7.散る花

「リリィ、エメレ……」
 ツァールトハイトが、異形たちの血に汚れた剣を提げたまま、今や異形と化した女たちの名を呼ぶ。
 母も、エメレリアも、領主との戦いによって全身に傷を負っていた。
 穴の空いた身体のあちこちから、赤くない、寒々しい色をした血がどろどろと零れ落ち、地面へと滴って、あおあおとした緑を死滅させていく。
 その、異形としての在り方には、他の異形たちと何の代わりもないのに、異形化してなお生前の面影を残した彼女らのその姿に――心の欠片を残したままの彼女らに、ギイの心臓は砕け散りそうに痛む。
 どうしてこんなことになったのか、誰に問うても答えなど出るはずがない。
 このソル=ダートは、そういう世界なのだから。
 神さまも精霊王も、魔王も王様も、領主様も貴族様も、誰ひとりとして、今のギイを助けてはくれない。助けることは、出来ないのだ。
 それでも、どうして、という問いが消えない。
 ギイにとって母は、たったひとりの家族なのに。
 母がいなくなってしまったら、ギイは、この世界に、たったひとりで取り残されてしまうのに。
 それなのに、どうして自分は、こんなにもあっけなく、こんなにも惨く、母を奪われなくてはならないのだろうか。どうして自分は、こんなにも苦痛に満ちた終わり方で、ひとりにならなくてはならないのだろうか。
 気づいたら、ギイはまた泣いていた。
 あとからあとから涙が零れ落ち、頬を伝って滴り落ちていく。
 母との別れ、家族同然だったエメレリアとの別れが辛いのか、怖いのか、それとも自分以上にふたりを愛していただろうツァールトハイトの気持ちが苦しいのか、自分でもよく判らなかった。
 ギイには、何も出来ないのだ。
 ギイは、あまりに幼く、弱く……無力で、彼女らに対して、何の救いも指し示すことは出来ない。
 苦しくて、哀しくて、痛くて寂しくて、これから圧し掛かってくる孤独が重くて、ギイは、ツァールトハイトが無言でふたりを見上げる間、ずっとしゃくりあげ続けていた。
 そのギイの肩を、エルフェンバインが抱いている。
 彼の手が悲嘆に震えていることに、ギイは気づいていた。
 見上げた彼の頬が、濡れていることにも、また。

「ゴメンネ」
「ゴメンナサイ」

 エメレリアと母が、その巨体を屈め、ツァールトハイトの額にキスをする。
 触れることすら毒であるはずの異形のキスは、しかし、ツァールトハイトを傷つけはしなかった。ツァールトハイト自身、身動きひとつせず、ふたりの別れを拒みもしなかった。
「……判っている」
 星鋼の刃に、百合の彫刻のなされた柄飾り、中央に黒貴水晶のはめ込まれたそれを掲げ、ツァールトハイトが頷く。空色の双眸に、痛みと同等の、強靭な覚悟が満ちる。
「お前たちの最期は、わたしが」
 ああ、彼女はそれでも折れてはいないのだ。
 ――彼女は決して、折れはしないのだ。

「アリガトウネ」
「アリガトウ」

 異形たちは微笑んだ。
 否、それはもう、母でありエメレリアでしかなかった。
 芯まで異形化しながら、ふたりはふたりのままだった。
 自分は、自分たちは、それだけ愛されていたのだ――今も、愛されているのだ。
 その事実は、息のつまるような喜びで、同時に四肢を引き裂かれるような哀しみで、耐え難いほどの、世界が砕け散るような絶望でもあった。
「かーさん……」
 しゃくりあげながら母を呼んだら、彼女は、ゆっくりとこちらを見た。
 ギイは血色の双眸にびくりと震えたあと、意を決したように、彼女のもとへ走り寄った。
「かーさん、いっちゃいやだ……オレのこと、ひとりにしないでくれ。オレのこと、おいていかないでくれよう……!」
 しがみついて、声を上げて泣き叫びたいのに、蠢くツタのためにそれを許されず、母の足元で悄然と項垂れ、ギイは、両手で顔を覆って泣きじゃくることしか出来ない。
「かーさん、かーさん……ッ」
 何を言ってももう手遅れだ。
 そんなことは判っている。
 人間としての母は、もう、この世にないも同然なのだから。
 それでも、それでも、それでも。
 どうして誰も、母を助けてくれないのだろうか。
 どうして。
 辛い。怖い。苦しい。哀しい。寂しい。痛い。
 ――憎い。憎くて堪らない。
 魂の奥底から競りあがって来る、激烈で醜悪な感情。
 それに身を委ねれば楽になれるのか、と、拳を握り締めたギイの耳に届いたのは、

「ギ、い」

 どことなく音韻の狂った、しかし紛れもなく母の声。
 ギイは弾かれたように顔を上げ、大きな母の顔を見上げた。
 腐った血の色の、不吉で不気味な双眸は、その負を補って余りある慈愛に満ちていた。
 ――以前と何の変わりもない、母の愛に満ちていた。

「天ノ、神さマ、が、その玉座カラ、わ、タシ、に、クダサッた、ワタ、シ、ノ、チイさナ王サマ」

 たどたどしく、音階の狂った滑稽な音楽のような不快さを伴いながら、母の言葉には、至上の愛が満ちていた。

「ドウカ、幸せ、ニ、ナッテ。ワタシ、は、ズット、あなタのナカデ、イキて、イル、カラ。ネ?」

 言って巨体を屈めた母が、生前と同じように、ギイの額にキスをする。
 それは冷たく、血の匂いがした。
 けれど、何ひとつ変わりなく、母のキスだった。
 ――そしてそれは、母の、別れの、最後の挨拶だった。
 なすべきことはなした、と思ったからか、母はスッとギイから離れた。
 ギイたちと同じように別れの……最後の言葉を交わしたエメレリアもまた、拳を握り締めて嗚咽を堪えるエルフェンバインから離れ、
「かーさん……!」
 ツタに引き千切られてもいいから彼女に抱きつきたい、いっそ一緒に逝きたい、とすら思ったギイの前に、あの美しい剣を携えた、美しくまたどこか悲壮な、厳しく誇り高い眼差しを宿したツァールトハイトが凜と立つ。
 ギイは、何もいえなくなって――身動きも出来なくなって、ただ、ツァールトハイトの、しゃんと伸びた背筋を見つめていることしか出来なかった。
 彼女を見つめ、母とエメレリアが口をそろえる。

「コロシテ」
「コロシテ」
「ドウカ……コロシテ」
「ワタシヲコロシテ……コノコノタメニ」
「ヒドイヤクメヲオシツケテゴメンネ」
「ギイヲオネガイ」
「エルフノコト、タノムヨ」
「アア、ソレデモ」
「ソウ、ソレデモ」
「アナタヲアイシテイタワ……アイシテイルワ」
「アンタヲアイシテイタヨ……アイシテイルヨ」
「ズット、ズット」
「ズット、ズゥーット」

 歌うように言うふたりは、しかし、どこか満足げだった。
 ギイに、彼女らの気持ちは、判らない。
 何故、微笑んでいられるのか。
 何故、誰も恨まずにいられるのか。
 否、判らないから、苦しいままなのかもしれない。
 母が、エメレリアが、上体を屈め、ツァールトハイトの前に首を差し出した。
 そう、まるで、斬りやすいように、とでも言うように。
 ツァールトハイトは瞑目し、頭(こうべ)を垂れ、そして、顔を上げる。
 剣を握る手に力がこもったのをギイは見た。
 強靭な決意が彼女の全身を満たしたのをギイは見た。
 かすかな呼気とともに一歩踏み込んだツァールトハイトの膝がたわむ。
「わたしもだ、リリィ、エメレ」
 低く、一言。
「……お前たちを、ずっと、愛している」
 痛みを堪えるような、祈るような、静かな言葉が、紅もささないツァールトハイトの唇から紡がれ、

 ひょ、お、う。

 白い剣閃が二条、放たれ――……そして。
 目にも留まらぬそれのあと、ツァールトハイトが剣を腰に戻す。
 それと同時に、
「お前たちの願いならば、すべてわたしが叶えよう。だから……どうか、安らかに眠ってくれ」
 母の上体から、彼女を覆っていた花びらのような何か、《死片》の一種がはらはらと散って舞い落ちた。
 まるで彼女らを悼んで花が散るようだ、とギイがぼんやり思う間に、母の、エメレリアの首が、ほろり、と、身体から離れ、落ちて行く。
 ほどなくしてあっけなく地面を転がった首は、母のそれも、エメレリアのそれも、ひどく安らかな、恐怖も絶望もない静かな表情をしていた。その唇には、微笑みすら浮かんでいた。
 そう、まるで、ただ、眠っているような。
 それが救い足り得たかどうかは、ギイには判らない。
 きっと、一生判らないだろう、とギイは思った。
 頭を追うように、ゆっくりと、大きな身体が倒れ、わずかな地響きを立てて、あとはもう、動かなくなる。
 異形の骸が十ばかり折り重なる、異様な光景だったが、ギイからは、それを恐ろしいと思う心の動きは失われていた。ただただひたすらに、耐え難いばかりの哀しみが込み上げてくるだけだった。
「ぅあ、あああ、あ、ああああ……!」
 ギイは地面に膝をつき、また顔を覆った。
 慟哭が、止まらなくなる。
 熱い涙が手の平を濡らして行く。
 自分だけが哀しいのではない、自分だけが喪ったのではない、と、何とかして自分を奮い立たせようとしても、それらはすべて徒労に終わった。涙は、嗚咽は止まらず、自分の哀しみ以外に思いを向けることも出来ない。
 そしてまた、ツァールトハイトもエルフェンバインも何も言わなかった。
 かける言葉がないのか、そっとしておこうと思っているのかは判らない。ふたりも、ふたりなりに、哀しみを堪えているのかもしれない。ただ、同じ哀しみを共有するふたりが、今ここにいてくれる、という事実は、確かにギイを安堵させていた。
 そのまま、母を、エメレリアを……死んでいった人たちを呼びながら泣き続け、どのくらい時間が経っただろうか。
 慟哭は次第に嗚咽へと変わり、少しずつ涙も引いていく。
 泣きつづけることにすら、人間は体力が必要なのだ。
 悼み続けることにもまた、エネルギーが必要であるように。
「かーさん……おばさん……」
 無論それで哀しみが癒されるはずもなく、しゃくりあげ、洟を啜り上げながら、ギイは拳で乱暴に目元を拭った。涙でふやけた視界が気色悪かったが、どうすることも出来なかった。
 そこへかかった声、
「すまない……ギイ」
 淡々としたそれは、ただひとり、輪から外れて別れを見守っていたハルカのものだった。
 ギイは息を詰め、そろそろと顔を上げて、声の主を見遣る。
 ハルカ・ヘルデンハフト。
 ――白の理を宿す、白の魔王。
 そう……異形の、魔族の王と呼ばれる存在だ。
「何も、出来なかった」
 わずかに項垂れたハルカのその姿に、湧き上がったのは、理不尽な憤りと、魔という存在への憎しみ、怒りだった。
 友達だった。
 友達だと思っていた。
 それなのに、何故、と。
 理不尽だと知りながら、その激情を止めることが出来ない。
「なんで……」
 ぽつり、こぼした言葉は、震えていた。
「なんでだよ……ッ!」
 気づいたら、ハルカのもとへ駆け寄り、握った拳を、その胸元に叩きつけていた。――もちろん、ギイの腕力では、わずかなダメージにならなかっただろうけれど。
「なんで、どうして助けてくれなかったんだ! なんでかーさんを、エメレおばさんを、領主さまを、みんなを助けてくれなかったんだよ……!」
 小さな拳を叩きつけながら、震える言葉で罵っていたら、また涙があふれてきた。
 ハルカは何も言わない。
 言えないのか、言わないのか、判らない。
 それにもまた、憎しみと怒りが込み上げる。
 魂の奥底に押し込められた冷静なギイは、違う、お門違いで理不尽だと叫ぶけれど、そのもっともな、まっとうな叫びは、逆上した今のギイには届かなかった。
「おまえ、魔王なんだろ!? 魔王なら、なんとかできたんじゃねーのかよ、そのためにいるんじゃねーのかよ……!」
 泣きながら、叫びながら、ほっそりしているのにどこまでも強靭な身体を殴りつける。悪創念を我が物として成り代わった魔族や魔王の肉体は強靭で、悲鳴を上げているのはギイの拳だったが、今ここで手を止めたら心が壊れてしまう、そんな気がした。
「本当は、オレたちのこと、わらってたんだろ……ちいせぇ、ゴミみてーなやつらがじたばたしてんの、おもしろがってたんだろ……!」
 違う。
 こんなことが言いたいのではない。
 こんなことを思っているのではない。
 出会ってから一ヶ月の間、寄り添ってくれたハルカを信じている。
 ハルカが母やエメレリアに向けた穏やかな笑顔を信じている。
 皆を助けようとしてくれたハルカに感謝している。
 ――ツァールトハイトを、彼女の心を貴んでくれたハルカに感謝している。
 魂が、ハルカは悪くないと叫ぶ。
 神も、精霊王も、魔王も、決して万能ではないのだと。
「人間のひとりやふたり死んだって、お前らにはどーでもいいんだ……!」
 それなのに……それでも、叫びは止まらなかった。
 ハルカが異形だから、魔王だから、何だというのか。
 ハルカの言葉のすべてに偽りなどなかったと、ギイには判る。
 ハルカは、ハルカだ。
 今も黙ってギイの拳を、理不尽な罵倒を受け止めてくれる、やさしい人だ。
 しかし、だからこそ、ギイの言葉はエスカレートした。
 ハルカが受け止めてくれると、ハルカが自分を大切に思ってくれていると……決して自分を傷つけないと、これが自分自身の弱さ、方向性を間違えた甘えなのだと、心の底で全部判っていて、ギイは己を止められなかった。
「ちくしょう……ちくしょう」
 呻きながら、また、殴りつける。
 誰も、何も言わない。
 ギイはぎりりと奥歯を噛み締めた。
 何もかもが、母を殺した憎い敵のように思えて来て、混乱に混乱を極めた思考は、ギイに、
「異形も、魔族も、魔王も、おまえらみんな、この世から消えちまえばいいんだ……!」
 あまりにも理不尽で、あまりにも残酷な言葉を吐き出させる。
 夢中でそれを吐き出し、肩を上下させて呼吸を整えていたギイは、自分が何を言ったのかすらよく判ってはいなかったが、
「ギイ!」
 ツァールトハイトに鋭く呼ばれ、
「ハルカはわたしを迎えに来てくれたんだ。お前を助けてやれと、自分の正体が明らかになることも承知で! お前は、お前のための善意に、そんな言葉でしか報いられないのか!」
 彼女の厳しい叱責に脳味噌を打ち据えられて、ようやく、我に返った。
「あ……」
 自分は何てことを、と見上げれば、ハルカは静かに瞑目していた。
 そこには、ギイを責めるいかなる負も浮かんではいない。
 しかし、だからこそ、ギイは、自分は責められるべきなのだということに気づかされた。
「お、オレ、」
 違うんだ、そう言うよりも早く、ハルカに抱き締められていた。
「……すまない……」
 深い深い、様々な感情のこめられた『すまない』だった。
「違、ごめ、オレ……」
 謝罪を口にすることは出来なかった。
 ギイがそれをする前に、
「――……お別れだ、ギイ」
 再度きつくギイを抱き締めた後、ハルカは彼から離れ、静かに微笑んだ。
「お前の言うことは、きっと、すべて正しい。私は……あまりにも、無力だった。知っていながら、何も出来なかったのだから、罪はなお重いだろう」
 だから、と、唇が別れの言葉を紡ぐ。
「お前の怒り、お前の哀しみを和らげる方法を見出すことが、私の務めなんだな。……私はそれを果たしに帰ろう」
 ハルカはどこまでも静謐で、誠実だった。
 ハルカは、ギイの言葉をすべて受け止めて、彼を責めることなく、彼の苦しみを癒そうとすらしているのだ。
「さよなら、ギイ」
 ハルカがそう言うと、唐突に強い風が吹いた。風はハルカを包み込み、その姿をほんの一瞬薄れさせ、瞬きの間に、身の丈二十シェン・ロフの竜へと転じさせていた。
 それは、普通の竜とは存在を異にする竜、五色の魔王が持つという、第二の形態だ。
 ごぉう。
 白銀に輝く巨大な翼が大きくはためくと、巨体を感じさせない軽やかさで竜は空へと舞い上がった。
「ハルカ、待っ……」
 伸ばそうとした手は、虚しく空を切る。
 ――次の瞬間には、白銀の竜は、すでに空の向こう側を飛んでいた。
 きっと、もう、声も届かない。
「あ……ああ……!」
 今更、後悔が這い上がる。
 ハルカのやさしさに甘えて、理不尽な八つ当たりをした。
 同じ痛みを背負ったツァールトハイトにもエルフェンバインにも出来ないから、と。
「ごめん、ハルカ、ごめん……!」
 別の涙が込み上げて、ギイは泣きながら顔を覆った。
 きっと、もう、会えない。
 ギイは唇を噛み締める。
 孤独がじわじわと這い上がってくる。
 お前にはお似合いだ、と、誰かが嗤ったような気がした。
 肚の中が、ひゅう、と、冷える。
「オレは」
 無力で、無様で、醜悪な子ども。
 何も出来なかったくせに、口ばかり達者で。
「……ぁ、ああ……」
 喪失感と自己嫌悪がじわじわと全身を満たしていく。
 ギイは、いっそ自分が消えりゃよかったんだ、と自嘲気味に嗤い、そのまま意識を手放した。
「ギイ!?」
「……おい、チビ」
 エルフェンバインとツァールトハイトの声が、どこか遠くに聞こえてくる。
 地面に引っ繰り返った自分を、やっぱり無様だ、と嗤うと同時に、ギイの意識は暗闇へ沈む。
 もう、どうでもいい。
 昏(くら)い絶望が、ギイを包み込む。

 ――それでも、お前を、愛しているよ。

 意識の隅っこに、誰かの、そんな言葉が響いた気がしたけれど、それすら、今のギイには、苦痛でしかなかった。

 さよなら、さよなら、さよなら。
 別れの言葉がリフレインする。
 何が散り、誰が去り、何が喪われたのか、それらをすべて量るには、今日という一日は、あまりにも重かった。