「……ええと……ここどこ? てゆーか、今何時?」
 それは、まだ陽も昇らぬ、薄暗い早朝のことだった。
 空気はひやりと冷たく、世界は静かだ。
 櫻良は、右手にバスケットを持ったまま、その場に立ち尽くしていた。途方にくれていた、といってもいい。
【ふむ、ここはアルエリル川、吾らが神殿都市より三イリスばかり南下したところにある清流だ。規模は決して大きくないが、流れが美しいのでな、皆に愛されておる。それと、そちらに見ゆる丘はシェリア花丘と申してな、アルエリル川と合わせて、神殿都市民の憩いの場のひとつとなっておった。ここ数年は魔物の横行が激しかったゆえ、一般人が都市の外に出ることはなかなかなかったのだが、これからはきっと、数多くの人が訪れることとなろう。時刻は……そうだな、午前四時を半ばほど回った辺りであろう】
 櫻良の自問もしくはぼやきに近い言葉に律儀で丁寧な答えをくれたのは夜歌だ。今日の彼は、漆黒の身体に真紅の目、真珠色の角と蹄を持った、神秘的な馬の姿に戻っている。
「ええと……どこから訊いたらいいのか判らないくらい混乱してるんだけど、とりあえずイリスは距離だよね」
【うむ、イリスとキロメートルという呼称の違いのみで、長さとしては何ら変わらぬ】
「そっか、夜歌の脚だとあっという間なんだ、やっぱり玉瑞ってすごいね……って、なんであたし、ここにいるんだっけ。寝たと思ったら起こされた感じ。夜明けまではまだ時間がありそうだし、女官長さん? だっけ? に、お弁当までもらって来ちゃったけど、どこで食べるんだろうこれ。ええと、ここがジーンのお気に入りの場所? ってこと?」
 何がなにやらさっぱり判らないまま、櫻良は、疑問符だらけの言葉とともにまだ薄暗い周囲を見渡し、小さく首を傾げた。
 今の櫻良に判るのは、ここが広い幅を持った川のほとりであり、なだらかな稜線を描く小高い丘のふもとであるということくらいだ。
 ジーンのお気に入りの場所に案内してもらうために来たはずだが、どうも、想像していたものと違う。
 ここは確かに、緑や自然の少ない東京人である櫻良の観点からすれば美しくはあるが、何もかもが美しいこの神統世界からしてみれば、何の変哲もない川と丘だった。
 むしろ、双神宮がジーンの気に入りの場所だと言われたほうが納得したような気がする櫻良である。
 ――――昨日櫻良は、昼食が終わると同時に、町の風景を見学しながらではあるが帰途につき、双神宮と呼ばれる神殿の内部施設(らしい)、歴史と風格の感じられる美麗で荘厳な建物へと送り届けられ、五十代前半の女性、女官長とジーンが呼んだ人物を筆頭とした集団へ引き渡された。
 まったく知らない人々に囲まれることへの不安を感じる暇もなく、それがジーンの命なのかフォウミナの命なのかは判らないものの、目が回るほど広い風呂に入れられたあと髪と爪と肌を整えられて――あまりの至れり尽せりぶりにエステってこんな感じかな、などと思ったことを櫻良は鮮明に覚えている――、ゆったりふんわりした手触りも着心地もいいワンピース(後で聞いたところによるとこれがパジャマ代わりらしい)を着せられて部屋へ案内された。
 部屋は広く、その内装の繊細な美しさは筆舌に尽くし難く、泣けてくるほど小市民、超一般人の櫻良はちょっとどころでなくびくびくして、お陰で夕食の味もいまいちよく覚えていないし、初めての世界で迎える初めての夜とかいうそれ以前になかなか寝つかれなかった。ベッドのあまりの広さに落ち着かなかった、というのもある。
 ……のだが、やっと眠ったと思ったらジーンに叩き起こされ、ぼうっとしている間に女官長とふたりの女官に恐ろしいほどの手際のよさで服を着替えさせられ、お弁当の入ったバスケットを持たされて送り出されたわけだ。
 夜明け前の神殿都市も、情緒があって美しかったが、半ば寝惚けていた櫻良には、その美しさを堪能する余裕はなかった。
 ぼんやりと、夜歌の蹄の音を聞いていたくらいのものだ。
「っていうかこの服、本当は誰のなんだろう。あたしが使っちゃってよかったのかな」
【そなたのために用立てられた衣装だ、好きなように使うがよい】
「そ、そうなの……?」
【ケーニカなどは、もっと裾の長い、レースや花の刺繍のあるような、美しいドレスを着せたがるやも知れぬが、よく似合っておる】
「そう? えへへ、ありがと」
 真紅の眼を細めた夜歌の言葉に、櫻良は照れ笑いをした。
 お世辞と判っていても、褒められるのは嬉しい。
 今の櫻良は、チュニックワンピースとでも言えばいいのだろうか、太腿くらいまでの長さのある、薄青色の生地、やわらかなフリルの施されたそれに、濃い青や緑でツタや葉っぱの刺繍がされた、可憐で綺麗なトップス(という現代的な表現が相応しいかどうかはさておき)を着ている。
 その上に、光沢ある茶色をしたやわらかなショールをまとい、ふくらはぎまでの丈のベージュのズボンを穿(は)いて、華奢で精緻な編みサンダル、どうも植物性らしい茶色のそれを履いていた。
 もちろん胸元には、彼女を《女神の灯火》と正式に決定づけたペンダントが揺れている。
 しかし、正直なところ、明らかにお金がかかっていると判る素材の、こんな衣装を身につけたのは生まれて初めてだ。
 おしゃれに興味がないはずのない、十代の少女ではあれ、所詮高校生が自由に使えるお金などたかが知れているし、欲しいと思った服をすべて買ってもらえるわけでもなかったから、平凡で平均的な女子高生以上の衣装を身につけたことはなかったのだ。
 そんなわけで、自分の今の出で立ちには大層ときめく櫻良だが、それで今の状況が把握できたわけでもなく、川のきわのきわ、水辺で、なにやら作業に勤しんでいるジーンへ目をやった。
「……でも、ジーンって」
 言って夜歌を見上げると、漆黒の神獣が、真紅の眼を向ける。
 櫻良は、ヒトガタの夜歌よりも、馬の姿をした彼のほうが好きだ。
 動物としての、完成した美しさが見えるからかもしれない。
【うむ、朴念仁がどうかしたか】
「そんなに連呼されると、なんだかそれがジーンの本名みたいに思えちゃうんだけど……。まぁいいや、あんな恰好もするんだね、ジーン。なんか、最初に観たのが神殿騎士の服だったからかな、イメージが違ってちょっとびっくりした」
【一年のほとんどは神殿騎士の出で立ちだ。不眠不休で働いて何の問題もないゆえ、休暇用の衣装などほとんど持っておらぬであろうな】
「……ああ、なんかものすごく納得」
【あれも初めて見る、恐らくはどこかから適当に仕入れてきたのであろう】
「へえー」
【もっとも、逢引きに身につけるには、あまりにも華やかさやら洒落っ気からはかけ離れておるがな】
「ええと、アイビキって何だっけ? ひき肉のこと……じゃないよね、多分。――でもカッコいいよねぇ。シンプルだけど、よく似合ってる」
 櫻良が言うと、夜歌がブルルッと鼻を鳴らした。
 笑ったのか呆れたのか判然とし難いが、櫻良にとっては事実なので仕方がない。
 今日のジーンは、昨日の、櫻良が初めて出会ったときのような、武骨で厳しい恰好はしていなかった。
 無論、武人としての出で立ちも、彼の凛と涼やかな美貌にはよく似合っていたが、今日のジーンは櫻良の胸を新しくときめかせるのに十分だった。
 それは決して華美な服装ではなく、むしろ地味と言えたが、暗色の、色味の少ないシンプルな装いは、かえって彼の美しさを引き立てていた。
「……うん、かっこいい」
 櫻良は、ぴんと背筋を伸ばした姿勢で川の向こう側を眺めているジーンの、怜悧で静謐な横顔を見遣り、うっとりというのが正しいであろう口調でつぶやいた。
 夜歌の視線が微笑ましげというより生温くなったような気がするが、気の所為だ。多分。
 ――今日のジーンの出で立ちは、多分に和を思い起こさせた。
 濡れ光るような漆黒の髪を緩く結わえ、流しているのと、腰に剣を佩いているまでは昨日と同じだが、今の彼が上にまとっているのは、ヒップラインを隠す丈の、前開きの半袖チュニックだった。
 それは丈の短い着物のようにも見えたし、もっと布地が分厚くて袖が長かったら、柔道着や剣道着のようにも見えただろう。
 やわらかそうな風合いの――多分値段も張る――布地で、色は一点の曇りもない黒だ。
 裾や襟の部分には、光沢のある紺の糸で、植物の蔦を思わせる精緻な刺繍が入れられている。
 その下にタンクトップ状の、着心地のよさそうなグレーのシャツを着て、チュニックの上からつやつやとした黒革と銀の金具でできたベルトを締めていた。どうやらこのベルトで剣を吊るしているらしい。
 更にジーンは、チュニックと同じ黒で、櫻良と同じくふくらはぎくらいまでの丈のズボンを履き、歩きやすそうな黒いサンダルを履いている。
 ここまで黒いとスタンダードカラーなのかと思いたくなるが、実際には、あまり頓着がないと言うことなのかもしれない。
 なんにせよ、それは、あまりにシンプルで普通の出で立ちなのに、ジーンの美が尋常ではないことを如実に物語る代物だった。
 それでいて、今の衣装は、彼が普通の、穏やかな時間を過ごす何の変哲もない少年だと思わず錯覚してしまいそうになるほど、昨日の惨劇を――彼の職業を忘れてしまいそうになるほど、平和で平凡だった。
 その平凡な、平和な出で立ちが、櫻良は心底好きだと思ったし、こんなジーンと、ロマンティックで甘やかな関係になれたらいいのに、などと、夢見るように思いもする。
「櫻良」
「えっ、あ、はいっ!?」
 ジーンの、長身の少女にも見える繊細な美貌をうっとりと見つめ、もう本当にどうしよう、眩暈がするくらいかっこいい、などと、誰かに聞かれたら馬鹿認定されそうなことを胸中につぶやいていた櫻良だったが、唐突に本人に名を呼ばれ、大慌てで我に返った。
 声が素っ頓狂なのは致し方ないことである。
 びっくりして跳ね上がった心臓をなだめつつ、何事かと彼を見遣ると、ジーンが手招きしている。両手首にシンプルな銀環が二本ずつはまっているのは、夜歌によると洒落っ気ではなくお守りであるらしい。
「なに、ジーン?」
 準備とやらが整ったのかと、夜歌とともに川岸へ近づく。
「お前の分だ」
 すると、ジーンが、木切れのようなものを櫻良に差し出した。
 反射的に受け取ったものの、何のことやら判らず、困惑して木切れを見下ろす。
 それは太さにして直径二センチ、長さにして三メートル弱。
 真ん中の辺りに切れ込みがあるところからすると、ジョイント式もしくは組み立て式であるらしい。
 木切れの先端からは布を縫うためのものではない奇妙な光沢の糸が垂れていて、その先には鮮やかなオレンジ色の羽根を巻きつけた石片が結び付けてあり、更に一番先端に小さな鉤針がついている。
 ――その形状には見覚えがある。
 生粋の都会っ子である櫻良に経験はないが。
「……これって」
「ああ」
「釣竿?」
「これを釣り以外に使う方法は知らんな」
「…………じゃあ、ジーンのお気に入りの場所って」
「無論、釣り場だ。この辺りはそもそも人々の憩いの場だが、実は釣りの穴場でもある。知っている人間は少ないが」
「わあ、なんか一気にロマンティックさから遠ざかった……」
【朴念仁にそれを求めるは無駄で不毛というものだ、嬢】
「……うん、海より深く納得……」
「ん? 何か言ったか、ふたりとも?」
「ううん、何でもない。残念だけど。っていうか、あたし、釣りってしたことないんだけど……」
「なに、すぐ慣れる、ようは根気だ。ほら櫻良、こっちに来い。夜明け前から日の出後一、二時間くらいの時間帯が一番食いがいいんだ、時間を無駄にしてはもったいない」
 つきあい二日目の櫻良にすら機嫌のよさがうかがえる、無表情に近いうえ声の抑揚もあまりないが、どことなく楽しげと判る調子で、ジーンが櫻良を再度手招きする。
「……うん」
 櫻良は笑って頷き、ジーンの元へと歩み寄った。
 楽しそうな――多分、櫻良の錯覚ではあるまい――ジーンが観られただけで、早起きをした甲斐があるというものだ。
 それに、こうやって、彼の気に入りの場所で、彼の好きなことにつきあえるのも、たとえ甘い恋からは遠くとも、幸せのひとつには違いない。
「どうやったらいいの、ジーン?」
「針に餌をつけて、水に入れる。そうしたら、たまに竿を動かして、魚を誘ってやれ。魚が餌を食うと浮き――ああ、その羽根だ――が動くから、頃合いを見計らって引き上げるんだ。この辺りの魚は賢いからな、巧くやらないと餌だけ取られるぞ」
「ええと、餌って……?」
「この辺りの大きな石を引っ繰り返してみろ、後ろに張り付いているだろう」
「えっ……そ、それをつけるの……?」
「――――無理か。こいつだが」
 河原にごろごろ転がる大きな石を、無造作に引っ繰り返したジーンが、白くて長くて武骨な指先で、ミミズと芋虫の中間のような、五センチくらいの黒っぽい虫をつまみあげる。
 そいつがジーンの指先につままれて、うねうねぐねぐねと身体をくねらせるのを見て、櫻良は顔を引き攣らせた。
 平凡な女子高生の例に漏れず、櫻良は虫が苦手なのだ。
 目にする機会、触れる機会があまりなかったというのもある。
「ううっ……そ、それに触るの? ちょっと、無理かも……っ」
「廃棄世界にこんな虫はいないのか? 虫とは、珍しい、気味の悪いものなのか?」
「うん……そうだね、世界中ってことならたくさんいるんだろうけど、日本の、東京はそうかも。馴染みのある虫なんて蝿とか蟻とか蜂くらいだもん。それだって、進んで触ろうとは思わないし。ご、ごめん、その虫はホント無理。多分触ったら貧血起こすと思う」
「そうか、なら私がつけてやろう」
「あ、うん、ありがと……」
「――よし、これでいい。ほら、川に向かって軽く投げてみろ」
 釣り針に貫かれてうねうね動く虫を凝視していると失神しそうなので、櫻良はジーンに言われた通り、それを川の中に放り込んだ。ぽちゃん、という音がして、川幅は広いが決して深くない、流れの緩やかな川に、オレンジの羽根がぷかぷかと浮かぶ。
 そのあとジーンが、川面を覗き込んでいる夜歌に釣竿を差し出す。
「夜歌、せっかくだからお前もどうだ」
 すると、夜歌は器用に肩をすくめる真似をしてみせた。
【今のこの姿で釣りができるかというそれ以前に、原初の理を宿す神獣に、無闇と殺生をさせるでないわ】
「玉瑞族の鬼子が何を言う。――……まァ、無理強いはしないが」
 櫻良には理解できない言葉を返し、肩をすくめたのち、河原の大きな石を引っ繰り返したジーンが、またあのうねうねと蠢く虫をつまみあげ、さっさと針に通すやひょいと流れの中に放り込む。
 さわり、と、やわらかい涼風が吹き抜け、ジーンの、輝くような漆黒の髪をわずかに揺らした。
 櫻良は、ジーンの言ったことを実践するべく、よく判らないなりに竿を動かしたり糸を引っ張ったりしていたが、そもそも魚が餌を食べる感覚がどんなものなのかすら判らないのではどうしようもないし、釣れたら釣れたで今度はどう扱ったらいいのかも判らない。
 櫻良は普通の女子高生にしては珍しく、一匹丸ごとの魚を綺麗におろして料理することはできるが、普通の女子高生と同じく、生きている魚を目にしたり手にしたりしたことはほとんどないのだ。
 かといって、無心でと言うのが相応しいような静謐さで、彫像のように川辺に佇むジーンにあれやこれやと尋ねるのも悪いような気がして、櫻良はひとつ小さな息を吐き、わずかに明るさを増してきた空を見上げ、次に川へ視線を向けた。
 この神統世界は、現在、晩夏であるらしい。
 空気はさわやかで、清涼だった。
 徐々に夜明けへと近づいてゆく、青と薄紅と灰の入り混じった空は高く広く、水面に空を映して滔々と行く川の流れは清らかだ。現代日本――もしくは先進国家などと呼ばれるいくつかの国々――の、あちこちにゴミが浮かび、汚れた水の姿など、ここでは想像もつかない。
 それらを思うにつけ、地球を創り出し、その行く末を見て、失敗作と断じた造物主とやらの落胆も、理解できなくもない。
 自分が精魂込めて創り上げ、手塩にかけて育てた世界の結末が、どうあっても行き着く先があの汚れた風景しかないのでは、見棄てたくなる気持ちも判るというものだ。
 無論、自分たちの生まれ、生きてきた世界が、失敗作と――どうしようもない駄作だと指差されるのは寂しいことだが、それでも、廃棄世界に、日本の東京にいたからこそ、運命や縁が巡り巡って今こうしてここにいられるのなら、それもまたひとつの幸運だったのではないかとも思う。
 櫻良がそんなことをぼんやり考えていると、
【……おや】
 ジーンの背を見ていた夜歌が低い声を上げた。
 櫻良がそちらを見遣ると、ジーンが手にした竿をひゅっと一振りしたところだった。竿の先がしなり、水がきらりときらめきながらはねる。
 そして、ばしゃん、という水音とともに、銀色に輝く魚が、水面から飛び出してきたかと思うと、次の瞬間にはジーンの手に捕まっていた。
「わあ」
【ほう】
 長さにして二十センチといったところだろうか、スマートな体型と顔立ちの、美しい魚だ。銀色の身体に、二本の青線が走っている。
「なんて魚?」
「覇矢魚(ハヤナ)だ。矢のような勢いで泳ぐからこの名がついた」
「食べられるの?」
「無論だ。塩をして焼くと美味い。米の酒によく合う」
「へえ」
【そなたが美味と言う表現を用いるは珍しきことよな。よほど好きと見える。――おお、そういえば、時折どこからともなく魚を手に入れてきては、それを肴に呑んでいることがあったな。これか】
「……ああ、時間があるとたまに来る。放浪の時間が長かったからかな、宿舎や飯屋で食事をしても落ち着けないことがあるんだ」
【そなたとともに神殿都市に腰をすえて早八年、なにゆえそなたのそのせっかちさ落ち着かなさはなかなか収まらぬのであろうな……】
「知るか。もともとこうだ、放っておけ」
「へえ、そうなんだ。でも確かに美味しそう。自分で釣ったらきっともっと美味しいよね。今日はこれを夕飯に食べるの?」
「たくさん釣れればな。せっかく来たんだ、お前の分も必要だろう」
「わぁ、ありがとう。うん、じゃああたしも頑張る!」
 釣竿を手にしたままぐっと拳を握り、櫻良が宣言すると、水を張った木の桶に魚を放り込みながら、ジーンはかすかに笑ってうなずいた。
「ああ、期待している」
 やはり機嫌がいいと判る声に、えへへーと馬鹿みたいに笑ってみせ、ジーンのために食いつけ魚! などと魚には迷惑極まりないことを胸中に思っていると、不意に頭上から光が差した。
 光を受けた川面が宝石のようにきらきら輝き、その美しさにちょっと見惚れてから振り向くと、夜明けの、朝一番の太陽が、シェリア花丘からゆっくりと顔をのぞかせていた。
 さわやかな匂いを含んだ清涼な風が吹き抜ける。
「わあ……」
 いつか家族で観た、海辺の初日の出にも優るとも劣らぬ美しさだった。
 太陽は大きく、明るく強く――燦々と輝き、その光に照らされたすべてが、鮮やかな朝の目覚めと、この新しい一日への期待に声を上げているかのような錯覚を覚える。
 神殿都市でも、今頃は、人々の生活が始まっているのだろう。
 賑やかで鮮やかな、あの営みが始まっているのだろう。
「きれい。すごい。なんだろう、どうしてこんなに太陽が近く思えるんだろう。それなのに、どうしてこんなに光が優しく感じるんだろう」
 手にした釣竿のことをいっとき忘れ、櫻良は思わず歓声を上げた。
 終わりかけとはいえ今はまだ夏だと聞かされていたのに、この陽光は、確かに夏の強靭な、鮮やかな輝きをはらみつつも、何故か――どこかやわらかく、優しかった。包み込まれるような――慈しまれるような、ふんわりとした感覚を覚える光だった。
「……世界が喜んでいるからだろう」
 ぽつりとしたつぶやきは、ジーンのものだ。
「なに、ジーン?」
 何のことだろう、と振り向くと、いつもそうしているのか、川の中に踏み入って釣りを続けていた――そういえば、テレビなどで見た川釣りの名人は、みんな川の中に入っていたような気がする――ジーンが、
「お前の訪れを、世界が歓迎している」
 端的にそう言った。
「んー……」
 櫻良は首を傾げるしかない。
 それではまるで、世界そのものに意志があるようだ。
「あたし、よく判んない」
「――……それでいいと思う」
「え?」
「廃棄世界の民には、戸惑うことも多かろうが」
「うん」
「それらもじきに、身を持って理解できようから」
「…………うん…………」
 当然のように言われたそれに困惑し、そんな大層な存在ではないと胸中に溜め息しつつも、ジーンがそう言うならまっとうしよう、受け入れてみようと思う自分がいる。
 もちろん、そのことにもまた戸惑うけれど、不安は感じなかった。
 この都市が、――ジーンが、自分を裏切らないということを、同じく自分もまた都市やジーンを裏切ってはならないということを、滞在二日目にして、櫻良は漠然と悟っていたからだ。
 そう、まずは目の前にある道を、こわごわでもいいから進んでみよう、というのが櫻良の出した結論だ。
「うん……だから、まずは魚釣り、頑張ろう」
 つぶやいて、釣竿を握り直す。
 楽天的でいられるのなら、それに越したことはない。