「う、うう……」
 最初にその沈黙に耐え切れなくなったのは、カーズフィアートと呼ばれた金髪の青年だった。
「た、隊長! 僕はまだ死にたくありませ……」
「黙れ」
 出血したままの耳元を押さえ、必死の形相で助けを請おうとした青年に、刃のごとき言葉が叩きつけられる。青年を見据える黄金は、今でははっきりとした怒りに彩られていた。
 その声、その目のあまりの厳しさ、冷たさに、青年がひっと息を飲んだ。
「くだらぬ自己満足、名誉欲権勢欲のために、己が命に変えて守るべき都市(まち)を危険にさらしておきながら、まだそうして命を乞うか。――――恥を知れ」
「隊長。ジーン様っ!」
「……都市のためにならぬ神殿騎士は、要らん」
 泣きそうな顔と声で自分を呼ぶカーズフィアートを、一刀両断に斬って捨てる。
 先刻までとはあまりに違うジーンの様子に、櫻良は呼吸すら忘れ、瞬きする間も惜しんで彼を見つめていた。
 櫻良に手を差し伸べてくれた彼とふたりの命をあっさりと放り捨てる氷のような今の彼、どちらが本当のジーンなのか、判断がつかない。
「おいおい、隊長さん。本当にそれでいいのかよ? かの偉大なる神殿都市を敵に回そうってんだ、俺たちだって遊びで来てるわけじゃない。殺るって言や、本当に殺るぜ? 可哀相じゃあねぇか、前途ある若者を簡単に見捨てちまったら」
 冗談めかした、軽い……しかし思い通りにことが運ばぬ苛立ちを含んだ声がジーンに向けられると、彼は、ほんのかすかな笑み、冷ややかなそれを、その流麗な唇に浮かべてみせた。
 男がほんの一瞬気圧されたのが判る。
 ジーンは男の様子にも頓着せず、ただ一言、端的に、
「好きに殺せ」
 言い捨てる。
 少年と青年が息を詰めた。
 ――――櫻良もまた、鋭く息を詰めた。
 そこに、決して揺るがない本気を感じ取って。
「……いいんだな?」
「くどい」
 男の声に下卑た怒りが混じる。
「薄情な騎士様もいたもんだ、まちのために戦う仲間を見捨てるとは。そいつが桃天華大神殿直属騎士団の流儀ってヤツなのか?」
 侮蔑のこめられた挑発にも、ジーンの怜悧な瞳が動くことはなかった。
 そこにあったのは凍えるような眼差しと揺るぎない決意だけだ。
 そしてただ、芸術的な弧を描く唇が、
「……貴きは、我が生にあらず」
 不思議な言葉を紡いだだけだ。
「なんだって?」
「我、死するために在るなり。かの偉大なる神殿(かむどの)の繁栄と、民草の幸いの礎たるために死するを騎士と呼ぶなり。我、今より我が生の最果てまで、我の持てるすべてを以て神殿の守り手たらん。我がみすぼらしきこの生と死とを、光あるもののために捧げん。――――神殿騎士が、叙任の初めに誓う文言だ」
「……?」
「この言葉に偽りはない。あっては、ならない」
 かちり。
 小さな金属音がする。
 ……ジーンが、剣を、抜いた。
 しゅるり、と腰の黒い鞘から抜き放たれたそれが、明るい陽光を反射して三日月のように光る。
「神殿騎士の命は、神殿都市を守るという責務の前には、都市にある石ころひとつより軽いのだ」
 淡々とした言葉とともに、少年が一歩踏み出す。
 背後の四人が表情を険しくし、少年と青年の首筋に剣を押し付けた。
 少年は声を上げず、ただ歯を食いしばり、悲痛な面持ちで目を閉じただけだったが、青年カーズフィアートは、見事な緑の双眸に怒りと絶望と必死の懇願とを張りつけ、
「いやだ、やめてくれ、死にたくない! 僕はこんなことのために神殿騎士になったんじゃないんだ! ジーン隊長、僕を誰だと思ってるんですか!? こんなことをして、ゴールドクロス家を敵に回すつもりですか!」
 そう、事情がよく飲み込めていないがゆえに青年にも同情的だった櫻良ですら眉をひそめるような、ありきたりでみっともない台詞を喚き散らした。それで心を動かされるものがいたらお目にかかりたいとすら思う。せっかくの端正な顔も、中身がこれでは台なしだ。
 案の定、ジーンは表情ひとつ変えなかった。
「東方人に、西方の都合など判るか」
 そう、冷ややかに言っただけだ。
 櫻良には東方人とか西方という単語が何を差すのかは判らなかったが、ブルルッと馬っぽく鼻を鳴らした夜歌が、
【……西方大陸へ来てもう五十年以上経つくせに、何を言うか】
 ごくごく小さな声でつぶやいたので首をかしげた。
 彼女に向けての言葉ではなかったのだろう、何を言ったのかまでは聞き取れなかったが、そこに呆れが含まれていたことだけは感じ取っていた。気になったので、ジーンの邪魔にならぬよう、声をひそめて問いかける。
「夜歌、何か言った?」
【いや、何でもない】
「そっか。ねえ……あのふたり、どうなるの」
【憐れだが、神殿騎士団の理(ことわり)は変えられぬ】
「それって……」
 ジーンの物言いから予想はついていた。
 しかしその厳しさに櫻良は絶句するしかない。
 櫻良のいた世界は、特に日本という国は、様々な矛盾や間違いが氾濫してはいたけれど、こんな風に、驚くほどなすすべもなく人の命が喪われてゆくほど物騒な場所ではなかった。
 両親の祖父母ともに健在な櫻良は、親しい身内の死すら経験してはいなかったし、ましてや何の関係もない人々が凶悪な犯罪によって命を落とすような、そんな現場に居合わせたこともなかった。
 日本は平和な国だったし、幸せな国だったのだと、櫻良は今更のように理解していた。
 ――ふたりの騎士は、神殿都市という場所とそこに生きる一般人のために、軽々と切り捨てられるのだ。
「交渉決裂か。後悔するなよ」
「何をだ」
「――俺たちは先遣隊だ」
「ふん?」
「今ここでお宝をいただけりゃ、正面きっての襲撃はやめてやろうと思ってたんだがな。まだ向こうの本拠地にゃ百人からの荒くれどもがいて、神殿都市のお宝をいただこうと狙ってる。そん時ゃ、女子供も容赦なしだ」
 男の酷薄な物言いに、背後の仲間たちが下卑た声で笑った。
 彼らの、ぎらぎらとした野卑な輝きを宿した目に、暴力でもって他者から物を奪うことへの喜悦が揺れ、あんな、いかにも犯罪者といった面持ちの男を生で見るのも初めてだった櫻良は、思わず身体を硬くした。
 しかし。
「――――馬鹿が」
 ジーンの言葉は端的で、静かだった。
「なんだとこの、」
 癇に障ったのだろう、乱杭歯を剥き出した男は、更に何かを言おうと口を開きかけた、が。
「あ? ぁあ、あ、な……?」
 何があったのか、何に気づいたのか、不意にポカンとした、というのがもっとも相応しいような、間の抜けた――不思議そうな顔になって、左手をゆるゆると動かし、己の首筋を押さえた。
 ――――いつの間にか、ジーンの剣が、天へと降り抜かれていた。
 瞬きもせずにジーンを凝視していた櫻良にさえ、彼がいつ剣を揮ったのか判らなかった。
 それほど速かったということなのだろうか。
 それとも、神殿騎士とは、そういう不思議な力の持ち主なのだろうか。
 そう櫻良が思った瞬間、ジーンの眼前で、何が起きたか判らないといった風情で首筋を押さえていた男の、その太い首から血しぶきが噴き上がった。
 まるで噴水のように、勢いよく。
 ふたりの騎士に剣を突きつけていた男たちが目を剥いたのが判った。そこには衝撃と、隠しきれない恐怖がある。
「あが、あ、ぐが、ああぁ、あああ……っ!?」
 濁った、野太い悲鳴を上げて、男が反対の手に持った剣を取り落とす。
 そして、もう片方の手も使って、血を噴きこぼす首を押さえたが、それは一向に止まる様子がなかった。ぬめぬめとした赤い血が、白っぽく乾いた地面をどす黒く染めてゆく。
 ごぼごぼと、咳とも呻き声とも取れぬ息を吐いた男の口から、赤黒い血がどろりとこぼれた。
 ――そのときの櫻良は奇妙なほど冷静だった。
 ジーンの手にした武器が、剣と言いつつも地面に転がる神殿騎士ふたりの剣よりも細身の、実際には日本刀のような片刃で、持ち手の柄や鍔(つば)の部分に流麗な細工がしてあることを、まるで夢でも見ているかのように、他人事のように――眼前で繰り広げられる光景が何かの間違いだとでもいうように認識していた。
 逃避と言ってもいい。
 ――さっきまで生きていた人間が、目の前で死んでゆく。
 途切れることなく流れ落ちる真っ赤な血と、命のあかしをなすすべもなく噴きこぼす男の浮かべる絶望の表情。
 そしてその死を創り出したのは、先刻櫻良の命を救い、櫻良に武骨だが温かな手を差し伸べてくれたジーンなのだ。櫻良がほんのわずかな時間、たった一瞬で恋をした少年なのだ。
 今の彼に温かさは微塵も感じられなかった。男を見据えるジーンは、あれだけの出血にもかかわらず、返り血すら浴びてはおらず、ただただ、凄惨なまでに美しかった。
 驚愕と恐怖に支配されたその場において、彼ひとりだけが、白々と清浄で静謐だった。宝石じみた神秘的な双眸には、人を殺したことへの後悔や苦悩は欠片も伺えない。
 ――それが彼にとっては日常めいた事柄のひとつでしかないのだと、彼の手がもうすでに数えきれないほどの血に濡れているのだと、そんなことを櫻良は唐突に理解していた。
 ぞくりと悪寒が這い上がる。
 身体がひとりでに震え出していた。
「この《烈火の剛翼》の守護する北部桃璃門の前へ、その汚らわしい身をさらしたことを恨め」
 そう、冷ややかに言ったジーンが、なお首を押さえながらよろめき、血の泡を吐く男の腹を剣の切っ先で軽く突くと、血に染まった彼の身体はぐらりと後方に傾いだ。
 ゆっくりと地面へ倒れて行く。
 櫻良はそれを呆然と見つめていたが、しかしその頭が――首から上だけが、うつろな目を見開いたそれが、男の身体から転がり落ち、まるでボールのように地面で跳ねたのを観た瞬間、半ば無意識に両手で耳を覆い、あらん限りの声で絶叫していた。

「いっ……や、いや、いやあああ――――ッッ!!」

 叫びに、四人の男たちとふたりの騎士とが、ぎょっとしたような顔で櫻良を見遣ったのが判ったが、櫻良の悲鳴は止まらなかった。
 ――目の前で人が死んだ。
 それを観たのも生まれて初めてだった。
 罪もない人たちを、女も子供も関係なしに容赦なく殺すなどと、例え冗談であったとしても口にするような人間が善人であったはずはない。きっと彼はこれまでに、何度も何度も、何人もの罪のない人間を苦しめ、傷つけ、泣かせてきたのだろう。
 けれどそれが、その死を観たことへの気休めになるわけではなかった。
 櫻良の目の前で、ひとりの人間が血を噴きこぼして死んでいったのだ。
 もはやモノと化した首、すでに血も止まったそれが、鮮やかな空にぽっかり開いた双眸を向けている。その虚ろな眼に張り付いたままの絶望の表情、死への凍えるような恐怖が、櫻良にも伝染したかのようだった。
 ――ショックだった。
 言い様のない恐怖が背筋を這い上がり、嘔吐感が込み上げてくる。
 そんな場合ではないのだと、そんな場面ではないのだと、声を必死で堪えようとするものの、叫びはあとからあとから湧いて出たし、身体は極寒の地に全裸で放り出されたかのように震えていた。噛みあわない歯と歯がぶつかり合い、カチカチと耳障りな音を立てる。

「あああっ、ああっ……うあああああ――――っ!!」

 ほとばしるそれが絶叫なのか慟哭なのか、櫻良本人にも判ってはいなかった。本人にも、止められなかったのだ。
 哀しいからなのか恐ろしいからなのか判然としない涙があふれ、ぼろぼろとこぼれ落ちた。
【……嬢。櫻良。落ち着け】
 不意に、なだめるような夜歌の声がした。
 低い、穏やかな声だった。
 神獣とはそういう生き物なのだろうか、人の心を清浄にする存在なのだろうか。その声は、パニックに陥っていた櫻良の意識にもすっと届き、櫻良はそれでようやく叫ぶのをやめた。
「あぁ、あ、ああ……夜歌、夜歌……」
 がくがく震えながらも、よりどころ、すがるものを求めて伸ばされた櫻良の手が、夜歌のつやつやとしてやわらかな鬣(たてがみ)に辿り着く。その温かさに触れて、ようやく断末魔めいた悲鳴は収まったが、それでも櫻良はまだ、喘息の発作のようなかすれた声で喘ぎ、何度も大きくしゃくりあげては涙をこぼしていた。
 正直に言えば、何よりもショックだったのは、運命すら感じさせるほど強く恋心を抱いた美しい少年が、何の躊躇いも迷いもなく、ひとりの人間の命を終わらせてしまったことだった。
 善悪に関わらず、櫻良に衝撃を与えたのはそのことだった。
「――――廃棄世界は幸い多き場所か」
 まだ震えの止まらない身体を持て余していた櫻良の耳を、振り返りもしないジーンの、静かな声が打った。
 その声を聞くだけで、櫻良の胸には桃色の光が宿る。
 こんなときですら。
 ――あれを観たあとですら。
 そう、苦しかったのは、ジーンが人を殺したその場面を観てもなお、ジーンにとって人を殺すことが日常なのだと知ってもなお、ジーンにどうしようもなく恋をしたままの自分がいることを理解していたからだった。
 例えこの先、櫻良自身もまた彼の手にかかる危険性がまったくないとは言い切れなかったとしても、彼を人殺しと罵って背を向けることなど、自主的に彼から離れることなど到底不可能だと、自分自身で痛いほどに理解していたからだった。
 たった数時間で、櫻良の心は、そんなにもあの美しい少年騎士に囚われてしまっていた。
 人の死を目の当たりにするのと同等に櫻良が恐怖したのは、訝しみながらももはや変えられぬ事実なのだと気づいて絶望すら感じたのは、どう足掻いても思いが届きそうにない相手に、どうしようもなく惹かれてしまった自分自身へだった。
(……どうして、あたしは、こんな……)
 生まれて初めての恋ではなかった。
 子供っぽい、他愛ない恋ばかりではあったけれど、恋に恋する多感な少女の常で、人を好きになったことなら何度もあったし、恋人と呼べる相手がいたこともあった。
 けれどこの気持ちは、今までと違っていた。
「櫻良」
 ぼんやりと夜歌の鬣を見つめていた櫻良は、ジーンが、振り返らぬままに低く自分を呼んだので、弾かれたように顔を上げた。
 ジーンは振り向かない。
 ただ、
「……恐ろしければ、目を閉じていろ」
 静かにそう言って、手にした剣を腰に戻した。
 櫻良の胸がどきりと音を立てる。
 彼は――――もしかして、自分のために剣を戻したのだろうか、と。
【ジン?】
 その行動が奇妙に映ったのだろう、夜歌の訝しげな声がする。
 ジーンは何も答えず、首を喪った骸を踏み越え、硬い表情でこちらを伺っている男たちへ更に一歩近づいた。
「れ……」
 男のひとりが喘ぐように口を開く。
「《烈火の剛翼》。まさか……まさか、お前が、《憤怒の犬》……!?」
 それは問いかけというより確認だったらしく、男たちの顔はすでに蒼白だった。すっかり腰が引けている。
「だとしたら、何だ」
 ジーンの返答は端的だ。声には微塵の揺らぎもない。
 盗賊たちが息を飲んだのが判った。色もかたちも様々な四対の眼を、はっきりとした怯えの色がよぎる。
 櫻良にその意味は判らないが、それが重大な何かを含んでいることは理解出来る。屈強な、暴力を揮うことが日常のように見える盗賊たちが、あんなにもはっきりと動揺しているのだから。
 無表情のままのジーンが更に一歩近づくと、剣の切っ先が更に騎士たちの首筋へと押し当てられる。触れた刃が皮膚を裂き、そこからはうっすらと血が滲み出していた。
 しかしジーンの気迫、もしくは厳しすぎる眼差しに怯えてか、身体を強張らせこそすれ、ふたりの騎士が言葉を口にすることはなかった。
 少年へ剣を押し当てながら、筋張った背の高い男が、口の端から泡を飛ばして怒鳴る。必死の形相で。
「それ以上近づけばこいつらを殺すぞ!」
「……何度も言わせるな。好きに殺せと言っている」
 ジーンには頓着する様子もない。
 また一歩、近づく。
 ゆっくりと、しかし確実に、距離は狭まっていく。
「く……来るな、人質だぞ、こいつらは! いい加減、判れよっ!!」
「貴様らこそ、判れ。神殿騎士が神殿騎士を人質に取られたところで立ち止まると思うのか、救いようのない馬鹿どもめ」
「な……」
「貴様らがその役立たずどもを殺している間に、私は貴様らを殺せる。……手間が省けて、いい」
 悲鳴めいた警告に返ったのは、やはり凍りつくように非情な言葉。
 男たちの顔が、紙のような色になった。
 ――更に一歩分、距離が縮まる。
「ううう……」
 誰かが呻いた。
 櫻良がそう思った瞬間、
「うう、う、うわあああああっっ!!」
 精神の何かが切れたと思しき男のひとりが、口から泡を吹きながら剣を振りかぶり、ジーンへと突進した。
 自暴自棄とでも言うべきそれは、まるで弾丸のようで、櫻良は口の中で小さく悲鳴をあげる。
 しかも、ジーンは、武器を持っていない。
 素手のまま、抜く様子もない。
 素手と剣とでどちらが有利かなど、戦いに縁のない櫻良にすら判る。
「じ、ジーンっ!」
 さっき自分がみっともなく悲鳴を上げた所為だろうか、自分を怖がらせないために抜かないんだろうか、と、これでもしもジーンが怪我をしたら、もしも死んでしまったらと最悪の事態を想像し、胸中に自分の浅はかさを呪いそうになった櫻良だったが、
「……心配ない」
 やはり振り返ることなく、しかし櫻良のために紡がれた言葉は、いっそ穏やかといえるほどに静かだった。
 息を飲んで見守る櫻良の目の前で、勝負はついた。