてる、黒の加護持ちがあの場所を密告するのを確かに見た、って教えてくれた奴がいるんだ」
「……怪しいな。誰だ、そいつは……」
 レーヴェリヒトは、密告者の姿を誰も観ていないと言っていた。しかも、密告は、手紙によって行われたのだ。飛鳥がレーヴェリヒトの言を信用するのは当然のことだが、大体にして、突発的な記憶障害にでもかかったのでない限り、自分でしておいて忘れるはずがない。
 誰かが、飛鳥に何かの含みを持って、今回の、双方への密告を行ったと考えるべきだろう。
 何にせよ、彼らの言わんとすることは判った。
「ふむ、つまり、あの密売組織とブレーデ一家の生き残りであるあんたたちは、せめて卑劣な密告者に目にもの見せてくれようとここに来たわけか。しかし、馬鹿な奴らだな、レイが他の仕事で忙しい今のうちに、国外にでも逃げておけばよかったのに。仇討ちほど割に合わん行為はないと思うぞ、俺は」
「うるせぇ、黙れ!」
「塵芥(ごみくず)には塵芥並の思慮しかないということか。それはそれで憐れだが、そこで斟酌してやる義理もない。――来るなら来い、あんたたちの気が済むまでつきあってやる。命はともかく、身体の保証は出来ないけどな」
 淡々と、一片のよどみもなく飛鳥がそう言いきると、ブレーデ一家の生き残りたちが、明らかな殺気とともにざわざわとざわめいた。
 彼らまでおよそ十メートル弱あるが、その距離でも、飛鳥の高性能な耳などなくとも、彼らがぎりぎりと歯軋りする音までもが聞こえてくる。
「くそ……ッくそ、黙れ、黙りやがれ……っ!」
「テメェに、何が判るって言うんだ!」
 口々に罵りながら、下は十代後半から上は三十代半ばまでの、まだ若い部類に入る、恐らくブレーデ一家の中では下っ端に位置していただろう連中が突進してくる。
「死んで、償え……っ!」
 剣は抜き放たれていたが、飛鳥は特に慌てもしなかったし、それどころか、
「金村、殺すなよ」
 刃物を手にして殺す気満々で来る連中を相手にするには不釣合いなほど静かに、眷族の負担を増やすようなことを言った。
「ここでの不要な流血は避けたい」
「ふむ……まぁ、若の命なら全うしようか」
 対する金村も、飄々と、特に気負うでもない声で返したから、どっちもどっちと言うべきなのかもしれない。
「こんなことで手を汚すのも業腹だしな」
 つぶやくと、妙に甲高い、怪鳥めいた叫び声とともに撃ちかかってきた男の、白い剣閃を描きながら振り下ろされた剣をひょいと避け、ものすごい勢いで顔面に拳をお見舞いする。
 ごりっというかめりっという音がして、鼻から赤黒い液体を噴き出した彼が後頭部から引っ繰り返るのを横目に見つつ、左脇を狙ってきた青年を回し蹴りで沈没させる。
 決して小柄ではなかった青年は、その身体のサイズからは想像もつかないほど恐ろしい勢いで吹っ飛び、ごろごろと転がったあと、砂にまみれて失神したようだった。
 何にせよ飛鳥はいつも通りだった。
 かかってくるものには殴る蹴るの暴行を加えるが、怖じて逃げようとするものを追うことはせず、ただひたすら、自分に向かってくるものを相手にするだけだった。
 スタイルに関しては金村もあまり変わらず、飛鳥の言いつけ通り腰の剣を抜くこともなく、振り下ろされ薙ぎ払われる剣を軽やかなフットワークで避けては、顔や腹に拳をお見舞いし、また脚にきつい一撃を食らわせている。
 ものの数分で、半分以上が戦闘不能となった。
 砂埃の舞う広場に、男たちが、まるで掘りたての大根のような無造作さで転がっている。
 残った、まだ無事な連中も、明らかにけたの違う戦闘力に腰が引けつつあるが、それでもこの場から逃げようとはしないのは、彼らなりの矜持の結果なのかもしれない。
「降伏しろよ、面倒だから。そうしたら、せめて命は助けてもらえるよう、俺からも頼んでやる」
 それは恩情や慈悲というよりも、そろそろ王城に戻らなくては不味いという意識が言わせた、飛鳥の都合一辺倒の言葉だったが、どちらにせよ飛鳥は、それが聞き入れられるとは思ってはいなかった。
 凝り固まった意地が、時として人の目を曇らせ、判断力を奪うことなら、故郷でも様々な場面で目にしてきたからだ。
 案の定、残った面々、数にして五人の男たちは、平凡な、道さえ誤らなければ普通の生活をしていたのだろうと思わせる、しかし今となっては決定的に『普通』から食い違ってしまったもののみが持つ顔に、どす黒い怒りを載せて吼えた。
「黙れ×××の×××が! テメェに情けをかけられるくらいなら死んだ方がマシだ、この××××がッ! テメェと刺し違えてでもテメェを殺す!」
 放送禁止用語まっしぐらの罵声にも、飛鳥は表情ひとつ変えなかったし、金村も無表情のままだったが、
「今更帰る場所もねぇんだ、ここで死んで何を後悔する必要がある!」
 どこか切実な色合いを含んだ、悲鳴のようにも聞こえる声には、ほんの少しだけ心を動かされた。
「テメェに判るかよ、どこにもいられなかった俺たちにとって、あそこだけが家だったんだ……!」
 それはきっと、故郷で、飛鳥の『仕事』の中で彼の手を煩わせてきた、不良とかごろつきとか馬鹿なヤクザたちにも似通った言葉で、彼らと同じく常に居場所をなくしながら、探しながら生きてきた飛鳥は、ほんの一瞬、わずかに瞑目したが、
「……それで他者を虐げていいという理由には、ならんだろうな」
 己の甘さを吹っ切るかのように断じた。
「弱ぇ奴らのことなんか、知るかッ!」
 飛鳥の物言いが気に食わなかったのだろう、一番年かさの、淡い翠の目の巨漢が吼え、身体に見合うほどごつい剣を軽々と掲げてみせた。
 朝の陽光が刃を反射し、凶悪に輝く。
 巨漢が地を蹴るのを見て身構えようとした飛鳥は、不意に、広場のあちこちの地面から、黒い靄(もや)のようなものが噴き出していることに気づいて眉をひそめた。
 明らかに異様な光景なのに、誰もそのことを言及しない。
 日常的に起こっているから気に留めていないのではなく、誰にも、見えていないのだ。
 ――――背筋が、唐突に、冷えた。
(足元にはお気をつけになった方がいいですよ、今朝は)
 ハイリヒトゥームの言葉が、脳裏に甦る。
「……!」
 飛鳥は眦を厳しくした。
 黒い靄から感じる、その、感覚は、
「ここから離れろ! 今すぐだ!」
 あの日、生まれて初めて異形を目にしたときの、怖気をそそるそれと酷似していた。
 黒い靄が、濃さを増した。
「ナニ寝ぼけたこと言ってやがる!」
「逃げる気か、卑怯者がっ!」
 聞き届けられるとは思わずに口にした言葉だった。
 そのうちの四人は、飛鳥の、様々な奇跡とともにある(らしい)黒の加護持ちの、あまりに厳しい声に思わず従ってしまい、広場から駆け出していたが、気を失ったままの三人が動けないのは当然として、あくまでも仇討ちにこだわる三人は、憎しみに染まった目を不審のかたちにして飛鳥を見ていた。
 あの巨漢は、あまりの剣幕に驚いたらしく立ち止まりはしたものの、眉間に皺を寄せて飛鳥を睨んでいた。
「……金村。広場から退け」
「若は?」
「俺は……問題ない。早く!」
「――判った」
 ブレーデ一家の生き残り四人と、金村が広場から撤退したのを見届けると同時に、黒い靄、何故か沈鬱さを感じさせるそれが更に濃度を増した。
 それらは、蛇や触手を思わせる不気味な動きで、巨漢や、広場に残った連中の脚に絡みつき、その身体をゆっくりと這い上がって、徐々に彼らの中へ吸い込まれてゆく。
 しかしそれらは、飛鳥には寄り付きもしない。
 訝しさに、飛鳥の眉が寄った。
 飛鳥がそんな表情をする意味が判らないのか、
「どうした、今更怖気づいたとは言わせねぇぞ!」
 吼えた巨漢が、再度剣を構えた。
 飛鳥の態度に、自分が優位であると勘違いしたのだろうか、靄の衣装を身にまとうがごとき状態で、巨漢は分厚い唇を笑みのかたちにしていた。
「土下座して泣いて謝りゃ、一撃で楽にして、や……――?」
 その笑みが、唐突に固まった。
「ら、楽、楽にに、して、や、やや……」
 何があったのか、口元へ手を持ってゆき、えずくような仕草をする。
「楽にして、楽に、にに、してや、やる……るる……る、る゛ッ!?」
 声が濁った。
 そう思った瞬間、彼の後頭部が、ぱちんと音を立てて弾けた。
 赤い何かが、巨漢の頭から噴き上がる。
「ヒッ!?」
 彼の隣にいた、まだ二十代前半と思しき男が息を飲んだ。
 否……それは、弾け飛んだのではなかった。
「あぁ、あ、あ゛ぁ……!?」
 巨漢が剣を取り落とし、頭を押さえる。
 ――そこからは、金色の目と体毛をした狼の頭が生えていた。
 金眼をきらめかせた狼が、がちがちと牙を噛み鳴らした。
「っぐっが、あ゛が、ぐ、あ゛あ゛ぁ……!」
 巨漢が呻く。
 呻いてもがく彼の背と、腹と、太腿から、ライオンに似た獣の頭と、猿と人間の中間の生き物の顔と、真紅の嘴(くちばし)を持った猛禽の頭部が生えたのはほぼ同時だった。
 ライオンが唸り、猿が甲高い声で鳴き、猛禽が嘴を鳴らす。
「な……お、オプファーさん……!?」
 広場の外から驚愕の声が上がった。
 巨漢の身体は徐々に膨れ上がっていた。そして、次々と、様々な生き物の頭部が、彼の身体を砕きながら生えて行った。
 それが苦痛であることに変わりはないらしく、オプファーと呼ばれた巨漢は、泡を吹きながらもがいたが、生き物の首は、ぼこぼこという音とともに、あとからあとから涌いて生まれてきた。
 ぼこり、と額が盛り上がり、そこから秀麗な顔をした小さな人間の顔が生えた。額の両脇から触覚が生えているのを見るに、話に聞く小幸霊(さきみ)というヒトガタ種族だろう。
 地球でいえば、フェアリィとでも称すればいいだろうか。
 生えたものが、そんな、幻想的な生き物であっても、しかし、それが狂ったような甲高い声で笑っているとなると話は別だ。その顔立ちの秀麗さが、かえって寒気を誘う。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」
 巨漢は絶叫していた。
 淡い翠の目から恐怖と絶望の涙がこぼれる。
 その目が、血の色を宿し始めていることに気づいて飛鳥は眦を厳しくした。
 それは、その色は、この世界に来た初めの日、彼の同郷人たちを無慈悲に喰らい尽くした、あの化け物たちと同じ色だった。
「これが……もしかして」
 悪創念(あくそうねん)と呼ばれる、ヒトを化け物に変えるなにものかのことを、飛鳥は思い出していた。
 また、ぼこり、と音がして、両方の肩から長く尖った耳を持ったヒトの顔が現れた。それはやはり驚くほど美麗だったが、同時に、やはり狂ったような音韻の声でけたたましく笑っていた。
 背から、尻から、脚から、腕から、何十もの生き物の顔が生え出ていた。
 それらひとつひとつが声をあげ、また音を立てる所為で、周囲はひどく騒々しかった。その騒々しさは、何かが恐ろしく狂っていた。
 巨漢の身体は、いまや四メートルにも達しようとしていた。
 ぼこりぼこりと、身体が膨らんでゆく。
「だ……助゛っ……げ、で……っ」
 濁った、聞き苦しい、しかし必死な声が助けを求める。
 ごぼごぼと、喉の奥が嫌な音を立てていた。
「ごん、な゛……っで、死゛に゛、だぐ……な゛……ッ」
 それは、こんなことで死にたくない、だっただろうか。
 巨漢はすべてを言い終わることが出来なかった。
「っが……っぐ、ぶ……!」
 何故なら、その、開いた口から、喉の奥から、黄金の眼をした巨大な蛇が、顎が外れるほどの勢いで飛び出してきたからだ。あまりの巨大さに口が引き裂かれ、涎とも血液ともとれぬものがぼたぼたとこぼれる。
 気分が悪くなるほど真っ青な舌をちらつかせた蛇が、威嚇するかのような音を立てた。
 巨漢から生えた獣やヒトが、ブレーデ一家の本体である密売組織が売買してきた生き物たちなのだと言うことは飛鳥には判らなかったが、それらが禍々しいなにものかで彩られていることだけは確かだった。
 そして、それを最後に、巨漢の目は血の色へと変わっていった。同時に、彼の身体に張りついた生き物たちの眼もまた、同じ色へと変化してゆく。
 ――人間だったものの顔に、ゆるゆると、狂った喜悦が張り付いてゆく。

「くく……くく、くぶ……くか、かかかか……」

 あの、笑い声が聞こえた。
「ひっ……ひ、ひいぃ……ッ!」
 ようやく、何が起きたのか理解したらしい男たち、広場へ残ってしまった三人が、ひきつけのような悲鳴をあげてその場にへたり込む。尻でいざって何とか逃げようとするものの、最初の日に手も足も出せなかったヤクザたちと同じく、腰が抜けて巧くは行かないようだった。
「若!」
 金村が鋭く名を呼んだ。
「あんたはそこにいろ!」
 言い捨てて、飛鳥は走り出す。
 未だ残る黒い靄、飛鳥にしか見えない悪創念を蹴散らしながら。
 巨漢だったもののなれのはては、おりしも、隣で悲鳴をあげる元同胞に手を伸ばそうとしているところだった。幾つもの獣の顔が、舌なめずりをするのを飛鳥は見た。
 その手、指の一本一本から金色の翅(はね)を持った蝶が生え出ているというそれが、腰を抜かした若い男の身体にかかるよりも早く、
「だから早く逃げろって言っただろうがこのアホどもがッ!」
 ものすごい怒りの声とともに彼の身体を蹴り飛ばし、聞き苦しい悲鳴とともに男が吹っ飛ぶのには目もくれず、飛鳥は、指に蝶の生えた不気味な手をむんずと掴んだ。
 そして、それを支点にして猿の顔がふたつ連なった腕を駆け上がり、肩に到着するや、後頭部に生えた狼の頭を引っ掴む。
 苦痛の声をあげて威嚇する狼の頭を、ものすごい膂力で掴んだまま大きく跳躍すると、ぶちぶちぶちっという生々しい音とともに狼の頭部が引き千切れ、そしてそのあまりの勢いに異形がよろめく。
 どろりと舌をはみ出させた狼の頭を投げ捨てて、飛鳥は断じる。
「食うのも殺すのも、俺が許さん」
 飛鳥は、生き残りたちのことなど心底どうでもよかったが、少なくとも、あの初めの日のように、狂った異形によってなすすべもなく死なせるような真似はしたくなかった。
 生き残りたちのためにではなく、飛鳥自身のためにだ。
 狂った笑みをはりつけてこちらを伺う異形を前に、何が有効か、どう倒すのがもっとも効率的かを算段していた飛鳥の耳を、
「う、うわあああッ!?」
「ひいいいぃいっ!!」
 発狂しそうな恐怖を含んだ悲鳴が打った。
 それは、彼の背後、先刻飛鳥が異形から引き離した生き残りの連中から発せられていた。
 あの、背筋を舐める氷のような感覚があって、目の端だけでそちらを確認した飛鳥は、黒い靄に絡みつかれた人々の手や足が、密売組織が根城としていた洞窟の、硬くぎざぎざとした岩肌のように変化し始めているのを目の当たりにした。
 それは、失神したままの男たちも同じだった。
 ぱきぱきという音とともに、身体のあちこちが岩になってゆく。
「い……いやだっ! いやだ、化け物なんかになりたくないっ!」
「助けてくれ、助けてっ……こんな風に死ぬのは嫌だっ」
 地面を転がり回り、鼻水を垂らし、失禁までして泣き喚く彼らに絡みつく靄の、そのあまりのリアルさ、立体感に、飛鳥は思わず彼らの元へ駆け寄り、それを払う仕草をした。
 そのくらい、実体を伴って見えたのだ。
 そして事実、彼が払うと、靄は彼らの身体から離れた。
 ほんのわずか、少しずつではあれ。
 まだ若い男たちは、顔を涎と涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしながらも、一体何を、という顔をしたが、飛鳥が彼らの手足、靄に絡みつかれた部分を払うと石化が緩やかになるのを目にして、すがるような、必死な表情で飛鳥を見た。
「た、頼む……助けて……!」
「……黙ってろ」
 ケタケタ笑った異形がこちらに近づいてくるのが判る。
 いったいどちらを優先すべきなのか、飛鳥にはよく判らなかった。飛鳥が払えば逃げてゆく靄にしても、その方法が、完全に異形化してしまってからも有効なのかどうかすら判らない。
 しかも靄は、払うのをやめるとまたにじり寄ってくるのだ。
「若!」
 鋭く飛鳥を呼んだ金村が、飛鳥の制止も聞かずに広場へ走り込んでくる。
 手には、引き抜かれた剣があった。
「馬鹿か、戻れ……!」
 言ったところで戻るはずがないと思いつつ、思わず声を荒らげた飛鳥は、金村の脚が靄を蹴散らすのを観てわずかに安堵したが、狂った声で笑った異形が金村に向き直るのを目にしては穏やかでいられなかった。
 真剣に慣れ、実戦に慣れてきたとはいえ、金村はまだヒトを殺したことも、異形と一対一で対峙したこともないのだ。
 信頼していないわけではないが、心配でないわけでもない。
「くそ……」
 めまぐるしく変化する状況に、何をどうすることが最善なのか、何をどうしなくてはならないのかの判断がつきかね、らしくなく呻いた飛鳥だったが、
「ったく」
 そんな彼の耳に届いたのは、聞いたことのない声だった。
「オレの商売の邪魔するんじゃねぇよ!」
 美麗すぎるほど美麗な、それなのに恐ろしく乱暴でがさつな声が、苛立ちを含んで響いた瞬間、颶風が駆け抜けた。
「あんたら、危ねぇからちっと離れてな」
 こんな場面には不釣合いなほど穏やかな声が、もうひとつ響く。
 それは、真紅と漆黒の残像を伴っていた。
 そして次の瞬間、――広場へ飛び込んできた颶風がヒトのかたちを取り戻した瞬間、異形は決して赤くない血を噴き上げて真っ二つになった。

「ぎっ、げ、げええええっ!!」

 ――飛鳥の傍らで、助けてくれと泣き喚いていた、まだヒトだったものと一緒に。
 異形化しかけていた男が、絶叫とともに真っ二つになる。
 純白の閃光が辺りを薙ぐたびに血しぶきが上がり、絶叫が上がった。
「な……!」
 吹き上がった血が、飛鳥をも汚す。
 飛鳥は瞠目し、そして厳しく眉を吊り上げた。
 赤と黒の闖入者へ、射殺しそうな視線を向ける。