3.見つめる先
ギイがハルカと出会って半月ほどが経っていた。
やはり、どうやら高貴な出であるらしく、ハルカはどこか浮き世離れしていたが、同時に様々なことに精通していたし、色々なことを知っていた。
話を聞いていると、どうやら外見通りの年齢ではないということがギイにすら判ったものの、高貴な人たちは年を取っても驚くほど若々しい人が多いし、中には長寿の異種族との血を引く人間もいるらしいので、ギイは、ハルカもそんなものだろうと納得していた。
近くにある、という自宅がどこなのかは判らなかったけれど、どうやら本当に近場らしく、ふらりと姿を消しては、その十分後にはギイが見たこともないような異国の絵本を持ってきたり、第二大陸の珍しい菓子を持ってきたりと、ハルカは、ザーデバルクの大通りとお屋敷、そして自分の家しかなかったギイの世界を広げてくれた。
何よりハルカは、ギイが求めるままに彼の家を訪れ、時には一晩滞在もして、彼の仕事を手伝ったり、一緒に遊んでくれたりした。
今までべったりだった兄貴分のエルフェンバインが、騎士になるための勉強や訓練で忙しく、あまり構ってもらえていない現状において、ギイにとってハルカは、孤独を癒してくれる大切な友人となっていた。
ひとりでないことがどれだけホッとできて、隣に誰かいることがどれだけ嬉しいか、ギイは、この半月で痛いほどに実感していたのだった。
「ギイ、薪が出来たぞ、どこに仕舞うんだ」
今日も今日とて、ギイは、家の者が焼いたと言うふわふわの焼き菓子を片手に朝早くからやってきたハルカとともに、家の仕事に精を出していた。
華奢とまではいかないものの、細身のハルカだが、しかしその実驚くほど怪力で、やんちゃな子どもであるギイと長時間に渡って遊んでも息切れひとつしない体力の持ち主だった。
お陰で、ギイの家事の負担は相当軽減されている。
「えーと、そっちの物置……そう、それそれ。ん、ありがとな」
ギイはたった今洗い終わった洗濯物を籠に入れながら破顔した。
すると薪を片付けたハルカが大股に近づいて来て、まだぐっしょり濡れたままのそれらを手に取る。
何せ、ギイの握力では、服地などの厚い布を充分に搾るということは難しいのだ。そのために、冬場などは衣類がなかなか乾かず、困ることもあったが、現状ではどうしようもない。
今日などは天気もよく、空気も乾いているから、なんとか明日の朝までに乾いてくれるだろう……などと思っていたギイだったが、彼の目の前で、ハルカはその洗濯物を無造作に捻った。
すると、ぼたぼたぼたっ、と、布から大量の水が搾り出され、滴り落ちる。
手渡されたそれを開いてみると、ほとんど乾いている。
「うわーすげー。どーやったらそんなあくりょくになるんだ……?」
小さな庭に張り巡らされたロープに、背伸びをして洗濯物を干しながらギイが首を傾げると、隣に並んで洗濯物を干していたハルカもまた、ちいさく首を傾げた。
「やはり、早寝早起きと、バランスの取れた食生活が大事なんじゃないか?」
「……そういうもんか。けっこー簡単なんだな。んじゃオレも、ちゃんと早ね早起きして好ききらいしなかったら、ハルカみてーな怪力になんのかな。だったらいいな」
「どうだろう。試してみればいいとは思うが……ギイは怪力になりたいのか」
「んー、怪力になりてーってか、強くなりてーんだよな」
「何故だ?」
「えっ」
問われて、ギイは赤くなった。
「……何故恥ずかしがる」
「え、いや、その……うん、だって……なぁ?」
「なぁ、と言われても、私には判らんのだが」
「や、その……だから。強くなって、まもってあげてー人がいるんだよ」
洗濯用の籠を片付けつつ、もじもじしながらギイが言うと、ハルカはそうか、と生真面目に頷いた。
「思い人というわけか。……相手はどんな人なんだ?」
「そ、そんな、思い人とかそんなんじゃ……。や、でも、すげー強くてきれいな人でさ、ちょっとやそっと強くなったくらいじゃ意味ねーんだよな」
「なるほど」
「だからオレ、エルフみてーに、十五歳になったら兵民登録して、いつかは必ずねえさまを護る騎士になるんだ。そんで、大きくなったら、こくは……いやッ、な、なんでもねぇッ!」
「ん? 大きくなったら、何だって?」
「なななななななななんでもねぇって! ハルカの聞き違いだよ!」
「そうか。いや、だが、思い人のために何かしたい、という気持ちはよく判る」
「え、ハルカにも好きな人いんの?」
「……正しくは、いた、というべきだが」
「ってことは、ふられたんだ。あ、しょーげきてきなことって、それか?」
「ずいぶん長い時間想い続けて、告白して、今は誰かと恋をしたいとは思っていない、と断られたまではまぁいい。まだ諦めもつく。だが、その半年後に、彼女に子どもが出来たことを知った時の衝撃は、すごかったな」
「あー……」
「出先でそれを知って、その場で死にたくなったのを、家の者に必死に止められて戻って、そのまま十五年間引き篭もったからな。引き篭もって九年目で彼女が身罷ったのも大きかった」
「うわ、めちゃくちゃかわいそーじゃん、ハルカ。かたおもいってつらいよな……」
「九歳のくせにものすごい実感がこもっているな、ギイ」
そんな、若干切ない会話を交わしつつ、小さな庭で育てているちょっとした野菜やハーブ、花に水をやるべく、この近辺で使われている共用の井戸、徒歩五分のそこへと向かう。
ガラガラと釣瓶を引いて桶を手繰り寄せ、中の水を持参した桶に移しながら、
「さっきの続きだけど」
「ああ」
「ねえさまのためだけってわけでもなくてさ。……かーさんのことも、楽させてやりてーんだ。騎士になったらいい生活が出来る、って言うもんな」
「……そうだな」
「いい生活っての、あんまりわかんねーし、別に、お金のためだけにはたらこうとか思ってるわけじゃねーけどさ。もうちょっとお金があったら、かーさんだって、少しは休めると思うからさ」
まだまだ先の、しかしギイにとっては絶対的な『未来』を口にすると、ハルカはちいさく笑ってギイの頭をくしゃくしゃと撫でた。
ギイはくすぐったさと面映さに笑い、大きな桶を担いでハルカの手から逃げる。
「んだよ、ハルカ」
「いや」
ハルカは笑って、ギイの横に並んだ。
「お前は、いい子だな、ギイ」
「え」
「愛することと、愛されることを知っている、いい子だ」
「……ほめたって何も出ねーし」
「おや、それは残念」
照れたギイがそっぽを向くと、ハルカは冗談めかして言い、彼の手から重い桶を取り上げた。
「ひとまず、水遣りが終わったら昼食、か。午後の茶の時間には、うちの者が焼いた菓子を出そう」
「うん、ハルカがいてくれたら、オレ、ばんめしのしたくも出来るし……できることはやっちまおう」
言いつつ、家に戻ると、
「お帰りギイ、いらっしゃいハルカ」
何故か母がいた。
「……あれ?」
そして、エルフェンバインとエメレリアも。
「かーさん、仕事は? エルフはくんれんのはずじゃ……エメレおばさんはお店があるし。みんな、こないだ、ツィーねえさまのたんじょうびに休みもらったから、しばらくはいそがしいって……」
きょとんとしたギイが首をかしげると、彼女らは顔を見合わせて笑い、母とエメレリアがギイを取り囲んで両脇から抱き締める。
「ちょ、ふたりとも、何……」
あまりに予想外のことだったもので、思わず硬直して目を白黒させるギイに、エルフェンバインがくすっと笑い、騎士の訓練を始めて一年弱でずいぶん大きくなったように思う手で、ギイの真っ赤な頭をわしわしと掻き回した。
甘えたいけれど邪魔をしてはいけないから、とスキンシップすら我慢していた――抱きつきたいとか、抱き締めて欲しいとか、頭を撫でて欲しいとか――ギイは、急なことに首まで赤くなる。
「私、最近、ギイに甘え過ぎだったなぁって思って、今日は午後からお休みをいただいてきたのよ」
「や、そんな、べつに、」
「アタシたちも、ギイの頑張りに甘えて、色々怠けちゃってたからね。たまには、ギイを甘やかそう、ってさ」
「いや、その……だから、べつに」
「俺も、ツィー姉上に許しをもらってきた。お袋が奮発して、糖蜜漬け果物のマルス(生クリームを泡立てて作るムースの一種)を作ったんだぜ。姉上がギイに飲ませてやれってプラーティーン産ダルク茶をくれたから、そいつと昼飯を持ってゼーゲン丘に行こう」
「だ、だから、」
降って湧いたような幸運、楽しい午後の時間に、どうしたらいいのか判らなくなり、首も耳も真っ赤にしたままもごもごと口ごもるギイを、ハルカが目を細めて見ていた。
善は急げだ、とエメレリアが言って、すぐに支度が始まり、母とエメレリアとエルフェンバインが手際よく準備をしてゆく。
「ハルカさんって言ったっけ、ギイを見ててくれてありがとうね」
あっという間に出かける準備を終えたエメレリアが言うと、手持ち無沙汰のギイと一緒に庭の水遣りをしていたハルカはちいさく首を横に振り、傍らのギイの頭をわしゃっと掻き混ぜた。
「お前たちが、この子を大切に思う理由は、私にも判る」
その言葉に、ギイはわけもなく泣きたい気分になって、家から出てきた母に向かって駆け寄り、水に濡れたままの手で彼女に抱きついた。
母は、一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐにやさしく笑って膝を折り、ギイを抱き締めて、額と頬にキスを落とし、頬ずりをした。
「ごめんね、ギイ」
ギイは首を横に振るしかなかった。
「かーさんたち、何もわるいことしてねーもん」
母と、エメレリアと、エルフェンバインと、ツァールトハイト。それからハルカ。
自分を包み込む、大きな、温かいもの。
それが何であるのか、ギイには判る。
「かーさんたちがわるいんじゃなくて、たんに、オレが幸せすぎるだけなんだ」
自分は愛されている。
大切にされている。
忙しい彼女らが、自分のために時間を割き、心を砕いてくれていることが判る。
自分はまだ子どもで、出来ることは限られていて、役に立たないことも多いけれど、彼女らの愛に応え、報いなくてはならないと思う。
そう、ギイの幼い心が、その全体で叫んでいる。
そのために、ギイは未来を見ている。
「よし、これで準備完了だね。お腹も減ったことだし、行こうか」
「お袋、敷き物はどうする?」
「ゼーゲン丘なら、なくても大丈夫だよ。なんならエルフ、アタシの膝の上に載せてやるからさ」
「全身全霊で遠慮させてくれ」
豪快に笑うエメレリア、呆れるエルフェンバイン、ギイと手をつなぎ、くすくすと笑う母。
ハルカはそれらを、慈しむような目で見ている。
ギイは、胸いっぱいに広がるその感情が何であるかを知っていた。
それを幸せと、愛しさと呼ぶのだと。
「じゃ、行こうか、ギイ。夕飯も、皆で食べましょう」
「うん……!」
頬を紅潮させ、ギイは大きく頷く。
大好きな人たちが、傍にいてくれる。
それだけで、彼の小さな胸は、充足の幼い喜びでいっぱいになった。
――こんな日が、ずっとずっと続くのだと、信じていた。
* * * * *
白い光の差し込む居城で、かれは目を覚ました。
「……夢か」
溜め息をつき、大きな寝台から身を起こす。
寝台には、分厚い、様々なサイズの本がばら撒かれている。
寝転がって調べ物をしていたら、そのまま眠ってしまったらしい。
本を拾い上げ、積み上げていたら、少年の、はにかんだ、いとけない笑顔が脳裏を過ぎり、かれは唇を引き結んで沈黙した。
「お目覚めですか、陛下」
「何やら……うなされておいでのようでしたが」
そこへ、図ったかのようなタイミングで、盆を手にしたふたりの側近が部屋に入って来る。
彼らは、片割れが漆黒の髪を、片割れが黄金の髪をしている以外、白銀の目も顔立ちも身体つきも、すべてが同じだ。
彼らのような、上位に位置する同胞は、生粋であれ人の子から生まれたものであれ、双子である場合が大抵で、互いを補い合うように出来ているのだが、彼らのように、髪ではなく目が同じ色、というのは、同じような関係で生まれた同胞たちの間でも珍しいようだった。
ひとの寝室に尋ねもせず入るな、と怒るような感覚はなく、かれは首を横に振ってひとつ息を吐いた。
「いつものあれだ、ゲルダ、ダルガ」
「……ああ」
漆黒の髪の片割れが苦笑し、寝台脇の小さなテーブルに、湯気を立てるカップを置いた。湯気からは、かれの好きな茶の、清々しく芳しい香りがした。
「かの少年は、今や黒の申し子の座したる恵の国にて、超級討伐士として腕を揮っていると聞きます」
黄金の髪の片割れが、言いながら、テーブルに甘い茶菓子を置く。
十年前、まだかれがあの子どもの傍に在ることを許されていた時、少年のために菓子を焼いていたのも、彼だった。
「かの少年とて、本当は気づいているはず。あなたの責ではないのだと。……白王陛下がそうまで気に病まれる必要はないのでは?」
「知っている、ゲルダ。だが……だからこそ、だ」
「だからこそ、とは?」
「混沌の君の思惑に気づきながら、かの君の『手』を――祭を察知しながら、私は何も出来なかったのだ、ダルガ。たとえ彼が、もう私を責めてはいなくとも、私は己が無力を許すわけには行かない」
埒外の者として、出来ることなど限られているが、あの日の惨劇が、あの日の彼の涙が胸を抉るから、かれは、自分のやるべきことをやるのだ。
すでにこの世にはない『彼女』への、未だ色褪せぬ恋情と同じくらい、その感情は今、かれを縛っている。
頑なですらあるかれの言に、ふたりは微苦笑した。
「……はい、陛下のそのご気性は、よく存じておりますよ」
「無論、白派は、陛下の命に従うのみです」
従順に頭(こうべ)を垂れるふたりに頷いてみせ、かれは寝台から降りた。
「何か、報せはあるか」
「黒王陛下より文が来ておりました。面白いことがあったとかで、また報告においでになるそうです」
「ああ、黒の申し子のことかな。私も、彼には期待している。他は?」
「黄王陛下は……やはり、塞いでおいでの様子です」
「赤王陛下と青王陛下は、連れ立って他大陸へ視察に行っておられるとか」
「……そうか、特に変わりはないようだな」
頷きつつ、黒髪の片割れが手渡してくれる上着をまとい、金髪の片割れが手渡してくれるベルトを締めて、窓の外を見遣る。
「変革の時が来ると言うのならば、私は、それに乗じて、埒外の者としての責を果たそう」
かれらの居城を包み込む空間、純白でありながら『闇』としか表現出来ないそれの向こう側にある、幾つもの顔を思い起こしながら、呟く。
――なすべきことならば、小山のように積み上げられている。