1.十年前、ザーデバルク市

 今日もザーデバルク市は快晴だった。
 気持ちのいい秋の風が、人々の服や髪を揺らしていく。
「エルフ、おせぇぞ何やってんだ! 早く行かねぇとツィーねえさまにしばきまわされっぞ!」
 ギイ・ケッツヒェンは山盛りの果物が入った籐かごを抱えて人ごみに怒鳴った。数え切れないほどの露店が並んだ大通りの向こう側から、背の高い少年が走ってくるのが見えたからだ。
「悪い、忘れ物しちまって」
 わずか数秒後、息を切らして駆け寄り、エルフェンバイン・ハールが言う。
 彼の手には、色とりどりの花を趣味よくまとめた花束がある。
「まさかそれ忘れたとか言わねぇよな?」
「……そのまさかだ」
「ありえねぇ。そんな大事なもん忘れるよーなボンクラを待ってちこくしてツィーねえさまにおしおきされるとか不幸すぎる……さっさと放って行きゃあよかった」
 ギイは、九歳の少年の手には少々大きすぎる籐かごを苦労して抱えながら唇を尖らせ、さっさと歩き出した。
「仕方ないだろ、出がけにお袋から用事頼まれちまったんだから。そんでバタバタしてるうちに忘れたんだよ」
「……じゃあそれ、ねえさまにも言えよ」
「うっ」
 九歳にしては恐ろしく口が回り、また口の悪いギイに、十七歳と倍近いのに弟分に甘いエルフェンバインがやり込められるこの光景も、別に珍しいものではなく、ご近所さんたちが、朝の挨拶と微笑ましげな表情とともに通り過ぎていく。
 ギイはフンと鼻を鳴らし、お屋敷へと向かう足取りを速めた。
 溜め息をついたエルフェンバインがギイの隣に並ぶ。
「ツィーねえさまっていくつになるんだっけ?」
「今日で二十五歳だ。しかし……ツィー姉上と初めて会って十五年か、早いなぁ」
「十五年前のねえさまって……なんか、そうぞうつくようなつかねぇような」
「まぁ、姿かたちが変わった程度で、中身は概ね今と変わらないな」
「……あー」
 他愛ない会話を交わしつつ、朝市が行われる大通りを真っ直ぐ進み、右手に曲がってしばらく行くと、それほど大きくはないがよく手入れのされたお屋敷が見えてくる。
 二階建てのお屋敷の部屋数は全部で二十、家人は侍従や奴隷を入れてもわずかに三十名弱、というここが、このザーデバルク市を統べる領主一族が代々住まう場所だとは、他の市からやって来た人々は夢にも思わないだろう。
 エルフェンバインが言うには、そもそもザーデバルク家は親類縁者が少なく、一族としての人数も少なかったが、現領主の今は亡き奥方ヒルフロースは病弱で、子どもをひとりしか授からなかったため、現在、ザーデバルクの名を持つのは現領主とそのひとり娘、そして別の場所に住む領主の弟一族だけしかいないのだそうだ。
 そのため、ザーデバルク市の顔とでも言うべきお屋敷には、当主と娘、執事などの侍従が七名、住まいや敷地の手入れや身の回りの世話をする奴隷が十八名しか住んでいない。
 もっとも、ザーデバルク市民は、領主一族が自分たちのために何をしてくれたかを知っているので、どんな小ぢんまりしたお屋敷だろうと、その場所とそこに住まう人々への敬意を忘れはしないのだが。
「リリィおばさんは?」
「ケーキ焼けたらすぐ行くって言ってた。そういうエメレおばさんはどーなんだよ」
「贈り物のドレスが仕上がったら来るってさ」
「おたがいギリギリか。もっと前からやっときゃいいのにな」
「まぁな。でも、ふたりとも忙しいし、仕方ないんじゃないか?」
「……かな」
 言いつつ、綺麗な薔薇のアーチをくぐってお屋敷の敷地内へと踏み込む。
 ギイはほぼ下層民に近い財民の子だし、エルフェンバインは母を第二大陸民に持つ混血児だが、ザーデバルク市が属するリィンクローヴァという国が諸外国、諸大陸に対して開かれているという以前に、このまちは彼らに対しても親切で、温かい。
 領主一族を初めとして全体的にあまり裕福ではなく、貧富の差が小さいのもあるかもしれないし、異形の発生率も低く、のんびりしたまちだからなのかもしれないが、難しいことはさておき、ギイはこのザーデバルクが好きだ。
 それは、ギイが、触れれば切れるような厳しさを持つ、次期領主のことが好きだから、なのかもしれないけれど。
 お屋敷の庭を真っ直ぐに歩いていくと、やがて小ぢんまりとした、しかし美しい彫刻のなされた扉の前に佇む、長身痩躯の女性の姿が目に入り、ギイは果物かごを片手で器用に支えながら手を振った。
「……来たか、チビども。時間ぴったりだな、まぁ、いいだろう」
「そりゃ、おくれたらナニされるかわかんねぇし。……けいこは終わったのか?」
「お前たちが来ると言うから早めに切り上げた。待たせるのも何だしな」
「ね、ねえさまが気をつかってくれてる……!?」
「……何か言ったか、チビ」
「いえッ、なんでもないですハイッ!」
 失言に気づき、ぶんぶんと首を横に振るギイ。
 齢九つにしてギイがここまでツァールトハイトに絶対服従なのは、彼女に初めて会った五つの時、無邪気に「おばちゃん」と呼んでしまってあちらの世界を垣間見かけたからだ。
 五つの子どもを半殺しにする二十一歳もどうかとは思うが、当代一と噂される超級討伐士とザーデバルクの兵民によって編成される領軍の将もかねる狂戦姫ツァールトハイトと言えば、王都アインマールの子どもでも膀胱を直撃されると言う戦い上手だ。十八歳の頃から屍の山を築いてきた剛の者で、他に類を見ない短気という性質からすれば、当然のことかもしれない、と、九歳にしてすでに諦めもついているギイだった。
「それで……今日は何の用だ。リリィとエメレも来るらしいが」
 空色の瞳をほんの少しだけやわらかくして尋ねるツァールトハイトは、真珠色の髪を無造作に結い上げ、サーコートに脚衣、そしてブーツを身につけただけの簡素な出で立ちだったが、すらりと背の高い、凛とした雰囲気を持つ彼女には、装飾的でない衣装の方が似合う、とギイは思う。
「え、あれ、ねえさま知らねぇの? かーさん、何も言ってねーんだ?」
「聞いていない」
 ギイとエルフェンバインが手にした果物や花束を見遣り、ツァールトハイトが小首を傾げたので、
「ふーん……あ、うわさをすれば」
 どう説明すべきか、それとも母親を待った方がいいのか、ギイがしばし悩んでいると、大きな箱を抱えたふたりの女がお屋敷の敷地内に入ってきて、ギイは正直ホッとした。
 赤茶色の髪に月光石色の目をした、しなやかな細身の、ハッとなるほど美しい女はヴァッサーリリィ・ケッツヒェン。濃灰色の髪に翡翠色の目をした、大柄で豊満な、決して美女などではないがその笑顔を見ているだけで自分も笑顔になってしまいそうな魅力的な顔立ちの女はエメレリア・ザフラ・アジュクト。
 説明するまでもなく、ギイとエルフェンバインの母親である。
「ごめんごめん、ツィー、ギイ、エルフ。ちょっと準備に手間取っちゃってね」
 綺麗な色で綺麗な模様の描かれた手触りのよさそうな紙包みを手に――おばさんふんぱつしたな、というのがギイの正直な意見だ――エメレリアが笑い、母とともに小走りで三人のもとへやってくる。
「リリィ、エメレ。……四人とも揃ったな……今日は一体何の日だ?」
 不思議そうに小首を傾げたツァールトハイトは、
「あら……だって、今日はツィーのお誕生日じゃない。だから私たち、親子でお祝いしようと思って」
 同じく不思議そうな母の言葉にきょとんとした。
 ツァールトハイトがそんな無防備な表情を見せるのは、エメレリアと母の前でだけだ。
 それも、当然なのかもしれないが。
 エルフェンバインの母、エメレリア・ザフラ・アジュクトは、血のつながりこそないが、ツァールトハイトの遠縁に当たる。
 エメレリアの嫁いだ男、つまりエルフェンバインの父親の従兄が、ザーデバルク領主の弟の娘と結婚した、というややこしい血縁関係によるものだが、色々あって五歳の春からお屋敷を出されたツァールトハイトを預かったのが、エルフェンバインの祖父の一族、ハール家だったのだ。
 エメレリアはツァールトハイトより十歳年上で、血こそ第二大陸民のものだが、生まれたときからリィンクローヴァに……ザーデバルクに住んでおり、小さいころからエルフェンバインの父、ベルンシュタイン・ハールに嫁ぐことが決まっていた。
 彼女は、十五歳になったころからハール家に住み込んだ過程でツァールトハイトと出会い、生来の、世話好きで明るい、面倒見がよく親切な性格もあって、五歳児にしてすでに気難しかったツァールトハイトの世話を率先して行ってきたのだという。
 そして、ギイの母、ヴァッサーリリィ・ケッツヒェンはというと、十二歳でこのお屋敷に戻ったツァールトハイトの世話役として雇われた奴隷の娘だった。
 ツァールトハイトより七つ年上の彼女は、孤独で強く、自分にも他人にも厳しい少女を愛し、妹にそうするように慈しみ、献身的に仕えて、ツァールトハイトから身分も立場も超えた信頼を得るに至ったものであるらしい。
 ツァールトハイトがザーデバルクの屋敷に戻った際、同じく世話役としてハール家から付き従ったエメレリアとは親友同士で、ギイとエルフェンバインが幼馴染であるのもそういう理由からだ。
 だから、気難しいことで知られるツァールトハイトも、このふたりの女に対しては、他とはまったく違う態度を取る。
 それは、彼女の過去と現在とを鑑みれば当然のことでもあるのだが。
 といっても、まだ九歳のギイはそれらのことを詳しく認識出来ているわけではなく、単純に、母やエメレリアがツァールトハイトのことをとても大切にしていて、ツァールトハイトもまたふたりを特別に思っていて、その延長線上で自分やエルフェンバインにも優しく――やさしいと言っていいのかたまに疑問に思う部分もあるが――してくれるのだという事実を、ほとんど感覚として実感しているだけだった。
 ギイの母の言葉に、
「そうか……今日はわたしの誕生日だったか。すっかり失念していた」
 ようやく思い至った風情でツァールトハイトが言うと、母はくすりと笑った。
「ツィーは、自分のことには無頓着だから」
「自分が生まれた日のことなんて、気にしていても仕方がないからな」
「ああ、ツィーらしいね。でも、アタシは好きだよ、ツィーのそういうとこ」
「……そんなものか。エメレは変わっているからな」
「あら、私もそう思うわよ?」
 母とエメレリアに言われ、ツァールトハイトが不思議そうな、困ったような、自分と同い年の少女のような表情をする。
 実を言うと、ギイは、ツァールトハイトの、そんな、どこかあどけない表情が好きで、それを見るたびに、ツィーねえさまを守ってあげたい、などと分不相応にも思うのだ。
「じゃあ、お茶にしましょうか。お祝いのケーキを焼いたのよ。ツィーの好きなチョコレートとナッツの絹ケーキにしたわ」
「ああ、そういえば……去年もそうやって祝ってもらったな。では、茶の用意をさせよう」
 言ったツァールトハイトが屋敷に向かって踵を返す。
 ギイは大きな籠を抱えたまま、その背を追いかけて駆け出しながら、自己主張をした。
「ねえさまねえさま、オレもおくりもの! オレが市(いち)でえらんだんだぜ!」
 すると、ツァールトハイトの、鮮やかな空色の双眸がギイを見下ろし、ほんの少しだけやわらげられる。
「……チビの選別か。虫がいないかだけ気をつけて食べよう」
「ちょっ、ねえさまなにそれ……ッ」
 口を尖らせるギイの真紅の頭を、かすかに笑ったツァールトハイトがぐしゃっとかき回した。
 それだけで、どうしようもなく嬉しくて、幸せな気分になるのは、何故なのだろうか。
 ――きっと自分がツィーねえさまが好きだからだ、とギイは思う。

 * * * * *

 目の前で――それはもしかしたら、脳裏に、なのかもしれないが、自分では判別がつかない――、小ぢんまりとした、しかしとても綺麗に整えられた屋敷の中での、ティータイムの様子が映し出される。
 切り分けられる、ココア色の、ふわふわとやわらかなケーキ。
 ヴァッサーリリィが流麗な手つきで赤い色のお茶を入れ、ギイがどこか誇らしげに、ツァールトハイトの前にたくさんの果物を並べていく。
 エメレリアが薄青の布を使って仕立てた、シンプルだが裾の美しいドレスをツァールトハイトに披露し、母親のそんな様子を見ながら、エルフェンバインが綺麗な花束を花瓶に生けていく。
 賑やかで楽しい、和やかな、幸せな時間が続いていた。
 ギイは屈託なく無邪気に、エルフェンバインは少年らしい健やかさで、ツァールトハイトはいつも通りの硬質さながらやわらかく、少女めいた繊細さを時に覗かせながら、その時間を、その喜びを噛み締めている様子だった。
 飛鳥はそれを、まるで、自分が触れてはいけないガラス細工のように感じながら、息を潜めて見つめていた。
 この光景が、もうそれほど経たぬうちに喪われてしまうのだと――現実の世界では、もうすでに喪われてしまったのだと思い、つい我が身に即して考えて、飛鳥はわずかに瞑目する。
 と、そこへ、
《おやおや、呼んでもいないのに来るとは、やはりお前は器用だな、アスカ》
 意識のどこかに声がかかり、見えているものは相変わらずギイたちの過去の光景でありながら、飛鳥は自分の隣に、確かに妹の姿をしたあの埒外の者がいることを事実として認識していた。
(……ソル=ダート)
 飛鳥に見えているのはギイたちの幸せな一時なのに、隣でソル=ダートが笑ったのが判る。
 初めは妹と何もかもが同じだったはずなのに、いつの間にかソル=ダートの髪が白銀に染まり、双眸は赤みのある紫色へと変化していることも、見えていないはずなのに何故か判った。
《ああ、そうか、界神晶を『動かした』のか。まだ完全には演算が済んでいないようだな……なるほど、それで来たか》
(今ひとつよく判らんが、多分そんなことだろうとは思った)
《彼の精神に関わる力を使ったんだな。過去に何度か界神晶を与えた連中もそうだったが、発動制御し切れていない力が少し滲み出て、お前と彼とをつなぎ、その精神をほんのわずか垣間見せているんだ》
(ふむ……混線状態、と言ったところかな。すぐに戻れるのか、これは)
《現実の時間では、な。まぁ、もうしばらくここにいろ、その時が来れば目覚める。それに……見ろ、なんとも可愛らしく微笑ましい昔話じゃないか》
(……ああ。じきに喪われてしまうものと思えば、歯がゆいが)
《そうだな。だが、同時に、この時間が彼を創ったのだと思うと、興味深くもある。――……それは、お前に対してもだが》
(俺か。……まぁ、言いふらすようなことじゃないのは確かだ)
《なるほど、そのくらいお前にとっては重いことなんだな。では……もうしばし、彼の様子を見るとしようか》
(……ああ)
 飛鳥は、目には見えないのに傍にいる埒外の者に頷いて、また、その光景に声もなく見入った。
 ひとつも漏らすまいと……見逃すまいとでも言うように。