2.それは、前触れもなく
「どうして……」
ジーンの言葉に、櫻良は呆然と呟いた。
――――膝が、笑う。
歯の根が合わなくなる。
ぐっと奥歯を噛み締めて耐えようとしたが、櫻良の口は彼女の意志を裏切り、カチカチと音を立てるばかりだった。
全身を寒気なのか恐怖なのか判らない震えが襲う。
気持ちをぐっと強く持たなくては、その場に立ち続けることすら難しかった。耳を押さえて目をつぶって、わけの判らない喚き声を上げてみっともなく座り込みたいという欲求に駆られる。
それでも彼女に爆発的なパニックが訪れていないのは、ひとえに、隣に佇む少年が敵ではなく、そして彼と言葉が通じるという半ば希望を含んだ思考、それのみに起因していた。
……いったい何がどうなっているのか、さっぱり判らなかった。
今まで、聞いたこともない言葉だった。
ただ、少年の言から、櫻良の住んでいる場所が廃棄世界などと呼ばれていて、今櫻良たちのいるこの場所が神統世界と呼ばれているのだという、単純なことが判るだけだった。
しかし、それはつまり、ここが、櫻良がついさっきまで暮らしていたあの、地球や日本や東京ではないと指し示すことに他ならなかった。
そして、櫻良の心は、それを事実として認識しようとしている。
それならば、さきほどのあの化け物も、このジーンという少年の出で立ちの奇妙さにも説明がつくからだ。むしろ、そうでなくては、それ以外では説明来ないからだ。
けれど――判らないことばかりだ。
「どうして、どうして帰れないの。どうして、あたし、ここに来ちゃったの。どうして」
混乱を極めた彼女の口からは、「どうして」がこぼれるだけだ。
櫻良は、見慣れた町の見慣れない曲がり角を曲がっただけだった。
入り込む直前、こんな通りあったかな、と、ほんの少し訝しく思ったことを覚えている。そのときは、母親への怒りとむしゃくしゃした気持ちばかりが先に立って、あまり深くは考えなかったが。
――もしかして、これは、罰なのだろうか。
櫻良があんまり悪い子だから、神さまか誰かが怒って、彼女をこんなところへ追放してしまったのだろうか。そんな悪い子供には、優しい家族も幸せな日々も必要ない、と言って。
けれど――けれど。
櫻良はいったいどこで、二度と家に帰れないような、二度と家族に会えないような、そんな大それた罪を犯したのだろうか。いい子ではなかったことが、そんなにもひどい罰を受ける理由なのだろうか。
彼女は、自分でも知らないうちに、もう二度と家族にも友達にも、学校の先生たちにも会えないような、そんな罪を犯していたのだろうか。
「帰りたいよ……」
つぶやくと、恐怖のゆえではない涙が、ひとつふたつとこぼれた。
気持ちが砕けるとともに足の力が完全に抜けて、また、ぺたりと地面に座り込んでしまう。ゴツゴツした石や、露に濡れた草が足に当たったが、そんなことを気にする余裕は今の櫻良にはなかった。
「どうして、帰れないの。あたし、そんなに、悪い子だったの」
櫻良は心底後悔していた。
こんなことになるのなら、もっとちゃんと勉強しておけばよかった、パパやママの言うことを聞いていればよかった、と、今更どうしようもない悔恨が胸を満たす。
大好きだとか感謝しているとか、ごくごく身近なところにいる人たちに、伝えるべきことは日々の中にたくさんあったのに、櫻良がそのことに気づけたのは、もうそれが無理だと判ったその瞬間だった。
帰れないのだというジーンの言葉を、櫻良は真実だと理解していた。本能のように、身体全体がそう認識していた。
ここは懐かしいあの世界ではなく、ここに大切な――大好きな家族はおらず、彼女があの世界に帰ることは出来ない。何をどう理屈をこね、答えを先送りにしようとも、導き出される結論はそれだけだった。
喉元から嗚咽が込み上げてくる。
「ママ、パパ、お兄ちゃん……」
人前だと、恥ずかしいと思う余裕はなかった。
ただ、二度と帰れぬ場所と、二度と出会えぬ人たちを思うことがどうしようもなく寂しく、哀しかった。本当に大切なものは喪ってみて初めて気づくなどという、陳腐すぎる歌謡曲の歌詞のような言葉が浮かぶ。
あまりにありきたりだと、笑い飛ばそうとしても、顔は引き攣るばかりだった。
それが真実そのものだと気づいてしまっていたからだ。
頬を伝って流れ落ちた涙が、ぱたぱたと音を立てて地面や足に落ちる。
「う……うぅっ……うあぁ……ッ」
顔を両手で覆い、声を上げて泣く櫻良の隣に佇んだまま、ジーンは何も言わなかった。
かける言葉がなかったのかもしれないし、櫻良が泣いていることなどどうでもよかったのかもしれない。しかし、櫻良には、その沈黙と、それでいてそこから立ち去ろうとはしない彼の存在そのものが嬉しかった。
――――たったひとりではないと、ひとりきりでここを彷徨わなくてもいいのだと、それだけが救いだった。
「あたし、どうして、こんなところに来ちゃったの」
そうして、十分二十分泣いた頃だろうか。
ようやく少し落ち着いてきて――泣き疲れてきた、ともいう――、しゃくりあげながら、櫻良が誰ともなしに言うと、
「ヒズミの所為だろう」
望んでいたわけでも、返ると思っていたわけでもなかった答えが、少年の静かな声で紡がれた。
櫻良は顔を上げ、ジーンを見上げる。
「…………ヒズミ?」
「あとで説明してやる。今はまず、ここを出るぞ」
「え、で、でも」
「……さっきのような化け物にまた襲われたいか?」
感情の揺らぎの感じられない、静かな、淡々とした声に言われて櫻良はひっと息を飲んだ。
涙がすっと引き、変わって冷え冷えとした恐怖が訪れる。
再度ジーンの差し出した、太くもないのに力強い手にすがってよろよろと立ち上がる。
「まだいるんだ、こんなのが」
今も櫻良たちのすぐ傍で、黒々とした塊となってわだかまるそれ、見知らぬ場所に迷い込んで呆然としていた彼女を追い回した怪物と同じようなものが、まだここには存在するというのだ。
恐怖に駆られ、暗い森の中をあちこち見渡してからジーンを見上げる。恐れという名の疑心暗鬼に囚われると、どの影にもさっきの化け物が潜んでいるような気になってくる。
また、膝が、笑った。
老人の顔と虎の顔を持った醜い化け物、自分のいた世界には何があっても存在しないだろう生き物に森を追いまわされた、背筋の凍るような恐怖が甦り、櫻良は蒼白になった。
歯の奥が、カチカチと音を立てる。
「一匹だけじゃ、ないの?」
「羽蟻や御器噛り(ごきぶり)と同じだ。一匹見れば、十も二十も百もいると考えるのが普通だろう」
「あ、あんなのが、十匹……」
「十で済めば易い方だ、この辺りも最近は物騒になった。あとでまた掃討に来なくては」
誰ともなしに言うと、ジーンはまだ呆然としている櫻良の手を取って歩き始めた。
同年代の男の子と――しかもこんな綺麗なひとと――手をつなぐなんて滅多にないことで、櫻良は自分の置かれた状況も、先ほどまで泣いていたことも忘れてちょっと赤面した。
高校の友達が見たらきっと羨ましがるだろう。
櫻良のそんな、その年頃の少年少女特有の、移ろいやすい思いなどお構いなしに、彼女の手を引いたジーンは大股でどんどん森の中を歩いて行く。一度も方角を確かめることはなかったが、その足取りに迷いや躊躇が含まれることもなかった。
歩幅の大きいジーンについていくため小走りになりつつ、櫻良は疑問を口にした。
それどころではないはずなのに――不安は何ひとつ解消されていないはずなのに、今でも恐怖は薄れないのに、少し見上げると目に入る、少年の、繊細でそれでいて鋭角的な横顔に思わず見惚れる。
「ね……ねえ、ジーンさん」
「ジーンでいい」
「あ、ええと、うん。あの、ジーン。どこに行くの?」
「神殿都市だ」
「……え?」
それは確かに日本語なのに、櫻良が日常的に使っているはずの言語なのに、あまりに聞きなれない所為で彼女の中に『言葉』として浸透して来なかった。意味を理解することが出来なかったのだ。
訝しげに訊き返すと、ジーンはまったく歩みを緩めないまま、しかしどこか誇らしげに言った。
「桃天華(とうてんか)大神殿都市。我が巣にして帰属する場所だ」
「トウテンカ……?」
「桃の、天の、華。双子の創世神、創造神桃華(とうか)と生命神天華(てんか)を祀り、奉じ、その守護と恩寵を受ける美しい都だ。お前のことも、そこの人たちが何とかするだろう」
「え、あ、あの……」
櫻良にはもっともっと訊きたいことがあった。
これからどうすればいいのか、自分はどうなるのか、ここがいったいどんなところで、廃棄世界と神統世界とはどういうことなのか、さっきの化け物はなんなのか。――ジーンは一体何者なのか。
問いたいことはあふれるように出てくる。
けれど、それらを口にするよりも早く、ふと、森が終わっていることに気づいて、櫻良はそちらに気を取られた。
――森の向こう側には、鮮やかな空と、やわらかな緑とがあり、そして視線の下方遠くに、色とりどりの屋根がきらきら輝く町とが広がっていた。
分厚い城壁に覆われた町の、家々の姿はレトロで――それでいて色鮮やかで、どこからどう見ても、日本や東京ではありえなかったが、それでも櫻良はその瞬間、町並の美しさに息を飲み、心奪われた。
空と町とが、なんのちぐはぐさもなく溶け合った風景だった。
「綺麗……」
櫻良たちが抜けたこの場所は、町からはずいぶん離れた山の一角のようだった。黒々とした森から、草に覆われた小さな広場へ出てみると、あちこちに黄色や赤に色づき始めた木々が見え、とてもこの周囲に怪物が潜んでいるようには見えない穏やかさだ。
ジーンは櫻良がぽつりと呟いたのを見下ろしてから、
「夜歌(ヤカ)、どこだ。帰るぞ!」
大きくはないのによく通る声で誰かを呼んだ。
誰が来るんだろう、と周囲をきょろきょろしていた櫻良は、テレビでしか聞いたことのなかった馬のいななきが響き、森の一角からジーンの髪と同じ濡れ光るような漆黒をした馬が飛び出してきたところで、色々な驚きに目を真ん丸に見開いた。
動物に詳しくない櫻良にすら、きっと余程の名馬なのだろうと思わせる美しさを持った馬は、尻尾もたてがみも黒なら、手綱や鞍も黒だ。
脇目も振らず一直線にこちらを目指して走ってくる、テレビで見たものより断然大きくて(当然だが)力強いその馬は、ぎょっとするくらい鮮やかな真紅の眼をしていた。
櫻良のいた場所では、目の赤い生き物などウサギかハエくらいのはずだったが、ここでは違うと言うことなのだろうか。
しかし、櫻良が一番驚いたのはそんなことではなかった。
――――その額には、光を浴びてきらきら輝く、真珠色の角が生えていたのだ。よく観れば、馬の蹄(ひづめ)も角と同じ真珠色だ。
こんな生き物が現実にいるだなんて、この世界は一体どんなところなのだろう、と胸中に思う。
「ええと……ユニコーン?」
「そのままの名称だがその通りだな。廃棄世界にもいるのか?」
「ううん、あの、本とか絵で観たことはあるけど。でもそれ、神話とか、おとぎ話だから。――多分」
「……そうか。あれは神獣の一種で玉瑞(ぎょくずい)という。私の乗騎で、友だ」
「名前が、ヤカ?」
「そうだ。夜の、歌」
「綺麗な名前だね。あの、毛の色……本当に、夜みたい」
などと話している間に、夜歌がふたりの前へ到着する。
馬とは本来そういう生き物なのだろうか、櫻良には驚くほど大きく感じられたが、その真紅の目は優しく、そしてその足取りは軽やかだった。足音すらしないほどだ。
太陽の光を受けてつやつやと輝く身体はとても綺麗で、櫻良は様々な心配事を忘れ、夜歌をぼうっと見上げていたが、
【首尾はいかがか、友よ】
どこからどう見ても馬でしかないそれの口から、はっきりとした人間の言葉が飛び出すにいたって硬直した。
声だけ聞けば、三十代から四十代の男のものに思える。非常に渋い、味のある声だ。
櫻良は盛大に驚いたが、ジーンには普通のことなのだろう、彼はまったくの無表情のままで馬の首筋を叩き、その、漆黒の光が舞い踊るようなたてがみを梳きながら静かに――端的に答えた。
「ソウメンに出くわした」
【なんと。そのように下等なモノまでが、この神聖なる場所に湧くか。こちらはケモノムシが三つ四つおったので始末しておいたが……きりがないな】
「ああ。仕方があるまい、そういう時期だ」
【まったく、その通り。少々、気を引き締めねばなるまいな。……して友よ、その娘御は?】
「ソウメンに襲われていたのを助けた。櫻良というらしい」
【ああ、彼奴らは人の子の肉が好きゆえな。大事ないようで何よりだが、か弱き娘御がなにゆえこのような場所へ?】
「――――廃棄世界からの迷い人だ。ヒズミはどこにでも湧くしどこにでも口を開ける。そういうことだろう」
【なんと……】
真紅の双眸を瞬かせた夜歌が、ひとりと一頭の会話を呆然と聞いている櫻良を見下ろした。櫻良はびくりと震えて『彼』――多分彼で間違いないだろう、あの声だ――を見上げる。
【廃棄世界から来られたか、お客人】
「あの、ええと、判りません、ごめんなさい……」
【否、謝られる必要はない。そうか、それは大層驚かれたことであろう】
「あ……はい、びっくりしました。とても怖かったですし。でも、」
【……でも?】
「あの、ジーンが、助けてくれたから、もういいんです」
櫻良がそう言うと、夜歌はしばし瞬きを繰り返していたが、やがてその真紅の眼を細めた。笑ったのだろう。
人間臭い仕草と表情に、櫻良は、この本当に馬と呼んでいいのかよく判らない生き物への警戒心が薄れていくのを感じていた。命を救ってもらったジーンへ、刷り込みにも似た信頼を寄せているのと同等に、この馬ならきっと櫻良をひどい目に遭わせたりはしないだろうという確信が生まれる。
【よかったな、友よ】
「……何がだ」
【そこで何がと訊くとは、なんと嘆かわしい朴念仁。かくも可愛らしい娘御に、あのように言われてなにゆえ喜ばぬ】
「何故喜ぶ必要がある。神殿騎士として当然のことをしただけだろう」
【まったく、これだから東方人は困るのだ。……お主のその鈍さ、何とかならぬものか】
「余計なお世話だ。馬のくせにあちこちで浮名を流すお前に言われたくない」
【馬ではなく、玉瑞だ。口も利けぬ彼奴らと我らをひとまとめにしてもらっては困る。大体にして、美しい女子(おなご)と愛を囁くに、人だ馬だの種は関係なかろう】
「……好きにしてくれ。ひとまず帰るぞ、櫻良のことを報告して、今後のことを頼んでおかないと。ふたり乗って問題ないな?」
【見くびってもらっては、困る】
少々気分を害したらしく、鼻を鳴らした夜歌の言葉がこぼれると同時に少し笑ったジーンは、ああこの人も笑うことがあるんだと櫻良が失礼な感想を抱くより早く、
「そうこなくてはな」
短く言うや、櫻良を軽々と抱きかかえてひょいと夜歌の背に飛び乗った。
あまりに急なことで、景色がぐるりとまわったことに驚いて、櫻良は、
「ぎゃーっ!?」
という色気も何もない悲鳴を上げたが、すぐになにやら硬くてすべすべしたものの上にすとんと尻が落ち着いたので、ちょっとほっとして思わずつぶっていた目を開けた。
「うわぁーっ!」
そして、今度は感嘆の溜め息をこぼす。
「すごい、綺麗」
櫻良は夜歌の背の上、つまり鞍に腰かけていた。
視線が二メートルばかり上になるだけで、どうして世界がこんなに広く思えるのだろうか。ぱっと開けた視界の中、世界は色鮮やかにきらきらと輝いて見えた。
背後からはジーンの腕が伸び、手綱を握っている。
夜歌が歩き出すとその背はぐらぐら揺れたが、ジーンが櫻良を抱くようにして、彼女が落ちないようにしながら手綱を操っていたので、櫻良は生まれて初めての乗馬を不安に思うよりも先に耳まで赤くなった。
――――背中から、ジーンの体温が伝わってくる。
やわらかな熱に鼓動が早くなる。
「さて、では行くぞ。櫻良、夜歌は優秀な乗騎だ、それほど揺れないから怖がらなくていい。怖ければ鞍の端を掴んでいろ、いいな?」
背後から、ほんの少しやわらかい、気遣うようなジーンの声がする。
「う、うん」
櫻良は言われた通り鞍の端をぎゅっと掴みながら、恐怖や不安とは別の理由でどきどきしている自分の心臓を持て余していた。どきどきする音が、背中の服ごしにジーンに伝わってしまわないか心配になる。
(ど、どうしよう――――)
櫻良は胸の中に呟く。
(どうしよう、あたし)
「行こう、夜歌」
【承知】
夜歌が緩やかに走り出してからも、そのどきどきは止まらなかった。
むしろ、ジーンと身体が密着すればするほど大きくはねあがった。
夜歌が優秀な馬であるのと同じくらいジーンは優秀な騎手のようで、櫻良は山道を駆け下りてゆく夜歌の背の上で、乗馬の怖さより風を切る心地よさを味わっていた。
「櫻良」
「えっ、あ、はいっ?」
「大丈夫か?」
「え、あ、う……うん。平気。すごいね、早くて、気持ちいい」
「そうか。なら、いい」
ジーンが、背後で、かすかに笑った。
(どうしよう)
櫻良は胸の奥に何度も呟く。
(本当に、どうしよう、こんなの)
それどころではないはずなのに、――不安は何ひとつ解消されていないはずなのに、今でも恐怖は薄れないのに、それなのに。
出会ったばかりで、正体も判らなくて、本当に味方なのかも判らないのに。彼のことなど、何ひとつとして知らないのに、それなのに。
(あたし、ジーンが好きになっちゃった)
こんなところで、ぽろりと、恋心がこぼれた。