4.その日

 何がおかしい、というわけではなかった。
 秋とは言ってもまだまだ過ごしやすい気温で、太陽は明るく、陽気にザーデバルクを照らしているし、空は澄んで明るく、風は爽やかで心地よく、――とにかく、その日も、とてもいい天気だった。
 それなのに、目覚めて、顔を洗いに家の外に出た時、妙に肌寒いような……薄ら寒い、気味の悪い、思わず眉をひそめたくなるような、なんとも居心地の悪い気分になったことを、ギイは鮮明に覚えている。
 ハルカと出会って、ちょうど一ヶ月目の日のことだった。
 母が朝と昼の食事の支度をするのを手伝って、様子を見に来たエルフェンバインと母と自分、三人で、イル麦入りのパンとチーズ、すももとヨーグルトという簡素な朝食を食べてから母と兄貴分を慌しく送り出し、水汲みと洗濯と買い物を終えた辺りでくだんの人物が来た。
 いつもならその三時間前、大体朝の八時くらいにはやってくるはずなのに、と、妙に不安な気持ちも手伝って、ギイはそわそわしていたのだが、
「おはようハルカ、今日もいい天気――……どした?」
 ようやくやってきたハルカの白い面が、今までにないほど厳しく引き締められていて、ギイが何かあったのかと訝ったのは当然のことだった。
「いや……」
 ハルカは首を横に振り、家の者が焼いたのだろう、高価なナッツがたくさん入ったビスケットの袋をギイに手渡しながら言った。
「ギイ、ヴァッサーリリィを呼び戻しに行け」
「え?」
「エルフェンバインも、エメレリアも、お前の好きな、そのねえさまとやらもだ」
「ハルカ、何、」
「時間がない、早く!」
「!」
 そんな風にハルカが声を荒らげるのは初めてのことで、少し怖じたギイが思わずびくりとすると、ハルカはハッとした表情になって、それから両腕を伸ばし、ギイをきつく抱き締めた。
「私を信じてくれ……頼む」
「……ハルカ?」
 ギイがおずおずと見上げると、ハルカは、不思議な風合いの双眸に――その目が、ほとんど銀色に近くなっているような気がしたのは、目の錯覚だっただろうか――真摯な色彩を載せて彼を見つめた。
「じきに祭が始まる。盛大な祭だ……それは判る。なのに、それ以上のものが何も見えない。こんなことは初めてだ……だが、これが混沌の君の思惑であることは判る。造物主亡き今、あの方を真実止められるものは、界神晶を手にした黒の御使いだけ。だが、それも叶わぬ今、ここは危険だ。……報せ得るすべての人たちに、一刻も早くここを出るように言うんだ、ギイ」
 ハルカの言うことは難しく、何のことなのかもギイには判らなかった。
 ただ、ハルカの言っていることが、嘘偽りではないという事実だけは判った。
 じわり、と、ひんやりとした不安が背筋を這い上がる。
 何か、とてつもなく不吉なものが近づいてきていることを、ハルカに言われたから、というだけでなく、ギイの幼い、幼いがゆえに柔軟で鋭敏な感覚は感じ取っていた。
 早くしなくては、と、わけもなく焦燥に駆られそうになって、ぐっと堪える。
「だけどハルカ、ここを出るって言ったって……それ、どこなんだよ。中央大通り? 中央区? ザーデバルク市?」
「おそらくは、ザーデバルク全域だ。……少なくとも、人間がたくさんいる場所は、危ない」
「そんなのできっこねーじゃん! オレたち、中央区からだって出たことねーのに、まちの外なんて……!」
 彼らのような貧しい人々は、人生を通して行動範囲が狭い。
 ギイは、中央区を初めとしてザーデバルク市内に設定された十の区のうち、自分が住まう中央区以外に足を踏み入れたこともなければ、ザーデバルク市外へ出たこともないのだ。
 何より、ザーデバルク市は広い。
 ザーデバルクの中心に位置する中央区から、隣のゲミュートリヒ市まで、少なくとも徒歩で二日はかかるのだ。
 それゆえのギイの物言いに、ハルカはほんの一瞬、何かを逡巡するような微妙な表情を浮かべたが、すぐに唇を引き結び、そして頷いた。
 ギイの両肩を掴み、真正面から彼を見据えて、
「判った……乗り物を用意する。少し驚かせるかも知れないが、それが一番確実だろう」
「のりもの? 馬車とかそんなものか?」
「ああ……そんなものだ。出来れば、怖がらずにいてくれればありがたい」
「??? わ、わかった」
「だからギイ、一刻も早くヴァッサーリリィたちをここへ。五十人くらいなら一度に運べる……近隣の人たちも、喪いたくないのであれば、呼べるだけ呼ぶんだ。さあ……早く!」
 有無を言わさぬ強さで言うハルカに、ギイはわけも判らぬまま、同意する。
「う、うん、わかった……!」
 そして、パッと走り出す。
 その隣にハルカが並んだ。
「私はエメレリアの店に行って来る。ここからは一番遠いからな。――お前は、ヴァッサーリリィとエルフェンバインを。お前のねえさまは、エルフェンバインと一緒だな?」
「う、うん……たぶん。でも、最近あっちこっちで異形が発生してるとかって、ねえさま、忙しいみたいだったから……わかんねーけど、探す。ぜったい見つけて、よんでくる」
「……任せた」
「わ……わかった……!」
「では、あとでな」
 言った後、ハルカは、不安でたまらない、という顔をしたギイに向かい、かすかに笑ってみせた。
「大丈夫だ、ギイ」
「え」
「……なんとかなる、きっと」
「うん……!」
 ぐっと拳を握り締めて頷き、ギイはハルカと分かれて走り出した。
 母の仕事先である定食屋まで、ギイの脚で四十分。エルフェンバインとツァールトハイトがいるお屋敷までは二十分だ。
「まずお屋敷行って、ねえさまたちに言って、お屋敷の人たちにも来てもらおう……それから、かーさんと、定食屋のひとたちにも」
 算段しながら十五分走ったところで、大通りの露店群が見えてきた。
 見知った、親しい人たちの顔が見え、無性にホッとしてギイは口元を緩める。
 彼らにも、早くここから逃げるよう言わなくてはならない。
 信じてもらえるかどうか判らないが、皆を助けたかったら、信じさせるしかないのだ。
 そんな風に思いながら、一気に通りへ駆け込もうとしたギイの目の前に、
「……よう、チビ」
 身体つきの大きい、ごつい造作の男たちが十人、立ちはだかった。
「!」
 ギイは息を飲み、方向転換して走り出そうとしたが、その時にはすでに、背後に回りこまれ、逃げ道を封じられている。
 中でも一番体の大きい、灰色の髪に黄緑色の目をした、にきび面の、顔や身体だけで言えばもうすっかり大人の男の、しかし実際には十七歳になったばかりという少年が、にやにやと笑いながらギイを見下ろした。
「そんなに急いでどこに行くんだよ、なぁ?」
 周囲の男たち――実際には、まだほとんどが少年と言っていい年齢だ――が、同じようににやにやと笑う。
 そこに暴力の、弱いものを甚振ることへの喜悦の匂いを感じ取って、身を守るすべすらないギイは身を竦ませたが、
「かーさんのとこに行くんだ、じゃますんな」
 ここで怯んでいては何も出来ない、と、精いっぱい虚勢を張り、少年を睨み据えた。
「かーさん? かーさんだってよ!」
 何がおかしいのか、少年たちがげらげらと笑う。
 ギイは拳をきつく握り締め、怒鳴った。
「いいからどけって! オレはいそがしいんだ!」
 無理やり包囲網を突破しようとしたら、後ろから誰かに蹴りつけられて、華奢なギイはひとたまりもなく吹っ飛んだ。
 無様に顔面から地面に落ち、強かに顔を打つ。
 痛みに息が詰まったが、今はそれどころではないと飛び起きようとしたギイの背を、また別の誰かが踏みつけた。ギイが地面に磔になる姿に、少年たちが爆笑する。
「……ッ!」
 何とか上半身だけを起こして砂にまみれた顔を必死で上げ、少年たちを見上げると、いつも中心になって悪さをしている黄緑の目の少年が、爬虫類のような眼差しでギイを見下ろしていた。
「てめぇにゃ色々と邪魔されてきたよなァ」
 伸ばされたごつい手が、ギイの髪を掴み、無理やり上を向かせる。
「てめぇがあのババアに密告してくれたお陰で、おれたちがどんな迷惑をこうむったか、判ってるよな? ん?」
 自分勝手な論理で、復讐を口にする彼に、
「ようやく憂さが晴らせるぜ。……五体満足で帰れると思うな」
 ギイは奥歯を噛み締めた。
 ――今はそれどころではない。
 危険が近づいている。
 ギイには、それが判る。
 何かが来る。
 その何かは、ギイたちの生活を壊し、命を脅かす。
 それが判る。
 だが……彼らには、判らないのだ。
 彼らには、ギイの背筋を寒くするこの危機感、焦燥が、感じ取れないのだ。
「はなせ、やることがあるんだ、はなせよッ!」
 ギイは背を踏みつける男を跳ね除けようと、じたばたともがいた。
 無論、それは叶わず、焦り、恐怖、苦悩、哀しみ、絶望、そのどれとも知れぬ感情に、ギイが、わけも判らず叫び出しそうになった、その時だった。
「……?」
 突然、スッと背筋が冷えた。
 ぞくぞくと、得体の知れない寒気が這い上がってくる。
「あ、ああ……」
 何かが来る。
 この感覚を、実は、知っている。
 ――三年前の秋だった。
 露店群の片隅で、露天商のひとりに言いがかりをつけていた男、腕力を笠に着て貧しい人々から小金を掠め取って糧にしているような小悪党の周りに悪創念が湧いた。
 湧いたことが直接判ったわけではない。
 ただ、下卑た優越感たっぷりに露天商を脅していた彼が、唐突に顔を強張らせ、絶望の表情で胸を掻き毟ったのを見ていただけだ。その目が、あの、腐った血の色に変化したことに、誰よりも早く気づいただけだ。
 悪創念は彼を、身の丈三百ロフの怪物へと転じさせ、逃げ惑う人々は次々にその犠牲となり、――そして異形は、貧しい露天商のひとりだった父の、捨て身の攻撃によって、斃された。
「とーさん……!」
 あの時、ギイは父にくっついて、露店の手伝いをしていた。
 小悪党が異形に変わるのを、異形が人々を食い散らかすのを、父が異形に引き裂かれながら異形の急所にナイフを突き立てるのを、全身を血に染めた父がゆっくりと地面に倒れていくのを、すべて、見ていた。
 あの時の絶望の匂いを、ギイは今も覚えている。
 その匂いが、今、まさに、漂ってくるのだ。
 そう……悪創念が、ここに、湧こうとしている。ハルカが言いたかったのは、多分、このことだ。
 それが判ったから、ギイは、男のひとりに踏みつけられたまま、叫んだ。
「はやく逃げろ……ここはあぶねぇ、異形が出る!」
 どんな憎い悪党でも、それが異形に転じなくてはならないほどの罪だとは思わない。彼らのしたことが、異形に食い殺され、自分もまた異形に転じなくてはならないほどの悪行だったとは、思えない。
 それは恐らく、この世界に生きるすべての人々の共通認識で、だからこそ、ギイは叫んだのだったが、しかしそれは、苦し紛れの言い訳と取られたらしく、少年たちはゲラゲラ笑っただけだった。
 その頃には、ギイの危機感は頂点に達していた。
 もう間に合わない。
 そんな確信が、胸に兆す。
 黄緑の目の少年が、馬鹿じゃねぇのか、と嘲りもあらわにギイを見下ろし、
「そんなことで騙されると思ったら、オ、オオオオオオマチガ、イ、イイイイイイ、イイイイイイイ、イィイイイ、イィイ゛、ッ???」
 ――唐突に、声を裏返らせた。
 驚愕の表情で、彼が咽喉を抑えると、ごぼごぼと妙な音を立てる。
「!?」
 少年たちがぎょっとなった。
 黄緑の目の少年は、がくがくと身体を震わせながら、咽喉を、胸を掻き毟った。
「ア、アアアァ、あ、おれ、は、おれ、アアア、何だこれ、ナンダコレ、ナンナンダコレハアアアアアアアアアァエエエエエエエエエエエエェ!」
 片言のような奇妙な……狂った音韻で、少年が絶叫する。
 服地の下で、彼の身体がもこもこと蠢いた。
 その目が、腐った血の色に変わり始めていることに、ギイは気づいた。
「悪創念……やっぱり……!」
 呻くギイの背を踏みつけていた少年が、かすれた悲鳴を上げて一歩後退し、自由を取り戻したギイが跳ね起きると同時に、

 めこ、ぼごんッ!

 生々しい、怖気をそそる音とともに、彼の身体が膨らんだ。
 否、膨らんだと言うよりは、内部で魔法の力でも弾けて、内側から急に膨らまされた、というべきだったかも知れない。
 趣味は悪いが丈夫な服地が弾けとび、少年の身体はぼこぼこと膨らんでいく。勢いに耐え切れなかったのか、彼の表皮は、まるで、長時間手入れされていなかった土壁のように――その様子が、彼らが根城にしている古ぼけた倉庫に酷似していたことは、ギイには知るよすがもなかった――ひび割れ、内側の肉を、筋を露出させていた。
 その右胸に、《呪紋》と呼ばれる禍々しい紋様が浮かび上がり、歪に拍動しているのが見え、ギイは唇を引き結ぶ。
「あぐッ、ご、が……ッ」
 少年の目が、舌が、零れ落ちそうなほどに眼窩から、口からせり出している。
 さっきまで仲間だった少年たちは、息を飲み、硬直していた。
 身動きも出来ずにいるようだった。
「おい、ぼさっとしてんな、早く逃げねーと……!」
 ギイは、そのうちのひとりの手を掴んで引っ張った。
 怖くないわけではない。
 否、怖くないわけがない。
 だが、ここで立ち止まっていたら、誰も救えない。
 母を、大事な人たちを護れない。
 だからギイは、まだ立っている。折れていない。
 そして、たとえついさっきまで集団で暴行を加えられそうになっていたとしても、まだ助けられるなら、ここで彼らを見捨てるわけには行かない。同じ人間として、見捨てたくはない。
 無論、父のしたことを、他者のために斃れた父を、何よりも誇りに思っているからだ。
 だが、
「く……クリーゼ……おい、冗談やめろよ、なあ……」
 少年たちは動かなかった。
 動けなかった、が、正しいのかもしれない。
 事実それは、彼らの思考を停止させるに充分な出来事でもあるのだった。
 上質の紙のように真っ白になった顔に、貼り付いたような、奇妙な笑みを浮かべた少年のひとりが、ぼこぼこと膨張していく彼に一歩近づく。彼はもう、身の丈五百ロフにも達しようとしていた。
 皮膚が裂け、肉がぐずぐずと崩れたそれは、人のかたちをしていながら、もう、人ではあり得ない。
「ばッ……おい、やめ……」
 やめろ、というギイの言葉は、すべてかたちになることがなかった。
 何故なら、

「くくくくく、くかかかかかかかかか」

 気味の悪い、しかし確かに感情の感じられる声で笑った『彼』の口が、いきなり首の辺りまで裂け、そしていっそ滑稽ですらある柔軟さで鞭のようにしなったその首――牙だらけの『口』がぐるりと揮われて、

 ばづん!

 『彼』に歩み寄ろうとしていた少年の上半身を、一口で食いちぎってしまったからだ。
 上半身を失った少年の、残された身体が、ぐらぐらと揺れて――ゆっくりと斃れたかと思うと、切り口から、ぶしゅう、と血が噴き上がる。
「!!」
 ずしゃ、と音を立てて、ついさっきまで人間だった、小悪党ではあっても確かに生きた人間だった『彼』が、ぐずぐずに崩れて骨を覗かせた脚で一歩踏み出す。それだけで、ぼろぼろと肉片が剥がれ落ち、周囲に胸の悪くなるような悪臭を撒き散らした。
「おい、逃げるぞ、はやくしろっ!」
 ギイは怒鳴り、少年の手を引っ張った。
 その途端、彼は――彼らは、へたへたとその場に崩れ落ちてしまった。
 あまりの事態に、腰を抜かしたのだ。
「う、ううううう、うわあああああああああああ!!」
 断末魔の如き絶叫が咽喉から迸るものの、必死で逃げようと手足をばたつかせるものの、立ち上がることも出来ずにいるようだった。
 め゛ごん、と音を立てて、『彼』の両腕が縦に裂ける。
 裂けたそこにも、無数の牙がぞろりと並んでいる。
 『彼』は、巨大に膨張した、しかし人間だった頃の面立ちをはっきりと残した顔に、狂気と喜悦の色を載せ、今や『口』となった腕をうっそりと伸ばした。
 また絶叫が上がった。
 腕に現れた『口』に、ふたりの少年が頭から喰らわれたのだ。
 周囲に、肉を噛み裂く生々しい音と、自分を、仲間を食らわれる少年たちの絶望に満ちた悲鳴が響く。
「くそ……っ」
 ギイは歯噛みした。
 彼には、目の前で死んでいく人たちを救うすべすらないのだ。
 『彼』の全長が五百ロフを超えているということは、それはつまり《色なし》の中でも最大級の『大禍物』が顕れたということだ。
 当代一と噂される超級討伐士であるツァールトハイトならば一撃のもとに斃してしまうのかもしれないが、剣どころかナイフを持って誰かを攻撃したことすらないギイに何とかできるような相手ではなかった。
「おい、ぼーっとしてんなって、早く逃げるんだよ!」
 ギイは、再度、茫然自失状態で座り込んだままの男の手を掴み、身体全体で担ぐようにして強く引っ張った。
 彼はやはり立ち上がらず――立ち上がれず、振り返りもしないまま、舌打ちをしてもう一度その手を思い切り引っ張った瞬間、唐突に負荷が消え、ギイは勢い余って地面を転がった。
 手の中には、まだ、彼の手のぬくもりがある。
「……!!」
 だが、ギイの手の中にあったのは、彼の手だけ、だった。
 二の腕から先だけが、ギイの手の中に残っていた。
 激しい勢いで噴き出した生温かい血が、ギイにも降りかかる。
「うわあぁっ!!」
 悲鳴を上げてそれを放り出し、地面を転がったまま恐る恐る背後を見遣ると、あの鼻つまみ者たちは、『彼』に食い散らかされてすべて死んでいた。
 身体の半分だけ、腕の一本だけ、胸から上だけ、遊びのように残されたそれらが、恨めしげにギイを見ている。
「――……ッッ!」
 ギイは息を飲み、悲鳴を堪えて地面を蹴飛ばし、立ち上がった。
 ここであいつに喰らわれてしまうわけには行かない。
 早く、速く、知らせなくては。
 その思いだけで、萎縮しがくがくと震える足腰に鞭打って、走り出す。

「くくくく、くく、くぶ、くかかかかかかか」

 背後から、あの、不気味な笑い声が、いくつも聞こえてきた。
 絶望と恐怖に臓腑が冷える。
「かーさん……かーさんッ!」
 母を呼び、自分を叱咤して、ギイは奔った。
 必死で奔って、露店群のある大通りに飛び込む。
「皆、たいへんだ、異形が……おおまがものが。はやく逃げ……」
 危険を報せようとしたギイの声は途切れ、彼のヴァルヴェスティオン(月長石)のような目は、衝撃に――絶望を宿して見開かれた。

「くく、くくく、くかか、かかかかか、くくくくくかかかかかか」

 スパイス屋の親爺が、茶葉屋のおばさんが、花売りの姐さんが、悲鳴を上げて逃げ惑っている。
 大通りには、他にも、たくさんの露天商たちがいて、ギイに親切にしてくれた人も、顔見知り程度の人も、たくさんの人たちがいて、同じように逃げ惑っていたが、彼らは次々と、身の丈五百ロフを超える、三体もの大禍物に捕まって、頭から、腹のやわらかいところを、脚から、絶叫とともに貪り食われていた。
 ――……そう。
「う、うう……うわああああああぁッ!!」
 ギイは絶叫するしかなかった。
 大通りもまだ、すでに、地獄と化していたのだった。

 ――そして、その日が来る。
 永訣の日、変貌の日、変質の日が。

 * * * * *

(まただ……)
 惨劇を見据えながら、飛鳥は小さくつぶやいた。
《どうした、アスカ》
(また、誰かが、溜め息をついた。アマルの時も、そうだった)
 飛鳥の言葉に、ソル=ダートが笑みを浮かべる。
《……そうだな》
(あんたにも判るのか、あれが。……根拠はないが、これは確信だ。あの溜め息が悪創念となり、異形を生んでいる。だが……あれは、一体、誰のこぼした溜め息だ?)
 彼の記憶の中で、ギイに親しく声をかけていた人々が、巨大な異形に捕獲され、次々と貪り食われて行く。
 そして、身体の半分を食われ、肉塊と化して血だまりに沈んだ人々の骸も、ものの数分で異形と化し、あの気味の悪い笑い声を響かせながら、かつては隣人であり友人であった人々を襲い始めた。
(ソル=ダート。あんたは知ってるんだろう……あれが、一体、なんであるのかを)
 答えが返ると思って口にした問いではなかった。
 埒外の者。
 その表現の中に、どうにも出来ないもどかしさを飛鳥は感じる。
 ソル=ダートも、神々も、きっと、その『埒』の外側にしか存在することが出来ず、ゆえに表立って手出しも出来ずにいるのだ。
 このすべては、人間たちの手で、決着をつけなくてはならないことなのだ。
 だが、飛鳥にとっては、答えのないことが答えだった。
 詳細までは判らずとも、解決が容易くなく、根が深いということなのだ。
 ――ギイの記憶の中で、彼と親しくしていた人々が、次々に食い殺され、次々に異形と化していく。
 異形は、大きな異形に食われ、大きな異形は大禍物と呼ばれる特大の異形に食われて、肉片となり、萎れて、動かなくなっていく。
 その地獄絵図の中を、少女と見紛う美しい顔立ちの華奢な少年が、泣き喚きながら走り抜けていく。少年は、母を、大切な人たちの名を呼びながら、異形の魔手を掻い潜り、ザーデバルクのお屋敷へと駆け込んで行った。
 大通りには、未だ三体もの巨大な異形が在って、あの気味の悪い声で笑いながら――しかしそれは何故か、助けてくれと声なく絶叫しているようでもあった――、辺りに死を振り撒いていく。
 領兵や騎士たち、討伐士たちが到着する様子はなかった。
 イスフェニアの報告では、このときすでに、ザーデバルク市全土に三十以上の異形が発生し、ほとんどがそちらに出払っていたのだ。
 だが、被害の割合は、どこもそれほど変わりがなかった。
 この事件によって、ザーデバルク市の人口は、およそ三分の一まで減ってしまったのだという。
(……凄惨だな)
 ハルカの言った、混沌の君云々を思い起こしながら飛鳥は呟く。
 もはや変えることの出来ない結末と判っていて、つい先ほどまでギイの記憶の中で笑っていた人々が、ひどい絶望の表情で死んで行き、そしてあの嘲笑めいたヒトならぬモノに転ずる様子を目にすると、胸の奥がきりりと痛む。
 誰かが、誰かを愛している。
 誰もが、誰かを愛し、誰かに愛されている。
 その、平凡だが美しい、穏やかな日々の営みを、混沌の君という存在は、破壊してしまいたいのだろうか。
 溜め息をつく誰か。
 その溜め息が悪創念となり、異形を生む。
 なら、溜め息が悪創念となるよう、悪創念が異形を生むように仕向けているのが、混沌の君ということなのか。
 それは思考の一部に過ぎなかったが、恐らく真実だろうという確信もあった。
(まだまだ、これからだ。やるべきことは、多い……な)
 呟き、飛鳥はまた意識を凝らす。
 ギイを今のギイにしたすべての要因を、ひとつも逃さず、真っ向から見届けてやるつもりで。