ジーンが目を覚ましたのは、そこから小一時間が経ってからだった。
櫻良はその間、背筋をピンと伸ばした妙に姿勢のいい状態のまま真っ直ぐ前を見ていて、櫻良馬鹿の人々が目にしたら絵になるとか何とか誉めそやしただろうが、それがまさか、『なるべくジーンに汗臭い身体を近づけないようにしつつ、いきなり暴走してかれの唇を奪ったりしないように』という彼女の必死の自制心ゆえだったなどとは、誰も気づかないだろう。
櫻良としても、まさかこんなところで自分の限界に挑戦する羽目になるとは思っていなかったのだが、無論その挑戦がどうしようもないくらいの幸せを孕んでいたことも事実だ。
ジーンに膝枕をして――本人は櫻良の膝を借りているなどとは気づいてもいないだろうが――小一時間、身じろぎひとつ出来なかった所為で身体は強張っているし脚は痛いし妙な汗はかくしで色々大変なのを差し引いたとしても、ジーンの息遣いと体温を感じながら時折かれを見つめる幸せというのはやはり筆舌に尽くしがたい。
本日何度目かも判らない、『ジーンを見つめてときめいてから慌てて視線を前に戻す』という一連の動作を繰り返したあと、櫻良が、もうあたしこのまま石になってもいい、などと半分くらい本気で思っていると、
「ん……」
低く声を上げたジーンが、不意に眼を開けた。
陽光を反射して、黄金とも極上の琥珀とも取れる稀有な眼がきらりと輝き、櫻良の鼓動はまた跳ね上がる。
心臓が口から飛び出たらどうしよう、ジーンに見せるにはあまりにもグロテスクすぎる、などと、櫻良が余計な心配をしていると、ジーンはわずかに身じろぎし、
「ん?」
何か感触がおかしいことに気づいたのか上を見遣って、
「……櫻良?」
心底不思議そうに言ってから身体を起こした。
「何故櫻良がここに……と、いうか、何故櫻良が、私の枕代わりに?」
「えっ、いや、あの、お茶を持ってきたら、ジーンが寝てて、それで……隣に座ったら、あの、その」
櫻良の、しどろもどろの物言いに、ジーンは首をかしげていたが、大抵は察してくれたのだろう、
「そうだったのか……すまなかったな、重かっただろう?」
「え、ううん、大丈夫。よく眠れた?」
「ああ、よい夢を観た。櫻良のお陰かもしれないな」
そう言って、少し笑った。
櫻良はそれだけで嬉しくなって――それだけで身体や脚の痛みなどどこかへ飛んでいって――、えへへ、と笑い返し、傍らのバスケットを持ち上げてみせた。
「あのね、お菓子を焼いたから、一緒にお茶したいな、って。今日はね、蜜で甘く煮た栗をくるみと一緒に焼き込んだケーキなんだよ」
「そうか……なら、いただこうかな。わざわざありがとう、櫻良」
「ううん。ジーンが頑張ってくれてるの、あたしも他の皆も知ってるから。ちょっとでもゆっくりしてもらえたら、って」
「……そうか」
櫻良の言葉に、ジーンはわずかに瞑目し、そして小さく頷いた。
ほんの少し、照れくさそうだったのは、たぶん櫻良の錯覚ではないはずだ。
ジーンってなんか可愛い、とはそのときの櫻良の素直な胸中だが、まさか自分の五倍も生きているひとにそんなことを感じるとは、櫻良も思ってもみなかった。
「じゃあ……ええと……」
バスケットをごそごそやって、取り出した綺麗なナプキンを草の上に敷くと、ティーセットと保温されたポット――陶製の容器に分厚い布を巻いてあるのだ――、それから紙の型に入れて焼いた栗とくるみのケーキを取り出す。
白いカップに、まだしっかりと熱いお茶、ダージリンとオレンジを合わせたような爽やかな風味のそれを注ぎ、ジーンに手渡してから、小さな皿にケーキを載せて、ナプキンの上に置く。
「はい、どうぞ、ジーン」
「ありがとう。ん、いい匂いだ」
眼を細めてカップを受け取ったジーンが、それに口をつけるより早く、唐突に表情を引き締めてそれをナプキンの上に置き、
「ジーン、どうし、」
櫻良が不審げな声を上げる中、素早く立ち上がった。
そして、ごくごく自然な動作で櫻良の前に立つ。
「……ジーン?」
何があったのか判らず、櫻良はジーンの背を見上げるしか出来なかった。
「そうか、使者は双ツ葉(フタツバ)家から、か……」
「え?」
どこか苦さを含んだ言葉に首を傾げた櫻良は、ジーンの視線の先に、艶やかな黒髪と神秘的な蒼の目をした、痩躯の、美麗な青年たちの姿を認めてまた首を傾げた。
数は全部で三人。
東方人は長命と聞いたことがあるから、実年齢に関しては不明だが、一番背の高い青年は二十代後半、同じくらいの身長のふたりは二十代半ばと二十代前半のように見えた。
ゆったりとした衣装は和を――ジーンと似通った何かを髣髴とさせたし、彼らがまとう空気には神々しい何かが満ちている。
要するに、腰に差した、日本刀によく似た片刃の剣と同じく、彼らは非常にジーンと似た雰囲気、顔立ちをしており、それゆえ櫻良には、彼らが、周囲の人たちが言っていた東方人なのだということが説明を受けずとも判った。
だからこそ、櫻良には、ジーンがした表情の意味が判らなかったのだ。
縁を切ったとは聞いていたが、少なくとも彼らは敵ではない。
しかし、それらの疑問は、
「頴貴(ヨウキ)、翠貴(スイキ)、聯貴(レンキ)」
ジーンが彼らの名を呼ぶと同時に吐き捨てられた、
「……お前に名を呼ぶことは許していない」
一番背の高い、年かさの青年の言葉で何となく理解できた。
彼は、櫻良をちらりと見遣ったあと、ジーンを忌々しげに睨み、
「灯火の守護者が東方出身とは聞いていたが……まさか、それがお前とは。神殿都市の質も落ちたものだ」
そう言って、息を吐いた。
ジーンは無表情のまま黙して動かない。
神殿都市の悪口ひとつでブチ切れると評判の神殿騎士が、であるから、櫻良が彼らとジーンの関係に何かただならぬものがあると察するに時間はかからなかった。
もちろん、そのことに不安を覚えたのも事実で、
「ジーン……?」
立ち上がった櫻良が、おずおずと歩み寄り、背後から小さな声でジーンを呼ぶと、打って変わってやわらかな表情をみせた青年たちが、恭しい仕草で櫻良に向かって一礼し、その場に跪いた。
「見苦しいところをお見せして申し訳ありません、界護の姫、神々の聖門、双女神の慈悲により降臨された貴き守護者よ。我らは、東方大陸から、神万木(カムユルギ)の大長(おおおさ)より派遣されて参りました、北の武門・双ツ葉の使者でございます。どうぞ、お見知りおきを」
彼らは、年かさの青年から順に、頴貴、翠貴、聯貴と名乗り、ジーンを押し退けるようにして櫻良の前に立つと、彼女の手を取り、その甲に恭しい口付けを落とした。
櫻良はそれを、困惑とともに見つめる。
「あの、ええと……」
恭しい扱いも親愛と敬意を表すキスも、もちろんまだ慣れてはいないし恐らく一生慣れないのではないかと思うが、それ以上に櫻良は、彼らの、ジーンへの態度に戸惑っていた。
身動きひとつしないジーンの不可解な沈黙も。
「姫、お寛ぎ中のところを大変申し訳ないのですが、お伝えしたき由、お尋ねしたき由がございます。ご足労をおかけしますが、我らとともに神殿までおいで願えませんでしょうか」
丁寧で親愛の情にあふれてはいるが、どこか拒絶を許さない響きのそれに、櫻良は救いを求めるようにジーンを見遣った。
彼らが自分に危害を加えないことは判る。
彼らが自分に対して真摯であることも判る。
しかし、ジーンへの態度を見ていると、どうしても萎縮してしまう自分がいるのも事実だ。
「え、ええと、あの」
「姫?」
「いえあの、あたし姫じゃなくて櫻良です……ええと、あの、ジーンも一緒で、いいですか」
おずおずと言うと、頴貴の眉間にほんの一瞬皺が寄り、なまじとてつもない美形だけに、その迫力に櫻良は怯えすらしたのだが、
「……姫。あなたにとってのそれが如何なる存在であるのかは存じませんが、それは呪われた血によって我らの父を殺した大罪人です」
さも汚らわしいとでもいうように吐き捨てられた言葉に、彼女は大きく目を見開いていた。
弾かれたようにジーンを見遣るものの、かれはやはり、身動きひとつしない。
出来ないのかもしれない、と櫻良は思った。
「呪い子が世界でもっとも貴い姫君の守護者とは……嘆かわしい」
頴貴の、どこか哀しげですらあるその言葉が、意識の遠い部分に聞こえてくる。
――無論、どこにあるかも判らないいくつもの真実の一端に惑わされ、何ひとつ知らないままジーンを糾弾出来るような、安い気持ちは持っていない櫻良だが。