ざわざわ、ざわざわと観衆がざわめいている。
 驚愕と同等の熱っぽい視線、陶酔とでも言うべきそれを肌で感じる。
 飛鳥はしかし、外野など欠片も気にしないまま、光沢のある闇をまるで下僕のように従えながら……その闇がもたらす薫風に髪を遊ばせながら、ブーツの下でもがくギイを冷ややかな目で見下ろした。
 ギイの白い頬が屈辱に紅潮し、ぎちぎちと奥歯が噛み鳴らされる。
「ってめ、この……見下してんじゃ、ね……」
 飛鳥はうっすらと笑い、足に力を入れた。
「見下している? はは、お前に、見下すほどの価値があるかどうかも微妙なところだな」
 言って、背骨に沿って踏み躙ると、ギイがまた息を詰める。
 見かけによらず重く、非常識な怪力を――それは何も腕力という意味だけではなく――持つ飛鳥に、あまり手加減をされずそんな無体を受ければ、鍛え上げられてはいても肉の薄い、細身のギイでは、当然、痛いだろうと思う。
 それで手加減してやるような優しさは飛鳥にはないが。
「お前のその、思考力のない猪突猛進ぶりには、正直助けられた。俺の演技を疑いもせずに、自分の有利を盲信し、突っ込んできてくれたお陰で、俺の仕事はずいぶんやりやすくなったからな。……だが」
 毒に満ちた視線でギイを見下ろし、
「そもそも殺す気だったんだろうが……さすがに腹が立ったな、あれは」
「だったらなんだってんだ……どっちにせよオレの負けだ、好きにしろよ」
「ああ、そのつもりだ。超級討伐士がひとり減るのは不便だろうが、この怒り、死を持って償わせるのも悪くはないよな?」
 思ってもいないことを言いつつ、剣の切っ先を彼の白い首筋に当てると、
「ギイ! ……くそッ」
 吐き捨て、殺気を全身にまとわせたエルフェンバインが、段平とでも称すべき幅広の刃を持つ大剣を手にリング上に飛び乗り、こちらへ駆け寄って来ようとする。
 が、飛鳥は、彼のことは特に心配してもいなかった。
 何故なら、
「あー、その、なんだ。俺も同じことをしようとしてたわけだから、あんま偉そうなことは言えねぇけど、やっぱ駄目だろそりゃ」
 がしがしと頭を掻きながら、銀髪を風に舞わせたレーヴェリヒトが、飛鳥を護るように彼の前に立ったからだ。――彼がそうすることを、疑っていなかったからだ。
「く……」
 レーヴェリヒトの手にした剣、銘をヴァイスゲベートと言う美しく強靭なそれを前に、エルフェンバインは歯噛みしながら立ち止まるしかなく、彼はギイを見つめて搾り出すような声で言った。
「そいつがしたことは詫びる……罰なら、俺が受けてもいい。だから、そいつを許してやってくれないか」
「何言ってんだエルフ、オレは、」
「黙ってろ、ギイ。――頼む、加護持ち。いかような罰でも受ける、だから」
 もちろん飛鳥には、エルフェンバインがギイを庇う理由、彼に振り回されつつも兄のような保護者のような立場を貫く理由も判っている。
 しかしそれは飛鳥にとってふたりを斟酌してやる理由にはならず、彼はかすかに嗤い、ギイの首筋に剣の切っ先をほんの少しめり込ませてみせた。白い首筋に赤い線がにじんで、ギイが身体を硬くして目を閉じ、エルフェンバインがいっそ悲壮ですらある表情をする。
「虫のよすぎる話だな。俺たちの立場が逆だったら、お前はどうしてた? レイが俺の命乞いをしたとして、お前、俺を助けてくれたか?」
 実は殺す気などないのだと――正直なところ、ここでギイを殺してしまったらこの死合いを受けた意味が何もなくなってしまう――気取らせもしない、邪気も殺意も満載の、晴れやかなまでに黒い笑顔で問うと、エルフェンバインが言葉に詰まる。何ともSっ気を刺激してくれる表情だ、とは、その時の飛鳥の胸中である。
「……ッ、それは……」
 エルフェンバインには判っているだろう。
 彼では、たとえ討伐士の使い得るすべての魔法を駆使したところでレーヴェリヒトには勝てない。
 超級とは言え基本的に異形のみを相手取る討伐士と、ふたつの加護色を持って、国と民を護るために常に戦いの最先端に立ち、ありとあらゆる存在と戦い続けているレーヴェリヒトとでは格が違うのだ。
 そして、エルフェンバインがここで斬りかかったところで、レーヴェリヒトがそれを防いでいる間に飛鳥はギイを殺せる。ましてや、今の飛鳥は、神霊魔法のようでいて実はそのものではない超常の力を身にまとい、いつでもそれを発動させられるのだ。
 そのことが判っているからこそ、エルフェンバインの、翡翠を髣髴とさせる色の双眸が焦りと逡巡を宿して揺れる。
 ギイの首に剣を突きつけたまま、飛鳥が、ものすごく悪役っぽい仕草でくくくっと笑うと、飛鳥を護るように佇みながら今まで黙っていたレーヴェリヒトが呆れたような溜め息を吐いた。
「あのなアスカ、脅かすのもその辺にしといてやれよ、どうせ殺すつもりなんて最初からねぇだろ? そもそも討伐士は貴重なんだ、こんなとこで仲間割れなんて異形や魔族を喜ばせるだけだっつの。あとこの黒いの、何とかなんねぇのか? 綺麗だしなんかホッとするのは確かなんだが」
 飛鳥の周囲をたゆたう、光沢のある闇をぐるりと見渡しながらレーヴェリヒトが言い、飛鳥は肩を竦めて剣を引いた。
「……バレたか」
「だってお前最初からそういう約束してたじゃねぇかよ」
「ああ、そういえばそうだったな」
 飄々と返す飛鳥を、ギイが、エルフェンバインが、何か得体の知れないものを見る目で見ている。――実際、得体が知れているとは到底言えない身ではあるのだが。
「な……?」
「まァ、とはいえ」
 もう一度ギイの背中を思い切り踏ん付けて、彼が再度息を詰めるのを見下ろしてから足を退け、飛鳥は晴れやかに黒い笑みを浮かべた。
「お前の扱いに関しては、実はもう決まってる」
 咳き込みながらギイが身体を起こすのを待って、光沢のある闇を凝縮したかのような指輪を頭上に掲げ、
「命は取らない……レイがそう望んでいるからな」
「なん、だって……?」
「だが、そのかわり、お前の魂を縛ってやる。お前が十日前に抜かした大言壮語を、過たず果たさせるためにも」
 もはや血の汚れひとつない手で、空に文字を描く仕草をする。
 と、リング上の、飛鳥の血で描かれた紋様がぼうと光を放った。
「さあ……よく見ておくといい、界神晶の持つ、埒外の力を」
 飛鳥の手が、頭上で、くるりと円を描く。
 それだけのことだったのに、何かが変わった。
 恐らく、それを感じたのは、飛鳥だけではなかった。
 レーヴェリヒトがどこか懐かしげに飛鳥を見つめ、ギイは眉根を寄せて空を見上げ、エルフェンバインは瞠目して相棒を見つめた。
 観客がざわめいている。
 畏怖と、驚愕と、歓喜とを、広い闘技場に満たして。
 誰も身動きをしない中、飛鳥を取り巻く光沢ある闇が翼のようにはためき、リング上を一巡した。
 それと同時に、血の紋様がその闇の中に融けるように消える。
 脳裏を、凄まじい速度で光る文字が行き過ぎる。
 その文字を、思考の中でひとつひとつ拾い上げ、読み上げ、組み立てて、

「隷属しろ、ギイ・ケッツヒェン。俺が死ねと言ったもののために死ね」

 傲然とした、猛々しい笑みとともに、まるで王者や神のごとくに言い放つ。
 ――それが、発動の言葉だった。
 呪文は必要なかった。
 必要なのは、飛鳥の意志、それのみなのだった。
 代々界神晶を与えられた人間すべてがそうだったのかは判らない。
 飛鳥はそうだというだけのことだ。
「な、」
 ギイの言葉は、最後までかたちにはならなかった。

 しぃ、あ、あぁん。

 薄い薄いガラス片が擦りあわされるような音がして、竜巻のように渦巻いた闇がギイを取り囲んだ。不思議なことに、闇に取り囲まれても、ギイの姿が隠れることはなかった。
「!」
 雷にでも撃たれたかのように、ギイの身体がびくりと震える。凄まじい速度でギイの周囲を回転していたあの闇が消え、あとには、飛鳥が血で描いたのと寸分違わぬいくつもの文字が、金の色を宿してギイの周囲に漂っている。
 そしてその文字は、叩きつけられるような勢いで、ギイの『中』へと打ち込まれて行った。
「っぐ、あ、ああ……!?」
 痛いのか、熱いのか、ギイが苦悶の表情で身を折り、その場に崩れ落ちる。
 倒れた彼にも、文字は容赦なく打ち込まれていく。
 そのたびに、ギイの身体が跳ね、かすれた呻き声が漏れる。
 すべての文字がギイの中に消えるまで、およそ一分間。
 幻想的で荘厳な、神秘的な光景だった。
「ギイ……っ!」
 どうにか呪縛から解放され、駆け寄ったエルフェンバインが、ぐったりとしたギイを抱き起こすと、彼の首筋、先ほど飛鳥がほんの少し傷をつけたそこに、金色の、不思議な痣が浮かび上がった。
「一体、何を……」
 どこか途方に暮れた表情で、ギイを抱いたままエルフェンバインが飛鳥を見上げる。
 飛鳥はにやりと笑ってみせた。
「言っただろう、隷属の神霊魔法だ。いや、界神晶のエネルギーを引き出して方向性を与えることで発動するものだから、神々の力を借りる魔法と言い切っていいものなのかは判らんが、まぁ、それに準ずるものだろう」
「隷属……」
「お前も、十日前、そいつが抜かした言葉を聞いていたな? 俺に負けたら命はくれてやる、そう言ったはずだな?」
「あ、ああ、それは……そうだが」
「何分、俺には界神晶に関する知識がほとんどない。これが感覚的に教えてくれるのも確かだが、このまま戦っていくのは心許ない。そう思うだろう」
「……?」
「と、いうわけで、実験してみた」
 清々しいほどきっぱりと言い切ると、エルフェンバインが一瞬固まる。
「それは、つまり」
「俺の血を媒介に基点を創り、そこに界神晶のエネルギー……まぁ、魔力と言えばいいのか? そいつを注ぎ込んでやる。更にそのエネルギーに方向性を持たせて『魔法』として解放する。……っていうのをやってみたかったんだ。いや、出来ることは感覚的に判ってたんだが、実践って意味ではな、やっぱり、ちゃんと試してみないと」
「……」
「魔法の種類自体は正直何でもよかったんだがな、丁度いいタイミングでお前の相棒が挑んできてくれたんで、いい実験台が出来た。この感覚だと、あまり規模の大きくない魔法は、血の媒介も必要なさそうだな。あまり頻繁に使うとこっちの生命力を削られそうな印象だが」
「待て待て、それはもし失敗していたら、」
「方向性の設定を間違っていたら当然死んでただろうな。だが、俺が勝ったら命はくれてやるといったのはそいつだ」
「……いや、それは確かに、そうなんだが……」
「ついでに言うと、今後俺に逆らっても、そこの痣から崩れて死ぬがな。わざわざ血を媒介にしてまで魔法を編み上げたから、隷属と誓いは魂にまで沁み込んでる。俺が死ねと心の底から命じれば死ぬぞ? ……好きにしていい、とはそういうことだろう?」
「……!」
 あっけらかんとした飛鳥の言葉に、エルフェンバインが片頬を引き攣らせた。
 ようやく、自分たちが敵に回そうとしていたのがどういう存在なのかを理解した、といった表情だった。
「あんたは一体……なにものなんだ……?」
 飛鳥は肩をすくめる。
「さあ? ああ……いや、加護持ちから御使いに設定変更、か」
「御使い……!」
 御使い。
 天命を受けて降り立ち、膝を折った王に、覇者となる道を示すもの。
 そのために、強大にして壮絶なる力を揮うもの。
 真実かどうかは判らない。
 飛鳥が知り得るのは、残された文献から読み解いた事柄だけだ。
 だが、その単語は、飛鳥が思う以上に、この世界の人々にとって大きな意味を持つらしかった。
 界神晶を持てるのは御使いの一部だけだと文献にはあったが、飛鳥がそう言って初めてその事実を認識したかのようにエルフェンバインが目を見開き、その言葉を漏れ聞いた観客たちの間に、漣のようなざわめきが伝播していく。

(御使い)
(黒の御使いが、このリィンクローヴァに?)
(では……レーヴェリヒト様は、国王陛下は)
(まさか……そんな。だけど……でも)
(御使いが降り立った国は、このソル=ダートの運命を変えると……)
(では、レーヴェリヒト様は)
(あの……美しい、おやさしい国王陛下は)
(御使いが……この国を……?)

 ぼそぼそ、ひそひそとかわされる幾つもの囁き。
 それらが聞こえているのだろう、レーヴェリヒトが、なんともいえない表情をしている。
 と、
「魔法がどうとか……関係ねぇ」
 咳き込みながら、目をあけたギイが、思いのほかしっかりした足取りで立ちあがった。
「……ギイ」
 ギイは、心配そうなエルフェンバインには応えず、リングに転がったままだった剣を拾い上げて、飛鳥の前へと歩み寄った。そして、その場に跪き、剣を水平に掲げて飛鳥に突きつける。
「オレは、オレが負けたら命はくれてやると言った。てめぇが負けたら微塵に刻むつもりだったのと同じくらい、それは絶対的な約束ごとだ」
 ムーンストーンのような光沢を宿す、苛烈でありながらどこかやわらかな風合いの双眸が、利かん気の強い、強情で依怙地な、しかし同時に誇り高い色彩を持って、飛鳥を真っ向から見据える。
「オレの負けだ、アスカ・ユキシロ。いや、黒の御使い。約束どおり、オレの命はアンタのものだ……アンタの命じるままに戦い、死んでやる。この命、好きに使え」
 飛鳥は、その強い眼差しを恐れ気もなく受け止め、獰悪な笑みを浮かべて頷いた。
「お前のその潔さは嫌いじゃない。……そうだな、なら、命をかけてアインマールを護れ、超級討伐士。お前の助けを欲するもののために死ね」
「……判った」
 ギイが、跪いたまま、深く頭(こうべ)を垂れる。
 それはまるで、騎士が王に恭順を誓う場面のようで、ひどく静謐で美しかったが、飛鳥はそれを何でもない風に見下ろし、手にした美しい剣をギイの前にかざしてみせた。
「お前の働きが俺を満足させられたら、ラムペ家と相談してこいつを返してやってもいい」
「……本当か!」
 飛鳥が言うと、ギイの目が輝いた。
 単純なことだとは思うが、この剣に、それだけの思いがこもっていることも、実を言うと、知っている。
「ま、お前のその潔さに免じて、な」
「……よしっ」
 飛鳥が頷くと、今度はぐっと拳を握っている。
 子どもっぽい仕草だったが、毒々しい怒りと殺意で周囲を冷たくしている彼よりは、付き合いやすそうな雰囲気だ。
「ふむ」
 鞘に剣を戻し、ごきりと首を鳴らして、飛鳥は熱気を孕んでざわめく観客たちを見遣った。界神晶の影響で鋭敏さを増した間隔は、この中の、リィンクローヴァ国民ではない、情報収集のためにここに紛れ込んでいる人間の存在を伝える。
「……精々大々的に伝えてくれ、しばらくは誰もこの国を攻めようなんて思わない程度に」
 誰に言うともなく言って、飛鳥はひそやかに笑った。
 ――運命の動き出す鈍く重々しい音を、埒外の意識に感じながら。