6.恋心と清流

 ジーンと夜歌に両隣を護られて歩きながら、櫻良は物珍しげに周囲を――街並を見渡していた。
 夜歌によると、ここはいわゆる一般市民が住む区画であるという。
 建物は皆二階建てだったが、それらの規模は決して大きくなく――櫻良の父が、二十年ローンを組んでやっとの思いで買った一戸建てよりも少し小さいくらいだろうか――、そのかたちはレトロで、おとぎ話を彷彿とさせる色合いや文様を持っていた。
 白くて滑らかな壁、重厚な木で作られた扉、色とりどりの花が咲く花壇、色ガラスのはめ込まれた飾り窓、二階の出窓に飾られた花、屋根の上の風見鶏、蝶を模して編まれた扉飾り、馬の顔を象(かたど)ったドアノブなど、今の日本には到底ありえない、精緻で美しいそれらを、櫻良はいちいち立ち止まって観察しながら進んでいた。
 見れば見るほど、この世界は色鮮やかで美しかった。
 櫻良のそんな様子に夜歌が真紅の眼を細める。
【嬢には珍しいか、この街並は】
 問いに櫻良はうなずいた。
「うん、すごく。でも、珍しい以上に、綺麗だなって思う。すごいね、あのドアの飾りとか、すっごく綺麗。建物がこんなに綺麗なものなんだって、あたし、初めて知った気がする」
【ああ……この神殿都市は、エス=フォルナのみならず、世界でもっとも美しい街とも呼ばれるところゆえな。そもそも極端な貧困層の存在しない都市だ、やや画一的ではあるが均等に整っておる。しかし、嬢の故郷は、こうではなかったのか】
「うーん、どうかな。汚くはなかったと思うけど。あたし日本人だし、家も和式に近かったから、こういういかにも洋風です、っていう建物には慣れてないのかも。って、和式とか洋風とか言って通じるのかなここ。普通に日本語が使えるからつい忘れちゃうけど」
【うむ、吾は神獣ゆえ、魂の根本が異界言語を理解してくれるのでな。櫻良が日本という国の出身で、日本のことを時として和と表するのだということは判る】
「そうなんだ、便利だね神獣って。じゃあ、ジーンは?」
「……廃界学はひととおり修めてある」
「え?」
【友よ、いつもいつもいつも思うことだが、なにゆえそなたはそう言葉が足りぬのだ。それだけで、今日世界の理(ことわり)を知ったばかりの櫻良に事情が通ずるわけがなかろうが】
「む、そうか……?」
【そうであろう、嬢?】
「あ、うん、ちょっとわかんない」
【それ見たことか】
「む。……廃界学とは、その名の通りお前の故郷である廃棄世界に関する学問だ。文化や歴史、ヒトやモノの研究を言う。廃棄世界から別たれた世界は、程度の差はあれ、そのすべてがこれを行ってきている」
「そうなんだ。でも、どうやって? っていうか、地球のことを勉強して何かためになるの?」
「ああ。特殊な魔法や仕掛けを使えば、完全に、何もかもをとは行かないが、垣間見ることは出来る。後世に創られた世界ほど盛んだとも聞く。……同じ轍を踏まぬために、だ」
「……あ、ちょっと納得した」
「この世界は廃棄世界から決してそう遠くはないが、神統世界の守護神たちは、もともと廃棄世界の住人であった者に造物主が力を与えて神と成した存在らしくてな。神を識(し)るという意味をこめて、盛んに行われている」
「……え、じゃあ、ここの神さまって、もともとは人間だったんだ……?」
「詳しくは知らん。必要もなかろう。だが、そのために我々は廃棄世界について詳しい」
【東方人は特にな】
「なんで?」
「この世界は東方から興り、西方へと広まったからだ。神々の御力と影響力が濃いゆえに、我らは世界について、異界について詳しい」
【吾らが嬢とこうして苦労なく話が出来るのもそのお陰だな。守護の神々の中でもっとも強い力を持ち、世界創造に携わった双女神は、もともと日本という国の人間であったのだろう。女神たちの使っておられた言葉が、そのまま世界の言語となったというだけのことだ】
「で、でも、こないだ歴史で習ったけど、日本なんて出来てから何千年とかそのくらいしか経ってないんだよ……? 今みたいな日本語が出来たのだって、そんなに昔じゃないだろうし。それとも、この世界は出来てから何千年しか経ってないってこと?」
「少なくとも興ってから数千万年は経っている」
「それはどういう……」
【時間もまた造物主の被造物なのだ、嬢。かの方にとって、時間をいくつも手繰り寄せ、成熟した文明、文化の中から、有能な人間を選び出すことなど造作もないことなのだ】
「故郷で廃界学を学ぶにつけ私が思ったのは、東方大陸と旧い日本はとてもよく似ているということだ。そのままの姿で再現されなかったのは双女神のご配慮かもしれないが」
「へえぇ……。じゃあ、それって、もしあたしがアメリカ人とか中国人とかだったら、ものすごーく困ってたってことだよねぇ?」
【そういうことだな。もっとも、アメリカ人とやらが話す英語というヤツは、神霊語という特殊な言語としてこちらでも使われておるし、中国人が創ったと言われる漢字は東方神字という名で使われておるが】
「あ、それ、ケーニカも言ってた。そうか、そう考えるとあたしって結構ラッキーだよね。言葉もちゃんと通じるし、あたしのもといた世界を知ってくれてる人もいるし」
【嬢がそう思うてくれるなら、吾らも一安心だが】
「そう?」
【……見知らぬ界へ迷い込むは不幸であろうと思う】
「あ、そっか。一番はじめのところのことを忘れてた。でも……でもね、ここの人たち、みんなあたしに優しいんだもん。不幸だなんて言ったら、きっと怒られちゃうよ」
【嬢はよい娘御だな】
「……そうかな。そんなことないよ」
「いや」
「え、なに、ジーン?」
「お前のような、性質のよい娘が灯火でよかった」
「えっ」
 黄金の双眸でまっすぐに見つめるジーンの、淡々とした、しかし偽りなど含まれていないと判るその言葉に、櫻良は思わず頬を熱くしたが、彼女がそれについて何かを言うよりも早く、
「おや、烈火のダンナじゃねぇか。女連れとは珍しい、灯火のともったこのめでたき日に逢引きか?」
 唐突にそんな陽気な言葉がかかったので、話はそこで途切れてしまった。
「……?」
 視線を移すと、三人の目の前には、明るい茶色の髪に、鉄色とでも言えばいいのだろうか、鈍い銀色の目をした背の高い男が佇んで、親しげな笑みを浮かべていた。
 腰に剣を下げていることと、手触りのよさそうな、綺麗で高価そうな布を使ってはあるものの、非常に動きやすそうな衣装の様子からすると、ジーンと同じ騎士団のメンバーか何かなのかもしれない。
 年は三十代半ばから四十代といったところだろうか、夜歌ほどではないが、彫りの深い、無精髭がよく似合う、美男というよりは男前だった。彼を見て、櫻良はハリウッド・スターと呼ばれるような映画俳優を想像した。
 櫻良が、いったい誰だろうと首を傾げていると、
「ヴァルレイズか」
 ジーンが淡々と言い、
【何だ、仕事はどうした不良神官め】
 夜歌が言葉とは裏腹の楽しげな口調で言う。
 ヴァルレイズと呼ばれた男が肩をすくめた。
 どことなく軽い印象を受ける男だが、そこには先刻ジーンに鉄拳制裁を喰らっていたカーズフィアート・ゴールドクロスのような厭味さはない。
 櫻良が彼に感じたのは、親しみやすさだけだった。
「はっ、四六時中女を口説いてる不良神獣に言われたかねぇや。俺は非番だよ、実に三ヶ月ぶりだ。自由な空気を満喫してるところさ。あーあ、まったく、仕事なんざ適当にやるのが一番なのに、なんで俺はこんなにこき使われてるんだろうなぁ」
【何を言う、こちらの朴念仁なぞ一年も二年も不休で働いておるぞ】
「……あー、そこのダンナと俺とを一緒にしてくれると非常に困るんだがな。基礎からして違うっつーの。それよりダンナ、その子は? この辺じゃ見かけねぇ顔だが」
「灯火だ」
「は?」
「今代の、《女神の灯火》。名を櫻良という、廃棄世界からの迷い人だ。十日後に披露目の式典がある」
「……そうか……。長かったな」
 ジーンの言を耳にするや、ヴァルレイズの雰囲気が変わった。
 ――ような気がした。
 櫻良はその一瞬、鋭い、厳しい何かを感じたような気がしたのだが、その感覚はすぐに消え失せ、彼女の胸中など知らぬげに、鉄色の目の男は、陽気な笑みとともに櫻良の目の前にひざまずき、恭しく彼女の手をとった。
 ジーンの手よりも大きく、武骨なそれは、しかしジーンと同じく温かく、櫻良に対して丁寧だった。
 当然、そういう扱いに慣れていない櫻良は大いに焦り、救いを求めるようにジーンを見上げたが、致命的に鈍い朴念仁は、それが当然のことだとでも言うように、黙ってふたりを見つめている。
「あ、あの、ええと……?」
 町行く人々が、櫻良とひざまずく男とをちらりちらりと見てゆく。
 色もかたちも様々なそれらに、畏怖と歓喜と安堵とが入り混じっていたことは、櫻良の預かり知らぬところではあったが。
 もしかしなくても今のあたしって見世物? と、意識の遠い部分が客観的につぶやくのが判った。
 大勢の人から注目された経験などなきに均しい櫻良は、恥ずかしさのあまりその場から全力で逃亡したくなったのだが、表情を引き締めたヴァルレイズが彼女を見上げ、
「ともし火の長き不在もこれで終わるんだな。――――ご降臨を歓迎する、《女神の灯火》、神々の聖門、貴い界護の姫君よ。俺はヴァルレイズ、ヴァルレイズ・アクアグラス。ヴァルとでも呼んでくれればいい。神殿中央部で神子姫フォウミナ直属の神武官をやってる。……神殿都市の守り手のひとりとして、姫の幸いと安寧を希(こいねが)う」
 そう歌うように朗々と告げて、彼女の手の甲にそっと――優しく口づけたので、顔を真っ赤にして硬直した。
 無論のこと、それが生まれて初めての経験で、ヴァルレイズが地球だったらちょっと騒がれそうな男前でもあったからだが、それと同時に、櫻良は、先刻のジーンのしたキス、神子姫へのそれが、今ヴァルレイズがしたものと同じであることに気づいて胸中に首を傾げた。
(――……あれ?)
 その発見がちょっとした希望を含んでいることに櫻良は気づいたが、櫻良がその思いをもっときちんとしたかたちにする前に、
「で、ダンナと夜歌は姫と一緒にどこへ?」
 立ち上がり、櫻良の手から己の手を放したヴァルレイズがそう問うたので、彼女の意識はジーンへと向かってしまった。
「櫻良に昼食をと思っている」
「ああ、そういやそんな時間だな。どこにする気だ?」
「……さあ。夜歌、お前の方が私よりも詳しいだろう。どこが一番櫻良の気に入りそうだ?」
【そのようなものは前もって調べておくものだ。女子(おなご)と逢引きする直前に慌てるようでどうする】
「逢引きではなかろう」
【女子を食事に誘うときは常にそのような心構えでおらねばならぬのだ】
「……善処する」
「あんたら、いつ見ても面白ぇよな。そう思わねぇか、姫?」
「え、あ、う……」
「ん、どした?」
「いえあの、その、あたし姫とかじゃな……」
「いや、姫だろ」
「ヴァルレイズ、櫻良は廃棄世界の人間だ」
「なるほど、慣れてねぇってか。じゃあ……百歩譲ってお嬢でどうだ」
「ひゃ、百歩譲ってもそれなんですか。普通に櫻良って呼んでもらったらいいんですけど」
「おう、譲りすぎじゃねぇかとすら思うくらいだ」
「……ええと、じゃあ、お嬢で結構です、はい……」
 ここへ来てから幾度となく繰り返される、分不相応なまでに丁寧で敬意のこもった扱いに、自分がこれに慣れる日は来るんだろうか、などと思いつつ櫻良が返すと、それを楽しげに――好もしげに見ていたヴァルレイズがジーンを振り返り、
「こんな可愛いお嬢を連れて行くってんなら、『薔薇の木陰』亭はどうだ、ダンナ?」
 と、店の名前らしきものを挙げた。
 ジーンは瞬きをしてそうかと返しただけだったが、ヴァルレイズの提案を聞いた夜歌がポンと手を打つ。
【おお、それがよい。あそこは確かに、この辺り一番の名店だ】
「……そうなのか」
【これだから朴念仁は困るのだ。『薔薇の木陰』亭と言えば、この辺りの若者が一度は恋人とともに訪れてみたいと思う店だぞ。食材にせよ食器にせよ、最高級のものを使っておる。もっとも、その分値は張るがな】
「ふむ」
「あ、ジーン、そんなお金がかかるところじゃなくていいよ? あたし、好き嫌いとかないし」
 櫻良は自分のことでジーンに無駄なお金を使わせたくなくてそう言ったのだが、彼はかすかに肩をすくめ、
「金ならある。……では、そこへ行こう」
 自慢するでもなく淡々とそう告げて、また櫻良の手を取った。
 そして、その手を引いてまた歩き出す。
「……おやおや。烈火のダンナにあるまじき丁寧なもてなしぶりだな」
【うむ、吾も少々驚いておる】
「せっかくだから俺もくっついて行って構わねぇかな。面白そうだ」
【問題あるまい】
「おう、じゃあお言葉に甘えて。しかしなんだろうな、このむず痒い微笑ましさ。可愛いなぁふたりとも」
【そこな朴念仁を可愛いと称するは業腹だがな】
「ま、俺の二倍生きてるしなぁ」
 幸せやら恥ずかしいやら嬉しいやらで、真っ赤になってうつむいたままジーンに手を引かれて行く櫻良を、ふたりの背後を歩きながら、夜歌とヴァルレイズが意味深な目で見やり、そんな言葉を交わしていたが、自分のことでいっぱいいっぱいな櫻良がそれに気づくことはなかった。
 そのときの櫻良は、幸せすぎて死んじゃったらどうしよう、などという、益体もない思考で頭の中がいっぱいだった。