ほんの一瞬のことだった。
「……」
 ごつい剣を振りかぶった男が肉薄し、その剣がジーンに向かって振り下ろされた瞬間、少年はまさに目にも留まらぬというのが相応しい速度で動き、男の背後へ回りこんだのだ。
 ごくごく自然な、流れるように滑らかな動作だったが、それは、櫻良が思わず目の錯覚を疑ったほどに速かった。
「う、あっ……!?」
 倒すべき目標を見失い、狼狽の呻きとともにたたらを踏んでバランスを崩した男の背後から、
「櫻良がここにいた幸運に感謝するんだな」
 感情の感じられない美声が響く。
 男の喉が、ひっ、という恐怖の音を立てたのと同時に、ジーンの手刀が彼の首筋に叩き込まれる。鮮やかな、一切の無駄のない一撃だった。
 指は長く武骨だが、決してたくましくも太くも見えないジーンの手に、一体どれほどの力がこめられていたのか、男は自身の取り落とした剣が地面に倒れるよりも早く、そのまま声もなく昏倒した。
 硬い地面に人間の身体が倒れる、どさりという音がする。
 ほんの一瞬で脱落者をひとり作ったジーンは、倒れた男には目もくれず、残り三人の男たちへ顔を向けた。
「……貴様らは、どうする」
 発せられた声はやはり氷点下の冷ややかさだ。
 櫻良へ向けるそれとは、百八十度かけ離れている。
 人命という名の盾も功をなさず、武の腕前でも到底叶わぬと知ってだろう、残った男たちの顔は蒼白で、表情には紛れもない絶望の色があり、身体はぎくしゃくと硬直していた。
「う、うう……」
 男のひとりが呻く。
 剣を持つ手がぶるぶると震え、その切っ先はぐらぐら揺れていた。男の胸中、狼狽と葛藤と絶望とをそのまま表すように。
「かかってくるのなら容赦はしない」
 ジーンは冷ややかな目で三人の賊を順番に見つめたあと、
「だが」
 ほんの一瞬、櫻良を振り返ってから付け足した。
 瞬きほどの時間、馬上の櫻良を見つめた黄金が、陽光を浴びて奇跡のように美しく輝く。
 それだけのことで、櫻良の胸は躍る。
 滑稽なほど、絶望的なほどに。
「――――すぐに退くのなら、今は見逃す」
 ジーンの言葉には感情が含まれておらず、その言は端的だった。
 男たちは呆気に取られたように大きく口を開けた間抜けな顔で、お互いを交互に見遣ってから、ジーンの、陶器人形を髣髴とさせる、芸術的なまでに滑らかに白い美貌を見つめた。
 そこへ希望を感じ取ってか、男たちの、髭と汚れでまだらになった頬に色味が戻り、ぐびりと喉が鳴る。
 先刻とは別の意味で落ちた沈黙に、眉宇をほんの少し寄せたジーンが、
「……私は気が短い。十秒で決めろ」
 そう鋭く命じると、
「――……ッッ!!」
 男たちは、まるで目に見えない何かにぱちんと弾かれたように剣を取り落とし、わずかな間もおかずに走り出した。地面の小石につまずきながら馬まで全力疾走し、その背に飛び乗ると、後ろも振り返らずに――気を失った仲間のことなど思いつきもしない様子で逃げてゆく。
 彼らにありがちな捨て台詞すらないのは、それほどジーンが恐ろしいからだろうか。
 三人の賊は、もうもうと立ちのぼる砂埃とけたたましい蹄(ひづめ)の音ともにあっという間に遠ざかっていった。必死な、というのが相応しいような去り方だった。ここでもたもたしていれば、ジーンの凶刃にかかりかねないと思っているのだろう。
 その薄汚れた姿が高い山へと続く貧弱な山道へと消えてゆくと、あとには、いくつもの死体と、七頭の馬たちと、そして呆然と地面にしゃがみこむふたりの騎士とが残された。
「……もろともに死ぬ覚悟もなしに、神殿騎士と相対しようなどと思うな、愚か者ども」
 ジーンは静かに……冷ややかに言い、呆然と座り込んだままの騎士ふたりへは目もくれずに、白い巨大な門へと歩み寄る。彼が横を通り過ぎた瞬間、身体を縮めたカーズフィアートがびくりと震えたが、ジーンの歩みと表情には何の変化もなかった。
 門に手を触れたジーンが、
「神殿騎士団第三部隊隊長ジーンの名において、開門を命ずる」
 やはり静かにそう言うと、それほど大きな声だったとも思えないのに、そしてその声を別の場所、例えば城壁の上から門を見張っていて聞いた者が指示を出したようにも見えないのに、北部桃璃門と呼ばれたその巨大な門は、ゆっくりと――しかし重さを感じない滑らかな動きで開いた。
 ゆっくりと開かれていく巨大な門を凝視していた櫻良は、その向こう側に美しく整備された大きな道があり、その更に向こう側に美しいと表現するしかないような町並が広がっているのを目にして思わず溜め息をついた。
「すごい。綺麗」
 道路にはたくさんの人々が行き来している。人を乗せた馬や荷車を引く牛、通りをうろうろと歩き回る犬や猫の姿もあった。
 あちこちに色とりどりの商品を山積みにした店があり、店主や店員の張り上げる呼び込みの声と、それを買い求める人々の声とで、町はお祭りのように賑わっていた。
 町並のずっと向こうに、先刻ひどく櫻良の目を惹いた真珠色の塔がそびえ立っているのが見える。展望台と思しきその場所には、やはり人や火、鐘の姿は見受けられない。
 町の姿を目にした櫻良が第一に感じたのは、人々の放つ活気だった。活き活きとした、町のまっすぐなエネルギー、今の櫻良の故郷ではなかなかお目にかかれない代物だった。
【ここは桃天華の第三界層(かいそう)、一般市民が住まう、桃天華大神殿都市の顔だ】
 低い、渋い声で夜歌が解説してくれる。
「そっか。すごいにぎやかだね、楽しそう」
【そうでなくては、吾らが守る甲斐がない】
 馬首をめぐらせた夜歌が、その言葉とともに鼻面で門の近くを示してみせる。人間でいえば、顎をしゃくったというところだろう。
 内部の美しさに気を取られ、今の状況を忘れてそれらに見入っていた櫻良は、それでようやく、門のすぐ傍に、ふたりの騎士と同じような恰好をした人々が二十人ばかりいて、複雑な表情でこちらを伺っていることに気づいた。
「あれは、ジーンの仲間?」
【あやつを筆頭にいただく第三部隊の、第十大隊所属第三中隊内第五小隊の騎士たちだ。この時間帯の門の守護を担当している者たちだな】
「ややこしくて判り難いね……。けど、じゃあ、やっぱりジーンは隊長さんなんだね。偉いんだ。騎士団って何人くらいいるの?」
【さて、偉い偉くないを論ずるは不毛だが。騎士団は三つの部隊にわかれておる。第一第二部隊に各一万人、そこな朴念仁の率いる第三部隊には五千人だ。準騎士も騎士見習も入れれば更に数は増える】
「じゃあ全員で二万五千人? ……なんかすごい人数だね」
【確かに大所帯だが、桃天華大神殿都市には三百万人近い住民がおるのでな、それを守るには少々少なすぎるやもしれぬ】
「そんなにたくさん。どうりで、町の切れ目が見えないくらい広いと思った。それじゃ、神殿騎士さんたちは大変なんだ」
【無論、戦争でも仕掛けられれば住民たちも兵士となるが、普段の治安を守るのは騎士たちだけだ。……そうだな、苛酷な責務ではあると吾も思う】
「へえ……っ……!?」
 小さな声で夜歌とおしゃべりをしていた櫻良だったが、
【いかがいたした、嬢】
 いつの間に抜いたのか、ジーンが、陽光を受けて白くきらめく剣を、ようやくふらつきながら――あちこちに血をこびりつけたまま立ち上がった少年と青年へ突きつけていることに気づいて絶句した。
 同僚の騎士たちは、顔をこわばらせてその光景を見つめている。
 しかし、ジーンを諌めようとするものはいなかった。
 それほどジーンが恐ろしいのか、それとももしくは、神殿騎士として当然のことなのだろうか。
「……命拾いした、とは思っていないだろうな?」
 ジーンの声からは、まだ冷ややかさが消えていない。
「判るか、ひよこども。お前たちのしたことで、彼らもまた神殿騎士としての誇りに泥を塗られたんだ」
「ジーン様、その、僕は別に、」
「先にどちらが言い出した?」
「……え」
「おおかた、お前たちのどちらかが、家名を出して彼らを無理やり黙らせたのだろう」
「いえ、その」
「金章(きんしょう)家と青寶(せいほう)家。王家の威信が地に落ちて久しいとはいえ、いまだ強い力を有する貴族の権威にあくまでも逆らえるものは少ない。特に、お前たちの所属する第三部隊第十大隊には平民出身の騎士が多いからな」
 淡々とした、だからこそ恐ろしくも感じられるジーンの声に、ふたりの騎士、どうやら相当な権力を持った貴族の一員であるらしい彼らが首をすくめ、身体を縮める。
「何度も繰り返し言い聞かせたはずだぞ、神殿都市において、手柄や面子や栄誉を優先させることは罪であり、無意味だと。それを破ろうとそそのかしたのは、どちらだ」
 ごくり、と少年が唾を飲み込んだ。
 それから、ゆるゆると口を開く。
 緊張のためか、頬が引き攣っている。
「……答えたら、どうなりますか」
「言い出した方への処罰だけで許してやる」
「処罰……それは、」
「この場での速やかな死か、誓願破りの烙印を額に押したあとの追放か、好きな方を選べ」
 冷酷すぎるジーンの言葉に、少年のサファイア色の目が絶望と悲嘆とをはらむ。何かを逡巡する色が、彼の鮮やかな目をよぎった。
 蚊帳の外の櫻良すら、胸が痛くなるような哀しい目だった。
「口があるのなら答えろ、アイレストリアス・ブルーサファイア。カーズフィアート・ゴールドクロス。それとも、ふたりもろともに処罰して欲しいというのか」
「そ、それは、その……ですから、あの」
 何か心にかかることでもあるのか、うつむいた少年がもごもごと言葉を濁していると、その隣でやはりうつむき、蒼白な顔をしていたカーズフィアートが、唐突に勢いよく顔を上げた。
「ジーン隊長っ!」
 そして、大袈裟な身振りでアイレストリアスを指差すと、大きな声で、
「最初に言い出したのは、アイルです!」
 そう、高らかに言い放った。
 成り行きを、固唾を飲んで見守っていた他の神殿騎士たちがざわめく。しかしそのざわめきも、眉を険しくしたカーズフィアートがそちらを見遣ると、音声のボリュームを大からいきなり小にしたかのように聞こえなくなった。騎士たちの視線があちこちを彷徨う。
 言われたアイレストリアスは、隣のカーズフィアートを見上げたのち、憤りとも哀しみとも諦めともとれない、なんとも言えない複雑な表情をしたが、ぐっと唇を噛んで拳をきつく握り締めただけで、弁明や言い訳の言葉を口にすることはなかった。
 アイレストリアスが何も言わないことに気をよくしたのか、カーズフィアートが大仰な――芝居がかった身振り手振りで言い募る。
「隊長、僕は止めたんですよ、本当は! だけどアイルは、ここで手柄を立てて神殿内での立場を確固たるものにするんだと言い張って、それで、」
「小隊の騎士たちを言いくるめて……あるいは恫喝して、単身出ようとした、か?」
「はい、そうなんです。ひとりではどう考えても危ないので、仕方なく僕も付き合うことにしたんですよ」
「……そうか。ならば罰するしかあるまいな。罰を受けるアイレストリアスを、お前、どう思う」
「哀しいことだとは思いますが、仕方ありません。掟を破り、神殿騎士の誇りに泥を塗って、小隊の皆に迷惑をかけたんですから。当然のことだとも思いますね」
 空々しい口調と、明らかに自分より年下の少年を全面的に悪いのは彼だと主張するカーズフィアートの様子に、櫻良は胸の奥がもやもやした。
 例えそれが真実だったとしても、櫻良と同い年くらいの少年をほんの少し庇ってやるなどという意識は、カーズフィアートの中には存在しないのだろうか。そして、自分より年下の少年を止めることも出来なかった自分自身を恥ずかしいとは思わなかったのだろうか。
 拳をきつく握り締めてうなだれるアイレストリアスへ、騎士たちが苦しげな目を向ける。
「……そうか」
 ジーンの表情は変わらない。
 櫻良は夜歌の背の上から地面を見下ろした。
――――高い。
 しかし、ここで怖気づくわけにはいかないと自分を奮い立たせ、少しずつ尻をずらしてゆく。
【……櫻良?】
 夜歌が怪訝そうな声を上げた。
「ごめんね、ありがとう、夜歌。あたし、降りる」
【……】
 櫻良は、ジーンがカーズフィアートの言うことをすべて受け入れ、アイレストリアスを処罰する場面など観たくはなかったのだ。
 馬から下りるというより小山から転がり落ちるといった風情で、尻餅をつきそうになりながらもなんとか地面に降り立ち、櫻良がジーンに向かって走り出そうとしたそのときだった。
「……馬鹿が!」
 不意に、鋭い怒声とともに、ジーンがカーズフィアートの横っ面を殴り倒した。
 したたかに、容赦ない勢いで。
 がつん、という硬い音がして、
「うぐ……っ!?」
 鈍い悲鳴とともにカーズフィアートの身体が弾き飛ばされる。カーズフィアートはジーンよりも十センチは長身なのに、ジーンの一撃でその身体は軽々と吹き飛び、なすすべもなく地面を転がった。
 櫻良は驚きのあまりその場で固まる。
「な……何を……」
 転がった際に唇を切ったのか、口の端から血をにじませたカーズフィアートが身体を起こそうとすると、
「どこまで神殿騎士団を愚弄すれば気が済む、お前は」
 爆発しそうな怒りを含んだ美声とともに、ジーンが青年の背を踏みつける。蛙が潰れたような、とはこういうことを言うのだろうと思わせるみっともない声が上がった。
「じっ、ジーン、様……っ! ですから、首謀者は僕じゃなく、」
 抗議の声を上げようとした青年の背を、ジーンの黒いブーツがごりごりと踏みにじる。
 見た目にも頑丈そうなそれに身体を踏みにじられ、カーズフィアートが明らかな苦痛を緑色の目に浮かべてもがいたが、しかし、いかなる力が加えられているのか、青年がそこから逃げることは出来なかった。
「私が気づかぬとでも思ったか?」
「え」
「東方出身の田舎者だから知らないとでも思ったか、家同士の力関係を。青寶家と金章家なら、お前の方が位階は高い。そのお前が、アイレストリアスを『止められなかった』? 寝言は寝てから言え」
「う」
「……正直であることは美徳だ。時と場合によるが。せめて素直に己が過ちを認めれば、まだ赦す余地はあったものを」
 冷ややかに言ったジーンが、手にした剣を天へ掲げる。
 刃が、きらりと光を反射した。
 剣に気づいたカーズフィアートがひっと息を飲む。宝石のような双眸を、壮絶な恐怖が彩った。
「や、やめ……っ」
「何度も言ったはずだぞ。都市のためにならぬ神殿騎士は、いらん」
 ジーンの声は変わらない。
 ――――意を決し、櫻良は走り出した。
 高校では陸上部に所属し、なかなかに優秀な成績を残していたこともあって、櫻良は走ることが好きだし、得意だ。人間関係にごたごたがあって嫌気が差し、すっかり幽霊部員と化した今でも。
 天を三日月のごとくに彩るその剣が、カーズフィアートに向けて振り下ろされようとするよりも速く、
「だっ、だ、駄目――――っっ!!」
 悲鳴じみた叫びとともに、櫻良はジーンの背中に抱きつく。
 後先考えずに。
 そのときばかりは、羞恥も恐怖も気後れも、まったく別の世界の存在だった。それだけ必死だったといってもいい。
 さすがに驚いたのか、ジーンが動きを止めた。
「……櫻良?」
 賊やふたりの騎士に向けていたのとはまったく別物の、やわらかい声が彼女を呼ぶ。櫻良を傷つけてはいけないと思ったのだろう、剣が一旦腰へと戻された。
 ――彼がこんなだから、櫻良には、ジーンは優しい少年にしか見えない。
 もっとも、彼の脚はもがくカーズフィアートを容赦なく踏みにじり続けているのだが。
「駄目だよっ、ダメっ! せっかく助かったのに、殺しちゃうなんて!」
 彼女の言葉に、櫻良に抱きつかれたまま、ジーンは首を横に振った。
「神殿騎士が私欲のために都市を危機にさらしたんだ。当然のことだろう。本人も『仕方のないこと』だと言った」
 あまりに淡々とした、それゆえに決意の固さを思わせる言葉に、櫻良は一瞬怯んだが、再び意を決してジーンの正面へまわり、カーズフィアートの身体を足元に挟んで彼を見上げる。
 たったひとつの感情に衝き動かされて。
「それはっ……そうだけど、でもっ。でも、やっぱり駄目!」
 黄金の双眸が櫻良を見下ろした。
 櫻良の鼓動が早くなる。
「駄目と言われても、困る。お前も観ていただろう? この馬鹿は偽りで友人を犠牲にしてまでも助かろうとしたんだ。騎士として人間としてどうしようもない愚か者だぞ?」
「判ってるよ、判ってるけど、でも殺さないであげてっ。悪いことしたら、ちゃんと謝って、生きて罪を償えばいいじゃないっ!」
「廃棄世界ではそうなのか。よいことなのだろうな、それは。だがここでは――神殿騎士は違う。罪を贖えるのは己の命だけだ。彼もまた神殿騎士ならば、その掟に準ずるしかない。判るな?」
「やだっ、判んない、やだやだやだっ! 殺しちゃダメ、殺さないでっ!」
「……櫻良。これは、お前には関係がない。お前が口を出すことではない」
 頑是無い子供のように――駄々をこねるように、必死で言い募る櫻良へ、ジーンが静かに、しかしきっぱりと断ずる。
 その言葉は、自分と彼との距離を強く感じさせ、櫻良の胸に針で突くような切ない痛みをもたらしたが、今の櫻良にはそれを感傷的に思うだけの余裕はなかった。彼女を衝き動かすのは、たったひとつの思いだった。
 ――――何故か、ほんの一瞬、真珠色の塔へ目が行った。
 火も、鐘も、人もない、静謐なあの塔。
 どうしてそこへ視線が行き着いたのかは判らない。
 ただ、それを目にして、櫻良の覚悟は固まった。
 彼女が願うのは、彼女が望むのは、たったひとつのことだった。
「だって、だって、ヤなんだもんっっ!!」
 駄々をこねる幼女のように叫ぶと、櫻良は思い切り地面を蹴り、カーズフィアートの身体を飛び越えて、身体ごとジーンにぶつかった。抱きついた、というのも間違いではない。
「さ……」
 眉をひそめ、彼女の名を呼ぼうとしたジーンは、途中で口を引き結び、黙って櫻良を抱きとめた。さすがに至近距離で勢いがよすぎたらしく、櫻良を抱いた状態で三歩ばかり後退する。
 重いブーツから解放されたカーズフィアートが、咳き込みながら身体を起こすのが見えた。
 ジーンが何かを言うよりも早く、櫻良は彼のしなやかな身体にしがみつき、彼を見上げる。
「だってあたし、ジーンが人を殺すの、いやなんだもん! ジーンが人を殺すところなんて見たくない! 見たくないよ、ジーンっ!」
 言ったらまた、少し涙がこぼれた。
 哀しいとか辛いとか苦しいとか、そういう理由で流れた涙ではなかった。
 櫻良自身にも、何故自分が泣くのかよく判らなかった。
 ジーンが無表情のままわずかに瞠目する。
 ――そう、櫻良が思うのはそのことだけだった。
 嘘をつき、自分よりも年下の、彼に引きずられて外へ出たのだろうアイレストリアスを犠牲にしてまで助かろうとした、大人の醜さを凝縮したかのようなカーズフィアートのことなど本当はどうでもよかった。
 彼はきちんと罰せられればいいと思うし、アイレストリアスは助かればいいとも思う。
 だが、櫻良は、たとえそれがジーンにとっての日常茶飯事であれ、それがジーンを困らせる願望であれ、先刻の男のように、ジーンが誰か他人を殺すところを目の前で観たくなどなかったのだ。
 命は尊いと櫻良は思う。
 尊さに差異はあろうとも、どちらにせよなすすべもなく喪われて行くものであろうとも、尊いことに変わりはないと思う。
 綺麗事だと斬って捨てられようとも、少なくとも櫻良は、そう教わって生きてきた。それを破らぬよう、他者を傷つけぬように生きてきたのだ。日本とはそういう国だった。それがたとえ、実際には、表面的なだけの建前であったとしても。
 だから、ジーンに、その尊いものを呆気なく奪ってなどほしくはなかった。
 たったそれだけの、自己中心的な思いが櫻良にそうさせたのだ。
「あたしは、優しいジーンの方が好き。ねえ、お願いだからゆるしてあげて。お願いだから」
 ジーンは無言のまま櫻良を見下ろしている。
 今日何回目かも判らない、恐ろしいほどの沈黙だった。
 微動だにしないジーンの様子に、徐々に自信がなくなってきて、そして自分ごときが言うべきことではないと気づいて、櫻良がしょんぼりと肩を落とした瞬間、そのときは訪れた。

 カラン。
 カラン。

 不意に、軽やかな音が天空に響き渡った。

 カラアアァ――――――――ンンン。

 鐘が、鳴った。
 涼しく、朗らかに。
 ジーンが弾かれたように顔を上げ、真珠色の塔を見遣る。
 彼につられて塔へ目をやり、櫻良は眉をひそめた。
 ――――塔の天辺、展望台のように見えるそこに、あかりがともっていた。
 薄紅色、淡いピンク色の、滑らかな光沢を持ったやわらかい灯(ひ)が。
 火ではなかった。炎でも、光でもなかった。
 それは『灯』だった。
 風があるとも思えないのに、その灯は、蝶や花や絹のヴェールのように緩やかに――やわらかに舞い、優美な姿を見せていた。
 騎士たちからざわめきが上がる。
 驚愕と歓喜とを含んだ声だった。
 ふと気づけば、大通りや町並でも、騎士たちと同じ色彩を含んだ声があちこちから聞こえている。
 何かが起こったことを櫻良は理解していた。
 その灯を見た瞬間、櫻良の胸は様々な感情でいっぱいになった。それは安堵のようでも感動のようでもあり、戸惑いのようでも驚きのようでもあった。たくさんの感情が、櫻良の胸を満たしていた。
 不可解なほどに強く。
「……灯火(とうか)が、ともった……」
 わずかな驚きを含んだ声とともに、ジーンが櫻良を見下ろす。
 櫻良はどきりとして彼を見上げた。
「とうか?」
「……ともしびだ。世界の希望。人間の希望」
「なに、それ……?」
 あまりに大仰な言葉に何のことなのかさっぱり判らず、櫻良は困惑してジーンを見つめるしかない。
 ジーンの、黄金めいた目映い双眸は、恐ろしいほど透明に澄んで、まっすぐに櫻良を見ていた。
「では、」
「……え?」
「お前が、私の……」
「なに、ジーン?」
 しかしジーンはそれ以上答えず、櫻良を優しく地に立たせると何歩か踏み出し、再度カーズフィアートの横っ面を張り倒した。予想もしていなかったのか、棒切れのように無防備に突っ立っていた青年は、呆気なく吹っ飛ぶ。
 櫻良は目を丸くしたが、何故か恐怖する気にはなれず、またそれ以上のことが起きるとも思えず、瞬きを繰り返しただけだった。
 情けない悲鳴をあげて再び引っ繰り返る青年になど視線もくれず、ジーンが門の向こう側へ向かって呼ばわる。
「ケーニカ、いるか!」
「…………はい、隊長」
 応えた声は、女性のもの。
 それとともに歩み出たのは、二十歳前半と思われる騎士だった。つやつやとした赤茶色の髪を肩の辺りまで垂らした、夏の海を思わせる紺碧の目の、細身でキュートな女性だ。
 櫻良より十センチほど長身だろうか。すらりとした身体の持ち主で、身のこなしは機敏だった。
 二十歳はすぎているだろうと思われるのに、美女というより可愛い少女という表現の方がぴったり来る。ジーンと同じく、周囲の騎士たちよりも衣装が整っているのは、彼女が立場的に高い位置にいるからだろう。
 この人は誰だろう、さっきまではいなかったのに、と櫻良が思っていると、ケーニカと呼ばれた女性はジーンの目前で膝をつき、こうべを垂れた。流れるように滑らかで美しい動きだった。
「ケーニカ。灯がともったぞ」
「……ええ、そのようです。では、彼女が?」
「そうだ、櫻良という。廃棄世界からの客人だが、どうやらそれだけではなかったようだ。私は塔へ行く、お前たちは彼女の着替えと、神殿への伝達を。神子姫にお伝えしろ。――もっとも、姫のことだ、とっくに気づいておられるだろうがな」
「承知しました。他の処理はどうなさいますか」
「そこの馬鹿ふたりは連帯責任でひとまず三日間の謹慎。この場にいる他の者は死体を片付けろ。第三部隊が命を賭して守護する北部桃璃門を、汚らわしいもので辱め続けることは赦されない」
 ジーンの静かだが厳しい命にケーニカが頷き、それを聞いていた周囲の騎士たちが同意の声をあげる。別の騎士がふたり、町の奥へ向かって走り出し、町の人々はざわめきとともにそれを見送った。
「ああ、それと」
「はい、隊長」
 歩き出しかけていたジーンが立ち止まり、ケーニカを振り返る。
 女騎士が応ずると、ジーンは地面に倒れ伏して意識を失ったままの賊へ目をやった。稀有な双眸に、冷酷な光が宿る。
「そこの男、賊の先遣隊らしい。いずれ神殿都市を襲うと抜かしていた、拷問でも何でもして住処を吐かせろ、すぐに討伐隊を出す。名誉挽回の好機だ、お前たちも精々励め」
「了解!」
 一般騎士たちを視界に入れながらのジーンの言に、頬を紅潮させた騎士たちが応ずる。
「……期待している」
 そう言ってさっさと歩を進めたジーンは、すでに門の向こうへ踏み込んでいた。歩くだけでもやたら速い。
 背後からは、ブルルっと鼻を鳴らした夜歌が近づいてくる。
 人々がきびきびと動き始める中、事態が飲み込めず周囲を見回していた櫻良へ、女騎士ケーニカが歩み寄った。
「初めまして、櫻良。桃天華大神殿都市へようこそ。ご光臨を歓迎します。私はケーニカ、ケーニカ・ヘッジ。神殿騎士団第三部隊副隊長を拝命しています。判らないこと、要望があれば何なりと」
 言ったケーニカに恭しく頭を下げられ、櫻良は狼狽した。
「え、あ、あのっ……は、はい、よろしくお願いしますっ」
 副隊長ということはジーンの次に高い地位にいるということだ。何故自分がそんな人から丁寧な扱いを受けるのか判らず、しどろもどろになりつつコメツキバッタのごとくにぺこぺことお辞儀をする。
 顔を上げたケーニカが微笑した。
「なんとも可愛い灯がともりましたね。これで神殿都市はようやくその役目を果たせます。人間世界も落ち着きを取り戻すことでしょう」
 遥か遠くを見るような眼で、真珠の塔を観ながらケーニカが言い、いったい何のことかさっぱり判らず、櫻良は首を傾げる。
 ――――真珠の塔の天辺で、やわらかな光を放つ灯が目に入る。
 まちの人たちの浮かれ騒ぐ声が聞こえてくる。
 何かが起きたのだと、それだけは理解できた。恐らくそれに自分が関わっているということも。
 ケーニカが手袋に覆われた手を差し伸べる。
「さあ行きましょう、《女神の灯火》。貴い、世界の守り手よ」
 その呼び名が自分に向けられたものなのだと気づくと同時に、櫻良の胸は不可解な疼きに支配された。
 流されるままにここへ着た彼女にとっては何もかもが遠く、これから何が始まるのか、自分がどうなるかなど、かけらほども判らなかったけれど、それでも、その疼きは、決して不快なものではなかった。