『薔薇の木陰』亭は、大きなテーブルが十二、三ばかり並んだ、小ぢんまりとしてはいるが非常に洗練されたデザインの店だった。
 チリひとつ床にはなく、壁には美しい絵と色鮮やかな花が飾ってある。
「いらっしゃいませ、――……っ!?」
 櫻良たちが『薔薇の木陰』亭に入ると、少し早いランチタイムに賑わっていた店内は、初め応対に出た若い娘を筆頭として、水を打ったかのように静まりかえった。
 客の入りは八割から九割といったところで、櫻良たちが入るまで楽しげなざわめきに満ちていた。おしゃべりと笑い声、そして食器同士がふれあって立てる、陶器と金属の音があちこちから響き、たくさんの食材、料理から立ち上る食欲を刺激するよい香りに満ちていた。
 が、櫻良を守るように歩く三人の姿を目にした人々、ごくごく普通のと称される人々よりも身なりのいいお客たちが、老若男女関係なく、食事の手を止め、言葉をなくして彼らを見遣る。
 櫻良は、驚きと憧憬と畏怖と喜びの含まれた複雑な感情を、人好きのする朗らかな面(おもて)に張りつけた年輩の女性に案内されて歩きながら、それも当然かな、などと思っていた。
 何せ、ジーンも夜歌もヴァルレイズも、一般の範疇を超えた美形ばかりなのだ、普通の人間なら、間違いなく魅了されてしまうだろう。
 黄金にも琥珀にも見える美しい双眸の、少年とも少女とも取れぬ透明な――神秘的な美貌のジーンと、齢を重ね、経験を重ねてきたものだけが持てる厚みを感じさせる、男という性別における美しさを極めたかのような夜歌と、夜歌と同じく、年齢を巧みに重ねた者だけが持つことのできる強靭な美を有したヴァルレイズ。
 タイプは違えど、ちょっと類を見ない美形、男前が三人も一緒にいるのだ。店のお客たちが思わず沈黙し、視線をひとところへ向けた理由も気持ちも手に取るように判った。
 何せ、櫻良がそうだったのだから。
 ――もっとも、店員の女性たちや客たちの視線の大半が、櫻良の首から下がる不思議なペンダント、やわらかな薄桃色の光をともす胸元のモチーフに向けられていたことは、《女神の灯火》の何たるかを、その喜ばしい意味を自覚していない櫻良の理解の及ばぬ事実だったが。
「いらっしゃいませ、夜歌様、ヴァル様。ここのところご無沙汰で、すっかり忘れておしまいになったのかと心配しておりましたわ」
「そりゃすまねぇな、何せ三ヶ月間ぶっ通しでこき使われてたんだ。よそへ飯を食いに行く余裕もなかった」
【吾は仮にも乗騎なのでな、主が不眠不休で働いておっては、勝手に抜けることも出来ぬ。だがまぁ、これからは多少ましになろうよ】
「そうですか、いつも神殿都市のために尽くしていただいて、本当にありがとうございます。お暇なときはいつでもいらしてくださいね」
 言ってくすりと笑った女性が、次にジーンへやわらかい視線を向ける。
「ご来訪に感謝いたします、ジーン様。あなたがわたくしどもの店を訪れてくださるなんて、まるで夢でも見ているようです」
 櫻良たちを案内してくれた女性は、どうやら『薔薇の木陰』亭の経営者であるらしかった。
 彼女は、綺麗なレースの刺繍が施された、真っ白なエプロンをロングスカートのワンピースの上にまとっていて、淡い茶色の髪に新緑色の目をしていた。決して美人ではないが、誰もが和やかな気持ちにさせられるような、優しく明るい雰囲気の持ち主でもあった。
 彼女の言葉に、どこまでも洗練された、しかし自然で気負いのない動きで席に腰かけたジーンが、
「……それほど喜ばれるのも面映い話だが。彼女に昼食をと思って来ただけだからな」
 淡々とそう言って、隣に腰かけた櫻良を指し示したので、櫻良は居住まいを正してお辞儀をした。
 その様子に微笑み、櫻良の胸元を見遣った女性が、櫻良が切なくなったほどの安堵の笑みとともに、深い緑色のワンピーススカートの裾をちょっと持ち上げ、優雅に一礼してみせる。
「お初にお目文字仕りますわ、貴い姫君。ご光臨を歓迎いたします。わたくしはこの『薔薇の木陰』亭の店主を勤めさせていただいております、セアラ・ガーデンと申します。どうぞ、よしなに」
「えっ、あ、え、う……あの、ええと……」
「ああ……そんなに緊張なさらないで。『薔薇の木陰』亭もまた神殿都市の一角、あなたを傷つけ困らせるようなものは、ここにはひとつたりとして存在しませんから」
「は、はい……あの、その、どうもありがとうございます……。あの、あたし、櫻良です」
 自分の倍は生きているであろう女性から、身に余るほど丁寧な言葉をかけられて、まったくもって小市民なことに櫻良は(またしても)しどろもどろになったのだが、セアラと名乗った女主人はにっこりと明るい笑顔を浮かべ、鮮やかな緋色の冊子を彼女へ差し出した。
 どうやら、メニューであるらしい。
「さあ、では、何にいたしましょうか。『薔薇の木陰』には美味しいものがたくさんあります、どうぞ堪能なさって。櫻良様は何がお好みかしら。ホタテの貝柱を最高級のバターでしっとり焼き上げて、十二種の新鮮なハーブで作った緑のソースで飾ったものはいかが? それとも、オリーブ油でさっと焼き上げた仔牛肉に瑞々しいお野菜を添えましょうか。鶏肉を玉葱と一緒にとろとろになるまで煮込んだクリーム煮もお薦めですし、トマトとチーズをふんだんに使ったサラダもとても美味しいですよ」
 滔々と説明しながら女主人がメニューを開く。
 それを見下ろし、メニューを読もうとして、櫻良は首を傾げた。
「……あれ?」
【どうした、櫻良】
 向かい側に腰かけた夜歌が、さかさまにメニューを覗き込む。
 櫻良はもう一度メニューをまじまじと見つめてから、心底不思議そうにつぶやいた。
「字が読めない……?」
 そう、そこに書いてあったのは、平仮名でも片仮名でも漢字でもローマ字でもなく、あちこちに絡みつくツタやツルのようなかたちの、繊細で優美な、今までに見たこともない文字だったのだ。
 文字は、ミミズののたくるような、という表現が申し訳なくて使えない程度には流麗で、精緻だ。
 櫻良の言に、ヴァルレイズと夜歌がぽんと手を打った。
 心底納得した、という表情だ。
「ああ、そうか。そりゃそうだ」
【おお、そういえばそうだったな。これは神統世界の共通文字だが、廃棄世界にはない独特のものゆえ。廃棄世界人には難しいであろうな】
「あ、そうなんだ。日本語が通じるから字も読めるかと思ったのに。じゃあ、言葉は判っても字は読めないんだね。うわ、ちょっと不便かも……」
「ま、おいおい勉強していけばいいさ、慣れればそう難しいもんでもねぇから。訳してやんなよ、烈火のダンナ。つーかアンタがお嬢の好みを聞いて注文してやればいいんだろ」
「ふむ、それもそうだ。櫻良、お前は何が好きなんだ? どうしても食えないような嫌いなものは?」
「えー、うーん、あんまり好き嫌いってないんだけど……ええとね、お肉よりも魚が好き。野菜も果物も何でも好き。辛いのも好きだし、酸っぱいのも好きだよ。でも、あんまり匂いのきついものはちょっと苦手かな」
「……そうか。そうだな……では主人」
「はい、何なりと」
 ジーンの、長くて武骨で美しい、白い指先が、真っ白なメニューの上の流麗な文字をなぞる。
「では……黄金鱒のバター焼きと、花とハーブのサラダと、十種のキノコのスープを」
「パンはどうしましょう?」
「そうだな、花パンと白パンをつけてくれ」
「はい。では、飲み物はいかがいたしましょうか」
「ふむ……酒は飲めないか」
「え、あたし?」
「そうだ」
「うん、だって未成年だし。……よく考えると、こっちに未成年って考え方があるのかどうかも知らないけど」
「子どもから大人になる、成人という概念はある。十六歳から十八歳だが。――そうだな、では、飲み物に木苺のソーダと熱い紅茶を」
「かしこまりました。食後のデザートの方は?」
「櫻良、甘いものは好きか」
「うん、大好き」
「どういうのが好きだ」
「んー、えーとね、生クリームとか果物が山のように乗ったケーキとか、シロップで甘く煮た果物がたっぷり入ったパイとか、生クリームで緩くしたチョコレートを丸めたのとかもう大好き。毎日でも食べたいくらい好き。太ってもいいくらい好き。でも結構お金かかるから、家では誰かの誕生日くらいにしか食べられないんだけどねー」
「なら、この季節のベリーのケーキというヤツを。その、生クリームやら果物とやらをたくさん乗せてやってくれ」
「はい、うんとおまけしましょう。櫻良様の分は以上でよろしいですか?」
「ああ」
「他の皆さまはどういたしましょう」
「あー、じゃあ俺はなんかお勧めがあればそれで。朝飯が遅かったから、軽いもんでいいや」
「はいヴァル様、承知いたしました。では、十種の野菜とチーズを使ったサラダに、薄切り玉葱とベーコンを挟んだパンをお出ししましょう。何かお飲みになられます?」
「おう、非番だしな。黒エールで頼むわ。思いっきり冷えたヤツでな」
【では吾もそこな不良神官と同じもので頼む。酒は白葡萄酒のよく冷えたものを】
「承知いたしました。とっておきをお出ししましょう」
「つーか、誰が不良だ、誰が」
【そなた以外に誰がおる。――それで友よ、そなたはどうするのだ】
 ヴァルレイズの抗議を一刀両断にした夜歌が、メニューに視線を落としながら沈黙しているジーンへ話を振る。
 ジーンはまだ少し黙っていたが、ややあって口を開き、
「……大公烏賊(タイコウイカ)を使った料理以外なら何でもいい」
 と、ぽつりとつぶやいた。
 それを聞いたヴァルレイズが首を傾げる。
「大公烏賊? って、中央皓海(ちゅうおうこうかい)にしか生息しねぇってでかいイカだったか?」
「そうだ」
【……そのようなもの、普通は食わぬぞ。そもそもそう容易く水揚げされぬであろう】
「ジーンはイカが嫌いなの?」
「イカが、ではなく大公烏賊が嫌いなだけだ。細々と好き嫌いをするほど食にこだわりはない」
「なんで?」
「……」
【なんだ、言えぬような理由なのか】
「しかし、ダンナが好き嫌いするなんざ初めて知ったな。普通食わねぇようなもんではあるが。俺、アンタなら金属でも腐敗物でも岩石でも平気なんじゃねぇかと思ってた」
「ヴァルさん、それ人間の食べるものじゃないよきっと……」
「いや、でもダンナならアリだろ」
 肩をすくめたヴァルレイズがきっぱり言うと、さすがにジーンは顔をしかめた。たかだか数時間のつきあいで、この騎士の表情があまり動かないものであることを理解していた櫻良など、失礼極まりないことに思わずびっくりしたほどだ。
 どうやらよほど気に食わない断じられ方だったようだが、その後、理由を説明した方がいいと思ったのか、ゆっくり口を開く。
「……別に、それほど大した理由があるわけじゃない。東大陸からこちらに移って来た際、乗っていた船が大公烏賊の群れに襲われてな。大惨事になっただけのことだ」
【いや待て、大した理由であろうそれは】
「そういやアイツら、群れて自分らよりでっけぇ鯨とか襲うってハナシだったな。確か大公烏賊っつったら普通でも十五アルネルくらいあるんだろ? そんなもんに群れで襲われちゃあなぁ」
「ねえヴァルさん、アルネルって、単位?」
「ん、ああ、そうだ。西大陸ではこれで長さを表すんだ。お嬢の故郷の単位に合わせると、1アルネルが……あー、……五十センチかなんかじゃなかったかな、確か。しかし……ダンナの『大した理由』がどんなモンなのかすげぇ気になるとこだな」
【それで無事に西大陸へ辿り着くそなたが判らぬわ。まぁよい、少なくとも『薔薇の木陰』亭に大公烏賊を使った献立は存在せぬ。もう少し具体的に好みを申さぬか。店主が困っておろうが】
「む、そうか」
 夜歌に指摘されたジーンが女主人を見上げると、四人のやり取りにくすくす笑っていたセアラは小さく頷いた。
「ええ、そうですね」
「……そうか。そうだな……では、あまり味の濃くないものがいい。量も多くは要らん」
「ジーン様は少食であらせられるのですね。ならば、野菜の旨味がとけこんだ透明スープと、硬いけれど香ばしい塩パンに、薄切りにしたハムとチーズを挟みましょう。それでいかがです?」
「ああ、ならそれを頼む」
「お飲み物はいかがいたしましょう?」
「そうだな……ハーブ水で。レモンでも入れてくれ」
「お酒はお飲みにならないのですか?」
「嫌いではないが、昼間から浴びるほどでもない」
「かしこまりました。それでは皆さま、少々お待ちくださいませ。腕によりをかけてお作りしますので」
 すべての注文を取り終えたセアラが、にっこり笑ってから優雅に一礼し、テーブルを立ち去る。
 櫻良は、あちこちから漂ってくる匂いや、メニューを聞いてふくらんだ想像によって、派手に自己主張を始めた自分の胃袋に、身体って正直だなぁなどと胸中に苦笑しつつ、どんな世界、どんな場所であれ、美味しいごはんが食べられるなら何も心配は要らないだろうと、いくらでも頑張って生きていけるだろうと思っていた。

 * * * * *

 料理が運ばれてきたのはそこから二十分が経った辺りだ。
 セアラと、彼女によく似た若い娘が、ゆったりとした足取りでテーブルに近づき、真っ白な皿に美しく盛り付けられた料理を丁寧に並べてゆく。
 テーブルの上は、すぐに様々な――色とりどりの料理でいっぱいになった。食欲をそそる匂いがふわふわと立ち上っている。
「さあ、どうぞ。お好みで、辛子のソースをかけてくださいね」
「あ、はい、ありがとうございます。うわぁ、美味しそう……!」
「それでは皆さま、どうぞおくつろぎくださいませ。楽しんでいただけると幸いですわ」
 セアラと少女店員が優雅に一礼して去ると、ヴァルレイズと夜歌がグラスを手にとった。ヴァルレイズのグラスには泡立つ黒い液体が、夜歌のグラスには淡い琥珀色の液体がなみなみと注がれている。
「さー、んじゃま、乾杯しようぜ乾杯」
「って、え、何に?」
【決まっておる、そなたの来訪にだ。喜ばしいことであろう?】
「うん……そ、そうなのかな? でも、うん、そう言ってもらえると嬉しいからやろう。自分のことで乾杯してもらえるなんてなかなかないよね? どきどきしちゃう」
【うむ。ほれジン、何をぼうっとしておる、そなたもグラスを持たぬか】
「ん? ああ」
 夜歌の言に微苦笑したジーンが白い指先でグラスを持ち上げる。
「よし、《女神の灯火》の光臨と今日のこの出会いに感謝して、乾杯!」
「わー、乾杯っ! いただきます!」
 何がめでたいのか実際にはあまり判っていないものの、思いっきり雰囲気に流されて乾杯し、櫻良は木苺のソーダに口をつけた。薄紅の、可愛らしい色をした飲み物だ。
 爽やかで甘酸っぱい味が、ソーダのすっとした口当たりとともに口いっぱいに広がる。
「うわ、おいしー。木苺なんて食べたことないけど、ソーダでこんなに美味しいんだから、生で食べてもきっと美味しいんだろうね」
「ん、お嬢は木苺を食ったことがねぇのか。結構どこにでも生えてるもんだぜ。そだな、なら、今度討伐に出た時にでも採って来てやるよ」
「わ、ありがとうヴァルさん。楽しみ」
【櫻良、黄金鱒という魚はな、皮が金色をしているからそう名づけられたのだが、身だけでなく皮も絶品なのだぞ。冷めると味が落ちる、熱い内にいただくがよい】
「うん、夜歌。じゃあ、いただきます」
 頷いて、櫻良はフォークとナイフを手に取った。
 箸文化の日本に生まれ育った櫻良だが、学校の家庭科の授業、テーブルマナーというヤツでナイフとフォークの使い方はひととおり勉強してある。授業のときは面倒臭く思ったが、今は真面目にやっておいて本当によかったと思う櫻良である。
 ……好きな人の前でみっともないところはみせたくない、という、年頃の少女らしい意識の元、櫻良はゆっくりと――丁寧にナイフを操る。
 甘いバターの香りをふわりと漂わせる、オレンジがかった身へナイフを差し入れ、鱒の欠片をフォークに載せて口元へ運ぶ。
「うわぁ……」
 口へ入れた瞬間、魚はほろりとくずれ、独特の深い香りが広がった。
 身はしっとりとやわらかく、クセがないのに濃厚で、濃くて甘いバターとの相性が最高だ。金色の皮はぱりぱりに焼いてあり、さくさくの歯応えとねっとりとした味わいとが絶妙だった。
 あまりの美味しさに思わず大きな口で二切れ三切れと頬張り、テーブルマナーのことを思い出して赤面する。
 失態を誤魔化そうと、可愛らしい花のかたちを模した小振りのパンを手に取り、一口大に千切っていると、黒エール(どうも、ビールの仲間らしい)を飲んでいたヴァルレイズが鉄色の目を細めた。
「どうだ、お嬢?」
 櫻良はにっこり笑う。
 美味しいものを食べるのは、やっぱり、楽しい。
「すごい、美味しい。こんな美味しい魚、生まれて初めて食べるかも。火の通し方とかも完璧だし、やっぱりプロの料理人さんって違うんだね」
 栄養士や調理師を夢見るだけあって、櫻良は料理にはちょっとうるさい。
 色んな料理を作ってみたい、と集めた本は数十冊にのぼる。お陰で様々な国や地域のメニューにも詳しい。
 それらを自分で作ってみるのも得意だし、好きだ。
 家では、母親が忙しい時など、よく作っていた。
 だから櫻良は、調理という作業が思いのほか手間のかかるものだということを理解しているし、ごはんを作ってくれる人に感謝しなくてはいけないことも判っている。
 この神統世界に迷い込んで数時間、流されるままの櫻良だが、食という身近な事柄に行き会ったことで、ようやく自分の本分を思い出すことが出来たし、自分がここで生きてゆくのだという実感も涌いた。
 同時に、《女神の灯火》という、よくは判らないが貴い、大それた存在として、安穏と生きていたくはないという意識が根差す。
 大切にしてもらえることは嬉しいし、ここにいてもいいと言ってもらって心底ホッとしたのも確かだが、象徴などという、自分の手柄でもないことで甘やかされていては、きっと駄目な人間になってしまう。
「ねえ、ジーン」
「ん」
「あたし、本当にその灯火なんだよね?」
「ああ」
「じゃああたし、《女神の灯火》として、これから何をするんだろう。何が許されるんだろう」
「お前は何をしたい?」
「あのね、……笑わない?」
「ああ」
「ごはん、作りたいな」
「――そうか」
「お菓子も作りたい。何か、人に喜んでもらえることがしたい。それって、ヘン?」
「――……いいや、何もおかしなことではない。お前が望むなら、そのように。神子姫に話を通しておこう。姫も、反対はなさらないだろう」
「うん、ありがとう」
 どうあっても故郷には、家には帰れないのだとして――そう思うだけで、櫻良の心は痛んだが――、ここで新しい人生を生きてゆくことが櫻良の使命ならば、平穏に、幸せに生きることがこの都市を、世界を守るというのなら、誰もが驚くくらい平凡に、普通に生きたいと櫻良は思う。
 それゆえの彼女の言に、ジーンは何も反対しなかった。
 そのこともまた、櫻良は嬉しかった。
「ま、いいんじゃねぇの? とにかくお嬢がこの都市にいてくれりゃあいいんだ、お嬢が飯屋を開こうが菓子屋を開こうが問題ねぇだろ。そのときは教えてくれよな、日参するから」
【先代はもともと舞姫であったと聞くし、先々代は廃界学者であったらしい。灯火が、灯火であるがゆえに不自由を感じる必要はない、櫻良は櫻良の思うように生きればよいのだ】
「――……うん」
 ふたりの温かな言葉にうなずき、やわらかくてほんのり甘い花パンの欠片を口に入れた櫻良に、不意に思いついたといった風情で、ハーブ水のグラスを傾けていたジーンが声をかけた。
「それで、櫻良」
「うん? なに、ジーン?」
「飯を食ったら、どうする」
「え?」
「廃棄世界人たるお前に馴染みはないだろうが、十日後、灯火の披露目の式典がある。それまでは自由だ。好きなようにしていてくれて構わないが、何か、観てみたいものや行ってみたい場所はあるか?」
「式典……なんか緊張する響きだね……。出なきゃいけないなら出るけど。ええと、自由ってことは、観光してもいいってこと?」
「ああ、まぁ、概ねそんなものだ」
「うーん、何があるのか判らないし……」
「なにせ神殿都市は広いからな。お嬢には……というか現代の廃棄世界人には想像もつかねぇだろうが、俺らくらいの文化レベルで、農民やら一般的な市民が自分の住む地域を離れてよそを旅するってのはありえねぇくらい珍しいことなんだ。でも、そのありえなさを払拭するくらい、誰もが一度は観てみてぇって思うくらい有名なのが、神殿都市の顔であり本体でもある中央神殿と双女神の遺物と称される双神宮、南部にある十本虹の噴水公園、この近くにある神仙の丘、東部にある双頭獅子の展望台、あとは西部の精霊森辺りだろうな。北部桃璃門はもう見ただろ、当然。もちろん、見どころはそれだけじゃあねぇが、美しいものには事欠かねぇとこだぞ、ここは」
「へえ……色々あるんだ。どうしよう?」
「時間はたくさんあるんだ、焦る必要はない。お前の行きたいと思うところを選べ。私が案内しよう」
「うん……あ」
「どうした?」
「どこでもいい? どこでも、ジーンは案内してくれる?」
「無論だ」
「じゃあね」
「ああ」
「ジーンの一番お気に入りの場所に行ってみたいな。――駄目?」
 櫻良の、恋する少女まっしぐらな発言に、しかしやはり朴念仁らしく小さく首を傾げたジーンが、
「駄目ではないが。お前が気に入るかどうかは、微妙なところだ」
 なんとも曖昧な答えを返す。
 しかし、駄目ではないと言われた時点で、櫻良にとってはOKをもらったも同然だ。
 絶好の機会とばかりに言い募る。多分この鈍感騎士は、櫻良が引けばそこで納得してしまうだろう。
「じゃあ、そこがいい。そこに連れてって! ね!」
 十六年の人生で、ここまで自分が積極的になったことがあるだろうか、いやない(反語)、というくらいの勢いで押す。
 傍から見れば、色々な意味でばればれの行動だったが、もっともばれてほしい相手は、櫻良がどうして積極的なのかには思い至らぬ様子で、首をかしげたまま頷いた。
「判った、案内しよう」
「やったっ。ありがと、ジーン」
 それでも、彼が一番好きだという場所に入ることを許されるのは嬉しくて、櫻良は満面の笑みを浮かべる。
 彼にとって神子姫の存在が特別だろうと何だろうと、自分が好きな気持ちに偽りはないのだと、徐々に開き直ってきたというのも大きい。
「ふむ、では」
 フランスパンに似た、皮の硬そうなパンを無造作に千切って口にいれ、
「食い終わったら双神宮に帰るぞ」
 唐突に、何の前触れもなくジーンが言ったので、櫻良はグラスを手にしたままで、何度も瞬きをした。
「え、その双神宮がジーンのお気に入りなの?」
「違う」
「???」
「準備が要る。明日も早い。迎えに行くから、早々に寝るようにしろ」
「へ?」
「……私の気に入りの場所に行くのだろう」
「え。あ、うん」
「なら、言う通りに」
「うん……はい」
「よし」
 ジーンの言だと、どうも、彼の気に入りの場所へ行くには準備が必要であるらしい。櫻良としては都市内だろうと思って言ったのだが、この分だとそれも不確かだ。
 自分で言ったこととはいえ、もしも彼のお気に入りがものすごい山奥の、肉食獣や巨大なモンスターで混雑するような場所だったらどうしよう、などと心配になる。
 そんな場所に行って、無傷で帰ってくる自信はまったくない。
 などと思っていた櫻良だったが、
「慣れればきっと楽しい。ちゃんと、やり方も教えてやるから心配するな」
 案外楽しげなジーンの声がした瞬間、
「うんっ!」
 ほぼ脊髄反射で、何も考えずに元気いっぱい返事をしていた。
 返事をしたあと、もしかしなくてもあたしって馬鹿かもしれない、などと胸中に思ったのは秘密だ。
 ――夜歌とヴァルレイズが何か面白いものを観る眼で櫻良を見ていたような気がするが、きっと気の所為、気の迷いだ。
 その辺りはすべて脇にのけておいて、ジーンと一緒にジーンの好きな場所に行くという素敵過ぎるプランのために、じゃあとりあえずごはんを食べてしまおう、と、櫻良は、バターの芳醇な香りを漂わせる鱒や色とりどりの花が散った綺麗なサラダ、透き通ったスープやパンを交互に見遣り、再度ナイフとフォークを手に取った。