5.《神威の花冠》フォウミナ・リゼア・ワールドシェル
「本当は……出来ることなら、この邂逅を喜びたいわ、種を異にする近しき同胞よ。同じ世界に生きる者として、争わずに済めばどんなに素晴らしいことでしょう」
女性は……神子姫は、櫻良が思わず言葉を失ったほど美しかった。
この場にいる誰よりも。
――そう、ジーンよりも。
そして彼女のふっくらとした唇から紡がれる静かな言葉もまた、櫻良が時と場合すら忘れてうっとりしたほど美しかった。
世界を司る神々が全身全霊をかけて創り上げたかのような、本当にこれは現実の存在なのかと思わず疑ってしまうほどの、圧倒的にして絶対的な、身体が知らず知らず震えるほど神々しい美貌だった。
声もまた美しく、その言葉はやわらかく、ムーンストーンの稀有な双眸には憂いと気品が満ちていた。
動作のひとつひとつが、なにもかもが、完璧なまでに美しかった。
『神子姫……!』
『……双女神の力をその身に宿す者!』
『我らが王の敵対者、《神威の花冠》フォウミナ! 何故、ここへ……!』
「わたしたちはお互い、敵対しようと思っているわけではないわ。わたしはわたしの、あなたたちの王はあなたたちの王の、なすべきことを果たしているだけのことでしょう。それらの責務が、どうあっても平穏には交わらないというだけだわ」
そこで言葉を切った神子姫の、ムーンストーン色の双眸がすっと細められて櫻良を見る。眼差しはやわらかく、優しかったのに、何故か櫻良は思わず居住まいを正し、自分を護るようにその前に立つ、夜歌の服の裾を掴んだ。
小さな子どもが、寄る辺を求めるようにして。
夜歌が微苦笑する。
【心配要らぬ、嬢】
「う……うん」
その感情をなんと表現すればいいのか、平均的な女子高生の常で語彙力に乏しい櫻良にはさっぱり判らなかったが、物を知る人々に尋ねれば、彼らは皆、口をそろえて言うだろう。
それを畏怖と呼ぶのだと。
「わたしはただ、迎えに来ただけよ、小さなともし火を。申し訳ないけれど、あなたたちと遊んでいる時間は、ないの」
『そう言われて、我らがおめおめ退くとでも思うのか……!』
『魔王陛下の御為(おんため)に、この命に変えてでも貴様を討つに決まっているだろう!』
神子姫の言に、フィアベルラがメタリック・パープルの目を畏怖と憎しみに染めて吐き捨て、ティアルヒエはメタリック・グリーンの目に、ある種悲壮なまでの覚悟を含んだ戦意を燃え立たせて身構えたが、銀の髪の乙女は、静かに微笑しただけだった。
それは譬(たと)えようもなく美しかったが、櫻良は何故か、その笑顔を、魔物や魔族よりも恐ろしく感じた。氷の塊で背筋を撫でられたかのような、心臓を鷲掴みにされるかのような感覚に襲われる。
ジーンを初めとした神殿騎士たちにとっては普通のことなのか、彼らは、神子姫に向かってひざまずき、頭(こうべ)を垂れたまま、まるで精緻な彫像にでもなったかのように身動きもしない。
「勘違いしないで。お願いしているのじゃないわ。――命じているのよ。桃天華大神殿都市を統べる神子姫として、双女神の化身として」
微笑したままの神子姫が、静かな口調はそのままに、傲然と斬って捨てる。凄まじい威圧感が、繊細で優美な、この場の誰よりもほっそりとした美貌の乙女から噴き上がる。
櫻良にすら、それが判った。
魔族が絶句する。
沈黙した魔族に神子姫が微笑する。
その笑みは、どこまでもやわらかく、美しい。
それから、彼女は、その褐色の繊手を宙に掲げた。
「殺しはしないわ、必要のないことですもの。……帰って伝えなさい、あなたたちの王に、《女神の灯火》の訪れと、双女神の門が開け放たれたことを。神殿都市は、世界の平和のために――界護の姫の幸いと安寧のために、すべての力を以てその責務を果たすでしょう、と」
言葉が終わると同時に、彼女のしなやかな手が白い光を放った。
そう櫻良が思った瞬間、
『うわ、あ……っ!?』
『きゃ……ッ』
『な、これは……!?』
三人の魔族がめいめいに悲鳴をあげる。
櫻良がそちらへ目をやると、彼らは白い光の幕、球状のそれに包まれていた。風船かシャボン玉の中へ入り込んでしまったかのような状態で、魔族たちが幕を破ろうと叩いたり引っ掻いたりしてもびくともしない。
「……さあ、行きなさい。そして願わくは、もうここへは戻らぬように。わたしは、無益な争いは、好まないわ」
神子姫がそう、最終通告のように断じると同時に、光るシャボン玉はその中でもがく魔族たちの意志に反して宙へ舞い上がった。
『くそ……ッくそ、殺してやる、必ず滅ぼしてやるぞ、神子姫、灯火、神殿都市……ッ!!』
そして、歯噛みして罵る魔族たちを中に包み込んだまま、プロ野球選手が力いっぱい投げるボールよりも速く、神殿都市の外へ――むしろ空の向こう側へ――と飛び去って行った。
フィアベルラの呪いの言葉が、まるで水脈を引くように小さくなり、やがてかき消えると、神子姫はくすりと笑った。それは穏やかで静かだったが、やはり恐ろしいほどの威圧感を含んでいた。
「……そうね、それでも来ると言うのなら、止めはしないわ。けれど、そのときはもう、容赦はしない。完膚なきまでに叩き潰し、刃向かうものは最後のひとりまで滅ぼしましょう。わたしは、同じことを二度も三度も口にするのは嫌いなの」
それだけ言うと、彼女は、シンプルだが美しい純白のドレスをゆったりとたわませて、自分に向かってひざまずく神殿騎士たちをぐるりと一瞥し、ふわりと微笑した。
「ご苦労さま、皆。余計なことをしたかしら」
「いいえ、姫。不要な戦いなら、避けるに越したことはありません」
顔を上げて応えたのはネイクだった。
リコが深くうなずく。
その言葉に、神子姫はにっこりと笑い、うなずいて、それから黄金の目をした神殿騎士の元へと歩み寄る。
「ジーン」
名を呼んだ彼女が、滑らかな褐色の繊手を差し出すと、ツと顔を上げたジーンは、神子姫の美しい手を恭しく取り、その指先と手の甲へ口づけた。
なんの躊躇いも気恥ずかしさもない、ごくごく自然な動作だった。
接吻を受ける神子姫もまた、ジーンと同じく、それをごく当然の行為として受け止めている。
一枚の絵のごとくに、完璧なまでに美しい光景だった。
(あ……)
それを目にした瞬間、櫻良の胸は、ずきんと音を立てて痛んだ。
夜歌の、古代中国を彷彿とさせる衣装を、再度ぎゅっと握り締めると、気のいい神獣が小さく首をかしげて彼女を見下ろした。
【いかがいたした、嬢】
「あ、う、ううん……なんでもない……」
【……? 何ぞ、不都合でもあったか】
「うん……違うの、本当に、何でもない、から」
櫻良にとって、キスとは『好きな相手にするもの』もしくは『好きな相手とするもの』だ。
それと同時に、まだまだ恋愛に夢を見がちな彼女にとっては、とても大切な、ある種の神聖ですらある行為でもあった。
それを、こんな公衆の面前で、恥ずかしげもなく、あんなにも自然に口づけるということは、つまり。
(ジーンって……神子姫さまが、好きなんだ)
それと同じく、その接吻を何でもない風に、ごくごく自然に受け入れる神子姫もまた、ジーンを憎からず思っているということなのだろう。
騎士と姫。
美しい守護者と、美しい姫君。
(うん……お似合い、だよね……)
ぎゅうぎゅうと、心臓を握り締められるような、物理的痛みすら伴った、切ない感覚が襲ってくる。
(そっかぁ……)
あれだけの美貌の、地位も実力もある少年、しかも相当鈍感そうな彼に、自分の気持ちが届くとも、受け入れられるとも思ってはいなかったが、それでも、平凡というのも馬鹿馬鹿しいくらい平凡な、何の変哲もない少女である櫻良と、現実味すら欠いた、夢のようなと表現するのが相応しい美女が相手では、最初から勝負にすらなりはしない。
深い落胆が胸中を訪れる。
しかし。
(でも……あたし、やっぱり、ジーンが好き。……いいな、あのひと)
出会ってたった数時間で運命的な恋をして、同じくらい唐突に失恋してしまった櫻良は、ジーンの接吻を受けたのちに、
「彼女が、灯火ね」
神子姫がそう言って自分を見つめたので、思わず言葉を失って彼女を見つめ返した。気後れや切なさや嫉妬、やり場のない――理不尽な憤りなどが、顔に出ないかどうかが心配だった。
神子姫の手を放したジーンが小さくうなずく。
「あなたが見つけてくれたのね、ありがとう」
「それが、姫の命だ」
「ええ……そうね。本当によかった、彼女が無事にここへ辿り着けて。無事に灯がともって。でも、まさか廃棄世界からの迷い人が灯火だなんてね。初めてのことだわ」
「……そうだな。では、紹介しておこう、――櫻良」
櫻良の名を呼ぶと同時に、ジーンがすっと立ち上がった。そこで、他の神殿騎士たちも立ち上がる。
黄金めいた双眸に見つめられ、櫻良は素っ頓狂な返事をする。
「えっ、あ、はいっ?」
彼が誰に恋しているのであれ、やはり、ジーンの言葉や眼差しは、櫻良の心を甘く騒がせた。
それが、なおさら、櫻良を切なくさせる。
「彼女はこの桃天華大神殿都市の頂点にある神子姫だ。《神威の花冠》フォウミナ・リゼア・ワールドシェル。神殿都市の実質的な統治者で、創世神天華と生命神桃華、双女神の力を宿した、神子の中の神子でもある。その辺りはおいおい説明しておくが、どちらにせよ彼女とはこれからも色々と関わり合うことになる、見知りおいてくれ」
「は、はい、あの……ええと、はじめまして。あの……ええと、あたし、証野櫻良です、よ、よろしくお願いします、神子姫、さま……」
想い人の想い人という、あまりに微妙すぎる相手に、櫻良がついついフォウミナから目をそらしてしまい、その言葉が尻切れトンボのごとくに小さくなったのは当然といえば当然だったが、神子姫の方はほんのわずかに首をかしげたあと、ふわりとドレスをたわませて櫻良の傍へ歩み寄った。
夜歌が自然な動作で道を開けると、フォウミナはその褐色の繊手で、櫻良の手をそっと取り、やわらかく握った。
手は滑らかで暖かく、そして力強かった。
櫻良はびっくりして、自分より頭ひとつ分背の高い神子姫を見上げたが、にっこり笑ったフォウミナが、
「神殿都市へようこそ、櫻良。《女神の灯火》。待っていたわ……もう、ずいぶん長く。あなたの来訪を歓迎します、貴い界護の姫。神殿都市はとてもいいところよ、どうぞたくさん楽しんでね。ああ……わたしのことはフォウミナと呼んで。さまなんて、つける必要は、ないわ」
明るい、温かな親愛の情をこめてそう言ったので、色々といっぱいいっぱいになってきて思わず涙ぐみそうになった。
神子姫がもっと気位の高い、つんけんした意地の悪い女性だったら、彼女を憎むことで心の平穏を保つことも出来たのに、自分へ向けられるフォウミナの言葉と笑顔に偽りはなかった。
彼女は何の屈託もなく櫻良の来訪を喜び、櫻良の幸いを望んでいるだけだ。
人生経験などなきに均しい櫻良にすら、そのことは伝わった。
それが世界の平穏に直結するからではあれ、それでも、櫻良へ向けられる神子姫の目は、確かに温かく、優しかった。
「はい……あ、ありがとう、ございます……」
やわらかく自分を見つめるムーンストーンの目があまりに美しくて、櫻良はどぎまぎと目をそらす。
こんな人を、憎めるはずがなかった。
美しく華やかで、華奢で繊細なのに弱さなど欠片も感じられず、明るくて優しい、同性にも愛される類いの女性だ。ジーンの想い人でさえなければ、きっと、神聖視すらするほど憧れていただろう。
――それにそもそも、どろどろした恋愛などとは無縁な櫻良だ。
好きになった人に想い人がいたからといって、それを陥れてでも好きな人を手に入れたいと思えるほど、彼女の恋愛観はディープではなかったし、そんな根性も度胸もなかった。