2.ギイとハルカ

 今日もまたいい天気だった。
 びっくりするほど青く高く透き通った空の下、
「えーと……丸イモと、人参と、ふすまこと、ハーブと、あととりにくの安いとこ……」
 ギイは、大きな籠を腕に提げ、指を折って数を数えながら、大通りの市(いち)を歩いていた。
 顔見知りの人々が、買い物に精を出しながら、様々なお喋りに興じているのが聞こえて来て、それだけで退屈しない。
 もちろん、中には、意味を理解出来ないものもあるが。
「聞いたかい、王都の話。国王陛下が、いよいよお隠れになるかもしれないんだって」
「ああ、聞いた。だけど……お世継ぎは? ファイングランツ様はまだ……」
「見つかったと言う話は聞かないね……もうお戻りにはならないかもしれない、と皆が言っていた」
「シェーンヴァルト様はあんな惨い事件でお亡くなりになって、アルトシュタール様はお心を閉ざされたまま。ヴォルスティア様もルネゼリア様ももうお年だし……ツヴァイクロイツ様もアディリア様もまつりごとはお得意ではないとお聞きしている。では、他に、どなたがリィンクローヴァを?」
「それなんだけど、王都から来た人たちの話では、レーヴェリヒト様が王位をお継ぎになるんじゃないかと」
「レーヴェリヒト様……あの、王族ではないお妃様からお生まれになった……?」
「そう、その方だ。お妃様は市井の、白の加護持ちだったそうだよ。レーヴェリヒト様はまだお若いけれど、とても優秀で、とても勇猛で、何よりも国王陛下がそれを望んでおられるとかでね」
「ふうん……では、近いうちに?」
「ああ、レーヴェリヒト様が十五歳になられる春に戴冠式を行われるのではないか、というのがみなの一致した意見だったね。きっと、素晴らしい式典になるのだろう」
 買出しに来たと思しきおかみさんたちの、何やら深刻そうな会話の横をすり抜け、目当ての露店を目指して歩く。
 様々な食材の、色鮮やかな風合いが目を楽しませ、どこかから漂ってくる惣菜の匂いがギイの鼻をくすぐる。
 朝早くから賑わっている市での買い物は、ギイの日課だ。
 豊かではない市といっても、もちろんリィンクローヴァが全国に共通して設けている学校はあるし、ギイも十歳になったら通うようになるのだろうが、来年になって、彼が学校に行き始めても、やるべき仕事は代わらない。大変でも、やるしかないのだ。
 そんなに大変なら母親に任せればいいのに、などと簡単に言う奴がいたら、ギイはそいつの向こう脛に思い切り蹴りを食らわせるだろう。
 ギイの母親は、ツァールトハイトが成人すると同時に、彼女の勧めもあって結婚し、お屋敷に近い大通りの傍で新生活を始めた。
 ツァールトハイト自身がそう望むので、彼女と母はすでに主従ではなく、家族のような関係になっており、母は現在、ツァールトハイトの父、つまり前の雇い主であったザーデバルク市領主の紹介で、大きな定食屋で賄い方として働いている。
 腕のいい彼女は、とても頼りにされていて、彼女のつくる食事は美味いと評判であるらしい。
 だから、朝から晩まで忙しい彼女に代わって早朝から市場に買い物に行くことや、家の掃除や洗濯、水汲みはギイの仕事なのだ。彼の日課はこの近辺では朝の風物詩のうえ、ほとんど彼が生まれたときからの付き合いなので、大人たちの親しげな視線と声とが投げかけられる。
「ギイ、良質のフリッシュが入ったぜ、お袋さんに伝えてくれ」
 スパイス屋の親爺が、大人の親指サイズの木の実、金色をしたそれを指し示してみせ、
「ギイ、リリィに伝えてちょうだい、最高級の赤茶葉を安価で仕入れることが出来たから、たくさん買ってくれたらたくさんおまけするよ、って」
 茶葉屋のおばさんがいい匂いのする葉っぱを両手いっぱいに持ち上げてみせ、
「ギイ、いつもえらいね、ほらこれおまけだよ」
 ハーブ屋のおばさんは鶏肉シチュー用のハーブと一緒に、甘くて爽やかなレモンハーブ水の入った瓶をくれ、
「ギイ、もうじき親父さんの哀古日(命日)だろう。これ、お供えしてやんな」
 花売りの姐さんが、婀娜な笑みとともに赤い花をこぎれいにまとめた束を手渡してくれる。
 ギイは小さく笑って頷き、それを受け取った。
「ありがと」
「どういたしまして。でも……早いねェ、もう三年になるのか」
「……うん」
 ギイは、そのときばかりは少し大人びた表情を浮かべた。
 働かなくては生きていけないから、必死で働くことに否やはない。
 それでも、ギイと母親の生活が大変なのは、ふたりが下層民すれすれの財民だから、というのもあるが、やはり、父親がいないから、だ。
 奴隷の娘だったヴァッサーリリィと、彼女に一目惚れして結婚を申し込んだ下級財民の父は、周囲が呆れ羨むほどの睦まじい夫婦だった。繊細優美な美貌とは裏腹にしっかりしていて働き者の母と、のんびり屋で心優しい父に愛されて、ひとり息子のギイは伸び伸びと育ってきた。
 しかし、彼は、三年前、この辺りを襲った異形から家族や周囲を護って死んだ。
 彼は討伐士や騎士どころか兵民ですらなく、また戦士でも武人でもなかったが、愛する家族や隣人たち、街を護るために命をかけた。彼の、捨て身の攻撃で、その時すでに十数人もの人間を餌食にしていた異形はなんとか斃された。
 だからこそ、この辺りの人たちは、息子であるギイや妻である母に親切なのだ。
 ギイは、もう二度と父親と会えないことを哀しむけれど、父の護ったものが今、こうして、ここで息づいていることを、難しい言葉でなくとも理解できるから、嘆きはしないのだ。
 きっとそれは、母親も同じことだっただろう。
「ベルねえちゃん、ありがとな。また遊びに行くわ」
「ああ、いつでも来とくれ、歓迎するよ」
 花売りの姐さんと手を振って別れ、奥の区画で丸イモと人参を買い込んでから、肉を安く売っている区画で鶏肉の一番安い部位を仕入れる。
 母を姉のように慕うツァールトハイトや、母の親友であるエメレリアが、何かと食材や物資を差し入れてくれるので――何せ母は、たおやかな外見に似合わず頑固で、決して金銭の類いを受け取らないのだ――、幸いにもひもじい思いをしたことはないギイだが、やはり、普段の生活は質素倹約が基本だ。
 贅沢と言えば、父の哀古日に、彼の好きだったパレル煮、子羊肉をたっぷりのハーブとスパイスで煮込んで、固焼きにしたふすまのパンを浸して食べる料理を作ったり、同じく彼が好きだった絹梨のシロップ煮や甘藷のケーキを作ったりすることくらいだ。
 とはいえ、母親は近辺でも評判の料理上手なので、どんな安い材料でも、彼女の作る食事は何でも美味しいのだが。
 大通りの南端で、パンを焼くためのふすま粉を買って、店主の老婆に飴をおまけしてもらい、ギイは上機嫌で帰途についていた。
「今日のばんめしはとりのハーブシチューか……たのしみだ」
 よく煮込まれてとろとろにとろけた鶏のもも肉が、野菜の甘味とハーブの香味と渾然一体と溶け合い、えもいわれぬ味わいを醸し出す様を想像するだけで腹が減ってくる。
 母がずっと仕事に出ているので、昼食は母が用意していってくれたものをひとりで食べるのが基本だが、その前にまず家の仕事を終えなくてはならない。
「とりあえず……帰ったらせんたくだな、うん」
 父亡きあと、ギイはずっと、文句も言わずに母親の手伝いをしてきたから、今更自分の大変さなどに頓着はしない。同じ年頃の、就学前の子どもたちが屈託なく遊んでいる中、家事をしている自分を惨めだとも思わない。
 母親は自分よりも大変なのに、泣き言ひとつ言わず、笑顔を絶やさず、ギイを心から大切にしてくれるし、ギイにひもじい思いをさせないために、寒さに凍える冬を迎えさせないために、毎日くるくると働いている。
 ギイは、今はもういない父親も、明るく美しい母親も大好きだから、父親が死者の国からいつも幸せになれと祈ってくれているように、母とふたりで、貧しくも豊かな日々を送るため、自分に出来る精いっぱいの努力をするのだ。
 ギイ自身は知らぬことだが、彼が口達者で、言動が大人びているのは、こういう背景からなのだった。
「よし、帰――……うん?」
 帰宅しようと踵を返しかけたら、少し離れた物陰で、見慣れたくもないのに見慣れてしまった連中が固まっているのが見えた。
「また馬鹿なことやってやがんのか、あいつら」
 ギイは顔をしかめ、こっそりと近づく。
 と、細身の、見事な銀髪の若者が、ガラの悪い、体格のいい男たちに取り囲まれ、土蔵の壁を背に身動き出来なくなっているのが判った。
 趣味がいいとはとても言えない出で立ちの、まだ若い男たちは、全部で十人。体格のよさ、腕力にものを言わせて暴れるには充分過ぎる人数だ。
 彼らは、この界隈でも名の知られた、領兵や騎士団が動かないような小さな悪事を繰り返しては人々に迷惑をかけているという鼻つまみ者たちで、二回ほどツァールトハイトにこてんぱんにされたはずなのにまだ懲りていないという、ある意味猛者でもある。
「ツィーねえさまたちが忙しくしてるってわかっててやるからたちがわりぃよな、あいつら」
 軽蔑もあらわに鼻を鳴らし、ギイはこっそりと集団に近づいていく。
 その頃には、銀髪の若者が、ツァールトハイトよりも幾つか若い印象で、どこかの貴族の子弟のような優美な顔立ちをしていることが見て取れるようになっていたし、連中が、見慣れぬ顔の若者に、通行料だのなんだのを吹っかけている様子も聞き取れるようになっていた。
「……」
 残念ながらギイではあの体格のいい連中と渡り合って勝利を収めることは出来ない。
 将来は騎士を目指していて、剣の訓練も順調で、すでに兵民登録も済んでいるエルフェンバインならもっと巧くやれるのかもしれないが、女の子と間違われるくらい小柄で華奢で、人より少しすばしこい程度のギイではどうしようもないのだ。
 ――だから、ギイは、大きく息を吸い込んで、
「騎士様、こっちで悪さしてるやつがいるんでやっつけてくれー!」
 周囲に響き渡るような大声で怒鳴り、連中がぎょっとなって怯んでいる隙に彼らの中に飛び込み、若者の手を掴んでその場から一気に撤収する……という方法を取ったのだった。
「あっ、チビ、またてめぇか……ッ!」
 憎々しげな声が背中から追いかけてきたが、無視して、連中の気配のないところまで逃げおおせるべく疾走体勢に入る。
 捕まれば酷い目に遭わされることは明白なので、白い手を握り締めたまましばらく全力で走って、複雑な通路を複雑に通り抜け、背後から怒号が追いかけてこなくなってようやく、ギイは立ち止まることが出来た。
「……よし、まいたな」
 あいつら絶対めいわくだからねえさまに相談しにいこう、っていうかそれを理由に会いに行こう、などと思いつつ、ギイは額の汗を拭い、握り締めたままだった手を離した。
「おまえ、だいじょうぶだったか?」
 言って見上げると、若者は小首を傾げ、頷いた。
 ギイが助けたのは、綺麗な人だった。
 絹のような銀髪に、ザーデバルクのお屋敷で一回だけ見たことがある白磁のような肌、銀色がかった藍色の目の、性別の判断し難い、繊細に整った面立ちの人だった。
 線は細いのに、華奢だとか儚げだとかいう印象を受けないのは、握った手が思いのほか力強く、また、走って逃げている間息切れもしていなかったから、かもしれない。
「……なんだったんだ、今のは……?」
 ともあれ、安全な場所まで離れられて、ギイが安堵しながら呼吸を整えていると、その人は心底不思議そうに首をかしげていた。
 どうやら金を脅し取られそうになっていたことにも気づいていないようで、もしかしたらものすごい貴族のお坊ちゃんなのかも、とちょっと呆れたギイは、ひとまず事情を説明してやる。
「あいつら、通行料とか場所代とか行って、いっつも、金持ってそうな、でもあんま強くなさそうなやつらから色々まきあげてんだよ」
 すると、若者はようやく得心がいった風情で頷いた。
「そういうものだったのか……それは、知らなかった。何のことか判らないから、どうすべきかも判らなかったんだ。その程度のことなら、挽肉にしなくてよかった」
「ん? 何か言ったか?」
「いや、なんでもない。ではお前は私を助けてくれたのだな、ありがとう」
「まぁ、助けたっつーか、あいつらが気に食わねぇっつーか。ん、ああ、オレはギイっていうんだ。おまえは?」
 言って、ギイが見上げると、男とも女ともつかぬ顔立ちをしたその人物は、不思議そうな表情で彼を見下ろした。
「……私か。私はハルカだ。ハルカ・ヘルデンハフトという」
「ハルカ? めずらしい名前だな……まぁいいや、なにごともなくてよかったな、ハルカ。っつーかさ、おまえ、この辺のやつか? それにしちゃ、見ねぇ顔だけど」
 この近辺はギイの庭だ。
 住民たちとも顔馴染みだし、地理にも精通している。
 ハルカと名乗った人物のいでたち、質のいいサーコートに脚衣のみというそれはどう考えても旅装ではなく、小さなナイフすら装備されていない様子から、ちょっと外に出てきた、という風情だと判断したのだが、
「この近辺……まぁ、そうだな、この辺りに住んでいる。だが、十五年ばかり住まいに引き篭もっていたのでな、私を知っているものはいないだろう」
 どうやら、それは当たっていたようだった。
 十五年前からこの辺りに顔を出していないのでは、九歳のギイが知っているはずがない。
「あー、そうなんだ。十五年ってそりゃすげぇな。子どもの頃からってことじゃねぇかそれ。なんだ、病気か何かか?」
「……いや。あまりにも衝撃的なことがあって、何もする気が起きなかっただけだ。最近、ようやく少しだけ吹っ切ることが出来たので、こうして出てきている」
「ふーん……? まぁいいや、そんじゃ当然、あんな馬鹿がいるなんて知らねーよな。ま、何ごともなくてよかった。これから先、何かこまったことがあったらオレに言えよな、また助けてやるから!」
 と、ギイが偉そうに胸を張ると、ハルカは何度か瞬きをし、それからふわっと笑った。
 その笑みは邪気がなく、どことなく無防備で、ギイはそもそも子どもなので警戒心などとは無縁だが、たとえ大人であっても、それを見てしまったら、ハルカという人物に対して疑念や警戒や不審などの悪い感情は抱けなくなるだろうと思う。
 得体は知れないが信用は出来る人物だ、というのが、その時のギイの直感だった。
「……そうか。なら、頼らせてもらおう。礼は何をすればいい?」
「え、おれいとか考えてもいなかったな……あ、じゃあそうじとせんたくと水くみてつだってくれ。そしたらオレ、遊びに行ける」
 家事に忙しく、忙しいことが嫌ではないギイだが、友達がいないわけではなく、彼ら彼女らと遊びたくないわけでもない。
 そして何より、家にこもってたったひとりで作業をしているのは、実をいうと、寂しい。本当は、母親やエルフェンバインやエメレリア、ツァールトハイトと、いつでも一緒にいたいし、いてほしい。
 それは、ギイが、自分が我がままを言えば、彼女らは何とかして叶えようとしてくれるだろうから、と、子ども心にも申し訳なくて、ずっと言い出せずにいる願望でもあった。
 それゆえに、あまりにも生活密着型の――同時にどこか切実な『お礼』を口にしたギイだったが、ハルカは小首を傾げて彼を見下ろしたあと、
「ふむ」
 ひとつ頷くと、ギイの手から荷物をひょいと取り上げた。
 そして、
「なら、今から一回目の礼をしに行こうか」
 どこか悪戯っぽい笑みとともにそう言って、ギイを促したのだった。

 * * * * *

 何気ない日常が目の前で展開される。
 決して豊かではないが、賑やかで色鮮やかな、命の営みにあふれたワンシーンワンシーンが、幼いギイとともに回っていく。
 ギイと母の住む、小ぢんまりとしているが綺麗に整えられた家で、ハルカと名乗った若者が――骨格で人物を見る飛鳥にも性別が量れなかった――、ひどく楽しげな、嬉しそうなギイとともに、細々とした家事をこなしている。
《珍しい顔を見たな》
 ソル=ダートがおかしそうに言う。
(知っているのか)
《私とは立ち位置こそ違うが、同じ埒外の者だからな》
 仕事を終えて帰宅したヴァッサーリリィが、ハルカの存在に驚き、同時に喜んでいる。彼女自身、幼いギイをひとりで残していることに不安や申し訳なさがないわけではないのだろう。
 ヴァッサーリリィが、ハルカを疑うこともなく三人分の夕飯の支度を始め、その間、ギイはハルカにせがんで、生前の父親が買ってくれたという本を読んでもらっている。
(埒外の者……つまり、表立って世界に干渉しない、出来ない者、ということか)
《似たようなものだな。あれは生粋の者だが、事情あって人間に近い。だからこその、あの邂逅だったのだろう》
(……ふむ)
 ふすま粉を使って無発酵パンを焼き上げたヴァッサーリリィが、シチューと仕事先からもらってきたと言う見事な葡萄の入った皿を簡素なテーブルに並べる。ちょこまかと走り回ったギイが、どうもツァールトハイトから贈られたらしい銀のスプーンや、木彫りのコップなどを並べていく。
 ハルカはそれを、不思議そうに、しかし楽しそうに見ていた。
 母と自分だけではないことが嬉しいのか、食事の間中もずっとギイははしゃいでいる。
 この屈託のない、無邪気で人懐こい性格が、今のようになるのに、一体どれだけの衝撃があったのかと思うと、また少し、やるせなくなる。
《そういえば……アスカ。界神晶の使い勝手はどうだ》
(どうもこうも、まだよく判らんな。ただ、頻繁に使ってはいけないという感覚はある)
《ご明察だ。使いすぎると命を落とすか、人間をやめることになるぞ》
(……そんな大事なことは先に教えろよ、というのは、多分突っ込むだけ無駄なんだろうな)
《そういうことだ、慢心せず学べ。古代語の資料には、興味深いことがたくさん書いてあるぞ》
(古代語か……まぁ、精々頑張るさ)
 意識の中で肩を竦めてみせ、飛鳥はまた、ギイの記憶に意識を凝らす。
 ――彼らに別れの時が近づいてきていることを感じつつ、最後まで見届けようと思う。