「ギイ・ケッツヒェンとエルフェンバイン・ハール?」
がきり、と刃を組み合わせながら、鸚鵡返しにリーノエンヴェが問うのへ、飛鳥は小さく頷いてみせた。
「どういう奴らだ?」
淡々と言いつつ、低い呼気とともにリーノエンヴェの手にした剣を腕の力のみで弾き、後方へと飛び退る。ごついブーツに削られ、地面がざしりと音を立ててえぐれた。
真っ平らに整備された広場のあちこちに、飛鳥とリーノエンヴェがこしらえた、同じような凹みがある。
ゲミュートリヒ市領主宅の裏手に当たるこの広場は、そもそも家人の鍛錬用に作られたというから問題はないだろうが、これがもしグーテドゥフト庭園辺りだったら、真剣に抗議の声が上がりそうだ。
「討伐士とは、異形を狩る存在だろう。そこに超級とつくからには、相当な実力者ということか」
「ええ……そうですね。多分、世界でも十指に入る討伐士ですよ。ふたりともまだ若いですが、《色なし》の最大級のものから《色持ち》、つまり魔族ですら一撃で屠るほどの、熟練の討伐士にも引けを取らない戦い上手です。それがどうかしましたか?」
「いや……レイから、昨日の話は聞いたか?」
「ああ、はい。一悶着あったようですね」
「だからどうしたというわけでもないんだが、ちょっと気になった」
「なるほど。確かに、あなたとギイとでは、諍いが起こるのも当然のように思いますね、私も。ふたりとも我が強すぎます」
「……褒め言葉か?」
「そういうことにしておいてくださって結構ですよ。ギイはあの性格ですから、色々なところで揉め事を起こしてはエルフェンバインの手を煩わせていると聞きます。あとは……そうですね、何の理由があるのか知りませんが、恐ろしく金銭に汚いと聞いたこともありますよ。そもそも、超級討伐士なんて高額の代名詞のようなものですが」
「ふむ……なら、俺が加護持ちと知れた途端助けなければよかったと言われたアレはなんだったんだろう」
「ああ、それは簡単なことですよ」
「ん?」
「加護持ちがいる地域は、異形の発生率が目に見えて下がりますからね。異形を退治して幾ら、の討伐士たちにしてみれば商売の邪魔者以外のなにものでもないんでしょう。無論、レヴィ陛下直属として雇い入れている討伐士たちは一ヶ月に幾らの計算で給金が出ますけど、一体倒せば追加の報奨金が出るのも事実ですから」
「……それはつまり、金のために異形にはどんどん発生してもらわなくては困る、ということか……?」
「さあ。討伐士たちの事情など私には判りませんが、そういう人間がいてもおかしくはありませんでしょう」
「……」
「何にせよ」
「ん?」
「昨日のあれは、あなたが気に病まれるべきことではありませんよ。悪創念はどこにでもわくもの、異形化とは誰にでもある危険性です。そうやって、私たちは何千年もの間生きてきたのです。それは唐突に変わるものではありませんし、誰かが、個人の力で何とかできるものでもありません」
「……ああ」
「私はあなたが好きではありませんが」
「知っている」
「だからと言って、あなたに思い悩み苦しめとも思いません。あなたらしくないあなたなど、レヴィ陛下が哀しまれるだけですからね」
この半月で様々な反目のあった騎士団長から、慰めらしき言葉が飛び出したので、飛鳥はわずかに苦笑して頷いた。
彼のその善意が、レーヴェリヒトが哀しむから、という方向性によって生まれたものだとしても、気に食わない相手を気遣うという行為は、悪意からでは行えないだろう。
それは結局、リーノエンヴェの人間性がなしたことなのだ。
「判った」
飛鳥は他者からの善意を忘れない。
向けられる悪意に、激しく反応するのと同等に。
「……そうだな、そう思うことにする」
言うと、リーノエンヴェも頷いた。
白くて優美な手の中で、美しい剣がくるりと踊る。
「疑問は解消されましたか?」
「ああ、それなりに」
「そうですか、それはよかった。さて……では、行きますよ?」
にっこりと優雅に笑ったリーノエンヴェが、やはりどことなく優雅な動作で地を蹴る。白を基調とした服地に翠の絹糸で流麗な刺繍のされた、近衛騎士たちが普段身につけている武装の高価版といった衣装の裾が、彼の動きに沿うようにして翻った。
もっとも、姿かたちや衣装がどれだけ優美だろうが何だろうが、その実体は、恐ろしくこなれた、欠片の隙もない武人そのものの足運びだ。動物に例えれば、優雅な動作で虎視眈々と獲物を狙う豹と言ったところだろうか。
細身の、女性と見紛うたおやかな美貌からは想像もつかない速度で距離を詰められ、飛鳥は、武器を持って戦うのは何でこんなに面倒臭いんだ、などと思いつつ手にした星鋼の剣を構えた。
ひゅっ、という低い呼吸の音がして、次の瞬間には、白く輝くリーノエンヴェの剣が、飛鳥に向けて振り下ろされる。
それは速く鋭く、空気を斬り裂くかのようで、
「……なんつーか、わりと本気っぽいのは気の所為か……?」
剣の訓練を始めて数日の一般人に向けられるにしてはあまりに凶悪な剣閃に、飛鳥は思わずつぶやくが、無論それが、わざわざ問うまでもない事実だということもそれなりに理解してはいる。
この美麗な騎士団長、大貴族の青年が、遠縁に当たるらしい某国王陛下に並々ならぬ愛情を注いでおり、現在、その国王陛下を独り占めしている黒の加護持ちに恋敵にも似た嫉妬心を抱いている(ノーヴァ談)ことは、彼をよく知る人々には周知の事柄なのだ。
たかだか数回の稽古の中で、あぁ今間違いなく冗談では済まされない類いの殺意が混じっていたな、と思うような出来事が何度もあれば、飛鳥でなくとも慣れてしまおうというものだ。
もっとも、多少本気モードだとはいえ、訓練の範囲内にある、生死の関わらない場所においての剣に叩きのめされているようでは、彼に完成品たれと願った創造主たちに顔向け出来ないのもまた事実だ。
「……」
重量にして数kgの、長くて重くて凶悪だが優美な剣、星の煌きが散る美しい刃を軽々と持ち上げ、振り下ろされる剣を受け止める。
がぢっ、と、金属が鳴いた。
飛鳥の立ち姿には微塵の揺るぎもない。
「……どんな腕力をしているんですか、あなたは」
「こんな腕力だが」
「剣など扱ったこともないくせに、ひと目で明らかに素人と判る手つきのくせに、どうしてこんなに、それを補って余りあるほど場慣れしているんでしょうね……」
ぎちぎちと刃同士をこすり合わせながら――それはすなわち、今もまだリーノエンヴェが相当な勢いで押して来ていることを意味する――、呆れたような声を上げる騎士団長に、飛鳥はさあな、と嘯(うそぶ)いてみせる。
「場慣れしているのは確かだな。むしろ、剣なんて邪魔がない方が、いい戦いができるような気もするんだが……まぁ、今後のことを考えれば、知っておくにこしたことはないしな」
「……まったく、空恐ろしいというか何というか……」
嘆息したリーノエンヴェが剣を退く。
飛鳥は肩をすくめた。
稽古が始まって三時間、一般人なら体力が続かないほどの過密さで剣を合わせ、握りが甘いとか脚さばきはこうしろとか振りが拙いとか散々に突っ込まれつつ、実戦もどきの練習を繰り広げているにもかかわらず、飛鳥の呼吸に乱れはない。
さすがに、多少汗はかいているが、それだけのことだ。今すぐグーデドゥフト庭園を全速力で一周して来いと言われても、特に問題はない程度には飛鳥は元気だ。
もっとも、飛鳥よりもよく動き、的確かつ詳細な指示を下していたリーノエンヴェもまた、それなりに汗はかいているものの、特につらそうな様子も見せていないのだが。
「こんな頑丈な加護持ちなんて前代未聞ですよ、本当に。リィンクローヴァの五百年に及ぶ歴史の中で、数人の加護持ちの記録が残されていますが、あなたのような存在は見たことも聴いたこともありません。それがリィンクローヴァのためになるのかならないのか、私には計れませんけどね」
「ためになるためにこうしてるつもりなんだがな」
「それは……まぁ、一応、認めますよ」
「一応というところに含みを感じるんだが、気の所為か」
「気の所為です。認めているだけでもありがたいと思ってください」
「……そういうものか」
「ええ。それに、どうせ、思っていることは同じでしょうからね」
剣を腰に戻し、わずかに乱れた長い金髪を、優美な仕草で整えたリーノエンヴェが、緩やかに肩をすくめた。彼の、春の野原を思わせるやわらかな緑の目に、いたずらっぽい色彩を読み取って、飛鳥はふむ、とつぶやく。
同じひとりの人間に心を砕く身として――その足並みが決してそろうことがないとしてもだ――、何かを偽る必要性も感じられず、
「――レイが喜ぶから?」
「可愛いあの方が喜ばれますから」
口を開くのとほぼ同時に、同じような意味合いのことをリーノエンヴェが口にした。
「無駄と思いつつ何度も言うが、二十四歳にもなったでかい男に可愛いという修飾語はどうかと思う」
「無駄と思いつつ何度でもお返ししますが、可愛いという言葉の他に、あの方を言い表せる最上の表現がありません」
呆れた飛鳥がすでに何度目とも判らぬ台詞を口にすると、間髪入れずに同じような答えが返ってくる。押し問答もいいところだ。
「……まったく、リィンクローヴァの国王陛下は愛され体質だな」
「そうでなくて、何でリィンクローヴァの国王を名乗れますか」
やはり間髪入れずに返った言葉に、飛鳥は再度肩をすくめた。
「否定はしない」
「当然です」
満足げにリーノエンヴェが頷く。
「さて、今日の訓練は終わりです、アスカ。とりあえず、私の分はね。昼食後、父が勉強会をしようと言っていましたから、他に用事がなければつきあって差し上げてください」
「そうか。なら、そうさせてもらおうかな。調べたいこともあるし、そろそろ神聖語の勉強も始めたいから。でも……アルディアは、メイデもだが、俺なんかにかまけてていいのか? 今更だが、為政者ってのはもっと忙しいもんだと思ってたんだが」
「この時期、ゲミュートリヒは真剣に暇ですからね。基本的に田舎だというのもありますけど、今は農業の繁忙期だというだけで、大きな会合や行事もありませんから、政治的にはほとんどすることがないに均しい状態です。有り体に言うと、好き勝手なことをやっている時期なんですよ。私にゾイレリッタァ家の領主の座を譲ってこちらに引っ込んだのも、それを見越してのことなんじゃないかと勘繰りたくなるほどです」
「確かに宰相家の方が大変そうだよな」
「ええ、実際大変ですよ。何で私が、騎士団長をやりながら領主まで兼任しなきゃならないのかと、時折首を傾げたくなりますからね。他の大公家では、六十や七十になっても領主を勤めておいでの方もおられますのに、ウチの親と来たら五十で引退ですから」
「だが、ここはここで重要な地域だと聞いたぞ。隣国との兼ね合いだったか? 正規兵を置かずに均衡を保つというのもなかなか骨が折れそうだが」
「ええ、ハルノエンとのたゆまざる友情を誇示するためにね。時期が時期ですから、争っている場合ではない、というのもあるんですが」
「なるほど。ハルノエンと戦うようなことになれば、隣接する他国がその隙を狙ってくる、か」
「ええ。それから、リィンクローヴァは現在、ハルノエンのほかに、モーントシュタインとヴァルシア、キャスレードと同盟を結んでいます。ハルノエンがリィンクローヴァに兵を挙げれば、それらの国も黙ってはいません」
「アルバトロウム=シェトランもな」
「そうですね。もっとも今、かの大国は、ダルフェとノーデとの睨み合いが続いているそうですから、大陸の端に位置する我が国に意識を向けている暇はないでしょうが」
「……ややこしいな」
「まったくです。まぁ、それに、ハルノエン王室はもともとリィンクローヴァ王家から別たれた一族なんですよ」
「ああ……それは歴史の勉強中に聞いたな。リィンクローヴァの姫さんが嫁に行ったからだったか?」
「それもありますが、そもそも、リィンクローヴァとハルノエンはひとつの国だったんです。三百年ほど前、華々しい勲功を立てた当時の将軍に領地を割譲した際、リィンクローヴァ王家直系の姫がその将軍に嫁されたとかで、結果ハルノエンという国として新しく興ることになったらしくてね。そんな近しい血縁同士で相争うというのも寂しい話ですから、リィンクローヴァとハルノエンが、永遠に争わずに済めばいいと思います」
「手間も省けるしな」
「そう言われると身も蓋もありませんけどね」
ロマンも何もない飛鳥の物言いに、リーノエンヴェは呆れた顔をしたが、事実と認識してもいるのだろう、否定はしなかった。
飛鳥は、訓練用に用立ててもらった綿の衣装、テンプレートかセオリーのごとく漆黒のそれの、手触りのいい袖の部分で額の汗を拭ってから、星鋼の剣を腰に戻した。
しゃりん、という、涼しげな金属音がする。
「ま、せっかくもらったこの綺麗な剣に恥じないような、みっともなくない戦い方が出来ればいいな」
「心配しなくても、そのくらいには鍛えて差し上げますよ。むしろ、レヴィ陛下の御身近くに侍るというのなら、そうなっていただかなくては困ります。そのうち、うちの母にも、私とは違った戦い方を学んでいただいてもいいかもしれません。うちの母は、息子の私が言うのも何ですが、ちょっとびっくりするくらいの手練れなので」
「ああ……それは、身のこなしや足さばきを見てると思う。若い頃の渾名(あだな)が茨姫(いばらひめ)だったか」
「ええ、彼女の茨に絡め取られて生き延びたものはいないそうですよ、恐ろしいことにね」
「らしくていいじゃないか。最前線でばりばりやってた超前衛型の良家の子女なんて、カッコよすぎだ」
「それ以外の母を知りませんから、私にとっては普通のことなんですけどね。小さい頃は、他の大公家の若君姫君とお話をしていて、母とは戦場には立たぬものなのだと知って衝撃を受けたものです」
「ああ、そりゃ衝撃の新事実ってヤツだな」
「一晩眠れませんでしたね。もっとも、リィンクローヴァ王家の女性は、なんの躊躇いもなく最前線で剣を揮っておられましたが」
「……いくさ馬鹿の国なんだな、リィンクローヴァって」
「否定はしません。また、今の時代には相応しくも思います。さてアスカ、では行きましょうか。そろそろ、昼食の準備ができているでしょうから」
「ああ」
「夕食時にはレヴィ陛下も来られるそうですよ。例の件になんとか目処がついたそうなので」
飛鳥は、さっさと歩き出したリーノエンヴェの横に並ぶ。
横に並んで苦痛ではない程度には、飛鳥はこの青年貴族を信頼している。
実を言うと。
「おや、それはよかった。書類仕事は心底性に合わない様子だったから、ちょっと心配してたんだ。あのままあれが続いたら死ぬんじゃないかとすら思ったほどだ。政務で過労死した武王なんてカッコ悪いしな」
「そうですね、確かにあの方は、戦場で剣を振っておられるお姿の方が映えるように思います」
「まぁ、もちろん、本当は、戦争なんてものはないにこしたことはないんだろうけどな。でないと、関係ない人間まで迷惑する。でも、乱世にそれは通用しないよな」
「ええ」
淡々と言葉を交わしつつ、飛鳥は、夏の、さわやかな涼風に頬を、髪を撫でられながらゲミュートリヒ市領主宅へ向かって歩く。
真っ青な空と、青々とした自然の調和した風景は、何度目にしても美しかった。