「ジーン、どこ? お茶とお菓子持って来たよ、ねえ、ジーンったら」
 小春日和、とでも言うべき一日のことだった。
 櫻良がこの神統世界に迷い込んだ頃は初秋で、日本のあの、高い湿度がもたらす、ぐったりとなるような暑さとは無縁の世界ではあれ、時に汗ばむような陽気もあったのだが、そこから一ヶ月強が経つと、朝方や日の入りには驚くほど冷え込むし、日中の気温もそれほど上がらないし、日が陰れば肌寒い、そんな季節へと世界は移り変わろうとしている。
 そんな中の、陽光が強くあたたかさがちょうどよい、とても気持ちのいい午前である。
 時間の流れで言うと、ふたりの廃王子が神殿都市を訪れてから七日が経っていた。
「ジーン、どこ……?」
 廃王子たちが言った東方人たちはまだ姿を見せていない。
 神殿都市の人々の話によると、東方人が西方大陸にやってくる際に使っている経路の一角に魔族や魔物が大量に出たらしく、その関係で足止めされているのだろうと言うことだった。
 この世界に迷い込んだ初日に追い回されたような、おぞましく恐ろしい存在が大量発生して誰かを襲うなど、想像するだけで背筋が寒くなるが、それらを凌駕する守護者たちがいることももう判っているから、必要以上に怯えるつもりもない。
 自分がここにいるだけで魔族や魔物の力を少しでも弱めることが出来ると言うなら、足の裏に根っこを生やしてでもまっとうしようとも思っている。
「うーん、ホントどこにいるんだろ……?」
 櫻良は今、休憩中のジーンを探して、小水晶の森と呼ばれる場所へと足を踏み入れていた。
 東方人たちが神殿都市にやって来た場合、応対するのは市長や神官長を含む上位神官たち、そして神子姫らしいのだが、現在の彼らは皆他の事柄に追われて忙しく――神子姫などここ数日神殿都市へ帰ってすら来ない――、そのため東方人であるジーンにその役目が回ってきたのだ。
 ジーンは、自分はもう向こうとは縁を切ってあると難色を示したが、他に手がないのも事実で、渋々その役割を受け入れたらしかった。
 しかし、その東方人たちはまだ神殿都市にはやって来ておらず、よって、最近激務ばかりのジーンに――何せ、夜歌がまだ回復していないので、単身での魔物討伐を余儀なくされている――、少しは休めと言う旨の通達が行ったのだった。
 櫻良は、そんなジーンに、自分の焼いた菓子と自分の淹れたお茶でちょっとでもリラックスしてほしくて、バスケットにティーセットを詰め込んで、ジーンが向かったと言う小水晶の森へ向かったのだが、一体どこで休憩しているのか、かれの姿はなかなか見つけられなかった。
 ちなみに、小水晶の森は神殿都市内部にある、ちょっと木の多い公園のような、手入れの行き届いた場所なので、不慣れな櫻良が迷子になることはないし、魔物や魔族の襲撃を恐れる必要もない。
 その森の中を、二十分ばかり、うろうろと彷徨っていた櫻良は、樹齢百年を超える立派な樹木の中でも一際大きくて太い、根っこが苔むして風格すら漂わせた巨木の傍らに、見慣れた黒いマントの裾を見つけて笑顔になった。
「あ、ジー……」
 言いつつ小走りに駆け寄り、声をかけようとして、櫻良は思わず口を噤む。
 巨木にもたれながら地面に腰を下ろしたジーンの、身体のあちこちに包帯や膏薬が見えるのは、ジーンでなくては斃せないような強大な魔物に、たったひとりで立ち向かわざるを得ないことが何度かあったからだ。
 東方人は回復力が高く、ちょっとやそっとでは死なないと聞いたことがあるが、そのジーンですら包帯や膏薬のお世話にならなくてはならないような事態だったのだ。
 その時の櫻良がハラハラし、心を痛めたのは当然だったが、ジーンが自分の傷や痛みに何の頓着もみせていなかったのもまた当然なのかもしれない。
「ジーン、やっぱり疲れてるんだね……」
 ジーンの傍らに腰を下ろし、バスケットを草の上に置きながら、櫻良はちいさくつぶやく。
 ――神殿都市最強の番犬は、巨木に身を預けるようにして、とろとろと微睡んでいた。
 長い睫毛が、きめ細かな肌に濃い影を落としていて、櫻良はときめくやら羨ましいやら脳内妄想が暴走しそうになるやらで色々と大変だったのだが、口元に貼られた膏薬に赤い染みが滲んでいる様、腕や首筋の包帯にも同じ色の染みが見える様子などには、唇を引き結ばざるを得ない。
「ジーンが全部やらなきゃ駄目なんてこと、ないと思うんだけどなあ、あたし」
 たったひとりで出て行き、たったひとりで勝利してくるジーンの姿に、騎士たちは畏怖と敬意を抱くと同時に、己を歯痒くも思っている。それは、ケーニカや大隊長たちを見ていれば判る。
 櫻良もまた、自分が無力であることを歯痒く思う。
(神子姫様は、ジーンを護ってほしいって仰ったけど……あたしに何が出来るのかな。何をすれば、あたし、ジーンを護れるのかな)
 《女神の灯火》に、魔族を吹っ飛ばすようなパワーがあれば、かれを護れたと言えるのだろうか?
 そう考えて、ジーンの寝顔を見遣り、きっと違う、と打ち消す。
 ――どこか無防備に見える、静かな寝顔だ。
 あれだけ気配に、危険に敏感なジーンが、櫻良がここに来たと言うのに気づかず、穏やかに微睡んでいる。今のかれの身体から力が抜けていることが、こうして観ているだけで判る。
(力とか、そういうものであたしに出来ることなんて、多くないだろうけど)
 ジーンが自分に向けてくれる、《女神の灯火》と守護騎士だからというだけではない温かな感情を櫻良は知っている。幸せのあまり卒倒しそうになるが、それをただの自惚れだと片付けてしまえるほど櫻良はジーンに対して無礼ではない。
(《女神の灯火》でも、そうじゃなくても、ジーンがあたしに向けてくれる笑顔と同じくらい、あたしもジーンに色んなあったかいものをあげたい。ジーンが幸せだったら、あたしも嬉しい)
 結局はそういうことなんだろうと結論付け、ジーンが目覚めたらお茶にしよう、と、もう少し寝顔を見ていることにした櫻良の傍らで、
「ん……」
 ジーンが低く声を上げ、僅かに身じろぎをした。
「あ、ジー……」
 それから、本格的に眠ろうとでも思ったのか、もたれていた身体をゆっくりと横向きに倒そうとする。
 ――そこにあるのはもちろん櫻良の膝で、数秒後には、ジーンの頭が、櫻良の太腿の真ん中辺りに鎮座することとなった。ちなみに今日は薄めのスカート(状の衣装)なので、ジーンの体温が薄い布を通り越してガンガン伝わって来る。
「……!!」
 何だこの事態。
 一体何があった。
 ていうかこれってもしかして、音に聞こえた膝枕というアレ?
 えっ何このシチュちょっと恋人同士みt(以下自主規制)
 ……といった思考が櫻良の脳内を吹き荒れ、櫻良は盛大に硬直する。
 ジーンは妙に柔らかい地面だなとか思う様子もなく、特に目覚めることもなく、櫻良の膝に頭を預けたままで静かな寝息を立てている。
 緩く結った黒髪が流れて、櫻良の膝の上にさらさらと零れる。
 耳のかたちが綺麗で、顎のラインが綺麗で、唇のかたちが美しい。
 凝視していたら、呼吸困難に陥りかけて、心拍数が一気に倍以上になったような気がする。
(どっ……ど、どうしよう……!)
 全身の毛穴からわけの判らない汗が噴き出して来そうだ。
 汗臭さでジーンを起こしちゃったらどうしよう、と無用な心配をしつつ、櫻良はジーンの寝顔を見下ろす。
(どうしよう、ホントにどうしよう)
 無防備でどこか幼い寝顔。
 ――櫻良を信じていなかったら、櫻良に気を許していなかったら、こんな寝顔はきっと、見せてくれない。櫻良が傍らに座った時点で、目を醒ましているはずだ。
 かれは今、確かに疲労している。
 疲弊しているといってもいいかもしれない。
 けれど、その状態であってもなお、櫻良が十人、いや百人束になってかかっても敵わないほど強い。櫻良は無力で、かれに――彼らに護ってもらうべき存在で、櫻良がかれのために出来ることなどたかが知れている。
 それなのに、今のジーンは、誰かに包み込まれて眠ってでもいるかのように安らかだ。
 ジーンが自分をどこかで信じてくれていると、もしかしたらどこかで甘えてくれているのかと、そう想像するだけで身体中の血液が沸騰しそうだ。
(どうしよう……あたし)
 手を伸ばして、ジーンの頬を撫でる。
 ジーンはかすかに身じろぎをしたが、やはり、目を醒ます様子はない。
 眠っているジーンは、少し、微笑んでいるようにも見える。
(……このままキスしたいとか、思っちゃった……)
 頭を抱えたいようなその願望に、首まで赤くなるのが自分でも判った。
(だだだだだだだ駄目だってそんな、リャクダツアイになるって!)
 きらきらとした陽光が、森の上部から降り注ぎ、一面を明るく照らし出している。
(だけど、でも、キスしたい。大好きって言いたい)
 そんな健全な真昼間、悩める乙女の、青くて幸せな葛藤は続く。