6.奇跡と呼ぶには残酷で

 何ひとつ、言葉にはならなかった。
「ぅあ、あ、あぁ……あああああ……!」
 ギイは、自分の目の前で、つい先ほどまで母だった女がエルフェンバインを庇って斃れ、真っ二つになり、それからゆっくりと膨れ上がり別のモノに変化していくのを、喘ぎとも呻きともつかぬ声を上げながら見つめていた。
 ――声が漏れているという自覚すらなかった。
 身の丈六百ロフにまで巨大化した母の身体が、絹のような花びらのような何かに覆われていく。母の上半身はその『花』で覆い尽くされ、母の下半身は濃い緑色のツタに絡みつかれ、覆われて、緑以外のものは見えなくなっていた。
 ツタには、毒々しいほど鮮やかな花が咲き、果実が実り、過熟しては腐り堕ち、また花が咲き、何度も何度もその営みを繰り返している。
 それは、禍々しくおぞましかったが、どこか物悲しく、美しかった。
 腐った血の色に変化した母の目が、あの狂った喜悦ではなく、湖底のような哀しみを湛えていたから、かもしれない。哀しみに満ちた血の双眸から、とめどなく涙がこぼれていたから、かもしれない。

「ワタシ、ノ、カワイイ、コ」

 漏れた言葉もまた、他の異形たちとは一線を画していた。
 ギイは息を飲み、弾かれたように母を――母だったものを見上げる。

「ニゲナ、サイ、イキテ、シアワセ、ニ、ナッテ」

 ツタが、『花』が、風もないのにさわさわと揺れる。
 片言のように拙い、しかし母の思いのすべてを内包した言葉に、
「かーさん……!」
 ようやく、ギイの硬直は解けた。

「アイシ、テ、イルワ」

 母は、そう言って、哀しげに微笑み――微笑むなどという人間的な仕草は、それを起こさせる情動は、とっくに失われているはずなのに――、それから、今にもギイやエルフェンバインに襲いかかろうとしていたエメレリアと組み合い、その首筋に齧り付いた。

「ああ、あああ、ああああああああああ!」

 エメレリアが絶叫を上げる。
 母は、彼女を放そうとはしない。
「かーさん、エメレおばさん……」
 まるで母がエメレリアを抱き締めているようだ、とギイが思った時、

「アア……」

 エメレリアが、ひどく穏やかな、安堵したような溜め息をついた。
 腐った血の色をした双眸が、喜悦ではない感情に揺れる。
 そう、まるで、母に諭されて目が醒めた、とでも言うような。
「……お袋……?」
 ギイを庇うように立ち、剣を構えながら、エルフェンバインがエメレリアを見上げた。彼にも、何かが違うことが感じ取れたのだろう。
 エメレリアが、血色の双眸でエルフェンバインを見下ろす。

「ゴメンネ」

 ぽろり、と、言葉が、涙が、ついさっきまでエメレリアだった異形からこぼれる。

「ゴメンネ……ズット、アイシテ、イルヨ」

 異形となってなお、彼女らの中に残された、深い深い愛。
 それが今、こうして、示されている。
 異形となった人間が、他者への愛のために普通とは違った行動を取ることは、よそでも報告されており、皆無ではないが、《色なし》の異形となっても人間だったころの思いを残すことは稀有だ。
 悪創念に侵されるとは、根本から己を創りかえられる、ということなのだ。
 そして同時に、異形となってなお愛情を保ち続けることは、異形にとっても、残されるものたちにとっても、苦痛でしかない。異形は、特に《色なし》の化け物となってしまったものたちは、どうあっても、この世に留まり続けることを許されないのだから。
 奇跡というにはあまりにも残酷で苦しすぎる、と、言葉をなくすギイとエルフェンバインの目の前で、ふたりの母親だった二体の異形は、示し合わせたかのように、スパイス屋の親爺の顔を貼り付けた異形に襲いかかった。
 その彼女らに、別の異形が襲い掛かる。
 辺りは騒然とした。
 噛みつき、噛みつかれ、《死片》が乱れ飛び、赤くない血が勢いよく噴き出して、滴り落ちる。
「かーさん、かーさん!」
「よせ、ギイ!」
 母の背中に、領主の転じた異形が刃のような脚を突き刺す。
 噴き出す血に息を飲み、母の元へ駆け出そうとしたギイの首根っこを、エルフェンバインがつかんで引き止めた。
「放せエルフ、かーさんが!」
「俺たちが行ってどうなる! 何をしてやれる!」
 エルフェンバインもまた、他の異形たちに傷つけられるエメレリアの姿に、よく日焼けした顔を蒼白にしていたが、彼は、ギイをきつく抱き締めたまま、放そうとはしなかった。
 領主の『刃』を振り払った母の、異形化してもまだ美しさを残した身体を覆うツタが、刃のように――触手のように蠢き、小型の異形たちを微塵に刻む。エメレリアの《死片》、造り酒屋で売られていた赤葡萄酒とそっくりの色合いをしたそれが、スパイス屋の親爺が転じた異形の身体を真っ二つに裂き、肉塊へと変える。
 人ならぬモノの放つ絶叫が響き渡り、ギイはびくりと震えたが、瞬きもせずにその戦いを見つめていた。――見つめて、見届けなくてはならないと思っていた。それは、母とエメレリアの、息子たちを護るのだという思いの強さなのだから、見届けなくては、と。

「ニゲナサイ……ニゲテ、イキテ」
「アイシテイルヨ、ズット……アイシテ、イルヨ」

 思いを、涙をこぼしながら、ふたりの母は、次々と異形を屠っていった。
 じきに、そこにいるのは、母とエメレリア、そして領主の転じた異形だけになる。
 二対一で睨み合う――実際には、睨み合うなどという感情的な行為ではなかったが――異形たちが、無言のままぶつかり合ったのはその数秒後。
 母のツタが、エメレリアの《死片》が領主へと襲いかかり、領主の『刃』がふたりの母を切り刻む。声なき咆哮が周囲を震わせ、すでに人間のものではなくなった血が噴きこぼれる。
「か……かーさん……ッ!」
 領主の転じた異形は強かった。
 何せ、大きさが違う。
 おまけに、『刃』は攻撃の手段であると同時に身を守るすべでもあった。
 母のツタもエメレリアの《死片》も、その『刃』に阻まれて、異形にダメージを与えることが出来ずにいる。それなのに、領主の『刃』はふたりの母をどんどん傷つけていく。
 母の、エメレリアの動きが、目に見えて鈍り始めた。
 領主は攻撃の『手』を休めない。

「アア、アア、アアア――――…………」

 悲痛な、悲壮な、母たちの声。
 異形と化していたとしても、彼女らは、ギイの大切な人だった。
「やめて……やめてくれ、領主さま! おねがいだ、かーさんを、エメレおばさんを傷つけないでくれ……!」
 ギイは咽喉を嗄らして叫んだけれど、領主の顔に張り付いた、歪んだ喜悦の表情は消えることがなく、『刃』は動きを止めることがなく、ふたりの母は斬り刻まれていく。赤くない血が周囲を染め、雑草を枯れ果てさせていく。
 エルフェンバインが唇を噛み締め、剣をきつく握った。
 ギイには、彼の考えていることが判る。
「エルフ、行ってくれ……オレは、だいじょうぶだから」
「ギイ」
「あれは、かーさんたちだ。異形になったって、かーさんたちだよ」
「……ああ」
 別れは確実に近づいている。
 領主の転じた異形に斃されるのであれ、領主の転じた異形を斃してから討伐士や領兵たちによって斃されるのであれ、その別れを回避することは恐らく出来ない。
 異形化するとはそういうことなのだと、ソル=ダートの人間ならば誰でも知っている。
 ――それでも。
「オレたちのことを、まもってくれた……」
 母という生き物の愛、強さが、ギイとエルフェンバインを護った。
 この世界のどうしようもない理(ことわり)を超えて、その愛は残った。
 せめて、最後に、彼女らの注いでくれた愛情に報いたい。
 エルフェンバインが思うように、ギイもまた、願ったのだ。
「エルフ、かーさんたちを、たすけてくれ。オレには何もできねーけど、エルフなら、できるだろ」
 『助ける』が、命を助ける、ではないことを、ふたりとも理解している。
 今も、母がいなくなるという事実に震えが止まらない。
 歯の根が合わないくらい、怖い。おそろしい。
 今も、一体どうして、と、誰かを詰って泣き喚きたい、誰かを憎み罵ることで精神の平安を保ちたい、という醜い現実逃避が心の片隅から消えない。
 気を抜けばその場に座り込んで頭を抱えてしまいそうになる。
 何もなかったことにしてしまいたくなる。
 それでも、どうか、と、ギイは願った。
「……判った」
 エルフェンバインが覚悟の色彩を翡翠の双眸に載せて頷き、ギイをその場に残して走り出そうとした、その時だった。

 ごおぅッ!

 また、ものすごい突風が吹き、
「う、わ……ッ」
「ギイ!」
 吹き飛ばされそうになったギイを、エルフェンバインが捕まえ、支える。
「あ、あんがと……、ッ!?」
 ギイの声が途切れ、彼の目が驚愕を宿して見開かれたのは、いつの間にか、ふたりの母と領主の間に、巨大な白銀の竜が割り込んでいたのと、
「ツィーねえさま……!」
 竜の背中から、流麗な甲冑に身を包み、黒貴水晶の輝く美しい剣を手にしたツァールトハイトが、厳しい、どこか痛みを堪える表情で飛び降りたから。
 ――そして、
「ハ、ルカ……?」
 白銀の竜が、次の瞬間には、見慣れたあの若者の姿に転じていたからだった。
 だが、ハルカもまた、今までのハルカではなくなっていた。
 白銀の髪と、白銀の目。
 白い額に鎮座する、真紅の、美しくどこか禍々しい紋様。
「じ、《呪紋》……」
 それを目にしたエルフェンバインがかすれた声を漏らす。
 《色なし》の身体を食い破らんばかりに拍動する、腐った血色のそれではなく、ただ力の存在を高らかに謳うもの。
「まさか、ハルカ、」
 揃ったふたつの色。
 額の紋様。
 そして、あの、竜。
 それが意味するものは、たったひとつだ。
 子どもでも知っている、神話の中の登場人物。
「白の、魔お、」
 喘ぐようなギイの言葉は、
「――……さぞやご無念でありましょう」
 ツァールトハイトの、静かな声に掻き消された。
 ツァールトハイトは、何代も前のザーデバルク市領主が当時の国王から下賜されたと言う、美しく鋭い、稀代の名剣を手に、家族同然だったふたりの女たちを背後に庇うように――彼女らが異形化していることになど頓着する様子もなく――元々は父親だった異形を見上げていた。
 彼女の、明るい空色の双眸に、かすかな痛みが揺れた。
「領民の幸いを護ることこそ、我らの責務。我らの喜び。そう教えてくださったのは父上、あなたでした」
 しゃりしゃりしゃり、かりかりかり。
 ツァールトハイトの言葉に反応してか、領主だった異形の『刃』が擦れ合い、音を立てる。
 それが彼女の言葉に同意してなのか、嘲ってなのかは判らない。
「父上、そんなあなたが――……異形と化して人々を襲うなど、無念で無念でたまらぬでしょう」
 静かに言い、ツァールトハイトが剣を構える。
 かちかちかちかち。
 領主の『刃』がツァールトハイトを威嚇するように打ち合わされ、鳴った。
 ツァールトハイトの眼差しは静かなまま、痛みを含んだままだ。
「わたしは駄目な娘でした……あなたがたの期待に添えぬ、どう足掻いても出来損ないの娘でした。そのために、あなたの愛する女を死なせました」
 丈夫で頑健な男児か、淑やかで愛らしい女児を望んだ奥方ヒルフロース。
 だが、生まれたのは、泣き声ひとつ上げず笑みひとつ浮かべない、武骨で得体の知れない女児だった。
 身体の弱かった奥方はそれ以上の子どもが望めず、絶望し、生まれて来た娘を憎み疎んじて、日々を哀しみと悔恨に費やし――……そして、気の病を得て臥せり、死んだ。
 幼少時のツァールトハイトがハール家に預けられていたのも、奥方の気の病がひどくなり、実の娘であるツァールトハイトを害しかねないから、という領主の判断によるものだった。
 お前はリリィの娘だから、と、ぽつぽつとそれを話してくれた、あの時のツァールトハイトは、望んだものを与えられなかった、孤独な少女の目をしていた。
 自分が母を殺したのだ、という告白に、ギイは、それはねえさまのせいじゃねぇ、と何度も言ったが、他人以上に自分に厳しいツァールトハイトが彼の言葉を受け入れたかどうかは定かではない。
「せめて……この手であなたを葬りましょう、父上。そうして、あなたの愛するこのまちを護りましょう。どうぞ、わたしを憎んで、恨んでください。あなた方には、それをする権利がある」
 ツァールトハイトの静かな物言いは、ギイを切なく、苦しくさせる。
 強くて寂しい彼女を護ってあげたいのに、今のギイには、欠片ほどもその力がないのだった。
「……お覚悟を、父上」
 言うと同時に、ツァールトハイトは跳んだ。
 それを補佐するように、無言のままのハルカが動く。
 武器ひとつ帯びてはいないのに、ギイがハルカから感じたのは圧倒的な力だった。
 ツァールトハイトが何ごとかを小さく唱えると、彼女の左手に赤い光が宿った。
「浄化の火よ……死の祝福を」
 発動の言葉とともに発生したいくつもの大きな火球、大人の頭ほどもあるそれらが、轟きながら領主へと殺到し、彼の身体を覆う『刃』を何本も、どろどろに溶かしていく。
 『刃』が溶けて表皮がむき出しになったそこへ、ツァールトハイトは剣を突き立て、勢いよく斬り裂いた。
 赤くない血があふれて滴り、名もなき草花を枯らしていく。

 おお・お・おおおおおおおおぅぅうううぁあああああああああ

 異形の咆哮が周囲を震わせる。
 だが、ツァールトハイトは表情ひとつ変えなかった。
 きしきしきしきし。
 かたちを変えた『刃』が自分目がけて殺到したときも、ツァールトハイトは無表情のままだったが、ハルカがその『刃』を止めた時には、ほんの少し表情を動かした。
 ハルカは、生身の両腕を交差させただけで、人体を易々と貫くその『刃』を受け止めていた。だが、よく見ると、その腕には、白銀の美しい鱗が輝いているのだった。
 ツァールトハイトも、ハルカも、言葉を交わすことはなかった。
 どういう関係なのだろうかと思う以前に、そもそも、何故ふたりが一緒に現れたのかも判らない。少なくともギイは、ツァールトハイトにハルカを紹介してはいないのだ。
 しかし、この戦闘の場において、ふたりの呼吸はぴたりと合っていた。
 ツァールトハイトが父を――異形を攻撃し、ハルカはツァールトハイトの防御を担当する。
 ハルカが本当に白をいただくかの存在であるのだとしたら、こんな異形は一撃でしとめられるはずだが、それをしないのは、きっと、ツァールトハイトの気持ちのためなのだろう。自分の手で決着をつけたいという彼女の心を貴んでのことなのだろう。
 何者であっても、ハルカはハルカだ。
 そう、魂が叫んでいる。
「だけど……だったら、なんで……!」
 ギイは小さくつぶやいて、ぎゅっと拳を握った。
 理不尽だと自分でも判る感覚が、徐々に込み上げてくる。
 自分の醜さが判るから、余計に苦しみが募る。
 ギイが歯を食い縛ってその感覚に抗っている間に、戦いは終焉を迎えていた。
 ぼぎんッ! という鈍い音は、ツァールトハイトの剣が、異形の最後の『刃』を撃ち落としたものだった。
 異形自身、ツァールトハイトの正確無比な剛剣によって縦横無尽に刻まれ、すでに身動きが取れなくなっていた。あとはもう、止めを刺すだけ、という状況だった。
「ツィーねえさま……」
 ツァールトハイトの背中、静謐すぎる横顔、引き結ばれた唇が目に入る。
 これまでの討伐で汚れたのだろう、泥や血でどろどろになった甲冑も、乱れた髪も、父を討つ苦しみよりも護るために剣を取る強さも、そのすべてが凜と気高く、美しかった。
「どうか……安らかな眠りを」
 ツァールトハイトの静かな言葉。
 そして、赤くない血に汚れつつも美しい剣が、ツァールトハイトの頭上高く掲げられた時、

「オオ・オ・オマ・エ・エ・ハ・オマエ・エエエ・エ・ノ・ミ・ミミミ・ミチ・ヲ」

 地に横たわり、末期の痙攣を繰り返していた異形が、ス、と顔を上げたのだ。
 先ほどまでの、あの歪んだ喜悦はそこにはなく、

「オマ・エ・ノ・ユクスエ・ヲ、サイワ・イ・ヲ、イツ・デ・モ、ミ・ミ・ミマモ・ッテ・イル・ヨ」

 瞠目するツァールトハイトの目の前で、異形は……彼女の父は、穏やかに微笑んだ。『彼』は確かに、ザーデバルク市領主ライデンズの、そして父親の表情で、笑ったのだ。

「ツァ・ル・トハイ・ト……ワ・タシ・ノ・ホコリ」

 それは、救い足り得たのだろうか。
 奇跡と呼ぶには、あまりにも残酷な、別れのその言葉は。
 ギイには、ツァールトハイトの胸中は図れなかった。
 ただ、彼女は静かに目を閉じ、頭(こうべ)を垂れて、小さく頷いただけだった。そして、躊躇なく――的確に、異形の首筋目がけて剣を振り下ろしただけだった。
 ぶづ・ん!
 硬いものが断ち切られる、鈍い音。
 それで、異形は、動きの一切を止めていた。
 胴と分かたれた頭、領主の顔をしたそれは、ひどく安らかだった。
「……」
 再度頭を垂れ、何ごとかをつぶやいたツァールトハイトが、今度は母とエメレリアに向き合う。
 戦いのさなか、傷が深いからという理由ではなく、背後からツァールトハイトを襲うことも彼女の邪魔をすることもなかった二体の異形が、ゆらゆらと揺らめきながら立ち上がり、ツァールトハイトを見つめる。
 そこにあるのは、紛れもない慈愛だった。
 ギイは息を詰めて、最愛の母と最愛の女性とを見つめていた。
 じわじわと足元から這い上がる哀しみには、まだ気づかないふりをして。