「大事ないか、櫻良」
 濡れて光るような黒の駿馬から飛び降り、櫻良の元へ駆け寄ったジーンの第一声がそれだった。
 映画のヒロインのような状況に、櫻良が思わずときめいたのは致し方ないことだったが、しかしそのときめきも、この場に夜歌がいないという事実に気づくや否や小さくしぼんでしまう。
「……怖い思いをさせたな、済まない」
 ジーンの言葉に、櫻良は首を横に振った。
 それからかれの手を掴み、真っ直ぐに黄金めいた双眸を見上げる。
「ううん、あの人たちが――皆が助けてくれたから。ねえジーン、夜歌は? あの時、すっごく苦しそうな顔してた……大丈夫なの?」
 櫻良が問うと、ジーンはかすかに頷いた。
「命に別状はない。ただ……あれは崩縛砂と言ってな、神聖生物の力や聖性を封じる厄介な代物で、あのまま放っておいても回復しないんだ」
「えっ、じゃあ……」
「いや、回復手段はある、心配するな。神子姫に癒してもらうのが一番なのだろうが、生憎我らがご主人様は所用あって竜王たちのもとを訪れている。――まぁ、一月も二月も戻ってこないわけでなし、夜歌にはしばらく寝込んでいてもらおう」
「ええっ? で、でも」
 あっけらかんとした、というのが相応しいようなジーンの物言いに、さすがの櫻良も言葉を失う。もちろん、恐らくこれがジーンの、夜歌への信頼のかたちなのだろうと思いはするのだが。
「東方人の中には、こういったことの治癒を得意とするものもいるんだがな……残念ながら、向こうとはもう縁を切って久しい」
 淡々としたその物言いの奥底に、何か重苦しいものを感じ取り、櫻良がそれ以上は何も言えずにいる間に、他の、ケーニカを含む十数名の騎士団員たちが、地面に倒れ伏した誘拐者たちを捕らえ、縛り上げていく。サスペンスドラマなどでよく見かける、猿轡というものを噛ませているのは、自殺を防ぐためなのだそうだ。
 意識を取り戻したあとも、すべてを受け入れたかのごとくに抵抗ひとつしない彼らの、いっそ穏やかですらある眼差しをみていると、咽喉元から、どうとも表現し辛い、苦さとでも言うべき感情が込み上げてくる。
「ジーン」
 櫻良をやさしいと彼らは言った。
 やさしいが、愚かだと。
 ――愚かでもいい、と、櫻良は思った。
「どうした」
「あの人たち、どうなるの。どうするの」
「――……あれは恐らく、国王直属の特殊部隊だ。そのためだけに生まれ、そのためだけに死ぬと言う一族があるんだ。彼らの価値がそこにしかないと言うのなら、尋問も無意味だろう……ならば、今後の遺恨を断つためにも、この場で葬ってやるのがもっとも適当だろうな。どちらにせよ、任務をまっとうできなかった彼らに、戻る場所などないのだから」
 静かなジーンの言葉に、櫻良はまた、痛みを覚える。
 特殊部隊の人々も、その言葉に、何の感情も見せない。
 だが、ジーンは、櫻良に対してその冷酷な処遇を隠そうとはしなかった。
 櫻良がこの神統世界のルールと向き合おうとしているように、ジーンもまた、廃棄世界人である櫻良に、この世界の在り方を見せようとしている。綺麗ごとだけではない、厳しいその在り方を。
 それは、ジーンが、櫻良をわずかなりと信頼してくれているからだろうと、それを知ったから潰れてしまうような人間ではないと判ってくれているからだろうと、そう思うと、ほんの少しくすぐったい思いがする。
 同時に、ならば自分は、自分の思いを貫くしかないのだろうと。
「あの人たち、本当は悪い人じゃないんだと思う。――だからジーン、お願い、あの人たちを殺したり傷つけたりしないであげて」
 櫻良が言うと、今まで眉ひとつ動かさなかった特殊部隊の生き残りたちが彼女を見遣った。
 そこには驚きがあったし、憐憫があった。
「櫻良」
「うん、判ってる。ここは廃棄世界じゃないんだって。夜歌に苦しい思いさせたのも、あの人たちだって判ってる。だけどあたし、もう二度と帰れなくても、やっぱり廃棄世界人で、日本人だから。だから、罪は生きて償うべきだって言いたい」
「……」
 愚かな物言いであってもいい。
 神統世界にとっては無意味な思いであってもいい。
 ただ、それでも、廃棄世界人の櫻良がここに迷い込み、この世界に影響力を持つ《女神の灯火》であったことに理由があるのなら、神統世界のルールを、ほんの少しずつでも変えられればいい、櫻良はそう思うのだ。
 《女神の灯火》である自分の命が貴いものだと大切にしてもらっているのと同じく、他の、どんな人の命も、どんな生き物の命も貴いのだと、言い続けられればいいと思うのだ。
「お願い、ジーン」
 櫻良が重ねて言うと、ジーンはしばし沈黙したが、ややあって低く息を吐いた。
「情勢の変化によっては……約束は出来ない。そもそも、命を助けたところでお前に感謝するわけでもない連中だ、その意味を理解することは私には難しいが……お前が、そう望むのなら、ひとまず預けよう」
 ジーンのその言葉に驚いた顔をしたのは特殊部隊の人々だけではなく、ケーニカを初めとした騎士団員も同じだった。
 恐らくこれは、今までにないことなのだろう。
「ありがとう、ジーン」
 それが判ったから、櫻良は心の底から礼を言った。
「それがいいのか悪いのか、私には判らん。礼を言われるべきものなのかもな」
「うん。でも……あたしは、嬉しかったから。ホッとしたから」
「そういうものか」
「うん」
 言って櫻良が笑うと、彼女を見つめ、ジーンはなんとも表現し難い表情をした。ジーンの中のなんという感情がさせた表情なのか、決して人生経験の豊かではない櫻良には判らなかった。無論、ジーンの表情が読みにくいというのも事実だが。
 そこへ、
「……なるほど」
「確かに、興味深い」
 笑みを含んだ声が二種類、傍らから聞こえたので、櫻良の意識はそちらに向かう。
 そこに立つ、ふたりの青年を見遣り、
「エルリヴァリース、エルファンドール。久しいな」
 ジーンが笑みを浮かべた。
 それだけで、櫻良には、彼らが、ジーンとは親しい間柄なのだと言うことが判る。
 ジーンが、好意の含まれた笑みを見せるのは、一定以上の信頼と親しみのある相手だけなのだということを、この一ヶ月の付き合いで学んだからだが、もちろん、それを思うことは、すなわち自分もまたジーンには親しい間柄と認められているのだと言う、すさまじいまでの幸福感を伴いもする。
「お前たちが……櫻良を助けてくれたのか。すまない、礼を言う」
「いえ。我々は、ジーン、あなたに恩がある。灯火があなたにとって大切な方であると言うのなら、我々には彼女を護る権利と義務がある。そういうことだとは思いませんか」
 夕焼け色の目のエルリヴァリースが言うと、夜闇色の目のエルファンドールが大きく頷き、ジーンはわずかに首を傾げたが、そうか、と呟くにとどめた。
「ジーン、あの、この人たちは……?」
 櫻良が問うと、ジーンは彼女を見下ろしたあとふたりの青年を見遣り、
「彼らは、エルリヴァリース・ブラックダイヤモンドとエルファンドール・ブラックダイヤモンドという」
「あ、えーと……ブラックダイヤモンドっていったら……」
「エス=フォルナが現国王、イクディクス・ブラックダイヤモンドの第一王子と第二王子だ。数年前、わけあって王位継承権を剥奪され、命の危機にさらされていたところを救って以降の仲だな」
「じゃあ、王子様?」
「元、王子様、だな。……この認識で間違いないか、リヴァル、ファンダル」
「そうですね、問題ないと思います」
「俺もそう思う。付け足すとすれば、廃王子ふたりは現在元気に冒険者として世界各地を放浪している、ということくらいか?」
「ああ、イェルや国民たちには申し訳ないけど、正直、私たちにはこちらの方が性にあっている」
 ふたりの廃王子は、そんなことをのんびりと言い合ってから、不意に居住まいを正し、ジーンに向き合った。
「……東方人が来ます、ジーン」
 エルリヴァリースの静かな声。
 ジーンが目を見開いた。
「そうか……」
 漏れでた声には、妙な感慨がある。
「いつ、だ?」
「三日もすれば到着するだろう。此度の灯火は光が強い……恐らく、彼らもそれを感じ取っている」
 ジーンと櫻良を交互に見遣ってエルファンドールが言い、
「ですが、王都も黙ってはいますまい」
「混乱が予測される。どうか、早めの対処を。俺たちはそれを伝えに来たんだ」
 そう言って、締め括った。
「……そうか」
 ジーンがちいさくつぶやく。
「神子姫も夜歌も動けないのは少々辛いが……まぁ、何とでもしよう」
「ジーン、何が……」
「そうだな、厄介ごと……なのかもしれない。そうではないのかもしれない」
「それって」
「どちらにせよ、私は、私たちはお前を護る。それだけのことだ」
 静かだが揺るぎない、強い声。
 何を恐れる必要もないはずなのに、櫻良は何故か、ほんの少し、不安になった。冬の寒い日に、部屋のどことも知れぬ場所からひやりとした隙間風が吹き込んでくるような、漠然と寒々しい、予感のような不安だった。
「どうした、櫻良?」
 ジーンが小首をかしげている。
 櫻良は無理やり笑って首を横に振った。
「ううん……何でもない。もう戻っていいのかな、戻ってもいいなら、夜歌のお見舞いに行きたいんだけど……」
「ああ。きっと夜歌も喜ぶ」
 言って、ジーンが櫻良に手を差し伸べる。
 そのことにときめき、いつもどおりのジーンに安堵しつつも、櫻良の胸に生じた不安は、やはり消えないままだった。










 彼女らは知らない。
 木陰に潜んでいた人影を。
 『彼』が、ふたりの廃王子にほくそ笑み、その場からそそくさと姿を消したことを。
 ――そして、それが、神殿都市と櫻良に、新たな危機をもたらすことを。

 誰も、まだ、知らない。