「なるほど……事情は判った。なかなか面白いことになってきたじゃないか」
 その声が響いたのは、観客が、漣のような熱気と期待を引き摺りながらも、飛鳥が――当人である黒の御使いがあまりにも淡々としている所為で爆発的な歓喜に浸ることも出来ぬまま、この戦いの勝者である飛鳥に追い立てられるように帰りつつある時だった。
 飛鳥にとって界神晶は妹の姿をしたあの埒外の者が気紛れで与えてくれた便利な代物に過ぎないし、あまりにも大仰な御使いの伝承は、彼に、アレと俺は別物だという認識を植え付けたのみで、飛鳥がレーヴェリヒトのために成し遂げようとしているすべての事柄に何の変化もない。
 したがって自分が御使いであるか否かなどは、示威行為のためにこうして大勢の前で見せ付けてはみたものの、あまり大した問題ではないのだった。
 とはいえ、御使いの光臨は世界的な椿事だ。
 それは、特にこの乱世において、他国に対しては絶大な示威にもなるようなので、当人と、御使いが護るべき王が望まなくとも、そのうち、状況が安定している時にでも大々的な披露目の式典をやることになるだろう、というのが飛鳥の予想だった。面倒臭いことに変わりはないが。
 こちらをちらちらと見遣りながら帰っていくリィンクローヴァ国民の、期待と祈りの込められた視線を受け止めつつ、異世界のしきたりはよく判らん、などと飛鳥が思っていた時に、背後からその声がかかったのだ。
 振り向くまでもなくツァールトハイト・フィアラの声で、実に楽しげなそれに、飛鳥が、あんたも物好きだな、と返そうとする前に、
「ツィー姉様っ!? ななななななんでここにっ!?」
 驚愕の表情とともに、ギイがいっそ面白いくらい盛大に声を裏返らせた。
 飛鳥に叩きのめされて魔法をブチ込まれた時ですらここまで狼狽はしていなかったと断言出来るほどの裏返りぶりだった。
 飛鳥の機嫌を損ねたと感じたとき、金村に対して圓東がやるような素早さでエルフェンバインの背後に隠れた彼を、ツァールトハイトが、いつでも捻り潰せる虫を見るような、口元は笑っているのに目は笑っていないという表情で見遣る。
 その表情を見て、ギイのみならず彼が隠れ蓑代わりにしたエルフェンバインまでが直立不動の姿勢を取った。
「無論、アスカを見に来たんだ。……あとは、お前がどんな風に粉々にされるかを見物に、な」
「粉々って……!」
「――……ギイ」
「はいッ!?」
 エルフェンバインの背に隠れたまま抗議の声を上げかけたギイをツァールトハイトが呼ぶと、ギイは顔を引き攣らせながらも律儀に返事をした。
 ……どうも、そういう風に躾けられてきたらしい。
 飛鳥は、あのギイがここまで畏れる相手なのだ、一体どんな素晴らしい躾を行ったのか、是非とも腹を割って話がしたい、などと暢気に思っていたが、詰問されているふたりの男には死活問題であるようだった。
「お前たちがあちこちに迷惑をかけながら金を貯めていたのは、このためか」
 飛鳥が手にした剣を見ながら、相変わらず冷ややかだが若干質感の変わった声でツァールトハイトが問うと、
「う、いや、その……」
「わたしは、あれはラムペ家に贈ったものだと何度も言ったはずだが」
「そりゃ判ってるけど、でも、あれは」
 しどろもどろのギイが視線をあちこちに彷徨わせながらぼそぼそと返す。
「ツィー姉上、ギイの気持ちも酌んでやってくれ、あれは、」
「エルフ、お前もだ」
「はいっ!」
「くそチビの手綱取りはお前がやれとわたしは言ったはずだな? それが、何故こんなことになっている?」
「い、いいいいいいいいやそのだからそれは……ッ」
 レーヴェリヒトと相対していた時ですらここまで腰が引けてはいなかったと断言出来るへっぴり腰で、しかし健気にも背後にギイを庇いながら、エルフェンバインが弁解めいた言葉を口にするのへ、ツァールトハイトは凶悪に美しい笑みを浮かべてみせた。
 途端に、いい年をした男ふたりが、死刑宣告でも受けたような、この世の終わりのような表情をする。
「まったく……困ったものだ」
 大仰な溜め息をつくツァールトハイト。
 飛鳥はかすかに笑い、
「そいつらの気持ちも判らなくはない、多少斟酌してやったらどうだ。いやまぁ、あんたがそいつらをどうしようが俺は止めないが」
 助け舟なのかも微妙な助け舟を出した。
 ツァールトハイトが空色の目で飛鳥を見遣る。
「アスカは事情を知っているようだな? わざわざ、それをこの戦いに持ち出してきた、ということは。この未熟者には大層効果があったようだ……なかなか見事な手腕だな」
「ん、ああ、そうだな、これが七代前のリィンクローヴァ国王からザーデバルク家に下賜された宝物で、使い手の技量によっては鉄でも両断する名剣だってことは」
「そうだ、当時の当主が華々しい戦功を上げた際、陛下より愛剣を賜ったと伝え聞いている……銘を【哭艶】という。当代きっての名工が手がけたそうだ」
 ツァールトハイトの言葉に頷くと、
「それと、十年前、異形の大発生で大きな打撃を受けたザーデバルク市に多大な資金援助をしてもらった礼にと、あんたがラムペ家に贈ったものだということも知ってる」
 そこで言葉を切り、
「十年前のあれは、市が半壊滅するくらいの被害だったと聞いている」
 言うと、ツァールトハイトの、美しいのに猛々しいばかりだった面に、わずかな痛みと微苦笑がのぼる。
「……そうだ。市の全域に五十以上もの大型異形が湧き、近しいもの、大切なものがたくさん死んだ。わたしは、当時随一の討伐士などと呼ばれていたが、無力だった。わたしの無力と慢心があれを招いたのだとしたら、わたしはその罪を償わなければならない」
「違、そりゃ姉様の所為じゃ……」
「お前は黙れ、ギイ。お前の気持ちがどうであれ、わたしはそう思うと言うだけのことだ」
 その他、イスフェニアの調査結果によって判ったのは、ツァールトハイトとエルフェンバインが遠縁に当たること、ツァールトハイトは幼少時をエルフェンバインの母親の家で過ごしたこと、ギイの母親はザーデバルク家に戻ったツァールトハイトの姉代わりとして十五年以上彼女の世話係を務めていたこと、ギイの母親はエルフェンバインの母親の親友でもあり、十年前の『あの時』、異形化したエルフェンバインの母親から、ふたりの息子たちを助けて命を落としたこと、そして彼女もまた異形化し、最後には、ふたりともが、凄腕の討伐士として名を馳せていたツァールトハイトによって葬られたことなどだった。
「だからこそ、わたしには、彼女らに代わってこの馬鹿どもを立派に育て上げる義務がある。芯まで異形化しながら、息子たちのために自分を殺せと嘆願した、あのやさしい女たちのために」
「……それも知っている。だから、討伐士を引退したんだろう」
 身寄りをなくしたギイとエルフェンバインを引き取り、ザーデバルク家の領主の座に収まってからも、少年たちの世話をしたのだから、ツァールトハイトとて身内同然だった女たちの息子に対して何も愛情や愛着がないわけではないのだろう。
 ただ、その愛情の出し方が、若干一般的ではないだけで。
 しかし同時に、その愛情を理解しているから、そして彼女を慕っているから、ギイとエルフェンバインは、この剣を彼女の元へ戻そうとしていたのだ。
 結局、この一連の出来事の根本は、そういう、誰かが誰かを思う気持ちから生じたものなのだった。
「なるほど、そうか、エルンテ家の三男坊がいるのだったな、アスカのところには。それでは、筒抜けも同然だろう。――残念ながら、我がザーデバルクは裕福とはとても言えない土地柄でな。あの時、ラムペ家が支援してくれなかったら、何人もの罪なき民が命を落としていたことだろう」
「なるほど……それで、お返しに、か」
「ああ、コーネ殿はうちの祖父に何か恩があるとかで、礼など要らんと言ってくれたのだがな、やはりそこは、わたしの気持ちの問題もある。ならば相応しいものが現れるまで預かっていてくれと、半ば強引に贈ったんだ」
「……ふむ。色々あって今は俺の手に渡っているわけだが……俺は、相応しいかな」
 飛鳥が言うと、ツァールトハイトは艶然と笑った。
 そして、次の瞬間、飛鳥の懐に踏み込み様、腰の剣に手を滑らせ、居合いの要領で一気に抜き放つ。
 一条の光、稲妻のような一閃だった。
 切っ先の先にいるのは、無論……黒の御使いだ。
「ツィー姉様っ!?」
 ギイの驚愕の声、エルフェンバインが息を飲む音、鋭い金属音、刃と刃がこすれあうギチギチという耳障りな音。
「あー……そんな気はしてたんだよなァ……」
 レーヴェリヒトだけは、諦観の見える面持ちでそれを見守っている。
「……正直、今のはギイの剣より怖かったぞ……」
「当然だ。ギイとエルフに剣を仕込んだのはわたしなのだからな」
 飛鳥は、咄嗟に抜いた剣でツァールトハイトの剣を防ぎながら呆れた風情で言った。硬い、重い手応えが、剣を通じて伝わってくる。とてもではないが女性とは思えない膂力だ。
「アスカは、剣の鍛錬を始めてどのくらいだと言ったか」
「鍛錬の基礎のようなことはもう少し前から始めていたが、正式には十日だ。あんたの息子との戦いのために急ごしらえで身につけた付け焼刃だがな」
「やめてくれ、十六歳で母になるなど真っ平ごめんだという以前に、こんなお恥ずかしい息子を持ちたくない」
「お恥ずかしいって……!」
「しかし……剣を持ってたかが一ヶ月弱のひよっこが、わたしの初撃を防ぐか」
「防がなかったら死ぬだろうが」
「なるほど、違いない」
 そこで引くかと思いきや、パッと後方へ跳んだツァールトハイトは、着地と同時に地面を蹴り、飛ぶような軽やかさで飛鳥に斬りかかった。
 飛鳥は小さく溜め息をつき、
「死合いは終わったはずなんだが、死合いより深刻な事態ってどういうことだ、これ……」
 ぼやきながらも、焦るでもなく恐怖を覚えるでもなく、【哭艶】なる名剣を揮ってツァールトハイトの剣を受け止め、受け流す。
 硬い、重い衝撃が、腕に心地よい痺れをもたらす。
「……なるほど、しかし、少し判ってきたな……」
 ツァールトハイトの間合いに入り込み、下段から跳ね上げるように撃ちかかると、愉快そうに笑った彼女は、わずかに身を捻って飛鳥の一閃を避け、た・たん、と軽快なステップを踏んで身体の位置をずらして、手首のスナップだけで剣を飛鳥の頭上に振り下ろした。
 少なくとも、剣を習って十日の人間に対する仕打ちではなく、手加減がないどころかそこそこ本気と判る勢いのそれに、これはある種の自業自得なんだろうかと胸中に溜め息する。
 とはいえ、界神晶を使って一気に片をつける、という考えはなかった。
 あれはまだ判らないことが多すぎて、便利な力を得たと喜んで考えもなしに使っていいものではない、という感覚が飛鳥にはある。
 そして恐らくその感覚は、正しい。
「ここで真っ二つになるのは出来れば避けたいな」
「いや、うん、出来ればっつーか、絶対に避けて欲しいんだけどな俺としては」
 ギャラリーの一部から呆れたようなツッコミが入る中、飛鳥は身を屈めながら後方に跳んでその一閃を避け――かなり距離を取って避けたのに剣風が頬を撫でた――、飛鳥が避けることを読んでいて、そのまま踏み込み、追撃の体勢に入るツァールトハイトに向かって自分もまた踏み込む。
「……そう来るか」
 ツァールトハイトが楽しげに笑む。
 飛鳥は無言のまま剣を握り締め、流れるような動作で剣を水平に振り抜いた。
 切っ先がツァールトハイトの剣を捉える。
 金属と金属が触れ合って甲高く鳴いた。
 そのまま無言で数合確かめるように打ち合い、同時に後方へ跳んで、
「これから先が楽しみだな」
「そりゃどうも。まぁ、精々励むさ」
 ツァールトハイトは笑顔で、飛鳥は肩をすくめてから、同時に剣を鞘に戻す。と、レーヴェリヒトが溜め息をついてふたりに歩み寄った。
「ふたりとも見事だ……って言いてぇとこだが、寿命が縮まりそうだからこういうのは勘弁してくれ」
「俺だって好きでやったわけじゃない。まぁ……参考にはなったけどな」
 飛鳥もまた大きな溜め息をつく。
 ツァールトハイトはというと素晴らしく満足げな笑顔だった。
「うむ、堪能した。また、いずれ、アスカの腕がもっと上がってからやりあいたいものだ」
「じゃあ、まぁ次は三ヵ月後くらいにな」
 この先、何やかやと理由をつけてほぼ本気の手合わせをすることになりそうな予感を抱きつつ飛鳥が言うと、ツァールトハイトは『わくわくしている』というのが相応しいだろう表情で頷いた。
「そうか……では、わたしも腕を磨かねばなるまい」
「磨いてくれるのは構わんがそれを全部俺に向けようとするのはやめてくれ、不毛過ぎる」
「おや、それは残念」
 くすり、と笑ってのち、レーヴェリヒトに向かって一礼し、ツァールトハイトは踵を返した。
「ではな、レヴィ陛下、アスカ」
「おう」
 それから彼女は、
「……ギイ、エルフ」
「ははははいッ姉様ッ」
「ちょ、おま、俺を盾にすんなギイ――……」
「お前たちの軟弱ぶりには正直失望した。アスカの命の通りアインマールの守護を続けるにしても、このままでは先行きが不安過ぎる。アスカやレヴィ陛下にこれ以上迷惑をかけないためにも、」
「た、ためにも?」
「……一ヶ月ばかり、みっちり『教育』してやる。ありがたく思え」
「『教育』ッ!? ちょ、待っ……」
「問答無用」
 美しいのに鬼より恐ろしい、と後日ふたりの超級討伐士がげっそりしながら語ったという笑みを浮かべたツァールトハイトが、その場から逃げ出そうとしたギイとエルフェンバインの首根っこをがっしりと鷲掴みにし――くどいようだがツァールトハイトは長身痩躯の女性である――、
「ぎゃーッ、ごめんなさいすんませんツィー姉様ッ! 色々と心を入れ替えるんで『教育』だけは勘弁してくださいッ!」
「っていうか何で俺までーッ!?」
 男ふたりの情けない悲鳴など何ら痛痒を感じていない風情で、ふたりを引き摺って歩き去っていく。
 屠殺場へ引っ立てられる家畜さながらの悲壮さを漂わせる超級討伐士たちとは裏腹に、ツァールトハイトの、凜と伸びた背筋からは、硬質で獰猛な喜悦と決意とが感じ取れた。
 飛鳥はその背を――というか、どちらかというとドナドナ的な空気を漂わせる男たちを――見送って、
「……あー、まぁ、頑張れよ?」
 微妙に生温かい笑みを浮かべてちいさく手を振った。
 他にどうしろと、というのが正直な気持ちである。
 それから飛鳥は、やはり同じように微妙な表情で歩み去っていくひとりと引っ立てられていくふたりを見送っていたレーヴェリヒトを見遣った。
「ん、どした、アスカ」
 視線に気づいたのだろう、レーヴェリヒトが飛鳥を見下ろし、小首を傾げる。
 飛鳥は、いや、と微苦笑した。
「そういえば……お前はあんまり驚いてないんだな、レイ」
「ん? ああ……いや、何となく判ってた……から、かな」
「そうか」
「……それに」
「ああ?」
「お前が何だって、俺には、変わりねぇから」
「…………そうか」
 どこか面映く思いながら、かすかに笑って頷き、飛鳥は、界神晶の指輪のある手で、レーヴェリヒトの胸に、心臓のある辺りに触れた。
「俺が本当に御使いとか言う存在なんだとしたら、俺はたぶん、お前を護るためにここに遣わされたんだろうと思う」
 小っ恥ずかしい、と自分に呆れつつ、言葉を尽くして自分の覚悟を告げることもまた責務だという思いとともに飛鳥は言を継ぐ。
「……アスカ?」
「もう、ずいぶん前に、決めた。この力の全部が、お前と、お前の愛するもののためにある」
「……」
「存分に揮ってやる……覚悟しておけ」
 言って、にやり、といつもの不敵な笑みを浮かべてみせると、レーヴェリヒトは――……笑った。
 くすぐったそうに、嬉しそうに、幸せそうに、どこか無垢に。
「……ん、楽しみにしてるわ」
 無防備な信頼と、友愛と。
 得難いそれが、何の疑いもなく自分に向けられている。
 徐々に失われていく時間の中で、そんなものが自分のものになるとは思ってもいなかった。両親や家族同然だった研究者たちと死に別れ、妹を喪い、親がわりとなった老夫婦まで喪ってからは、孤独に、静謐に、強靭に、ただ生きて、淡々と終わりを迎えるものを人生と呼ぶのだろうと思っていた。
 しかし、それは今、色合いを変えつつある。
 孤独に白々と輝いていた飛鳥の命の中に、たくさんの色彩が加わり、飛鳥自身を変えつつある。
 その中心にいるのが、レーヴェリヒトなのだった。
(――……だからこそ)
 自分はそのために死ぬのだろう、と、飛鳥は思った。
 そして、これをこそ幸せとか喜びと呼ぶのだろう、とも。

 動き出し、白日のもとにさらされた運命の中、決して揺らがない覚悟の向こう側を見据えつつ、飛鳥の研鑽は続く。