闘技場は静まり返っていた。
 私語をするものも、声高に声援を送るものもいない、異様な静けさが場内を満たしている。
 戦いが始まって、一時間が経った。
 リングは、アスカの流した血で、あちこちが赤黒く染まっている。
「ったく……ちょこまか動き回りやがって。満遍なく汚れちまってんじゃねぇか……誰が掃除すんだ、これ」
 ギイはアスカの血に濡れた剣を一振りし、赤い水滴を刃から払った。
 見遣った先では、あちこちから血を流した――もちろん、その傷を負わせたのはギイだ――アスカが、そのくせ何の痛痒も感じていない無表情のまま、真っ赤に染まった拳で、風の刃に切り裂かれた頬を拭っている。
 抜けもしないのに、血で汚れた白い包みを、後生大事に提げ持っているのが憐れみと笑いを誘う。
「てめぇの愚かさ、無謀さが判ったか、加護持ち。この世の名残に、懺悔くらいなら聞いてやるぜ?」
 今や、死合いは一方的な私刑の場と化していた。
 《色持ち》との戦いの時にすら滅多に使わない魔法まで解放しての、ギイの殺意あふれる猛攻に、加護持ちの少年は手も足も出せずにいるようだった。
 特に、加護色をひとつ持つギイの魔法は、普通の討伐士たちが使用するそれよりも格段に強い威力を持っている。貴い至高色をふたつも身に帯びるとは言え、どことも知れぬ山奥より来たった、魔法の訓練もしていないような田舎者が、ギイに対抗し得るはずもないのだ。
 観客席にちらりと視線をやると、レーヴェリヒトは、磨き抜かれた白磁のような滑らかな肌を蒼白にしながらも、強い信頼の伺える眼でアスカを見つめている。
 声もないのは、出ないからか、出す必要もないと思っているからか。
 何にせよ、アスカを殺すという決定事項になんら変わりはなく、ギイは、ふん、と鼻を鳴らし、身構えるでもなくリングに佇む少年を見遣った。
 戦意を喪失しているのか、それとも出血の所為で朦朧としているのか、彼は、ものも言わなければ攻撃も仕掛けて来ず、わずかに回避行動を取るくらいのものだった。
「もっと抵抗しろよ、面白くねぇ」
 嘲るように言って踏み込み、風をまとわせた剣で斬りつける。
 剣の切っ先が、咄嗟に身を捻ったアスカの左肩口をかすると同時に、ぶわり、と風がたわみ、物理的な圧力すら伴ってアスカにぶつかる。
「ッ」
 低い呻き声に、ギイは嗜虐的な笑みを浮かべた。
 ――彼が、もう少しアスカと付き合いが深ければ、何かおかしいと思うことは出来ただろう。
 しかし、この漆黒の、少女めいた顔立ちの少年は、外見の繊細さとは裏腹に、自分がそれと決めたことならば、多少の不利などものともせずに攻めてくること、彼が戦意を喪失することなどあり得ないこと、本来の彼は、剣を使うよりも素手の方が戦いやすいのだということも、ギイには知り得ないことだったし、レーヴェリヒトがアスカを案じて喚き立てないのも、いつもと様子があまりに違うことに、彼が何かを企んでいることを理解しているゆえなのだとも知りはしなかった。
 だから、ギイには、剣が使えないことで狼狽し、調子を崩した彼が、一方的にやられている、という認識しかなかった。
「たっぷり後悔したか? そうじゃなきゃァ、甲斐がねぇからな」
 また、なすすべもなく吹き飛び、リングの片隅に叩きつけられたアスカが、無言のまま身体を起こし、まだ汚れていなかったそこに、手の平の血を擦り付ける。
 不可思議な、文字のようなそれに、ギイは赤い眉を跳ね上げた。
「おいおい、何回同じことをやりゃァ気が済むんだ、てめぇは。命がけの落書きでもしてぇってのかよ?」
 この一時間で、ギイがどれだけの傷をアスカに負わせたかは不明だが、アスカはああして吹っ飛ばされるたびに、傷口から噴き出た血を拭い、リングに不吉な模様を描いていた。
 リングのあちこちに、いっそ整然と血の紋様が描かれた様に、異様な荘厳さを感じるほどだ。
「待てギイ、何かおかしい――……」
 リングの外で、エルフェンバインが警告を発していたが、自分の邪魔をした愚か者を切り刻むという残酷な喜びに逸るギイに、それを聞く耳があるはずもなかった。
「さて……刻むだけってのも飽きてきたから、そろそろ、腕の一本でももらっとくか……?」
 悠々たる足取りで、まだ立ち上がれずにいるらしいアスカのもとへ歩み寄り、剣を頭上高く掲げてみせる。
「泣き喚いて命乞いしてみろよ? そしたら、少しくらい、長生きさせてやってもいい」
 彼が命乞いをした瞬間腕と耳を落としてやろう、などと残酷なことを考えながらギイが言うのと、唇を引き結んだレーヴェリヒトが座席から立ち上がるのとは同時だった。
 レーヴェリヒトからかすかな殺気が漂ってくるのを感じつつ、今の彼なら賃金を五倍にしろと吹っかけても聞き入れるかな、などと考え、こいつの命を盾にして色々出させよう、とアスカを見下ろして、ギイは思わず眉をひそめた。
 ――……アスカは、笑っていたのだ。
 他者の感情の機微にすら疎いギイにすら、はっきりと判るほどに。
「なんて、な?」
 どこか事態を面白がるような声には、何の痛みも、焦りも、疲労も含まれてはいない。
 視線の先で、アスカが、ゆっくりと立ち上がる。
「準備万端。……頃合だな」
 ダメージなど、一片たりと伺わせない動きだった。
「てめぇは、」
 なんなんだ、とギイが眉をひそめるのと同時に、

 びゅうッ!

 突然、猛烈な……ギイほどの手練れですら眼を開けていられなかったほどの風が吹き、彼の意識は、ほんの一瞬アスカからそれた。
 そして、
「演技と言うのも……なかなかに疲れる。お前の減らず口を聞いている限り、退屈は、しなかったが」
 憎らしいほど余裕たっぷりの声は、唐突に、背後から。
 気づけば、空を、白い布が舞っている。
「てめぇ!?」
 あまりの素早さにわずかばかり肝を冷やしつつ振り向き、臨戦態勢を取って、ギイは言葉を失った。
 ――アスカが、剣を抜いていた。
 いつの間に抜いていたのかも判らなかったが、彼の手には、美しい一振りの剣があって、その存在を高らかに謳っていた。
「その、剣……」
 しかも、それは、星鋼の刃に百合の彫刻がされた柄飾り、中央に黒貴水晶のはめ込まれたその剣は、
「なんで……てめぇが……!」
 ギイが、どうしても手に入れなくてはならないと、この四年間、必死で金銭を貯め込んで来た、彼にとってはそのために生きているにも均しい、至上の目的でもある代物だったのだ。
「これか? お前も知ってるだろう、ラムペ家の当主が、俺に預けてくれたんだ。役立ててくれ、ってな」
 淡々とした物言いに怒りが募る。
 ギイたちがあれだけ苦労しても取り戻せなかったものをあっさり手にしてしまったアスカになのか、自分たちには渡せないと言いながらあまりにも簡単にそれをアスカに預けてしまったラムペ家の人間になのかは、自分でも判然としない。
 ただ、十年前のあの日、それを揮って自分たちを助けてくれたあの人の、厳しくも美しい後姿が記憶の中に翻り、激情が込み上げて、ギイはぎりりと奥歯を噛み締めた。
「それはてめぇなんかが持っていいもんじゃねぇ、寄越せ!」
 叫び、剣を構えてアスカへ斬りかかる。
「馬鹿を言え」
 同じように剣を構えるアスカの声は、どこまでも淡々として、わずかな揺らぎすらない。
 先ほどのすべてが、剣が抜けなかったことから、ほんの少し垣間見えた焦りの感情、ギイの刃を身に受けたことすらが、自分を騙すための演技だったのだと思い知らされる。
「これは俺とラムペ家の誓いのあかしだ。お前の思惑なぞ知ったことか」
 冷ややかな、断絶めいた言葉とともに、美しい剣が揮われて、
 ぎっ、ぢぃん!
 次の瞬間には、ギイの剣は、強烈な勢いでもって彼の手から叩き落され、リング上を転がっていた。
 ギイもまた、その一撃のあまりの勢い、あまりの激烈さに体勢を崩したところを、目にも見えないほどの速さでアスカに脚払いをかけられ、なすすべもなく転倒していた。
 脇腹を強かに打ちつけ、息が詰まる。
「ギイ!」
 エルフェンバインの声が、頭の天辺あたりから聞こえる。
「て、め……」
 狼狽があったことは否定しない。
 あの剣を目にして逆上した所為で、そこに隙が生じたことも否定はしない。
 だが、それを抜きにしても、アスカの手つき、剣さばきは見事過ぎた。
 外見からは想像もつかないほどの怪力だとは聞いていたが、同時に、正式に訓練を受けて一ヶ月弱とは思えないほど、その手つきは流麗で隙がなく、また無駄もなかったのだ。
 リングを無様に転がったまま握り締めた手が、びりびりと痺れる。
 こいつは一体何ものなんだ、という根源的な疑問が湧き上がり、ギイは半ば呆然と、悠然とした足取りで歩み寄ってきたアスカを見上げた。
 ギイを見下ろすアスカの眼には、嘲笑とも憐憫とも取れぬ光が揺れており、
「っだとこの……ッ」
 激昂し、跳ね起きようとしたところで、ごつい黒のブーツに背中を踏みつけられ、踏み躙られて息を詰める。
 先ほど軽々と吹っ飛ばされていたのが嘘のように――事実それは、アスカ自身が自ら衝撃の方向にあわせて跳んでいただけなのだろう――それは重く、ギイはコルクにピンで留められ、観察されるのを待つ昆虫のように、リング上に磔になるしかない。
「さあ……劇的に行こう、劇的に」
 言った彼が、右手を空に掲げる。
 ――その人差し指に、漆黒に輝く闇の色をした指輪があることに、ギイは、今更のように気づいていた。
 呼吸が止まる。
 アスカに背を踏まれているから、という理由でではなく。
「それ、は、」
 ざわざわざわざわッ。
 アスカの指にそれを見い出して観客がどよめく。
 レーヴェリヒトが、紫貴水晶の目を見開くのが見えた。
「なるほど。意識して使おうとして始めて、この世界に認識されるのか……文献の通りだな。埒外の者、とはそういう意味か……」
 誰に聞かせようという意図も感じられない、アスカの独白。
 そして……リングいっぱいに描かれた血の文字が光を放ち、次の瞬間、指輪と同じ色をした闇が、アスカの身体から噴き上がった。
 同時に、アスカの全身を埋めていた傷が、すべて、まるで拭い去りでもしたかのように、消える。
「……!!」
 ギイは驚愕に目を見開きながら、その闇の持つ不思議な芳香に、何故か、どこか安堵のような感覚を覚えてもいたのだった。