幕間:散る絢花は美しく

 0.現在、アインマール王城

 あの死合いから半月ほど、およそ二十日が経っていた。
 飛鳥がギイ・ケッツヒェンを実験台に発動させた界神晶が、この世界の人々の目に触れるようになって以降、リィンクローヴァに黒の御使いが顕れたという噂もじわじわと他国へ広がりつつあるようだったが、国家レベルでの大々的な披露目もしていない今、それは、半信半疑の、笑えるような尾鰭のついた推測となってあちこちを飛び回っているらしかった。
 尾鰭の大きさゆえに――御使いとはそれほどの存在なのだ、飛鳥に自分がそうだという実感はあまりないが――、事実が確認できるまで他国は動けまい、というのが飛鳥の予想であり目論見だったが、それはまさに的を射ていたようで、現在、他国のリィンクローヴァへの干渉は弱まっているようだ。
 それゆえ、表面上は大した変化もなく、飛鳥は、いつも通り日々の勉強に時間を費やしている。
 同時に、城内の人々の、自分を見る目が少し変わったことにも彼は気づいていたが、畏怖と期待、祈りの含まれたそれは概ね悪いものではなく、妙なちょっかいをかけてくる人間も減ったし、飛鳥としてはやりやすくていい。
 もちろん、今後、黒の御使いとか言うご大層なものに相応しい働きをしていかなくてはならないことも事実だが。
「おいギイ、これをツァールトハイトから預かって来たぞ。今日は用事があって来られないとも言って――……」
 その時、飛鳥はゲミュートリヒ市から帰ったばかりだった。
 ゲミュートリヒ市の隣に位置するザーデバルク市の領主、ツァールトハイト・フィアラから、半月前の死合いを経て下僕となった超級討伐士宛に荷物を預かって、最近のギイがよく詰めている王城一階の小部屋へと届けにやって来たのだ。
 飛鳥は最近、ようやく、念願の古代語の勉強を始め……たはいいのだが、これがまた、理解力の非常に高い飛鳥ですら頭を抱えたくなるほど恐ろしく難しく、大層苦戦している。
 十年勉強してようやく入り口に到達する程度というのは、古代語を学んで四十年というアルディアの言だが、この分だと、古文書をすらすらと読み解くことが出来るようになるまではまだまだ時間がかかりそうだ。
 まずは基礎から、と、細かい文字の意味や文法や大系と格闘し、戻る間際になってツァールトハイトから荷を預かったわけだが、律儀に小部屋を訪れてみたら、ギイはふたりがけのソファに脚を投げ出して寝入っており、飛鳥は言葉尻を飲み込んで赤髪の青年を見下ろした。
 白い肌のあちこちに包帯や膏薬が施されており、また、そこかしこに浮かぶ青や赤の痣は痛々しいほどだ。
「……そういえば、『教育』の最中なんだったか」
 整い過ぎるほどに整った秀麗な面立ちを時折苦悶のかたちにして身じろぎするギイと、彼の相棒であり兄代わりでもある青年、エルフェンバイン・ハールは、半月前の戦いで飛鳥に敗れ――もっとも、敗れたのはギイだけで、エルフェンバインはほぼとばっちりだったが――、それを情けなく思ったらしい、師であり後見人でもあるツァールトハイトに恐ろしい『教育』を施されているようだった。
 律儀に毎晩やってくるツァールトハイトにみっちりしごかれているようで、一度見学に行ったら、あんなことやこんなことまでされたりさせられたりしていて、飛鳥はふたりに……というか主にエルフェンバインに同情したくなった。ほんの少しだが。
 しかもこの『教育』、アインマールの巡回や守護も行いつつ、である。
 黒の加護と使命を有する飛鳥がいるお陰か、異形の発生率はかなり下がっているようだが、それでも皆無ではなく、ギイもエルフェンバインも、朝早くから夕方まで――夕方から夜間の巡回及び守護は他の討伐士と騎士団が行っている――アインマールを走り回っている。
 それだけでも大変だろうと思うのに、そのあと、夕飯を食べてほんの少し休憩した辺りで、ツァールトハイトが意気揚々と、実に楽しげにやってきて、特大サイズの異形をブッ倒してる方が百倍マシだ、とギイが頭を抱えるような『教育』の時間が始まるのだ。
 討伐士たちが一般人よりも頑丈で、精錬された魔力を体内に飼っている関係上一般人ほどの休息を必要としないとしても、まだ完全には身体が出来上がっていない、細身のギイでは辛いに決まっている。
 今のこの状況は、ギイより頑丈で体力もあるエルフェンバインが、相棒の疲弊ぶりを見ていられなくなって、彼を残してひとりで巡回に出て行った、という辺りだろう。
「……あいつも大概身内には甘いな」
 微苦笑しつつ、気持ちは判らなくもないので、ツァールトハイトから預かってきた小さな荷をテーブルに置き、苦悶の表情で眠るギイを見下ろす。
 『教育』の夢でも見ているのだろうか、たまに顔を引き攣らせ、譫言(うわごと)のようにツァールトハイトに謝りたおしているのが笑える。
「まぁいい、今日は恐らく異形の発生はない……勘だけどな。ツァールトハイトも来られないようだから、ゆっくり休め」
 意識の奥底に訴えかけてくる、魂が冷えるようなあの感覚がどこにも感じ取れないことを確認して飛鳥は呟く。
 界神晶を発動させたからか、飛鳥の感覚は格段に鋭敏になっていた。
 王城内の危険な存在を漠然と感じ取ることが出来る他、アインマールに悪創念が湧く時、湧いた時が何となく判るのだ。どうやらこれらの感覚は悪創念や異形、一定以上の殺意に特化したもので、頼り切るつもりはまったくないが、便利であることも確かだ。
「……ふむ」
 やはり、夢の中でまで『教育』中らしく、若干半泣きのギイがまたしても夢の中のツァールトハイトに謝り倒しているのを再度見下ろしてから、飛鳥は仮眠用のブランケットを手に取った。
 これで風邪を引くような玉でもないだろうとは思うが、気紛れな親切心のようなもので、ギイに快適な眠りを提供してやろうと思ったのだ。
「まったく……世話のかかる奴だ」
 とても自分よりふたつも年上とは思えない、と胸中に呟きつつブランケットを被せ、乱れてくしゃくしゃになり、少しめくれた膏薬の端っこにくっついて情けない様相を呈している真紅の髪を整えてやろうと伸ばした右手の指先がギイの額に触れた、その時にそれは起こった。
 右手人差し指にはまった界神晶がゆるりと光り、
「……?」
 飛鳥が訝しげに眉根を寄せると同時に、
 ちゃぷん。
 間抜けな水音を聞いた、そう思った瞬間、彼の意識は、何かに飲み込まれた。
 ――否、落ち込んだ、というべきかも知れない。
 ひんやりと涼しい『何か』の中に、飛鳥はたゆたっていた。
 唐突ではあったが、危険な感覚はない。
 ただ、どこか懐かしく、どこか物哀しい、そんな気持ちになるだけだ。
 何故これが起きたのか訝りつつ、
「あれは……」
 ゆらゆらと光る水面のような向こう側に見える光景に、飛鳥は目を見張る。