それが終わるのに三分もかからなかった。
 いくつかの生々しい水音のあと、広場は、まるで何事もなかったかのように静まりかえった。
 ――真っ二つになった異形の骸、まだ時折痙攣するそれの身体から生えたいくつもの首が、断末魔の身動きを繰り返す以外は。
 気を失ったままだった三人も、助けてくれと泣き叫んでいた三人も、あのとき広場から逃げずに留まった人間たちは、全員、身体のどこかを異形化させた状態で、血溜まりの中こときれていた。
 広場は、むせ返るような血臭で満ちていた。
 黒い靄は、もうどこにも見えない。
「……」
 自分が自分ではない何ものかになってゆく恐怖と絶望、肉体を創りかえられる苦痛に見開かれた目、涙で濡れた虚ろな双眸を気紛れに閉じさせてやってから、飛鳥は闖入者たちへ鋭い視線を向ける。
 飛鳥もまた返り血にまみれた壮絶な姿だったが、もはやそれに怖気づくようなことはなかった。その命を感じさせる温かさや、生々しい金属の匂いや、ねっとりとした寒気を誘う感触が、彼の心を動かすことも、もう、ない。
 彼はただ、それを事実として受け入れ、己の意志が通らなかったことを無念に思うだけだ。
「ボサッと突っ立ってんじゃねぇぞ、そこのボケども。討伐士様の仕事の邪魔すんじゃねぇよ。ったく、一緒に両断されなかっただけありがたいと思え……っと、お前ら、もしかして……」
 飛鳥の視線に気づいたか、闖入者のひとり、シンプルな長剣を手にして佇む真紅の髪の男が、ムーンストーンのようにやわらかな光沢のある不思議な双眸を歪め、毒々しいとすら言える悪意に染めて吐き捨てた。
「噂の加護持ちとその眷属か。……くそ、助けるんじゃなかった」
 飛鳥は片眉を跳ね上げる。
 初対面の相手にお前呼ばわりされ、無礼な口を利かれてはいそうですかと流せるほど彼は人間が出来ていない。
「はっ、誰が助けろと言った。人の思惑を無視してばさばさ殺しやがって、これだから剣を振るしか能のない連中は困るんだ」
 内心の苛立ちをぶつけるかのように返すと、男の眉が吊り上がった。
 月長石の目に、剣呑な殺意の火が揺れる。
「てめぇ……真剣に殺すぞ……?」
 男は――むしろまだ少年から青年に移行したばかり、といった風情の若者だ――、飛鳥がこれまでに観て来た顔の中で五本の指に入るくらいの、大層美麗な顔立ちをしていた。
 無論飛鳥にとって一番美しい人間が誰なのかなどは自明の理だが、男の、柳刃のような真紅の眉や、精緻に描かれた宗教画を髣髴とさせる目鼻、口角の引き締まった口元、陶器のように滑らかな肌などは、美形揃いのリィンクローヴァ中枢でもなかなかお目にかかれないような美麗さだった。
 飛鳥より拳ひとつほど大きい程度だろうか、身体つきは決してたくましい、雄々しいなどというカテゴリでくくれるものではないが、簡素な武装の上からでも、すらりとした硬質的なその肉体が、大きな異形を一撃で屠るに相応しく鍛え上げられていることがよく判る。
 つまるところ彼は、レーヴェリヒトと系統の似通った、どこか神秘的な美貌の麗人だった。
 しかし、その乱雑な口調と、怒りと殺意で彩られたきつい眼差しとが、彼を近づき難くしているのも事実だ。それは、気弱なものならその場で土下座でもして謝りたおしてしまいそうな、凶悪に過ぎる険を含んでいた。
 だが、その程度に目つき、その程度の雑言に怯むような可愛らしい性格で、飛鳥が飛鳥と名乗れるはずもない。彼は、ヤクザやマフィアや暴力団と呼ばれる連中がのし歩く獰悪な場の、闇のまた闇の中で生きてきたのだから。
 だから彼は軽く……男を小馬鹿にするような仕草で肩をすくめ、
「やれるものならやってみろよ。どうせ、身動き出来ない人間を手にかけることしかできないんだろう?」
 淡々と、嘲笑を込めて言っただけだった。
 男の目がいよいよ本気の殺意を帯び、奥歯がぎしりと噛み鳴らされたのが判った。手が、長剣の柄をきつく握り締める。
「……決めた。てめぇは殺しとこう。役所にゃ、間に合わなかったと報告すりゃいい。貴重な財産を失ったと国民は嘆くかもしれねぇが、んなもんはオレの知ったこっちゃねぇ」
「なら俺は、お節介にも飛び込んできたどこかの馬鹿が、不幸にも異形の手にかかって命を落としたと報告しよう。異形退治を生業とする討伐士が返り討ちにされたとあってはギルドの面目は丸潰れだろうが、そんなことは俺が斟酌してやるべきことでもない」
「吼えてろ」
「はっ、それはこちらの台詞だ。弱い犬ほどよく吠えると言うからな」
 飛鳥が言うと、男がまた殺意を強くした。
 男が殺意をあらわにすればするほど、飛鳥の目つきは冷ややかになり、思考は冷静かつ非情に研ぎ澄まされてゆく。
 どうしてくれようか、というのが、そのときの飛鳥の意識だったが、――もっとも、正直なところ、飛鳥は、これを八つ当たりと理解していた。
 無論、飛鳥は別に、生き残りたちの命を尊び、彼らを憐れんで助けようとしたわけではなかった。飛鳥が尊んだのは、彼らを救おうとした彼自身の意志、それのみだった。
 人間とは、自分のしてきたことについて、常に、報いを覚悟しながら生きなくてはならない生き物だと思うからだ。極悪非道な行いをしておきながら、都合よく助けてもらおうだなどという、甘ったれた幻想は許されるべきではないと思うからだ。
 目には目を、歯には歯を、苦痛には苦痛を、死には死を。
 飛鳥はその在り方を真理と断じ、それを、彼の意志においてのみ実践する。
 法の名においてとか、正義のためにとか、自分が善だからとか、そんな曖昧で胡散臭いものに寄りかかることなく。
 そう、彼らには償いが必要だったと思う。それが死によるものであったか、苦痛によるものだったかは計り知れないが。少なくとも、罰と無縁ではいられなかったと思う。
 だが。
「なんで殺した」
「あ?」
「あのでかいのは仕方ない。あれだけ質量が変わってしまえば、恐らく、もう元には戻れないだろうからな。だが、あの、なりかけの奴らはまだどうにかなったんじゃないのか」
 それでも、あんなひどい絶望の中で、なすすべもなく肉塊に変えられなくてはならないような、人間の根本をすべて冒すような、そんな罰は何者にも当てはめられないと思う。
 それほど、あの悪創念と異形とを、悪意と狂気に満ちた代物だと思う。
 同時に、この世界に来た初めの日、助けてやれなかった人間のことを、ほんの少し思い出したのも事実だ。ならばせめて、という意識が根ざしたことも否定はしない。
 そして、あっさりと喪われていった命に、苦さにも似た痛みを感じていたことも。
 それゆえに、あまりにも躊躇なく彼らの命を終わらせてしまった男たちへの怒りと、無力すぎる己への苛立ちをこうしてかたちにすることとなったのだが、その飛鳥の言に、男は一瞬呆けたような顔をし、すぐに真紅の眉を吊り上げて吐き捨てた。
「馬鹿か、てめぇは」
「あぁ?」
「それともどんな世間知らずのお坊ちゃんだ。変化が始まった時点でもう遅ぇんだよ、当然だろうが! 悪創念に取り込まれたヤツらが、悪創念を身体に宿しちまったヤツらが、死以外の方法で楽になれるわけがねぇだろうが!」
「……なんだと?」
「何だともクソもねぇよ。変化が始まったんなら、殺してやるのが慈悲だ。それ以上もそれ以下もねぇ。放っておきゃ、悪創念が伝染して被害が拡大するだけだ。もっとも、オレとしちゃ商売繁盛は結構なことだがな。判ったか? 判ったんなら、詫びのひとつも入れたあと、そのよく動く口を閉じてさっさと回れ右しやがれ、オレたちは忙しいんだ」
 男の物言いは乱暴で邪険だったが、そこに嘘偽りは感じられなかった。
 恐らく、彼は彼の真実を口にしているのだろう。
 しかし、だとしたら。
「……」
「おい、ナニ急に黙ってんだよ。謝罪の言葉を考えてんのか? それは別にいいからとっとと消えてくれ、浄化作業に邪魔だ」
「うるさい静かにしろ、俺は今考え事をしてるんだ。頭の悪い言葉を傍らで撒き散らされたら集中出来ないだろうが」
「この……!」
 淡々とした飛鳥の雑言に、またしてもぎりぎりと歯を噛み締めた男が拳を握り締めたのと、
「ギイ、後ろだ!」
 もうひとつの声が鋭く響いたのはほぼ同時だった。
「な……?」
 声よりもわずかに早く『それ』に気づいていた飛鳥は、今まで展開していた思考を一旦止め、ギイと呼ばれた赤毛の男が振り向くよりも一瞬早く、無造作に一歩踏み込んで、男の背後に腕を伸ばしていた。
 ガツリ、という、痛みとも衝撃とも取れぬ感覚があって、
「若!」
 剣を手にした金村が、鋭い声とともに走り寄ってくるのが判る。
 一瞬遅れて背後を見遣った赤毛の討伐士が眉をひそめた。
 驚きとも憤りとも取れぬ表情だった。
「おま……」
 飛鳥の左腕、手首と肘の中間辺りには、完全には死んでいなかったと思しき異形、人間だった頃にはオプファーと呼ばれていたモノの口から生えた蛇、黄金の目と不気味な青色の舌を持ったそれが喰らいついていた。
 漆黒の衣装の、袖の上からだったが、その鋭い牙は、丈夫な布地を易々と食い破り、飛鳥の腕に突き刺さっている。牙は、飛鳥が動かなければ、赤毛の男の首筋に食い込んでいたことだろう。
「大事ねぇか、若」
 見目よい剣の一閃で、最後に一矢、とでも言うように異形の口から飛び出した異様な蛇を斬り飛ばした金村が、飛鳥の腕に食い込んだその頭を毟(むし)り取り、静かに問うた。
 飛鳥は小さく頷く。
 この程度のことでいちいち痛いだの怪我をしただのと喚いていては、彼は人生の大半を苦痛とともに過ごして来たことになってしまう。
「問題ない」
「……ならいいんだが。無茶は止めてくれ、俺の寿命が縮まる」
「この程度のことで縮むようなやわな寿命ではこの先大変だぞ。どうにかして鍛えろ」
「鍛え方を教えてくれりゃ実践するが」
「まぁ、まずは起き抜けの圓東の顔を凝視できるようになるといい。それだけでも結構な鍛錬になる」
 そんな、間抜けで日常的な会話を淡々と交わすふたりに、
「いや、正直なところ、問題ないと言い切るのはどうかと思うぞ、俺は」
 のんびりとかかったのは、赤毛の討伐士とは違う低い声だ。滲み出る手練れの気配から、振り返るまでもなく、ギイと一緒にこの血の海を創り上げたもうひとりの討伐士と判る。
 飛鳥はちらりと背後へ視線をやり、そこに黒髪の男の姿を認めると、
「……誰だ」
 低く端的に問うた。
 男は二十代半ばから後半といったところだろうか、世界的に珍しい(らしい)漆黒の髪と、翡翠を髣髴とさせる鮮やかな緑の目をした、飛鳥より頭ひとつ分は確実に背の高い偉丈夫だった。
 パッと人目を惹くような美形ではないが、落ち着いた冷静な眼差しは、少なくともギイの数倍好感が持てる。
 肌が褐色なのと、彫りの深いエキゾティックな顔立ちであるところから鑑みるに、アルヴェスティオン・バーゼラと同じく、第二大陸民かもしくはその混血だろう。
 飛鳥の問いに、男はのんびりと頬を掻き、
「これでも結構名前の売れた討伐士と自負してたんだが……まぁ、仕方ないか。俺はエルフェンバイン、エルフェンバイン・ハールだ。王都アインマールの異形討伐を請け負う超級討伐士ってヤツだよ」
 特に気負うでも身構えるでもなくそう名乗った。
「なら、そいつは?」
「誰が『そいつ』だこの無礼者め!」
 素直にというかなんというか、単純にもその場でぶち切れそうになる赤毛の討伐士を、日常茶飯事でもあるのだろうか、軽い溜め息をついたエルフェンバインが諭す。
「あのな、ギイ、お前はちょっと黙ってろよ、話が進まない。大体、命の恩人じゃないか」
 飛鳥としては、まさかその程度でギイが大人しくなるなどとは思ってもみなかったのだが、命の恩人と言う単語が出た瞬間大いに詰まり、月長石の視線を彷徨わせた彼は、
「べ、別に助けろなんて言った覚えは……」
「だが、助けられたことは事実だ。彼がいなかったら、今頃自分がどうなっていたかくらいは判るだろう?」
「ぐ……」
 やはり恐ろしく素直に言葉に詰まり、しばらく口の中でなにやらもごもご言ったあと、それ以上言い募ろうとはしなくなった。
 猪突猛進単純明快を地で行くアツい男だな、というのが飛鳥の感想だった。
「相棒を助けてくれてありがとう、加護持ち。名はアスカと言ったかな? ああ、彼はギイ、ギイ・ケッツヒェンだ。国王陛下に直接雇われて、このアインマールを異形から守ってる。……ん? どうした?」
「いや、Kittyとはなんともまぁ可愛らしいと思っただけだ、気にするな」
「……? まぁ構わないが」
 名前が啓示なら何か理由があるのだろうと思いつつ言って、飛鳥は穴の空いた左腕を見下ろした。飛鳥の不可解な言に首を傾げたエルフェンバイン、ドイツ語で象牙を意味する名を持つ偉丈夫がそれを覗き込んでくる。
「加護持ちに俺たちと同じ法則があてはまるかどうかは知らないが、ひとまず、早いとこ神殿で浄化してもらった方がいい。生きた人間がいきなり異形化することはないにせよ、《死片》の毒はおっかないからな」
「……そうか」
 同じようなことを周囲に言われ、中央黒華神殿に出かけて一悶着起こした飛鳥としては、――そして以前受けた毒の治療をしていないわりに不具合を感じることのない飛鳥としては、あまり気が進まないのもあってとりあえず頷いただけだったが、少なくとも、頭ごなしでなければ反発しようという気持ちは起こらない。
 そういう意味では、飛鳥もまた恐ろしく単純で、明快なのだ。
「まぁ、いい」
 エルフェンバインの登場で多少気持ちが穏やかになったことも事実だったので、飛鳥はそのまま撤収することにした。無駄な、とは言わないが、ブレーデ一家の生き残りや異形のために貴重な時間を費やしてしまったのだ。
 この分だと、正規の開始時間には間に合わないかもしれない。
「俺たちは帰るぞ。せっかくの広場だ、後片付けもしっかりやれよ。こどもの遊び場に血臭とかありえんからな」
「てめぇに言われるまでもねぇっつの」
「ギイ、お前は黙ってろ、まとまるものもまとまらないから。心配は要らない、もうじき神殿から担当の神官が派遣されてくる。浄化も整備も、彼らが巧くやってくれるだろう」
 ――フィアナ大通りの方から、圓東がふたりを呼ぶ声が聞こえてきた。そろそろ帰らないと不味いんじゃないのー? という、いつも通り間延びして間抜けな、しかしどこか心配そうな声だ。
 飛鳥は軽く肩をすくめてそうか、とつぶやき、それから踵を返した。
 ほんの一瞬、物言わぬ骸となった人々へ視線をやったのち、あとはもう何も言わず、目線だけで金村を促して広場を後にする。
 途中、逃げるに逃げられず、なすすべもなく別の何かへ変えられてゆく仲間たちを助けることも出来ず、言葉もなくそれを見ているしかなかった最後の生き残り四人とすれ違った。
 基本的に猜疑心の強い飛鳥は、また面倒ないざこざになるかもしれない、と思ったのだが、悄然と肩を落とした四人は、殺意も敵意も失った状態で、のろのろと飛鳥を見遣ったあと、
「……すんませんでした」
 ぽつりと小さく詫び、
「仲間、助けようとしてくれて、ありがとうございました」
 それだけ言って、どこへともなく歩き去って行った。
「……」
 絶望と悲嘆とやり場のない憤りばかりが伺える、影が薄くなったようにすら感じられる四つの背中を見送って、無言で歩き出した飛鳥に、金村が淡々と声をかけた。
「若が気に病むことじゃねぇと思うぞ、俺は」
「別に、気に病んでるわけじゃない」
「何を言っても若は優しいからな、割り切れねぇんだろうとは思うが」
「……そこ、人の主張を無視して妙な納得をするな」
 何でこう噛み合わないんだ、などと胸中に首を傾げつつ、飛鳥はフィアナ大通りに至る小さな道を歩く。
 何故ギイが初対面から黒の加護持ちだと知れただけで敵意満載だったのか、何故『助けなければよかった』のかと思い出し、小さく首を傾げたのもその辺りだったが、わざわざ引き返して問い詰めるような事柄でもなく、飛鳥はそのまま直進した。
 この辺りに居を構える奴隷たちもしくは下層民と呼ばれる労働者たちだろうか、簡素な衣装に身を包んだリィンクローヴァ人や第二大陸民たちとすれ違いつつ――その中に、色とりどりの生糸が詰まった籠を手にした第二大陸民の女がいて、織物でもするのかと、それはどんな文様が描かれた布になるのかとちょっと興味を惹かれた――、奥の広場でどんな悪夢が展開されたかなど知りもせず、途切れることのない熱気と賑わいに満ちたフィアナ大通りへと戻る。
 飛鳥たちを探していたらしい圓東が、すぐに走り寄って来て、大きな包みを拾い上げる飛鳥の姿を目にするや首を傾げた。
「アニキ、どしたのそのカッコ。泥? 転んだの?」
「ふむ、何をどう頑張ったらこの俺が圓東ばりにみっともなく転べるのかはさておき、訊かない方がいい。胃の中に詰まったせっかくの朝食に別れを告げる羽目になるぞ」
「おればりってとこに何か今ものすごいリキこもってたよねーってツッコミはさておき、判った、訊かない。それも泥じゃないってことだね。……怪我とかない?」
「少なくとも、命に関わるようなのはな。もっとも、気は進まんが、もう一度神殿に行くべきかも知れん」
「ふーん。んじゃ、どーすんの? とりあえず、帰る?」
「ああ。お前の買い物は済んだのか」
「あ、うん。今日の夕飯は鶏と野菜のスパイス煮込みです。トマトいっぱいオマケしてもらったから、チーズと一緒にオリーブ油のサラダにするね。あ、パンはアニキも食べやすいように麸(ふすま)で作るから。案外あっさりしていけるしさ」
「……そうか」
「明日の朝は、今日のうちにパンを多めに焼いておいて、分厚く焼いた卵焼きとトマトを挟もうかなーって。あ、おれ明日はバド爺ちゃんのとこに遊びに行って来るから、昼飯はなんか適当に食べてね」
 すっかり主夫業を満喫している風情の圓東が、色々な食材が詰まったトートバッグ状の布袋をよいしょ、と肩に担ぐ。
 ちなみにこんな布袋が中世近世ヨーロッパの文化圏内に販売されているはずもなく、荷物の持ち運びに便利だから、と言ってこれを縫ったのも圓東である。勉強、荒事という点では屁の役にも立たないが、手指の仕事となると彼ほど縦横無尽かるオールマイティに何でも出来る人間もそうそういないだろう。
「なら、帰るか。明日はリーノエンヴェ・カイエ閣下と苛酷な訓練だから、昼飯くらいは彼が何とかしてくれるだろう」
「あ、そっか。もう真剣の訓練に入ったんだっけ? あんなでっかい刃物を振り回すんだからすごいよなー。ってかリーエさんて、騎士団長ってくらいだからやっぱ強いんだよね。そういう人に訓練受けるって怖くない? なんかすっごい厳しそう」
「別に怖くはない。厳しいというか、思いっきり私怨が混じっているくらいだ。たまに本気で殺意を向けられてるなーと思うこともある」
「それって滅茶苦茶怖いんじゃ……」
「まぁ、普通だろう、その程度のことは」
「それを普通って言っちゃうアニキはやっぱグレートだ……」
 微妙な表情をする圓東と、口数少なく自分の隣を歩く金村とともに帰路に就きつつ、飛鳥は、先刻の悪夢を思い返していた。
 極彩色の、狂気と悪意の詰まった壮絶な悪夢を。
 そのときの飛鳥の脳裏を占めていたのは、
(……異形化が始まってしまえばもう助けられない……?)
 飛鳥が黒い靄を払うと異形化が緩やかになった時のことだった。
(なら、あれは……)
 飛鳥の勘違いや妄想の類いではなかったと断言出来る。
 異形化が緩やかになったときの、男のすがるような表情を今でも克明に思い出せる。
(あの現象は、一体なんだ)
 黒い靄と、異形と、飛鳥と。
 それらに一体なんの関係があるのか、まだはっきりとは見えてこない。
(だが……)
 もしも、彼の、『黒の加護持ち』としての力、その存在が、何か役に立つのだとしたら。――あんな、狂った、惨い死から、誰かを救い上げることができるのだとしたら。
(……それは、悪くない)
 無論、そんなに簡単に巧く行くようなら、誰も苦労はしないだろうが。
 ぽつりぽつりと脳裏に思考しながら、飛鳥は帰途につく。
(まぁ、いい)
 ひとまず、レーヴェリヒトやハイリヒトゥーム、ここ十日ですっかり馴染んだ博士たちに事情を説明して、どういうことなのか説明してもらおう、などと思いつつ。