10.蠢く人々
報告を持ってきたのは、金章家に仕える密偵のひとりだった。
その内容は、男にとってとても都合のよいもので、
「……そうか、ご苦労」
彼は満足げに頷き、傍らで微睡む翼猫の、絹のような手触りの毛皮を撫でた。
広く、豪奢な、少し照明を落とした室内。
庶民の大家族がふたつも三つも入って生活したとしてもまだ広く感じだろうるほどの部屋だったが、そこにいるのは、金に輝く冠を被った、そろそろ老年にさしかかろうかという男と、彼の気に入りの侍従が数名、そしてどこか異様な雰囲気を持つ、黒いローブ姿の青年だけだった。
「やはり、生きておいでだったのですね」
五十年に渡って男に仕える老爺が言い、男に何ともいえぬ表情を浮かべさせる。
「あれらの母は東方の血を引いているからな」
「……こちらへお戻りにはなりますでしょうか」
「まず戻らぬであろう。戻れば罪に問われるだけだ」
「ええ、そうですね……」
老爺が少しさびしげなのは、彼が、あのふたりを、孫のように愛しく思っていたからだと男とて理解しているが、今更どうすることも出来ないし、どうこうするつもりもない。
男は、自分に益のないものに対して寛大ではないのだ。
「では、イェーリオル様には何も?」
「無論だ。あの子が知る必要はなかろう」
「承知いたしました。お耳には入らぬように致します」
男の言葉に、老爺は恭しく一礼した。
「ちょうどよい時に神殿都市を訪れてくれたものだ。あれらには失望させられてばかりだったが……今回は、実に役に立った。こたびは、褒めてやらねばなるまいな」
くくくと笑って傍らの翼猫を撫でる。
気持ちがよかったのか、背中の小さな白翼がはたはたと動き、咽喉の奥から機嫌のよさそうな声が漏れた。
「さて……それでは」
そこへ声をかけたのは、黒ローブの青年だ。
「計画通りに始めてもよろしいか。――駄目だとは申されぬだろうがな」
男の立場を鑑みれば不遜ですらある言葉遣いだったが、彼は怒るでもなく――と言っても、これが臣下のものたちであれば即刻牢屋にぶち込んだかもしれない――鷹揚に頷いた。
「余はあの娘が欲しい。そなたらはあの灯火に消えて欲しい。そのために、神殿都市は目障りだ。――利害は一致しておる」
「そのようだ。だが、あなたがそれをすることは、国と民、そして神々への裏切りではないのか?」
どこか面白がるような、戯れのようなその問いに、男は嘲りの笑みを浮かべた。
「余は王だぞ。この国で一番貴いのだ。その、余の望みを叶えることの何が悪い。国も、神々も、民も、ただただ余のためにあればよい」
「……なるほど」
青年がくつりと笑い、では、と言葉を続けた。
「まずは娘をこちらへ。そして、神殿都市を弱体化させ、あなたの権威を確固たるものに。……契約通り、あなたがたが諸々に目を瞑られると仰せならば、『我ら』はあなたがたには手を出さぬ」
「うむ、好きにするがよい。民のいかなるものを蹂躙しようとも構わぬが、妃と王子をはじめ、余に忠誠を誓う貴族たちには決して手出ししてはらぬぞ」
「承知致した。それでは……朗報を待たれよ」
恭しく一礼し、青年が退室する。
男は満足げな笑みとともにそれを見送ったのち、豪奢な椅子の背もたれに身体を預けた。
「今に見ているがよい……余に従わぬ愚かなものどもめ。神が、世界の安寧が、一体なんだと言うのだ」
宙を見つめ、怨嗟の如くに呟く。
貴い血統に生まれながら、国の一部であるはずの一都市によって軽んじられ続けたこの数十年を取り戻す。
男の中に燃える暗い情念の理由はそれだ。
そのために世界が危機に陥り、たくさんの罪なき民が命を落とすことになるかも知れないという事実は男にはどうでもいいことに過ぎず、また、実の息子を利用することすら、彼は厭いはしないのだった。
「……今に見ておれ。世界を統べる貴き血が、一体どんなものであるのかを、――それを軽視した罪の重さを、余自ら教えてくれる」
何が犠牲になることも、男にとっては遠い世界の出来事に過ぎない。
男は傍らの老爺に命じ、将軍に部屋へ来るよう申し付ける。
あの、忌々しい都市が炎に沈む様を想像するだけで、ほんの少し、気持ちが晴れる。
自然と、髭の蓄えられた口元に、薄い笑みが浮かんでいた。