5.狂乱

 飛び込んだ先、ザーデバルクのお屋敷もすでに地獄と化していた。
 ここでも異形が発生しているらしく、あちこちに、異形に食い殺された人々の、蒼白になった面に恐怖と絶望を貼り付けた骸が打ち捨てられ、血の海に沈んでいる。
 骸がごそごそ、もそもそと動いているのは、じきに異形化が始まるからだ。
 ぐずぐずしてはいられない。
 事切れているのが、ギイのような子どもにも親切にしてくれた、このお屋敷の侍従や、奴隷の人々だとしても、それを悼み、涙している時間は、ギイには与えられていないのだ。
 ギイは、生き残っている人たちを見つけ出して、ハルカの用意してくれる乗り物に乗せ、安全な場所まで避難させなくてはならないのだから。
「エルフ、ねえさま……どこだ、どこにいるんだ、返事してくれ!」
 しゃりしゃり、かりかり、しゃらしゃらという涼しげな音がどこかから聞こえてくる。その音の聞こえるところから、悲鳴が聞こえる。――恐らく、あの音を出しているのが、ここをこんな地獄に変えた異形なのだろう。
 いったい、誰が異形と化したのか。
「エルフ……ねえさま。……大丈夫だ、そんなはず、ねえ……!」
 嫌な想像が脳裏を過ぎって、肺腑の底が冷え、ぞわりと背筋が粟立ったが、ぶんぶんと首を横に振ってその想像を追い出し、ギイは音のする方向に向かって走り出した。

「くけ、くく、くかか、かかか、けけけかかかかかか」

 背後から、気味の悪い、それでいて物悲しい、すでにすっかり聴き慣れてしまった笑い声が聞こえてくる。
「ごめん……何も出来なくてごめん……!」
 強くなることがギイの目標だった。
 ツァールトハイトを護り、母を助けて、自分を大切にしてくれる人たちを幸せにするために、ギイは強くなりたかった。
 けれど、こんな絶望の場所で、どれだけ強くなれれば、護るべきものを護れるようになるのか、ギイには判らない。何を持って『強さ』と呼ぶのか、判らないのと同等に。
「エルフ、ねえさまッ!」
 それでもまだ諦められない。
 ハルカが、乗り物を用意して待っている。
 母と、兄貴分と、大切な人たちを連れて、早く家に帰らなくては。
 その一心で走り、長い廊下の角を曲がったところで、ギイは『彼』と邂逅した。
「……!!」
 ギイの、ヴァルヴェスティオンの目が、大きく見開かれる。
「あ、ああ、あ……」
 身体が、自然と震え出していた。
 ――異形は、大きかった。
 大禍物と呼ばれる、《色なし》の化け物は、最低でも五百ロフ(五メートル)に達するものだが、これは、更に大きかった。
 縦に七百ロフ、横に千ロフはあるのではなかろうか。
 しゃりしゃりと音を立てるのは、巨大な異形の長い身体から、蜈蚣の脚のように生え出た白く鋭い剣身が、『彼』が前へ進むたびに、廊下や、壁や、窓を擦るからだった。
 それは、剣の脚を持つ蛇のようにも見えたし、異様に鋭い体毛を持つ毛虫のようにも見えた。白々と輝く剣身の美しさの所為で、おぞましく忌まわしいのに、何故か、どこか、美しくも見える異形だった。
 しかし、ギイが衝撃を受けたのは、異形が大きかったからでも、恐ろしかったからでもなかった。
 異形の頭部、張り付いたような狂気の笑みを浮かべるその巨大な顔に、見覚えがあったからだ。否、見覚えがあるどころか、『彼』がとても身近な存在だったからだ。
「りょ……」
 ごくり、と咽喉が鳴る。
 茶色の髪に、空色の瞳。
 それほど大柄ではないが、六十歳という年齢を感じさせない強靭な、よく日焼けした身体。
 笑うと皺の寄る目尻。
 お喋りなタチではなかったものの、常に民のことを考え、民の傍に心を置いた、穏やかな人柄。――それでも、若い頃は、リィンクローヴァでも指折りの戦上手として鳴らしたのだという。
 ギイにとっては、母の元雇い主であるのと同時に、時折ツァールトハイトを訪ねてお屋敷に出入りする彼を温かく迎え入れてくれ、時には甘いお菓子をくれる、祖父のような存在でもあった。
 部屋にこもっていることが増えていて、最近では滅多に顔を合わせることはなかったけれど、『彼』もまた、確かに、ギイにはやさしかった。
「領主、さま……!」
 そう、そこにあったのは、ザーデバルク領主、ライデンズ・エヴィ・ザーデバルクの、変わり果てた姿だったのだ。
 十三年前に奥方のヒルフロースを亡くしてからは、塞ぎ込むことが増えていたと聴くものの、それでも、民のために尽くしてきた彼が、こんな風に、異形化しなくてはならない理由など、どこにもない。
 しゃらしゃら、しゃりしゃり。
 いっそ美しくすらある涼しげな音を立てて、異形が歩む。
 廊下の隅に追い詰められ、逃げられずにいた侍従の老人に向かって、剣の脚が触手めいた動きで伸び、まるでフォークで肉を突き刺すような気安さで彼を貫く。
 老人の絶叫に、ギイは耳を塞いだ。
 身体中を貫かれ、事切れた彼の身体が、血を噴きこぼしながら異形の……ザーデバルク領主だった存在の口へと運ばれていく。
 ぼりぼり、ごきん。
 咀嚼する音が生々しく、寒々しく響く。
「どう、して……」
 ギイは震えながら一歩下がった。
 異形が、ギイに気づいたからだ。
「どうして、こんな……なんで」
 奥歯がカチカチと鳴る。
 身も凍るような恐怖と絶望が、足元から這い上がってくる。
「領主さまも、露店の人たちも、あいつらだって……そんな悪いこと、してねーのに、どうして。なぁ、なんでだよ、神さま……!」
 黒き双ツなる神は、国や、世界全体を護ってくれる神さまだ。
 神さまは、遠い場所で、皆を見守ってくれている。
 だから、こんなところで、都合よく助けてくれるような、お手軽な存在ではない。
 判っていて、どうして、と問わずにはいられなかった。
 しゃりん。
 異形の脚が白く凶悪に煌めく。
 それらが一斉にギイを向く。
「……ッ!」
 ギイは、慌てて走り出そうとして、足がもつれ、その場で転んだ。
「ぅあ……あ、ああ……」
 恐怖で歯の根が合わなくなる。
 滅茶苦茶になった思考の中、母と、エルフェンバインと、ツァールトハイトの名前、そして死にたくない、という言葉を呪文のように繰り返す間に、凶悪に輝く剣の脚が、ギイ目がけて伸ばされ、彼を貫――……
「ギイっ!」
 その一瞬前、響いた声は、エルフェンバインのものだった。
 恐怖にかすんだ視界に、兄貴分の姿が飛び込んで来て、
「え、エルフ……」
「悪い、遅くなった。生き残った人たちを避難させてたんだ……十人も、救えなかったが」
 剣の脚を掻い潜った彼は、転んだままのギイの身体を、大きな手で担ぎ上げると、そのまま異形に背を向けて走り出した。獲物を捕らえ損ねた脚が、壁や床を擦る、しゃりしゃりという涼やかな音が響く。
 ギイは、エルフェンバインの温かく力強い腕に抱かれ、運ばれながら、彼の身体にしがみついて震えていた。
「エルフ、領主さまが」
「……ああ。最初に異形化したのがウォルス爺さんで、彼から、皆を護って……それで」
 エルフェンバインの言葉尻も震えていた。
「いったい、何が起こってるんだ、ザーデバルク市に」
「エルフ、ねえさまは」
「一時間くらい前に、東第二区ででかい異形が三体も湧いたって報告があって、騎士や領兵たちを指揮して出て行った」
「じゃあ……もう、戻ってくる、か……?」
「ああ、だけどそのあと、次々と、あっちこっちで異形が発生したって報告が入って――計算した限りじゃ、もう、三十は超えてる。だから……騎士たちも、領兵も、ツィー姉上も、今どこにいるのか……」
 異形から逃れて外へ飛び出し、お屋敷から距離を取る。
 大通りの方からは、巨大な異形の咆哮とあの笑い声が聞こえてくる。
 地面に降ろしてもらって、どうにかこうにか自分の足で立って、ギイはぎゅっとエルフェンバインの手を握り締めた。
 エルフェンバインはあまりの事態に言葉をなくしている様子だったが、
「エルフ、ハルカが、オレんちにみんなで戻ってこいって。乗り物を用意するから、それで安全なとこに逃げろって」
 ギイのその言葉に、ぐっと唇を引き結んで頷いた。
「じゃあ……お屋敷や大通りの、生き残った人たちを」
「うん、あと、かーさんと、エメレおばさんと、お店の人たちも」
「なら、呼びに行かないと」
「エメレおばさんのとこへは、ハルカが行くって言ってた」
「そ……そうなのか、じゃあ、」
「オレ、かーさんとこ、行かねーと」
 お屋敷の方向から、異形の、つい先刻までこのまちの領主だった人の咆哮が聞こえて来て、ギイはびくりと身体を震わせた。
「早く……行かねーと。今のザーデバルクは、どこにいてもきけんだって、ハルカが」
 恐怖と嫌な予感に喘ぎながらも、何とかして母と再会し、彼女を安全な場所まで逃がさなくては、と歩き出そうとしたギイは、
「待てギイ、なんでハルカはそれを知ってるんだ」
 いぶかしげなエルフェンバインの言葉に動きを止めた。
「え、なんで、って……」
 どことなく浮き世離れした、どうも外見通りの年齢ではないらしい、変わり者のハルカ。変わり者だけれど、ハルカがギイに向ける笑顔に曇りはなかったし、この一ヶ月の間、ハルカを疑ったこと、不審に思ったこともなかった。
 しかし、言われてみれば、おかしなことだらけなのだ。
「俺だってあいつがお前といてくれてホッとしてるし、お前がそれだけ懐いてるやつを疑いたくなんかない。だけど……どう考えてもおかしいだろ。この世界の人間の、いったい誰が、悪創念の危険をそこまで正確に読み取れる?」
「だから……それは、」
「ギイ。ツィー姉上に訊いたんだが、このザーデバルクに、ハルカ・ヘルデンハフトなんて名前の人間はいない。下級貴族にも、領民にも、奴隷にも、誰ひとりとして、そんな名前を持ったやつはいないんだ」
「……!」
 ハルカの笑顔、手の温かさに疑う余地などないはずだった。
 何とかなると言ったハルカの言葉を信じてここまで来た。
 ――ギイの魂の奥底が、信じていいと叫んでいる。
 だが、この未曾有の事態に混乱を極めたギイの心は、思考は、エルフェンバインの告げた事実によって大いに揺さぶられ、わずかな迷いと疑念とを、彼の中に生じさせ、魂の、根源の叫びを薄れさせてしまっていた。
「じゃあ……あいつは、いったい……」
「そんなこと、俺に判るはずがない。とりあえず、今判ってるのは、早いとこお袋やリリィおばさん、ツィー姉上と合流するしかない、ってことだ。逃げ場を探すのは、そのあとでいい」
「でも、ハルカが、」
「ギイ、気持ちは判るが……」
 エルフェンバインは、恐らく、これ以上ハルカを盲信し、あてにしても仕方がないと、そう言いたかったのだろうと思う。
 しかし、彼がそれをすべて言い終わるより早く、

 ごぉうッ!

 ふたりの頭上を、恐ろしい勢いで何かが飛んでいき、その風圧で持って彼らを盛大によろめかせ、エルフェンバインの言葉を奪ってしまった。
「な、あ……!」
 遠くに見える、大通りに、それが舞い降りたのが判った。
 その姿に、ギイは目を見開いた。
 それは、白銀の、巨大な竜だった。
 全長は、二十シェン・ロフ(二十メートル)にもなるだろうか。
 背中に誰かが乗っているような気がしたが、すぐに建物の陰に隠れて見えなくなった。
 竜は、一枚一枚が完璧なまでに美しい、幾何学的に整った白銀の鱗をきらめかせ、狂乱する異形たちのただ中に降り立つと、前脚を、尾を、あぎとを使って、異形たちを次々に屠り始めた。
 竜の双眸は、遠目にもよく判る、輝くような白銀だった。
 広げられた翼は大きく、絹か天鵞絨のように滑らかで美しい。鬣が翻る様はこんな場面でも優美の一言に尽きたが、それと同時に、竜が謳うのは絶対的な力の存在だった。
「こんなところに、なんで、あんな大きな竜が……」
 竜は、決して珍しい生き物ではない。
 どこの空でも、ふと見上げれば飛んでいるような、遠くはあるが近しい生き物だ。
 しかし、あんなに巨大な竜が、ここまで人里に降りてくるなど、ギイは、聴いたこともない。
「でも……あの竜、異形とたたかってる。オレたちのこと、助けようとしてくれてるんだ」
「……だといいが、……! お袋、おばさん!」
 言いかけたエルフェンバインが、大通りに向かって声を上げた。
 ぎょっとなったギイがそちらを見遣ると、確かに、母とエメレリアが、支え合い、手を取り合って、こちらへ走ってくるところだった。
「まさか、さっきの竜が……いや、そんな、まさか」
 怪我をしているのだろうか、エメレリアは顔色がよくない。
 竜の攻撃を免れた異形が、ふたりの背後をのったりと追って来るのが見えて、ギイはエルフェンバインと一緒に、彼女らに向かって走った。
「かーさん、エメレおばさん、いそいで!」
 ふたりはすぐにギイとエルフェンバインに気づいたようで、ほんの少しホッとした表情を浮かべたが、すぐに、エメレリアの表情が凍った。
 声を嗄らしてエメレリアの名を呼び、腕を引く母の努力も虚しく、がくり、と膝をつく。
「エメレ、しっかりして……諦めないで!」
 母の声が聞こえてくる。
 エメレリアは激しく首を横に振り、
「ああ、あ、あああ、ああああああああああ!」
 絶叫とともに、母の華奢な身体を勢いよく突き飛ばした。
「!! エメレ!」
 エメレリアの大きな、温かい手が、咽喉元を掻き毟る。
 ――異形が、背後に迫る。
「に、逃げて……」
 ごぼごぼと、咽喉の奥で奇妙な音を立てながら、エメレリアが言った。
 彼女の、翡翠色の目が、腐った血の色を宿し始めていることに気づいて、ギイは息を飲み、そして……絶望する。
 もう、何もかもおしまいだ、と、本気で思った。
 エメレリアの豊満な身体が、がくがくと痙攣しながら、少しずつ膨張していく。
「お袋……ッ!!」
 同じことに気づいたエルフェンバインが悲壮な顔をし、腰から剣を抜いて、彼女に向かって走り出した。彼女を、背後に迫る異形から護るつもりなのだろう。
 生活水準に違いはあれ、エルフェンバインもまた、母ひとり子ひとりの家族構成なのだ。今は亡き彼の父の一族が営む造酒屋の人々が家族と同等の位置づけであるとしても、エルフェンバインにはほかに身よりもなく、ふたりもまた、日々を助け合って暮らしてきたはずだった。
 その彼女が異形化するなど、エルフェンバインに納得出来るはずがない。
「逃げて……逃げてニゲテニゲテニゲテニゲテニゲテニゲテエエエエエエエエエェエェエエェ!」
 エメレリアの叫びは、音韻こそ狂っていたが、悲痛だった。
 ごぼ、ごぼぼッ。
 エメレリアの全身が泡立つ。
 そうとしか表現出来ない何かがあって、次の瞬間、彼女の身体は一気に五百ロフまで膨張し、その下半身は深紅と透明な、液体のような何かに変化していた。
 液体のようなそれは、最上級の絹で作ったヴェールのように、彼女の周囲をも渦巻き、こんな時でも明るい陽光を受け、いっそ神々しくすらあるほど美しいきらめきを反射させている。
「お、袋、……!」
 その場に硬直したエルフェンバインの、エメレリアと同じ翡翠の目が、絶望を宿して見開かれる。
 ほんの一瞬前までエメレリアだった異形は、哀しげに項垂れ、

「ニ、ゲ、テ」

 囁くように言ったあと、

「くく、く、かかか、かは……くくくくく」

 あの、忌まわしい笑い声を、高らかに響かせた。
 そして、

 びょうッ!

 身体の周囲を渦巻く、美しい液体のヴェールを、エルフェンバイン目がけて撃ち放った。
「!!」
 エルフェンバインは――……動けない。
「エルフ!」
 ギイの悲鳴と、
「いけない、エメレ!」
 母の叫びとは、ほぼ同時だった。
 叫ぶと同時に、母は、呆然としているエルフェンバインの目の前に飛び出し、エメレリアに……迫り来る《死片》に、真正面から我が身を晒した。
「おばさ、」
 エルフェンバインの言葉は、最後までかたちにはならなかった。

 きゃあああぁ――――…………あぁ――――

 長く長く伸びる、か細い悲鳴。
 それが母のものだと理解するまで、理解出来るまで、数瞬を要した。

「か……」

 母は、母の身体は、深紅と透明の液体によって、腹部を食い破られ……引き千切られ、上半身と下半身に分かたれて、青い下草に覆われた地面に、いっそ滑稽なほどの無機質さで、転がっていた。
 見開かれた、虚ろなヴァルヴェスティオンの双眸から、涙がひとつ、零れ落ちる。

「かーさああああああぁんッッ!!」

 ギイは絶叫していた。
 何が起きたのか理解しきれないのに、叫びだけがあとからあとから湧いて出る。
 エメレリアだった異形と、大通りから這いずってきた異形、スパイス屋の親爺の顔を貼り付けたそいつ、二体もの大禍物が、目前に迫っているのに、ギイもエルフェンバインも、身動きひとつ出来なかった。

 しゃらしゃら、しゃりしゃり、からり。

 金属がこすれあう音がして、背後から、ザーデバルク領主の転じた異形と、侍従や奴隷たちの転じた小型の異形、全部で五体ものそれらが迫ってきているのに、ギイは立ち尽くすのみだった。
 更に、真っ二つに分かたれた母の身体がゆらりと浮き上がり、月石色の双眸にあの色を宿して膨れ上がっていくのを、ギイは、衝撃のあまり凍りついた目で、心で、呆然と見つめていた。