「よく逃げなかったな、加護持ち。その度胸だけは褒めてやる」
 ギイは上機嫌だった。
 獲物を嬲り殺す肉食獣の、という意味で。
「お前相手に逃げなきゃいけない理由が判らん」
 返った言葉は不満だったが、それも、今からのことを思えばスパイスに過ぎない。
「その台詞……死者の国に言ってから後悔するんだな」
「は、俺が行くのでは、死者の国で嫌がるだろうよ」
 ギイから数歩分離れた位置に佇む、漆黒の、動き易い武装に身を包んだ少年は、内面を欠片も読み取らせない完璧な無表情だ。
 何の武器か、白い布で包まれた細長い棒状のものを手にしており、何故今から戦うのにわざわざ布で包んであるのか、という疑念がチラリと根差したが、もともとギイは、考えることは苦手だ。
 戦いが始まれば、もしくは戦っているうちに判るだろう、と、小難しい思考は放棄する。
「てめぇが死ねば……国王も、国の連中も、残念がるだろうな」
「容易く殺されてやるつもりもないがな」
「ハッ、言ってろ。血反吐の中で這いずらせてやる……命乞いさせながら、斬り刻んでやる」
 苛立ちを隠しもせずに言って、ギイは腰から剣を抜いた。
 討伐士となって三年、彼とともに数多の異形を屠ってきたそれは、銘も何もない簡素な代物だが、どの剣よりもギイの手に馴染み、彼の戦いを――殺戮を容易くする。
「加護持ちだからって……いや、だからこそ、容赦はしねぇ」
 十日前、彼が起こした奇跡に、八つ当たりめいた感情を抱いていることをギイは否定しない。あれが、十年前のあの日にあれば、自分はあんな絶望を味わわなくて済んだのに、何故今になって……という感情は、今でもギイの中を渦巻いている。
 だが、それよりも、今のギイは血に逸っていた。
 自分の中の猛々しい、獰悪な部分が、少年との戦いを――そして彼を千々に斬り刻み血の海に沈めることを欲して叫び声を上げているのが判るのだ。
「さあ、やろうぜ。言っとくが、審判なんてもんはいねーからな。てめぇが死ぬまでは、終わらねぇぞ」
「ふむ、なら……一生終わらないということになるな」
「ほざいてろ!」
 吼えるなり、ギイは鋭く踏み込み、手にした剣を水平に薙いだ。
 数歩の距離など、ギイには何の障害にもならない。
 びゅっ! と、刃が空気を裂く音がする。
「……さすがに速いな」
 しかし、その、並の人間どころか普通程度の腕前の戦士ならばなすすべもなく上半身と下半身を両断されていただろう、速さも重さもある一閃を、少年はわずかに身を捻っただけでかわし、後方へ跳んで距離を取った。
 無論、それはギイの苛立ちを助長させただけで、
「逃げてんじゃねぇよ!」
 彼は怒気を滲ませながら少年へと突っ込む。
 迎え撃とうというのだろう、身構えた少年が白い包みに手をかける。
 解かれた白い布から、柄らしき部分が顔を覗かせ、それが剣であることをギイに教える。
 その、柄のデザインに見覚えがあるような気がしたのだが、何かが記憶に引っかかったような気がしたのだが、かすかなそれは、少年がその柄を握ったことで掻き消され、戦意に取って代わられる。
 剣を握っての一対一の戦いで後れを取るような育てられ方を、ギイはしていない。
「さァ……来いよ……!」
 興奮を隠しもしないギイの言葉に、無表情な漆黒を向け、剣を引き抜こうとして――……少年が、ほんの一瞬、固まる。
 がちり、と、耳障りな金属音がした。
 ――剣が、鞘の中から姿を現すことはなかった。
 その意味を理解して、
「はッ」
 ギイの唇に、激烈な嘲笑が浮かぶ。
 少年の、表情らしい表情の見えない顔に、わずかな焦りと狼狽が差したこともまた、ギイは見逃さなかった。
「金具が引っかかった、ってか? ……分不相応なことをしようとするからそうなるんだよ!」
 吼えて、ギイは剣を揮った。
 黒の加護持ちについて、何も調べていないわけではない。
 奇跡の力だけではない強靭さを有した人物であることも調査済みだ。
 だが、彼が剣士であるという調査結果はどこからも出て来ていない。彼が、加護持ちの大半が使い得る、強大にして神秘的なる神霊魔法を使うと言う報告がないのと同じく。
 彼が、ギイとの死合い前に、剣の鍛錬をしているとの報告は受けたが、たかだか十日、一ヶ月にもならない時間で、十年に渡って研鑽を続けてきたギイの剣に敵うはずもなく、そして、その程度で剣を持って戦うことの何たるかを知り、またそれに慣れることなど不可能だ。
 事実、少年は、己が得物に裏切られ、自ら危機を招いているではないか。
「ち」
 それでも怯えや恐れの欠片すら浮かべない胆力には、ギイもさすがに感心するしかないが、そこで手加減してやるいわれもなく、ごくごくわずかな音で舌打ちをし、布に包まれたままの剣の鞘で、上段から下段へと振り下ろされたギイの剣を受け止めた彼の腹を、
「ガラ空きだ、馬鹿」
 硬いブーツの靴底で蹴りつける。
 肉を打つ、慣れた感覚が、靴底から伝わってくる。
「……ッ」
 少年は、低く息を詰めて吹っ飛んだ。
 ギイはほっそりとした外見に似合わぬ力の持ち主だし、少年もまた小柄なので、当然でもあるのだが、それにしてはよく飛ぶ、とおかしくなった。
「アスカ!」
 レーヴェリヒトが声を上げた。
 彼の表情を見るまでもなく、レーヴェリヒトが、アスカと呼ばれた漆黒の少年に強い執着と愛情を持っていることは知っていたが、だからなんだ、というのがギイの正直な気持ちだ。
 『金づる』の事情にまで構っていられない。
「精々派手に踊ってみせろ……!」
 吹っ飛びながらも体勢を整えていたアスカに向かい、ギイは魔力を解放する。
 身体を循環するエネルギーを思い描きながら、精霊の力を編み上げる。
「斬り刻め……血に溺れさせろ」
 呪詛めいた言葉とともに解き放たれたそれは、無数の風の刃となって少年に襲い掛かった。
 アスカが眼差しを厳しくして回避の体勢に入る……が、遅い。
 ざ、しゅッ。
 肉の裂ける音、血のしぶく音。
 観客の誰かが悲鳴を上げた。
 レーヴェリヒトが息を飲んだのも見えた。
「どうした……ずいぶん、無口になったじゃねぇか……?」
 魔法による風刃を、左上腕と右大腿に喰らい、またしても派手に吹っ飛んでリングに叩きつけられたアスカの身体からは、盛大に血が吹き零れている。
「ふん」
 身体を起こした彼は、左上腕を右手でぎゅっと押さえたあと、血塗れの手のひらを見下ろして、その血をリングに文字でも書くように擦り付けてから、何でもないように鼻を鳴らした。
「……これからだ」
 淡々とした物言いに、ギイの眉が跳ね上がる。
「その余裕ヅラ……どこまで持つか、見物だなァ……!?」
 言い様、硬いリングを蹴り、少年へと肉迫する。
 鋭く空気を裂いた剣が、彼へ迫る。
 ――また、誰かの悲鳴。
 ギイは、それを聞きながら、獰猛に……酷薄に笑った。