飛鳥がギイ・ケッツヒェンとの死合いの約束をして十日が経った。
 そう、すなわち……戦いの当日である。
「しかし……すげぇ人数が集まったもんだな」
 会場をぐるりと見渡して、レーヴェリヒトが呆れたような感心したような声で言うのへ、飛鳥は肩を竦めてみせた。
 日本でも最大規模の野球場と同じかそれより大きい競技場には、それでも希望者全員が入りきらないくらいの観客が押し寄せ、戦いの開始を今か今かと待っているのだ。人々のざわめきで、空気が震えるかのようだった。
「ギイがあちこちで宣伝させたみたいだからな。入場料を取るってのがあいつららしい徹底ぶりだとは思うが、何にせよ、よっぽど俺を公衆の面前で嬲り殺しにしたいらしい」
「……大丈夫なのかよ。いや、なんか、絶対に大丈夫だろうって根拠のねぇ自信はあるんだけどな、そんでもやっぱ心配っつーか。実力的に言や、ギイはうちの将軍連中にも匹敵するわけだし」
 信頼と心配の半ばで微妙な表情をしている今日のレーヴェリヒトは、薄青の布に鮮やかな群青の絹糸で意匠化された鈴蘭の刺繍がなされた優美なサーコートに黒い脚衣(ズボン)、黒革のブーツという出で立ちで、それらはいっそ滑稽なくらい、レーヴェリヒトに似合っていた。
 王城内ではなく、また公務でもないので、彼の額には、王冠ではなくそれに準ずるサークレットのようなものが鎮座している。
 レーヴェリヒトの銀髪が、上空から差し込む太陽の光に照らされて処女雪のように輝いているのを見るともなく観ながら、飛鳥はまた肩を竦めた。
「あいつが大観衆に見守られながら大々的に恥をかきたいと言うんだ、俺としては応えてやるしかないだろう」
「……その返し、すっげぇお前らしいわ」
「だろ」
 かすかに笑って、飛鳥が、白い布に包まれた長い棒状のものを右手から左手に持ち替えると、レーヴェリヒトが首を傾げてそれを見遣った。
「そういや……それ何だ、アスカ」
「ん? これか? そうだな、切り札だ」
「切り札? この戦いのか?」
「ああ。まぁ……楽しみにしてろ。色々と、面白いものを見せてやるから」
「おう。……でも、無理すんなよな、頼むから」
「別に無理したくてするわけでもないんだがな。でも、もしも俺があいつに負けて、殺されそうになったら、お前、助けに来てくれるか?」
 やはり心配そうなレーヴェリヒトに、冗談めかして問うと、
「そんなもん、誰に何て罵られても、恨まれても、ギイを殺してでも助けるに決まってんじゃねぇか」
 真っ直ぐなアメジストが、強い意志を――そしてある種の執着を宿して飛鳥を見つめたあと、そんな、彼らしからぬ物騒な言葉が紡がれたので、飛鳥は思わずきょとんとした。
 一瞬ののち、ゆっくりと、何ともいえない喜悦が胸の奥から湧き出して、飛鳥の腹腔を温める。
「お人好しが売りのヘタレ国王陛下にそんな無体を働かせるわけにも行かないしな、精々気張るさ」
 にやり、といつもの笑みを見せ、布に包まれた何かを肩に担ぐ。
 そう、飛鳥に負けるつもりなど欠片もない。
 彼のなすべきことは、目の前に立つ美貌の青年王を護ること。
 そして、あの誓いを果たすことだ。
 今日、ここで死ぬなどという未来は、彼の約束の中には含まれていない。
「おう、信じてっから。――あ、そうだ、それに、これが終わったらお前に会わせてぇヤツがいるんだった」
「ん? そうなのか?」
「ああ、アスカなら絶対に好きになると思う。だから、そのことも覚えといてくれよな」
「ふむ、なら、余計に張り切るしかないだろうな」
 飛鳥がそう言った時、
「何やら面白いことになっているようだな」
 背後から、静かで暢気な、それでいてどこかうきうきとした声が聞こえ、レーヴェリヒトが溜め息をついてそちらを見遣る。
「面白ぇっつーか、とんでもねぇっつーか。しかしツィー、お前楽しそうだなぁ」
 レーヴェリヒトの言葉に、空色の眼に真珠色の髪をした美しい女――美しいのに、気を抜けば食い殺されそうな印象を受ける女だ――、ツィーことツァールトハイト・フィアラ・ザーデバルクがにっこりと笑った。
 普段は王都から離れた自領でまつりごとと治安維持、そして領軍の鍛錬に精を出しているはずの彼女がここにいるのは、どうやら、この死合いのことを誰かから聞いて見物に来たから、らしい。
 今は乱世のはずなのに物好きな、と呆れずにはいられないが、この会場には数万人もの物好きが集まっているわけで、彼女ひとりに言ったところで無駄だろうとも思う。眷族や下僕騎士たちに、鬱陶しいし気が散るから来るな、と言ってあるのが唯一の救いかもしれない。
「実際、楽しい。許されるなら、ギイなど放り出してわたしがリングに立ちたいほどだ」
 艶やかな紫の布に白い絹糸で薔薇の刺繍のされたサーコート、白い脚衣にブーツ、腰には剣という、武装以外の何物でもない出で立ちだったが、茨姫の異名を取った戦上手メイデ・ルクス・ゲミュートリヒと同じく、十年前には狂戦姫と呼ばれたという彼女に、それはとてもよく似合っていた。
 飛鳥は、彼女とは、メイデのグーテドゥフト庭園で一度、アインマールの夜会で一度顔を合わせたことがあるだけだが、ツァールトハイトは、そのたかだか二回だけで、飛鳥に危険人物認識させる女性でもある。
「弟子の活躍を見に来たのか?」
 飛鳥が問うと、ツァールトハイトはくすりと笑って首を横に振った。
「あのくそチビのことなどはどうでもいい。わたしが見に来たのはお前だ、アスカ・ユキシロ」
「ギイをくそチビ呼ばわり出来るツィーがすげぇと一瞬思った」
「別にわざわざ見に来てもらうようなものでも……というか、今から当人と殺しあう身としては何だが、若干憐れにすら思ってしまったな」
「何故だ? くそでチビなのだから仕方あるまい。このわたしが何年もかけて鍛え上げてやったのに、いまだあの程度でしかないのだから」
「いやまぁ、そりゃ、ツィーに比べたらまだ弱いだろうけどよ」
「肉体はともかく、精神が軟弱過ぎる。レヴィ陛下にも迷惑をかけているようだしな、そろそろ『教育』が必要かもしれない」
「ツィーの『教育』って……領兵が聞くだけで失禁するくらい怖いってアレか……」
 ギイとエルフェンバインの身辺調査のほとんどを終えた今、ふたりが懸命に金銭を稼ぎ、ラムペ家に通いつめる理由、目的が、実はこのツァールトハイトのためであることを知っている飛鳥としては、あまりにも報われていないギイに、同情めいたものを感じなくもない。
 もちろん、それで手を抜くつもりもないが。
「さて、そろそろかな」
 死合い開始時刻まであと十分となったところで、ギイごときに自分がいることを知られたくないとかいう理由でツァールトハイトが人ごみへ紛れていくのを見送ったあと、飛鳥は布に包まれた『切り札』を手にリングへと上がる。
「……気をつけろよ。お前が戻ってくるの、待ってるからな」
 リングを見上げたレーヴェリヒトが、揺るぎない信頼とわずかな不安、あとはただ飛鳥を案じる色彩のこもった眼差しで言い、飛鳥はちいさく頷いてかすかに笑った。
「ま、仕上げをご覧(ろう)じろ、だ」
 リングの向こう側に、冷酷な喜悦を美貌に貼り付けたギイの姿が見える。
 猛々しい戦意と敵意、そして殺意とが、ギイの身体から立ち上っているのが判る。
 だが、飛鳥に恐れはなかった。
 ――恐らくギイは、予想もしていないだろう。
 飛鳥の特殊性を調べるくらいはしただろうが、彼が、この戦いで、ギイに勝利することだけではなく、更にその先の、もっともっと大きなものを見ているなどと、思ってもいないだろう。
 どの紆余曲折の中にも、自分の目的、なすべきことを決して忘れない、雪城飛鳥という人間の頑健さを、ほんのわずかなりと理解していれば、そして飛鳥がそのためならばどんな痛みを恐れることもないのだと知っていれば、この戦いは、ギイにとっても、少し、違った風合いを帯びていたかもしれない。
「さあ……始めようか」
 飛鳥は呟き、漆黒の眼を細めてギイを見遣る。
 ギイの背後では、リング下に張り付くような格好のエルフェンバインが、彼に何ごとか話しかけている。
 それに面倒臭そうに答えてから、ギイは、飛鳥を真っ向から見据え、また、楽しげに……凶悪に笑った。