「あ、アニキ」
 ノーヴァに迎えに行かせるより早く、ちょっと時間が空いたので、ついでに、という名目のもとバドの工房を訪ねてみると、主であるバドは材料の仕入れとかでおらず、金村が興味深げに見守る中、圓東は、奥の作業部屋でせっせと手仕事に精を出しているところだった。
 飛鳥に気づいた圓東が、仔犬さながらの無防備な笑みを浮かべる。
「どうだ?」
 板張りの、そこそこの広さがある作業場のあちこちに散らばった、木や竹や紙の破片、切れ端を見遣りながら端的に飛鳥が問うと、圓東はまたへにゃりと緊張感の欠片もなく笑い、大きく頷いた。
 彼の手の中では、すべすべに磨き上げられた真っ白な木と、しなやかにつやつやとした竹と、そして滑らかで質のよい紙が組み合わされた美しい細工物が、出来上がりの近さを主張している。
 よく磨いて艶を出した竹と白木を巧みに組み合わせて作られた、林檎より一回り大きな籠状のそれは、完璧なる球形で、施された彫刻は大ぶりの一文字菊と優美な丹頂鶴だ。
 尻の部分にあるちょっとした仕掛けは飛鳥の思い付きなのだが、飛鳥としては中々に気に入っている。
 完成すれば、これの天辺に、綺麗な組み紐を引っ掛けて使うことになる。組み紐の方は、もうすでに、圓東が色鮮やかな絹紐を使って完成させているから、仕上げまであともう少し、といったところだろう。
「うん、いい感じ。明日には何とかなると思う」
「そうか、それはよかった。なら、寸暇も惜しんで働け、と鞭を揮う必要性はなさそうだな」
「ええとすみません、それってもしおれがあと一週間はかかるとか言ってたら問答無用で揮われてたんでしょうか」
「おや……よく判ってるじゃないか、ポチのくせに」
「器用でよかった、おれ……!」
 恐る恐る、といった印象の問いかけに、ごくごく当然のことのように飛鳥が頷くと、細工物の細かい部分を小さなやすりで磨きながら圓東が遠い目をした。飛鳥が、やると言ったら本気でやる人間だと言うことを、身を持って経験しているひとりなので当然かもしれない。
「まぁ、目標は明後日の夜会だ、それまでに三つ仕上げろよ」
「うぃ、了解っすー。バド爺ちゃんも手伝ってくれてるし、何とかなるよ。いやあ、でも、楽しいわこれ」
「そうか? 俺にはそういう類いはさっぱりだが」
「うん、おれだって読書の楽しさって判んないし、人それぞれなんだなぁって思うけど。物作りがイキガイって人間にとっては、自分で作ったものがきちんとかたちになるって、すっごく嬉しいことなんだよな」
「ふむ……なるほど。それは、悪くないことなんだろうな。確かに、ここにいるときのお前は活き活きして見え――……」
 そこで飛鳥が、唐突に言葉を切ったので、圓東が不思議そうな表情で首を傾げた。
「どしたの、アニキ?」
「何でもない、ちょっと出てくるから、お前は作業を続けろ」
「……? うん、判った」
「若」
「あんたはここにいろ。俺は俺のことなら何とか出来るが、そこのヘタレはそうは行かないだろう」
「ヘタレって!」
「否定できる材料があるか?」
「うぅ……ありませんすみませんヘタレでごめんなさい……」
「そういうわけだから、そいつを見てろ。何かあればすぐに呼ぶ、そのときはゼロコンマの勢いで駆けつけて来い」
「承知した」
 飛鳥の居丈高な物言いに、金村はむしろ嬉しげにその鋭く整った顔をほころばせて頷く。
 金村への反応に関しては、飛鳥自身、妙な話だと思いつつも、彼がそう望んでいると知っていてこういう言動をしている部分もある。アニキは金村のアニキに甘すぎるよ、とは小動物型眷属・圓東鏡介の言だが、ずるいと言われようが何だろうが、区別というのは歴然として存在するので仕方がない。
 飛鳥は肩をすくめて工房を出た。
 そして、小ぢんまりとしたその建物のすぐ隣の通路、砂利で舗装されたそこに、流麗かつ優美な細工を施された、明らかに位の高い人間が乗るものと思しき馬車が停まっているのを目にして目を細める。
 四頭立ての、一部の狂いもない美しい造作のそれを見れば、馬が財貨の一種であるという事実に意識を向けずとも、相当な富裕層の乗るものであることは明らかだ。
 箱馬車と呼ばれる類いの、屋根や壁を作り付けにしたそれの真正面に刻まれた、祭器と旗を意匠化したマークは、この国の祭祀を司る一族、エーポス家のものだった。
 シンデレラじゃあるまいし、とはそのときの飛鳥の胸中だったが、『箱』の中からは、貴人の護衛官だろう、戦いを生業にする連中の気配が幾つかする。
「アスカ・ユキシロだな?」
 御者台で手綱を握っていた男、出で立ちからしてエーポス家直属の近衛騎士か何かだろうと思われる壮年の人物が、上からものを見る目つきでそう言い、飛鳥をじろじろと――まるで値踏みでもするように――見つめて来たので、飛鳥はかすかに笑って肩をすくめた。
「俺が何だろうと、少なくとも、あんたに応えてやる義理がないことだけは確かだ」
 礼儀には礼儀を、嘲笑には嘲笑を、無礼には無礼を。
 徹底した飛鳥の反応に、御者台の男が鼻白む。
 恐らく、飛鳥が一回り以上年下であるという以前に、いわゆる一般の、と呼ばれる、何の地位も持たない人々から、そういう反応をされたことがないのだろう。しかしそれらは、文化レベル的に、地位や立場には歴然とした差異があるから、というわけではなく、単に仕える主の性質によるのではないかと飛鳥は思う。
 少なくとも、レーヴェリヒト直属の近衛騎士団である聖叡騎士団の面々は、団長であるリーノエンヴェの躾が行き届いているからか、それとも守る対象であるレーヴェリヒトの性質がああだからか、彼が常々民あっての国だと繰り返しているからなのか、一般と呼ばれる人々に対して無体な、傲慢な反応を見せたことはない。
 少なくとも、飛鳥の前では。
 だから、飛鳥を、子ども、一般市民と侮っての上からの物言いは、まるでそうすることでしか自分を大きく見せられないかのようで、ひどく滑稽に、ある意味憐れにすら映った。
「別に、あんたと無駄話がしたいわけじゃない。俺に用事があるのは、その中の奴だろう。もったいぶらずにさっさと出てきたらどうだ」
 怒るべきか冷静さを保つべきかで逡巡している騎士の男を無視して声をかけると、箱馬車の扉がゆっくりと開き、そこから御者台の男と同じ出で立ちをした騎士たちがふたり降りてきた。
 そのあと、白いローブを身にまとった、五十代後半から六十代前半と思しき壮年の男が現れ、更に後方からふたりに背後を守られながら降りてくる。
 くすんだ金髪に灰色が混じった緑の目、がっしりした身体つきと、怜悧な顔立ちの、荘厳な雰囲気を持った男だったが、足さばきなどからは、彼が戦いに関してはまったくの素人だということが判る。
 彼がよほどの暇人で、色々な小細工をして飛鳥を騙そうとしているのでなければ、彼は、エーヴァンジェリーン・ララナディア・エーポスの父親で、このリィンクローヴァの祭祀を統べる大臣でもある、グランドレル・エーメ・エーポスであるはずだ。
 つまり、リィンクローヴァの中枢たる十大公家の一員である。
 本来ならば、このようなところへ、たったこれだけの供で来るはずがない人物ということだ。貴族などというものはそもそもそういう存在なのであって、レーヴェリヒトなんぞは真の例外なのである。
 グランドレルの値踏みするような視線を、なんでもない風情で受け止め、飛鳥は、自分の父親よりも――生きていれば、だが――ひと回りほど年上であろうと推測される男を真っ直ぐに見据えた。
「……ッ」
 漆黒の双眸に射抜かれて、明らかに男が怯んだのが判る。
 それは、彼が情けないからではなく、黒という色が、この世界においてどれだけ畏怖されているかということの証明なのだ。
 飛鳥はかすかに笑い、何とか威厳を保とうとしているグランドレルを促した。
「それで、大公家の一員が、こんなところへ何の用だ? 愛の告白……ではないようだな?」
 悠々と、余裕たっぷりに飛鳥が言うと、男は忌々しげに顔をしかめ、それからようやく飛鳥のペースにはめられると不味いことに気づいたのか、大きく深呼吸をしてから彼と向かい合った。
 身長は、飛鳥よりも拳ひとつ分ほど高い程度だが、身体つきが立派なお陰で飛鳥の二倍くらい大きく見える。
 飛鳥はグランドレルとは初対面で、特に好悪の感情を抱くほど彼のことを知りもしていなかったので、口を開いた彼が、
「……先日は、私の娘が世話になったようだな」
 などと、重々しく、密やかな皮肉と怒りとともにそんなことを言ったときも、何のことなのか一瞬理解できなかった。
「世話をした覚えもない、気にするな」
 とりあえずそう返してみると、グランドレルは不快げに顔をしかめ、
「そういう意味ではない」
 溜め息とともに吐き捨てた。
 グランドレルの感情の昂ぶりを感じ取ってか、彼の周囲に油断なく立つ近衛騎士たちが、わずかな殺気を飛鳥に向けてくる。無論、それで怯むような可愛らしさを飛鳥は持ち合わせてはおらず、殺気など悟らせる時点で三流だ、と胸中に呆れているだけだったが。
「なら、どういう意味なんだ? そもそも、あんたの娘とは、あそこの中央神殿の巫女姫とやらのことで合っているか?」
「私に、エーヴァンジェリーン以外の娘はおらぬ」
「そうか、そりゃよかった。で、その巫女姫の親父殿が何の用だ」
「だから、言っているだろう。娘が世話になった礼をしに来たのだ」
「……ふん?」
「先日のことだ、そなたとて覚えておろう? 娘は、寛大にもそなたを癒してやろうとして、謂れのない辱めを受けた、と泣いておったのだぞ」
「あの姫さんがか?」
「何故そこで尋ね返されねばならぬのか、私には判りかねる」
 灰緑色の目に苛立ちを載せてグランドレルが言い、飛鳥はあまりの阿呆らしさに思わず溜め息をついた。
「つまり、だ」
「何だ」
「あんたの娘の巫女姫様が、俺に傷つけられたとか泣きついてきて、あんたはそれをホイホイ信じてわざわざこんなところまで来たということか」
「……大まかに言えば、そうだ」
「馬鹿じゃないのか、あんた」
 恐ろしく端的な物言いに、グランドレルが思わず目を剥く。
「な、」
 まさか、国の中枢を統べる大公家の一員に、ここまでストレートに罵り言葉を吐く人間がいるとは思ってもみなかったのだろう。
 何にせよ、飛鳥の呆れとガッカリ感たるや相当なもので、
「まったく……どこにでもいるんだな、こういう親。自分の子どもだけが可愛くて、正しくて、一番だと思ってるような、視野狭窄で自己中心的で自己愛まっしぐらな馬鹿親は滅びればいいと今真剣に思った」
 思わず素でぶつぶつつぶやいてしまったほどだ。
 グランドレルの眉根が寄る。
「私の娘は偽りなど言わぬ」
「何でそう断言できる」
「私は親だぞ? 何故、嘘をつく必要があるのだ」
「だったらあんた」
「?」
「生まれてこの方、自分の親御さんにひとつも嘘をついたことがないって誓えるか? 自分に都合の悪いことを脚色して誤魔化したことがないって断言できるのか?」
「……」
「出来ないんなら、あんたの娘が嘘をついたことがないってのはありえないだろ。子は親を見て育つんだからな?」
「……だが、神にお仕えするあの子が、嘘など……」
「そりゃあんた、あんたが神を絶対だとは思ってないんだ、娘だって似るだろ」
「な」
「何でそんなことが判る、ってか? まず第一に、あんたにとっての神は、実在はするかもしれないが遠い存在でしかないんだ。理由なんか知らないしどうでもいい。でも、間違っちゃいないだろう」
「何を……」
「俺が大まかに仕入れた神さまの仕様ってのは、平和で公正で清廉だ。慈悲深くて穏やかだが、同時に無慈悲なほどに平等だ。まぁ、確かにそんなもんなんだろうと思う」
「……それが、どうした」
「いい加減判ってくれると説明の手間が省けて助かるんだがな。そんな神さまに関する祭祀を司る大臣であり、そんな神さまに仕える娘を持つ父親でもあるあんたが、娘の言うことを真に受けて、加護持ちとはいえ『大した力も持たない』俺を、私的に罰するためにここに来てるって時点で、信仰的な主義や倫理に反するだろうが」
「一体何のことを言っている? 私はただ、」
「判った判った、判ったから黙れ。誤魔化したいんなら、せめて、あんたの背後にいるご大層な連中にその余計な殺気を抑えろと言え。あんたたちが何をしに来たのかなんざ、正直モロバレなんだよ」
 淡々と、飄々と……そしてきっぱりと飛鳥が言い切ると、グランドレルは情けなくも言葉に詰まり、御者台の男を含めた五人の近衛騎士たちは鼻白み、飛鳥を睨めつけた。
 彼らの反応は、雲上のと呼ばれる『高貴な』人々が、一般市民と呼ばれ、普段自分たちが蔑視している塵芥のごとき存在に対して、実はどれほど無力であるかを露呈しているに均しかった。
 権力をはじめとした横暴な力に屈しない人間は、それを盾に好き勝手をする人間にとってはエイリアンさながらの恐ろしさを持っているのだろう。
 飛鳥は盛大で大仰な溜め息とともに、どうしようもない大人たちを見遣った。身勝手な理由で自分を襲撃しようとした連中への怒りよりは、いい年こいてお前ら、という、情けなさや呆れの方が大きい。
「それで、どうする。俺は別に、あんたたちがどうしても俺に痛い目を見せてやらなきゃ気がすまないと言うのなら、多少は付き合ってやっても構わないんだが。もちろん、痛い目に遭うのがどっちかなんて、やってみないと判らないからな?」
 当然のように言った飛鳥が一歩踏み出すと、グランドレルは明らかに怯んだ。大きな身体が、内心の逡巡を示すかのようにじりりと後退する。
「退くのも勇気だって、誰か教えてくれなかったのか、あんたに」
 淡々とした飛鳥の物言いには、だからこその深い恐ろしさがある。
 彼は決して荒事のみを愛する狂戦士ではないが、それでも、自分がこうと決めた事柄を邪魔しようと言う連中に対して笑顔を保てるほど慈悲深くも穏やかでもない。
 それは、彼らにも伝わっているだろう。
 富と権力とかいう、温かで心地よいもので包まれてぬくぬくと育った乳母日傘のお大尽が、物心ついた瞬間から壮絶な覚悟と戦いの中に放り込まれ、それらを潜り抜けてきた飛鳥の気迫に勝てるはずもないのだ。
 そして、それと同じく、近衛騎士たちもまた、自分たちが武の道に身を置く存在であるがゆえに、飛鳥が侮れない実力の持ち主だということに気づいたようだった。
 ちらちらとこちらを伺いつつ、小声で何事かを囁き合っている。
 自分を天才と断じる飛鳥からすれば、今、自分の目の前で、迷いと敵意の真ん中で揺れている近衛騎士たちなど、兵士に毛の生えた程度でしかない。
 飛鳥に真実痛い目を見せたいと思うのなら、そうと決めた瞬間に迷いなど切り捨て、出会い頭に必殺の気迫を込めて突っ込んでくるか、もしくは、リーノエンヴェやグローエンデ、シュバルツヴィント程度の実力を持った人間を十人は用意しなくては無理だ。
 実力の、という問題ではなく、ただ、覚悟という意味で。
 ――飛鳥は自分を偽らない。
 過小評価も、過大評価もしない。
 彼は、自分に出来ることと出来ないことの区別をきっちりつけている。
 だからこそ、飛鳥は揺るぎない。
「早く決めろ、俺だって暇じゃない」
 そろそろ飽きてきた飛鳥が低く言うと、グランドレルは厳つい拳をぎゅっと握り、それから踵を返した。
「……我が娘の受けた恥辱、いずれは返すぞ。覚悟しておけ」
「何というか、分別のある大人として、もう少し思慮深いところを見せてくれても罰は当たらないと思うが、まぁ、好きにしてくれ。いちいち弁明するのも面倒だし、したところで無意味だろう」
 飛鳥の断言に、またグランドレルは顔をしかめたが、それ以上は何も言わず、何とも言い難い微妙な表情をしている近衛騎士たちとともに馬車に乗り込むと、車輪の音を響かせて走り去った。
 馬たちの尻尾が跳ねる様子を、ちょっと和みつつ見送って、
「……面倒臭いな、人間って……」
 飛鳥はぼそりとこぼした。
 誰もが賢明で、誰もが思いやり深く愛情に満ちていて、諍いも争いも無縁な人間ばかりの世界など、あまりに不可能すぎて考えるのも億劫だが、それでも、誰もが多少なりと他人のことを慮る余裕を持っていれば、今日のこれは起こらなかっただろうに、と思いもする。
 もちろん、飛鳥だとて、思いやり深いとは到底言えぬ己を理解してはいるが。
「……まぁ、いい」
 敵が増えたのか、それとも単純に前から敵だったものが表面化しただけなのかはよく判らないが、気をつけておくべき相手が増えたことに変わりはない。
 またイスフェニアに調査を頼もう、などと思いつつ、飛鳥は再度工房へと戻る。
 無論、今後のことをもう少し詳しく詰めておくためだ。