一行が『薔薇の木陰』亭へ到着したのはそこから三十分後だった。
 『薔薇の木陰』亭は、食料品や衣料品関係、生活雑貨の店などが軒を連ねた通り、いわゆる商店街の一角にあった。
 通りはとても広々としていて、活気に満ちていた。
 ここは、この辺りの住民たちの、生活に関する諸々が賄われている場所なのだろう、色とりどりの品物が並んだ店頭では、様々な衣装に身を包んだ人々――特に妙齢のご婦人方――が、店主たちと賑やかなやり取りを繰り広げているのが見える。
 それは品や人こそ多少違っていたが、櫻良の故郷である地球の、日本の、そして東京の光景と何ら変わらず、彼女に親しみの含まれた笑みを浮かべさせるに十分な生活臭に満ちている。
 そんな一角にある『薔薇の木陰』亭、他の店よりも洒落ていて、ラグジュアリーなと表現するのが相応しいであろう建物の入口、清潔で瀟洒な白いドアには、店名を表すかのごとくに、つやつやとして輝くように色鮮やかな、大きな薔薇の枝が飾ってあった。
 その枝はドアに埋め込まれているのか、まるで扉から生えているように見え、また緑の葉の間には、櫻良の故郷にはありえない、黄金の薔薇が咲いているのだった。
 作り物かと思った櫻良だったが、そっと手を伸ばして触れてみると、瑞々しい植物の感触があり、黄金の花からは匂い立つように華やかな方向が立ちのぼったので、判別がつかなくなった。
 ドアにめり込むように咲く薔薇など、ドアから生える植物など、故郷たる地球、廃棄世界では想像もつかない生態だが、恐ろしい魔物や奇妙な生物、馬にも人にもなれる神獣や魔族など、不思議な生命に満ちたこの世界なら存在してもおかしくはない。
「……でも、神殿都市って、本当に広いんだね。自動車も電車もバスもないんだから仕方ないんだけど、もしかしたらこのままお店に一生辿り着けないんじゃないかとか思っちゃった」
 店の前で、ドアに咲いた黄金の薔薇に驚いたあと、どこまでもどこまでも続く美しい街並をぐるりと見渡した櫻良がそう言うと、夜歌とヴァルレイズは顔を見合わせた。
「そういやぁお嬢は普通の女の子だもんな」
【うむ、吾としたことが不覚であった、背に乗せて進ぜればよかったな】
「まったくだ。すまねぇな、気の利かねぇ人間で」
「あ、ううん、そういうのじゃないよ。あたし、歩くのも運動するのも好きだし。でも、こんなに広いんじゃ、もしみんなとはぐれたらどこに行けばいいのか判らなくなりそう」
「まぁ、そうだな、何せ三百万人からの市民が住んでるんだ、ちょっとした国くらいの規模はある」
【人口で言えばエス=フォルナの三分の一程度ゆえな。人間の精度ならば、神殿都市に優る場所はあるまいが】
「ああ、ヘタすりゃ所属国であるエス=フォルナ以上の力を持ってるかもしれねぇ。色んな設備があるし、色んな名所もある。そのどれもが、職人たちの技の粋を極めて造られたものばっかりだ。ま、そんなところだから、当然、都市を全部観てまわろうと思ったら一月じゃきかねぇだろうな」
「へえー。すごいね。きっとすっごく綺麗な場所とかがあるんだろうなぁ。そういうところも観にいけたらいいな」
「おう、色々あるぜ、お嬢が喜びそうな場所が。まぁ、そりゃ烈火のダンナにでも案内してもらってくれ」
「うんっ」
【だが櫻良、吾らとはぐれたとて案ずることなど何ひとつとしてないぞ。この桃天華大神殿都市は《女神の灯火》を護るために存在する街だ。もしもそなたが困ったことと遭遇したなら、誰にでもよい、先刻そこな朴念仁より渡された首飾りを見せ、助けを求めればよいのだ】
「……そ、そうなの?」
【当然だ】
「え、あ、う……うん……」
 どうにも実感がない櫻良は、きっぱりとした夜歌の言葉に曖昧に笑ってみせ、自分が《女神の灯火》であることを証明したネックレス、首にかけたまま服の中へしまい込んでいたそれを引っ張り出した。
 その、小さなランプにも似たトップのモチーフの中では、やはり薄紅色のやわらかな灯が、風もないのにゆらゆらとたゆたっている。
 目にするだけで、ホッと心が和む灯だった。
「……ああ」
 それを観たヴァルレイズが鉄色の目を細めた。
「久しぶりに見る灯だ」
【お主にとっては二度目か】
「いや、三度目だな。晩年の紫野(しの)姫にもお会いしたことがある。あの時の俺はまだ十二、三のガキだったが、姫は本当にお優しくて美しくてな。子ども心にも思ったもんだ、俺もあの灯を護る仕事がしてぇって。で、今こうしてるわけだな」
【ふむ、かような理由をもって神官や神殿騎士になる者は決して少なくはないな。神殿騎士団第一部隊隊長しかり、第二隊長しかり、各隊の副隊長しかりだ。灯火とはそういうものなのであろう】
「……ジーンは?」
「ん? なんだって、お嬢?」
「え、あ、ええと、あの……」
【ああ、そのように慌てずともよい。そこな朴念仁のことであろう。そなたが騎士団に入った理由を問われておるぞ、ジン。灯火がお尋ねだ、正直に白状するがよい】
「や、夜歌、そんな強引な」
【だが、このくらい強引に問わねば答えぬぞ、こやつは】
「え、だって、それってつまり言いたくないってことじゃないの? ジーン、答えたくないならいいよ、別に」
 夜歌の、態度の大きい催促に、ジーンが嫌な思いをしたらどうしようなどと櫻良は焦り、そうフォローを入れたのだが、純金めいた光で双眸をきらりと輝かせたジーンは、かすかに首を傾げると、
「神子姫フォウミナに呼ばれたからだ」
 そう、端的に答えた。
 それは不意打ちに均しく、ごくごく自然に紡がれたその名に、接吻の一件にまだきちんと気づけていない櫻良の胸はまた痛んだが、そのマイナス感情を、嫉妬で歪んだ醜い表情を表に出すことはせずに済んだ。
 あまりに端的すぎる、背後の事情が一切伺えない返答に、夜歌が非難の目で彼を見ると、さすがに気づいたか再度口を開く。
「彼女とは長い付き合いなんだ。私はわけあって東大陸を出奔し、西大陸を長いこと放浪していたんだが、その辺りからの付き合いでな。前第三部隊隊長が魔族との戦いで命を落としたとかで、その欠員を埋める人員がなかなか見つからずにいるところへ声がかかった」
 神子姫の存在をジーンの言葉の端々から感じるたびに櫻良は切ない苦い思いを味わっていたが、十七、八歳にしか見えないジーンが『長い』という言葉を使うことが不思議で仕方なく、首を傾げた。
 思い起こしてみれば、ジーンは、明らかに自分よりも年上だろう各部隊の副隊長たちにも、『まだ若い』という表現を使っていた。
「あのね、あたし、すごく気になってるんだけど、ジーンって、いくつ? 放浪って言っても、そんなに子どもの頃から?」
 櫻良が問うと、夜歌とヴァルレイズは顔を見合わせ、それからふたり同じ動作でジーンを見遣る。
 なにやら意味深だったが、ジーンは微動だにせず、
「私は今年で八十八歳になる」
 淡々とそう言った。
 一瞬、言われた意味が判らず、それを脳裏で反芻した櫻良は、
「へ? はち……?」
 自分の聞き間違いかと思って小首を傾げたのだが、
「八十八、だ」
 再度ゆっくりと紡がれたそれは、やはり空耳でも聞き違いでもなかった。
「八十八歳?」
「ああ」
「……誰が?」
「何故私が私以外の誰かの年齢をここで口にする必要がある」
 間抜けな問いに、ジーンも首をかしげた。
「ぇ……」
「どうした?」
「え、えええぇ――――っ!?」
 それが脳味噌にきちんと至ったときの、櫻良の受けた衝撃は推して知るべし、である。
 素っ頓狂な叫びに、通行人たちが何事かという目を向けた。
 彼が嘘や冗談を言うとはとても思えないが、まだ大人になりきれない、大人の男の頑強さを微塵も思わせない、しっかりと創り上げられてはいるがしなやかな細身の、どこかまだ幼さを内包した顔立ちの、少年というカテゴリ以外では表現できないようなジーンが、まさか自分の祖父母より年上だとは思わなかったのだ。
「……あたし、十七とか十八とかその辺だと思ってた」
 ちょっと呆然とした櫻良がぽつりと言うと、
「そうだよな」
 ヴァルレイズが苦笑した。
「廃棄世界に東方人はいねぇもんな」
【そうだったな】
「??? それって、どういうこと……??」
「お嬢、そのダンナはな、この世界独特の種族の末裔だ。東方人って言い方だと東大陸の住民全部を表してるように聞こえちまうが、本来の東方人ってのは神人とか幻翅族(げんしぞく)とか呼ばれる、神々の力を色濃く宿した連中を差すんだ」
「そうなんだ。東大陸は神さまたちが最初に創ったから強い力があるって言ってたよね。じゃあ、その人たちは特別に長生きなの?」
「ああ。東方人以外の東大陸民は東和人とか呼ばれて区別されてる。東方人は神々の寵愛を受けてるから、肉体機能は一般人をはるかに凌駕するし、その平均寿命は三百年に渡るんだそうだ。その辺は、そこのダンナの活躍を観りゃ判るだろ?」
「うん。東方人ってすごいんだね」
「ま、そのダンナは東方人の中でも特別っぽいけどな」
「へえ。そうなの、ジーン?」
「……そんなことはない。私など、平均的な一東方人に過ぎん」
「アンタが平均的だとしたら、平均的でない東方人について思いをめぐらせることがちょっと怖ぇっつーの」
「うーん、そう言われちゃうとどっちが正しいのかわかんないなぁ……」
「どこからどう考えても俺の方が断然正しい。そこのダンナはちっとも自分を理解してねぇんだ。なあ、夜歌?」
【まったくだ。吾はこれまで何人かの東方人に出会っておるが、この朴念仁ほど非常識な輩には会(お)うことがない】
「あ、うん、それは何となく判る、かも。でも、普通の東方人もすごいことはすごいんだよね」
「ああ、俺たち普通の人間とは全然違う。美人揃いだしな。もっとも、時間が経つに従って徐々に数を減らしてるみてぇでな、今じゃあ千人も残っちゃいねぇようだが」
【東方人は五十で成人するゆえ、本来は八十八ともなれば立派な大人なのだが、そこな朴念仁には少々複雑な事情があるようでな、そのような小童(こわっぱ)の姿のままなのだ】
 夜歌の言葉に、少年の姿をした神殿騎士は嫌そうな顔をした。
 この陽気な神獣と会話しているとき、ジーンの表情はよく動く。
 それだけ長い付き合いということなのかもしれない。
「……小童で悪かったな。だが、千年生きる神獣にしてみれば、西方人にせよ東方人にせよ、どちらも変わりなくひよこ同然だろう」
「え、夜歌はいくつ?」
【面倒できちんと数えてはおらぬが、三百は越したと思う】
「……」
「どうした、櫻良」
「呆気に取られてるんじゃねぇのか」
「……確かに、廃棄世界にはそれほど長生きをする動物はいないようだな。樹木くらいが関の山だろう」
「うん……びっくりした。だって、うちのおじいちゃんおばあちゃんでも、まだ七十歳とかその辺りだもん。三百年とか千年とか生きるって、どんな気持ちなのかな」
【ふむ、ふと気づくと人の顔が変わっている、といったところか。吾らがのんびりしすぎなのか、人間が忙しないのかは判然とせぬがな】
「私は三十で東大陸を出て、そこから五十年間、西大陸のあちこちを旅してまわっていたが、――そうだな、少しずつ、ゆっくりと、人々の姿や景色や文化が変わっていくような気がしていた。旅を始めた最初の頃に出会った人々は、恐らくもう生きてはいないだろうな」
「それって、寂しい……よね?」
「……さあ、どうだろう」
 櫻良の恐る恐るといった風情の問いに肩をすくめ、どちらとも取れぬ答えを淡々と返したジーンだったが、美しい黄金の双眸で彼女を見つめると、
「驚いたか?」
 そう、静かに問うた。
 櫻良はどこまでマイペースな彼の様子にちょっと笑う。
「うん、びっくりした。地球……廃棄世界? には、そんな長生きさんはいないもん。向こうにいる時だったらきっと信じられなかったけど、でもね、色んな世界があって、いろんな人がいるんだなぁって思うよ、今なら」
「……ああ。神統世界には、東方人の他に、東方人と同じくらい長寿な耳長族(みみながぞく)や仙族(せんぞく)もいる。世界によって種は様々だと言うことなんだろう」
「そうなんだ。――うん、それにね」
「……ん?」
「どんな種族でも、何歳でも、ジーンはジーンだから、いいんだ」
「…………そうか」
 嘘偽りのない、思いの丈を込めたと言って過言ではない櫻良の言に、彼女がまたしても幸せのあまり意識を放棄しそうになるほど穏やかに微笑んだジーンだったが、すぐにいつもの淡々とした表情に戻り、それから一同をぐるりと見渡した。
「それで、どうなんだ」
「え、なにが?」
「どした、ダンナ」
「どうしたもこうしたもない。この店に入るのか、入らないのか、だ。このまま店先に突っ立っていても仕方あるまい」
「あ、うん、そうだね。そういえばお腹減ってるんだった」
「ここはいつでも混雑する人気の店だが、まぁ、このぐらいの時間ならまだ空いてるだろ。行こうぜ、お嬢。そこのダンナは太っ腹で金持ちだ、好きなものを頼めよ」
「う、うん……」
「そういうことだ。支払いのことは気にせず、お前の食いたいものを食え。灯火云々よりも、まず、遠いところから来たお前に歓迎の意を表そう」
「――うん」
 ジーンがドアを押し開きながら言ったので、櫻良はにっこり笑って頷いた。
 それが彼の純粋な善意と判るから、彼が心からそう思っていると判るから、櫻良はそれを素直に嬉しいと思う。
 恋心云々は、ひとまず脇にのけておくとしても。