3.神殿都市と、神殿騎士ジーン

 馬上の旅は快適だった。
 ジーンの言葉通り、夜歌はとても優秀な乗騎なのだろう。
 揺れは少なかったし、スピードも速すぎず、硬い鞍に腰かけた櫻良の腰や尻が痛くなることはなかった。
 櫻良はただ単純に、ゆっくり変わってゆく景色と、爽やかで心地のよい風と、瑞々しい緑の匂いとを楽しみ、そして背後から伝わってくるジーンの体温に心を躍らせた。
 異世界に来てしまったという不安と、家族や親しい人々と離れ離れになってしまった哀しみは決して消えてはいなかったし、何とかして帰りたいという気持ちは間違いなく彼女の心に根差していたが、手を差し伸べてくれる存在に出会えたことで、櫻良にはわずかなりと余裕が出来ていた。
 今じたばたしても仕方がないのだということ、ひとまずなりゆきに任せるしかないのだということに気づいたのだ。
 ――そしてそれは、きっと、櫻良にとってとても幸運なことだった。
「綺麗だね。本当に、こんな綺麗なの、初めて」
 夜歌の背に、三十分ほど揺られた頃だっただろうか。
 そのとき櫻良は、山の上から見えていた町、頑丈そうな城壁に囲まれた大きな大きな集落が、徐々に近づいてくるのを観ながら、生まれて初めて目にするたくさんのものにはしゃいだ声を上げていた。
 それは例えば、クリスタルガラスのように透き通った木々や、虹色に輝く花弁を持った花や、空を優雅に舞う、鳥なのか蝶なのか判然としない、幻想的で美しい生き物や、姿かたちは普通の小鳥なのに、木琴をリズミカルに奏でているような声でさえずる生き物たちだった。
 そもそも櫻良の住んでいたところは、お世辞にも自然豊かとはいえないところだったから、彼女は決して緑や動物に慣れていなかった。しかし、だからこそ、今こうして見聞きするすべてのことのすべてが新鮮で、何もかもが美しかった。
「……廃棄世界には、ないのか」
 ふと、ジーンが抑揚の少ない声でそう問うたので、櫻良は思わず後ろを振り返った。
「え?」
 すると、少年の、純金にも極上の琥珀にも見える稀有な眼がきらりと光を反射し、櫻良をどきりとさせた。こんな色の目を観たのは初めてだったし、こんなに綺麗な目を観るのも初めてだった。
 何もかもが初めてだ、と思うと少しおかしくなる。
「初めてと言うからには」
 思わずその黄金に見惚れていた櫻良を、ジーンの、感情の揺らぎの感じられない声が現実に引き戻した。
「あ、うん。あんな木も花も、あんな声で鳴く小鳥も観たことない。ねえ、さっき飛んでたあの生き物は何?」
「あの、紫色のか?」
「うん、そう。まるで宝石みたいに綺麗だったね、羽が透き通って。あれは鳥? それとも、蝶々?」
「どちらでもない。……いや、どちらかといえば鳥に近いか。あれは精霊獣の一種だ。玻璃翼(はりよく)という」
「セイレイジュウ、の、ハリヨク?」
【風に舞う玻璃(ガラス)のようだというのでその名がついた。先刻嬢が出くわした化け物の真逆の存在だ。精霊にごく近い性質を持つ獣たちを言う。吾(われ)ら神獣の親戚のようなものだな】
 鸚鵡返しに尋ねた櫻良に、夜歌が口を挟む。
 櫻良は首をかしげた。
「まぎゃく?」
「反対のことだ」
 今どきの女子高生らしく、難しい言葉とはあまり縁のない櫻良がまた判らない単語を鸚鵡返しにすると、今度はジーンが助け舟を出してくれる。
「……そうなんだ。じゃあ、いいもの?」
 先ほどの、あの凶暴で醜悪な、おぞましい化け物。
 それとはまったく反対の生き物だというのなら、天使のような善良なものなのだろうかという、無知で素朴な疑問を、櫻良は少ない語彙で表現してみたのだが、見上げたジーンはかすかに肩をすくめた。
「善や悪であれらを計っても詮のないことだが」
【魔獣とは陰の気が凝って生まれるもの、精霊とは陽の気が寄り集まって生まれるもの。前者は夜や影に、後者は昼や光に宿る。どちらもが、世界にとっては自然な存在だ】
「え、う、うん……?」
「廃棄世界に魔獣や精霊はいないか」
【だからこその“原初の廃墟”であろう】
「……?? あの、それって、どういう……?」
「いい、またいずれ説明してやる。だが、概念としては判るだろう」
「うん、ええと、妖精みたいなもの? 昔絵本で読んだ覚えがある。いたずらもするけど、いいこともしてくれるって」
「そんなものだ」
「夜や影は悪者じゃあないの?」
「……夜も影も、なければ困るだろう」
「そっか。でも、ジーンはあの怪物を殺したよね? じゃあそれは、あたしを助けてくれるために、仕方なく?」
【存在として自然であっても、魔獣どもが害悪であることに変わりはない、人間にとってはな。彼奴らは殊の外ヒトの肉を好むゆえ】
「私は神殿騎士だ。神殿都市のためにある。その領域を侵す魔獣の存在を許すわけにはいかない」
「……そうなんだ」
 淡々としたその言に、では自分はついでに助けられたにすぎないのかと……自分を助けることよりもあの化け物を殺すことのほうが重要だったのかと、少しがっかりした櫻良だったが、
「そして」
 やはり感情の伺えない声が、
「罪のない娘が、あの下等で汚らわしい生き物の餌食になるのを、黙って見ていられるほど人間に絶望してもいないな」
 そう言ったので、安堵めいた息を吐いて笑った。
「うん、ありがとう」
 難しい言葉だったが、そこに自分を気遣う色彩を感じ取って、櫻良は単純にもちょっと嬉しくなる。
 無論、この短時間で櫻良が恋をしたことなどジーン自身が知るわけもなく――しかもこの短時間で相当な鈍感だと判明したジーンに、それ以上の心がときめくような言葉を期待してはいなかったが。
 それでも、好きな人が出来るって幸せだなぁ、友達にジーンを紹介したらみんな驚くだろうなぁ、などと、年頃の少女らしいことを考えていた櫻良の耳を、夜歌の渋い声が打った。
【もうじき着くぞ】
「え?」
【あれに観ゆるが、桃天華大神殿都市が一門、北部桃璃門(ほくぶとうりもん)だ。そこな朴念仁の率いる一隊が守護する門だな】
 言われて首を回せば、あの、先刻山の上からも見えていた巨大な防壁が徐々に近づいてきていた。あれが桃天華大神殿都市と呼ばれる、ジーンたちの住まいなのだろう。
 その大きいこと、広いことといったら、櫻良の住んでいた区が一個丸々どころか、東京くらいはすっぽりと入ってしまいそうだ。高さ二十メートルを軽く超えるであろう、頑丈そうな城壁は、どこまで続くのか判らないほど遠くまで伸びている。
 万里の長城ってこんな感じかな、と、最近歴史で習ったばかりの遺跡のことを思い浮かべていた櫻良は、巨大な門を目にして驚いた。
 まだ何キロも離れている今の状態で、こんなにくっきり見えるのだ、よほど大きなものなのだろう。
 石と木を組み上げて作られた頑丈な門は、いかなる塗料を使ったものか、滑らかな純白に塗られていた。そこに花と鳥の流麗な彫刻があり、それらには鮮やかな塗料で彩色が施されている。
 櫻良は両眼とも1.5以上の視力を誇る眼鏡要らずの目だが、それにしても、門の大きさと美しさは遠目にも際立って見えた。門の前にたむろする人々が、米粒のように見える。
 更にその壁の向こう側には、真珠色と表現すればいいのだろうか、背の高い塔が白く輝いているのが見えた。人が煉瓦を積み上げて造ったものとは思えない、滑らかで美しい、神秘的な塔だった。
 頂上部分には屋根つき展望台のような部分があるのだが、そこには人の姿も、例えば塔のてっぺんにありそうな鐘のようなものもなかった。
 それはただ、太陽の光を浴びて、白々と美しく輝いていた。そこにあること、それだけが己の負う責務だとでも言うように。
 そこまで考えた後、櫻良は、夜歌の言った言葉、ジーンの率いるというそれに首をかしげる。
「ええと……率いるってことは、ジーンって、結構偉いの?」
「別に偉くはない」
【負うた責務が重いだけだ】
「そう……なの?」
「神殿騎士に地位は関係ない。神殿騎士の命は、神殿都市内で一番軽いのだから」
 ジーンの一言に、それは一体どういうことなのかと言葉を重ねようとした櫻良だったが、不意に夜歌が、
【ジン】
 厳しさを増した声でジーンを呼んだので口をつぐんだ。
 ジーンではなくジンと呼んだことに何か理由があるのか、気になることもあったが、口調は堅苦しいものの陽気な態度を崩さなかった夜歌が、唐突に声を引き締めたことの方が気懸かりだったのだ。
 夜歌が更に何かを言うよりも早く、唐突に、身体を屈めたジーンが背後から櫻良を強く抱え込むようにしたので、櫻良は危うく変な悲鳴をあげそうになった。密着の度合いが強まり、心臓が跳ね上がる。
「じ、ジーン?」
 不自由な――けれどほんの少し幸せな――身体をひねり、見上げると、ジーンの金色の眼が厳しく細められていた。
 櫻良は息を飲むと同時に、その美しさに見惚れる。
「賊だ」
 短い一言とともに、ジーンの手が手綱をきつく握る。
「少し、飛ばすぞ」
 彼がそう言った途端、櫻良は世界が跳ね上がったように感じた。
 夜歌が勢いよく地面を蹴ったのだ。
 そして、そのすぐあとに訪れる、激しい衝撃。
「……――ッ!?」
 櫻良は必死で悲鳴を飲み込んでいた。
 ジーンがどれだけ丁寧に手綱を操っていたか、夜歌がどれだけ自分に気を遣って走ってくれていたか、櫻良はその衝撃に思い知らされた。そしてそれと同時に、馬に乗るとは本来、こういうことなのだと理解してもいた。
 空と大地とを交互に――猛スピードで旅するような、胃が持ち上がるような気味の悪い感覚と、振り落とされるのではないかという恐怖を味わう。
 ジーンの体温が背中ごしに伝わってきていなかったら、みっともなく泣き喚いて降ろしてくれと叫んでいただろう。
 それでも、何か悪いことが起きているのだという事実と、ここで自分が泣き出せばひとりと一頭はきっと自分を気遣って速度を緩めてしまうだろう、その結果その『悪いこと』が更に悪い方向に向かってしまうかもしれない、という意識の元、ジーンなら絶対に自分を落としたりしないという、奇妙なほどに強い確信に支えられるようにして、櫻良は必死で鞍の端を掴み、その速度に耐えていた。
 しかし恐怖の時間は長くは続かなかった。夜歌が、まさしく風のように地を駆け、ものの数分で門前へと辿り着いたからだ。
 門前には、明らかにジーンと同種と判る出で立ちの少年と青年がひとりずつと、いかにも柄の悪い、お世辞にも綺麗とは言えない恰好をした男たちが全部で五人いた。
 彼らの後方では、彼らが乗ってきたのだろう普通の馬たちが十頭いて、こちらの様子を伺っている。
 ジーンと同じ神殿騎士なのだろうふたりは、その、盗賊と言えばいいのだろうか、柄の悪い五人の男たちに剣を突きつけられ、硬い表情で地面にうずくまっていた。
 彼らの周囲には大きな血だまりが出来ていて、そこには、男たちの仲間と思しき五人の男が――男だったものが転がっている。多勢に無勢の中、神殿騎士たちが奮闘した様子が見て取れた。
 櫻良は、ぴくりとも身動きをしないそれらが、明らかにもう生きてはいないのだと気づいたが、生まれて初めて死体を見たという衝撃も、緊迫した空気の前には薄れてしまっていた。
 少年と青年がぱっと目を惹く際立って端正な顔立ちだけに、ジーンに賊と称された男たちの小汚さが際立って見える。
「アイレストリアス・ブルーサファイアと、カーズフィアート・ゴールドクロスか。……運がなかったな」
 同僚の危機を目にしてもまったく動じることなく馬首を巡らせるジーンのつぶやきは、驚くほど冷たかった。先刻櫻良と話していたときの、ぶっきらぼうで表情少なではあるが穏やかな声とは何もかもが違った。
 少年と青年は、破れた衣装のあちこちに血をにじませていた。彼らのものだろう、シンプルな剣が二本、地面に転がっている。
 ジーンに気づいた盗賊たちが下品な笑い声を上げて彼を指差した。それに弾かれるようにして、二人の神殿騎士が、青褪めた顔をジーンに向ける。
 少年はジーンよりもひとつかふたつ年下に見えた。髪は淡い茶、瞳はまさに宝石を思わせる鮮やかなサファイア色。ジーンのような、神秘的なまでの美貌ではないものの、櫻良の故郷たる日本ではちょっとお目にかかれないほど美しい顔をしていた。正真正銘の美少年というヤツだ。
 青年は二十歳をふたつほど過ぎた頃だろうか。髪は金、瞳は透き通った緑。すらっとした長身で、ちょっと軽そうな印象は受けるものの、こちらも文句のつけようのない美青年だ。さぞかし女性にもてることだろう。
 しかしふたりの美しい顔も、剣という物理的な脅威と、間近にある死への恐怖で蒼白になり、強張っていた。
「た、隊長……」
 ジーンを目にした青年が、震える声で言う。
 しかしジーンは、ふたりの窮地に何ひとつとして心を動かされてはいない様子で、閉ざされた巨大な門と賊、そしてふたりの神殿騎士を順番に見比べ、そして口を開いた。
「何故門が閉じているのに、お前たちはふたりなんだ」
 紡がれた声は、やはり櫻良の背筋が凍えるほどに冷ややかだ。
「それは、その」
 青年が口ごもる。
「いつものように、少なくとも五人一組で当たっていたなら、そのような失態を犯す無様はさらさずに済んだものを。……何故だ、カーズフィアート」
 静かに、淡々と名を呼ばれた青年が、剣を突きつけられていたときよりも更に蒼白になる。
「で、ですから……っ」
 首筋に押し当てられた剣よりもジーンの方が恐ろしいかのような表情で、青年が何かを言い募ろうとするよりも早く、ジーンは櫻良を置いたままで夜歌の背から降りた。
 ひらりと、体重を感じさせない軽やかさで。
 自分ひとりでどうすればいいのかと、馬(実際には馬そのものではないが)の扱い方などまったく知らない櫻良は焦ったが、ほんの一瞬振り返り、黄金の目を彼女に向けたジーンが、
「夜歌」
【いかがいたした】
「玉瑞の名にかけて、櫻良を守れ」
 そう言ったので頬を紅潮させた。
 まるで、漫画や映画のヒロインのようだ、と、胸が高鳴って、落ちたらどうしようとか高くて怖いとか、そんな意識は後回しになる。
【……承知】
 夜歌の返答は短く、そして力強い。
 それへかすかに頷くと、ジーンは、ごつい剣といかつい革の鎧で武装した盗賊が五人、人質を取って立ちはだかっている傍へ、何の頓着もない風情で歩み寄る。
 腰に佩かれた剣へは、まだ手を伸ばす様子はなかったが、それは、人質の命を助けるために、というわけではないようだった。
「慢心したな、ひよこども。おおかた、手柄とか名誉とかいうわけの判らないもののために先走ったのだろう」
 嘆息とも憤りともつかぬ、いかなる胸中でいるのか判然としない、あまりにも感情の量りにくい声が言うと、青年は真っ青になり、少年は泣きそうな顔をして項垂れた。
 どうやら事実らしい。
「……厄介な奴らだ、貴族とかいう連中は」
 侮蔑でも嘲笑でもない、ただ事実を言う口振りでぽつりとこぼしたジーンが更に一歩踏み出すと、ごつくて柄の悪い、櫻良の故郷でならまず間違いなくヤクザと呼ばれたであろう男が、にやにやと品の悪い笑みを張りつけて彼の前に立ちはだかった。
 その背後では、四人の男たちが左右からふたりの神殿騎士に剣を突きつけている。
「そういうわけだ、隊長さん。部下の命が惜しけりゃ、俺たちを神殿都市に入れて、ありったけの金銀財宝を持って来な。エス=フォルナ国内のみならず、世界に名だたる桃天華大神殿都市だ、さぞやたくさんのお宝を溜め込んでることだろう」
 男の要求は非常に判りやすかった。
 漫画や小説、ファンタジー映画に出てくる悪役たちが必ず口にする、お約束ごとと言ってもいい。ああいう人種の思考回路とは、似通ったものなのかもしれない。
 それと同時に櫻良は、彼の言葉から、ここがエス=フォルナという国であり、そしてその威容を見せ付ける眼前の神殿都市の名が、世界中に知れ渡っているのだと知ることが出来た。
「さあ隊長さん、とっとと門を開けてくれ。俺たちは気が短いんだ、あんまりのろのろしてると、あんたの可愛い部下たちの綺麗な指や耳が、ちょんと飛んでいっちまうかも知れないぜ」
 と、男が本気の脅しを込めて言うや、背後の四人が剣を動かし、少年の頬と青年の耳に小さな切り傷をこしらえてみせた。ふたりの白い肌から、鮮やかな赤い液体が盛り上がり、線を描いて流れ落ちる。
 彼らは悲鳴こそ上げなかったものの、ぐっと唇を噛み締めて痛みとも恐怖ともつかぬ何かに耐えているようだった。
「さあ、どうする」
 自分たちの優位を微塵も疑わぬ風情で男が言う。
 ジーンは何も答えない。
 ――――不自然な沈黙が落ちる。
 櫻良は夜歌のたてがみを手綱代わりにバランスを取り、ジーンの邪魔にならないよう、息を飲んで成り行きを見守っていた。