――時間は流れ、そろそろお昼というところ。
「ううう……」
 櫻良は、釣竿を手に唸っていた。
 さんさんと降り注ぐ、強靭だがやわらかな陽光に背を温められつつ、足元の川面を睨みつける。
 気温が上がってきた十時ごろから踏み込んだ川の、きらきらと清らかな水はひんやりと冷たく、水の肌触りは滑らかで心地よかったが、それで胸中の悔しさがなくなるわけでもない。
「なんで……」
 ぷくっ、と、子どもっぽく頬を膨らませ、つぶやく。
「なんで一匹も釣れないの、もう!」
 地団太を踏むような勢いで言うと、背後で夜歌がブルルッと鼻を鳴らした。苦笑したらしい。
「ジーンはあんなにたくさん捕ったのに! ……やっぱり下手なのかなぁ。初心者お断り、って感じ?」
 そう、櫻良は、途中、八時ごろだろうか、チーズとハムと玉葱のスライスが挟まれたサンドイッチを食べ、蜂蜜が入った甘酸っぱいレモン水を飲んだ以外、休憩もなしで釣竿を握っているのに、まだ、一匹の釣果も上げられていないのだった。
 しかし、すでに釣竿を片付け、櫻良のためだろう、昼食用のお茶を準備しているらしく、河原の石で小さなかまどを作って火を熾しているジーンのバケツ、無造作に置かれたその中には、二十匹以上の魚が泳いでいた。
 覇矢魚と呼ばれた銀色のものが数匹と、山恵(ヤマメ)という名の茜色をした魚や、衣尾(イオ)という名の絹のようなひれを持ったものなど、色とりどりの魚がまさにぎゅうぎゅうと詰め込まれた状態だ。
 よほど手馴れているのだろう、十分から二十分に一匹の割合で魚を釣り上げていたジーンに比べ、櫻良にはまだ一回も引きが来ていなかった。
 気づくと餌は取られているので、魚がいないわけではなく、櫻良が『引き』の感覚の何たるかを理解しておらず、魚との駆け引きができていないということなのだが、釣竿を握ったのも生まれて初めてという超初心者の櫻良にその辺りが判るはずもない。
 これでは、自分の釣った魚をジーンに食べてもらうという、ちょっとときめく野望が台なしだ。ついでに料理の腕も披露してみようと思っていたのに、それも妖しくなってきた。
「ううっ、こんなことなら釣堀とか行って練習しておくんだった……!」
 呻くと同時に、前方で魚がはねた。
 ――もしかして、馬鹿にされてる? などというマイナス思考が沸く。
「なんだ、そんなに釣りたかったのか。案外負けず嫌いだな」
 簡易かまどに小さなやかんをかけながらジーンが言う。
 何故櫻良が魚を釣りたいのか、何故そんなに頑張っているのかには思い至らないようだ。――出会って二日で、そちら方面に関してはすでに期待もしなくなっている櫻良だが。
「だが、午後の茶の時間には、神殿上層部の人間たちがお前に会いに来る。昼食を摂ったらそろそろ帰る準備をしなくては」
「え、あ、そうなの? うー……でも、せめて一匹……」
 未練がましく、恨みがましく水面を見遣る。睨んだところで魚が釣れるわけではないが。
 ――と、不意に、その水面に、さっと大きな影が映り、
「えっ……?」
 櫻良は驚いて空を見上げた。
 そして、大きく目を瞠(みは)る。
「!」
 そこには――どんなに手を伸ばし背伸びをしても届きそうもない、高い高い空の真ん中には、巨大で優美な身体と、長い首と尻尾、白銀に輝く鱗と翼、真珠色の鬣(たてがみ)を持った、トカゲや恐竜を大きく美しくしたような生き物、いわゆるドラゴンの姿があった。
 あまりに高い空を飛んでいるので正確な大きさは判らないが、白銀の鱗の周囲を楽しげに飛び回る鳥たち、鋭い嘴(くちばし)を持った、明らかに猛禽と判るそれらが豆粒のように見えるところからすると、十メートルや二十メートルではきかないように思える。
「わぁ……」
 櫻良は思わず、その巨大さ美しさに感嘆の声を上げた。
 白銀の鱗が陽光を受けてきらきらと虹色の光を反射する、幻想的な光景に溜め息が漏れる。
 こんな風景を、櫻良は、今まで一度たりと観たことがなかった。地球と呼ばれ、廃棄世界と呼ばれる櫻良の故郷には、こんな光景はありえなかった。
「すごい、きれい」
 だからこそ、感動は大きい。
 まさか、いわゆる空想上の生き物と思っていた存在を、実際に目にする日が来るとは思ってもみなかった。
 その美しさは、櫻良の胸にしみた。
 世界とは、生命とは美しいものなのだと、今更のように納得する。
 竜は悠然と空を旋回し、ジーンのものとよく似た黄金の穏やかな目で、地上を一瞥すると――その黄金と目が合ったような気がするのは櫻良の錯覚だっただろうか――、鳥と蝙蝠の中間のような、巨大で優美な翼を大きくはためかせ、更に空高く舞い上がった。
 まさかその羽ばたきの所為ではあるまいが、胸の奥が清涼になるような薫風が、櫻良をふわりと包み込む。
「……あれは碩竜王(セキリュウオウ)じゃないか? こんなところまでやって来るとは、珍しい」
 立ち上がり、同じように空を見上げたジーンが、淡々とした平素の声にわずかな驚きを含ませてそう言った。
 櫻良は首を傾げてその名を反芻するが、まったく字が浮かばない。
「せきりゅうおう?」
【神獣の一派だ。竜族を統べる四櫂(シカイ)の王の一体だな】
「ってことは、夜歌の仲間?」
【仲間と呼ぶには高貴すぎるな、あれらは。神獣と言いつつ吾らは獣に近いが、あれらは神に近い。吾らは千年しか生きぬが、あれらは一万年も十万年も生きると聞くぞ】
「うーん、千年生きる時点でものすごいと思うよ、あたしは。想像もつかないもん。でも、そっかー、すごいもの観ちゃったー。なんでここまで来たんだろうね、すぐに帰っちゃったみたいだし」
【はて。本来竜族は、その強大な力のゆえに、あまり人間と深く関わろうとはせぬのでな、このような人里近くに降りてくることは稀なのだが。降りてきたとしても、ヒトの気配を察知して近づいては来ぬ】
 夜歌が馬の首を器用に傾げてみせる。
 と、不意にジーンが、
「……ああ、そうか」
 深い納得を含んだ声を上げた。
【いかがいたした、ジン】
「櫻良を観に来たんじゃないのか、もしかして」
「へ? なんで?」
【おお、確かに。竜は誰よりも世界の理(ことわり)に近いゆえな、《女神の灯火》の訪れに逸るのも判らぬでもない】
「……なんか、《女神の灯火》ってすごいんだねー。ほんとに全然まったく実感ないんだけど、あたしがそうなんだって思うと変な感じ」
「碩竜王が来たとなると、じきに残り三体も来よう。きっと神殿都市も華やぐ、それはとても喜ばしいことだ。――ん、櫻良」
 美しい口元に美しい微笑をたたえたジーンが、櫻良の手元を見て、彼女を呼んだ。
「え、なに?」
「引いている」
「え?」
「竿を観ろ」
「えっ、あっ!」
 ジーンの言に慌てて竿を見ると、確かに先端がぴくぴく動いている。
「よしっ!」
 ぱっと顔を輝かせた櫻良が、ここぞとばかりに――タイミングも駆け引きも関係なしに――竿を引っ張った瞬間、ものすごく重たい手応えがあって、櫻良は思わず川の中に突っ込みそうになった。
「うわっ、わ、わわわ……っ!?」
 つんのめりかけた身体をなんとか立て直し、脚に力を入れて踏ん張る。
 ぐいぐいぐいっ、と、強烈な勢いで竿が引かれた。
 オレンジ色の浮き、目印代わりのそれへ目をやると、白くて大きな何かが確かにかかっている。
「櫻良、手伝いは要るか?」
 ジーンの声に、櫻良は首を横に振る。
「いい、自分で釣ってみたいから! 応援しててっ」
「ああ、判った。では、私はここで観ているから、頑張れ。相手をいかに疲れさせるかが決めてだ、じっくり落ち着いてやれ」
「うんっ!」
 ジーンの激励に威勢よく答え、櫻良は再度釣竿に意識を集中させる。
 必死に逃げようとしているのだろうか、獲物は右へ左へものすごい勢いで暴れまわり、折れてしまうのではないかというほど竿をしならせた。
 相当な怪力の、大物だ。
「ううーっ、重い、早い、なんか、手応えがすっごく硬い! なんなのこれっ!? 魚って、こんなに強いものなの!?」
 こんな大物が、初心者の自分に釣れるのかという後ろ向きな意識が一瞬根差したが、魚一匹釣り上げられないような、こんなところであっさりくじけ、諦めてしまうような心の弱さでどうする、と、櫻良は自分を叱咤して、釣竿をきつく握り締める。
 ぐんっ、と引っ張られる竿が折れないように、そして糸が切れないように、細心の注意を払いつつ、獲物が疲れ果てるのを辛抱強く待つ。
 ここまでの集中力を、地球、廃棄世界にいたときに発揮したことがあっただろうか、と、自分でも驚いたほどの真剣さだった。
【……ジン】
「うん?」
【この川に、あのように力の強い魚がおるのか?】
「残念ながら釣ったことはないな、そういえば」
【…………】
「悪い気配はしていないぞ?」
【そのくらいは存じておるが。嬢は貴い灯火で、廃棄世界の民だぞ。このような、慣れぬことをだな……】
「それが彼女を危機に陥れる悪意なら私が戦おう。我が名と我が剣において、いかなるものであっても殺してやろう。守り手とはそういうものだろうからな。――だが、それが櫻良自身が挑みたいと願う戦いなら、その試みが彼女を高め、強くするというのなら、こうして見守ることも悪くはないだろう」
【……】
「ん、どうした、夜歌。急に黙って」
【うむ……いや、そなたがかようにまともなことを口にするとは、もしや救世の時と見せかけて世界滅亡の兆しでは、と……】
「まともでなくて悪かったな。どうせ碌でもない、なり損ないの東方人だ。放っておけ」
【そこで拗ねるでないわ。――だが、まァ、櫻良の訪れは、守るべき存在を得たことは、そなたにとっても佳(よ)き機会よな。果たせなんだ誓いも、ここで昇華すればよいのだが】
「……ああ」
 ひとりと一頭が交わす、苦笑とわずかな痛みが含まれた意味深な言葉も、そのときの櫻良にはまったく聞こえていなかった。
 今の彼女の思考を占めるのは、いかにしてこの戦いに勝利するか、それのみだった。
「むむむ……」
 経験もスキルもまるで足りない彼女にできることは、竿から伝わってくる獲物の様子に全神経を集中させて、押したり引いたりを慎重に繰り返すことだけだったが、しかしそれは、実を言うと、釣りにおけるもっとも大切な動作なのだった。
 ――やがて、釣竿から伝わってくる感覚が、獲物が徐々に疲れ始めたことを教える。
 縦や横に糸を引く力が弱まってきたのだ。
「よしっ」
 チャンス、とばかりに竿を引き、糸を手繰り寄せる。
 ばしゃん! と、獲物の尻尾が水をはねあげた。
 白い光が目の端をよぎった――ような気がした。
 ほんの少し、櫻良と獲物との距離が縮まる。
 川面が鏡のように陽光を反射する所為で、あまりよくは見えないのだが、獲物のサイズは、おそらく三十センチから四十センチ。
 海の魚としては、普通サイズとまでは行かないだろうが、大きすぎることもない。しかし、川魚としてはかなりの大物だ。
 この大きさなら、料理に使うにしても申し分ない。
 希望が見えてきたことにやる気をかき立てられ、
(なにが何でも釣り上げる! 絶対に負けない!)
 心の中で自分を誇示し叱咤した櫻良が、もっと踏ん張りやすいように体勢を整えようと、よく考えもせず――確認もせず、右足を一歩分後ろへ移動させ、体重をそちらへかけた瞬間のことだった。
 ――そのとき櫻良は、何が起きたのかさっぱり判っていなかった。
 ほとんど他人事のように、スローモーションで、世界が傾くのを観ていた。
 それが、自分の右足が川底の石と石の間に出来たくぼみのようなものにはまり、コケのぬめりもあいまって、見事にバランスを崩した所為なのだ、と櫻良がようやく理解したのは、
「櫻良!」
 鋭い――しかしどこまでも美しい声で彼女を呼んだジーンが、目にも留まらぬと表現するのが相応しい速度で、水を蹴散らすようにして走り寄ってきたのを――そして、今にも水中に引っ繰り返ろうとする櫻良の背中を右腕で支えたのを――目にした辺りでだった。
「じー……」
 ジーンの名を呼ぶだけの猶予はなかった。
 世界は傾き、歪んだままだった。
 ジーンは確かに、その常人離れした脚力でもって彼女の元へ辿り着き、櫻良がなすすべもなく後頭部から水没する危険は防いでくれた。背中に回された、力強い、温かい腕に、櫻良の胸が騒いだのも事実だ。
 しかし、全力で突っ込んできて櫻良の身体を支え、自分も体勢を整えてきちんと立つには、彼もまた勢いがつきすぎていたのだ。おまけに、不幸なことに、ジーンは、すでにサンダルを履いていた。
 熟練の神殿騎士も、川床の、やわらかなコケで覆われた滑りやすい場所を、滑り止めも何もないサンダルで全力疾走することは慣れていないらしい。慣れていてもびっくりするが。
 ……有り体に、結論だけを言えば、結局ふたりは、折り重なるようにして川の流れの中にダイブする羽目になった。
 ばしゃーん、という、盛大で、派手で、間抜けで、底抜けに暢気な水音がして、水飛沫が辺り一面に飛び散り、陽光を受けてきらきらと輝く。
「っきゃーっ!?」
 間抜けな悲鳴とともに、盛大に引っ繰り返った櫻良だったが、背中から伝わってくる感触は川底の石のそれではなかった。何より櫻良は、結構な勢いで転んだはずなのに、少しも痛みを感じていなかった。
 もちろん、思いっきり川にはまったことに変わりはなく、服は身体に張りついているし、あちこちが冷たいが。
「……あれ?」
 背中が伝えてくる感触、温度のあるやわらかなそれに首を傾げ、ゆっくりと身体を起こすと、いっそ見事なまでに、ジーンが下敷きになっていた。
「じ、じじじ、ジーンっ!? きゃー、ごめんなさい、大丈夫っ!?」
 どのくらい見事にかというと、全身が水につかっていたほどだ。
 頭の天辺まで水没している。
 そこまで水没されると、ある意味器用だとすら思う。
 思うが、それはすべて櫻良の所為なのだ。
「……」
 大慌てで櫻良がジーンの上から飛び退くと、無言のまま身体を起こしたジーンが川床に胡座をかき、深々と溜め息をついた。浅いといっても櫻良の膝を越す辺りまでの水位があるので、胡座をかくと腹まで水没するのだが、お構いなしだった。
 それから、白くて武骨で美しい右手で顔を覆う。
 ぐっしょり濡れそぼり、雫を滴らせる漆黒の髪が、白い額やすっと滑らかなうなじに張りついている様などは妖艶ですらあるが、今の櫻良にはそれどころではない。
「あの、ジーン……」
 もしや機嫌を損ねたのでは、と、櫻良は恐る恐る声をかける。
 もう帰ろうといわれていたものを延々と粘った挙げ句、自分だけならまだしも、ジーンまで巻き添えにしてしまったのだから、ジーンが怒っても当然ではあるのだが。
「……」
 ジーンは答えない。
 櫻良は思い切り不安になった。
 こんなことで嫌われたくないという意識の元、土下座でもして謝ったほうがいいのか、と、もう一度ジーンの名を呼ぼうとした櫻良は、彼の肩が小刻みに震えていることに気づいて首をかしげた。
「あの……?」
 どうしたのかと問おうとするよりも早く、くっくっという、低い笑い声が聞こえてくる。
「ええと……ジーン?」
 ――――ジーンが、声を上げて笑っている。
 思わず夜歌を振り仰ぐと、夜歌も少し驚いたような顔をしていた。
 馬のままなので、なんとなく、だが、間違ってはいないと思う。
「いや……うん、なんでもない……」
 なおもくすくす笑いながら、ジーンが首を横に振り、そして顔を上げる。
 陽光を受けた黄金の目が、やわらかな喜悦を含んだ美しい双眸が、きらりと輝いて櫻良を観る。
 櫻良の胸を、どうとも言い難い感情が吹き荒れる。
 それは恋しさであり切なさであり、諦めであり憤りでもあったが、何よりも激しく彼女の胸をかき乱したのは、強い強いいとおしさだった。ジーンの心がどこを向いていようとも、これが叶わぬ恋であろうともまったく関係なく、ただただひたすらに、ジーンを愛しいと思う気持ちだった。
 出会って二日目などという、時間的な感覚など、その感情の前にははてしなく遠い。
(ああ、あたしはジーンが大好きだ)
 つまるところ、それが事実で、すべてなのだった。
「……櫻良、お前は」
 肩をかすかに震わせ、笑っていたジーンが、不意にそう言ったので、櫻良はどきりとして彼を見下ろした。
「え?」
「――――面白いな」
「???」
「……いや、何でもない、忘れてくれ」
「う、うん……?」
 何やら要領を得ないジーンの言に、櫻良のクエスチョンマークは増える一方だったが、ざばり、という水音とともに立ち上がったジーンが、あちこちから水滴を滴らせながら、
「さて、これだけ濡れては続行は不可能かな。おとなしく帰って、着替えよう。もう、昼飯も帰ってからにしよう。この気温だ、風邪など引きはすまいが、念のためだ」
 そう言ったので、素直に頷いた。
「うん。ごめんね、ジーン。巻き添えにしちゃって」
「なに、それを言うなら詫びるのは私の方だ。私が至らぬばかりに、お前に冷たい思いをさせたな」
「ううん、そんなことない、ジーンのお陰であたし、転んだけど痛くなかったもん。ありがとう」
「――どういたしまして、か、この場合は」
「うん、そうだね。じゃあ帰ろうか、魚に逃げられちゃったのはざんね……あれ?」
「どうした、櫻良」
 転んだ拍子に手放してしまった釣竿を思い出し、魚は逃げてしまっただろうとそちらへ目をやった櫻良は、真っ白ななにものかが、水につかった釣竿の傍からこちらを見上げていることに気づいて沈黙した。
 ――それは明らかに魚ではなかった。
 同じく、その白いなにものかに気づいたジーンが瞬きをする。
 きょとんとした、と表現するのが一番正しいかもしれない。
「夜歌」
【うむ】
「私が観るに、あれは」
【仙竜(せんりゅう)の仔(こ)であろうな】
「擁竜王(ようりゅうおう)縁(ゆかり)の小竜が、何故釣り針にかかる」
【吾に訊くでないわ、そのようなこと】
「ええと……話の内容からすると、あれって、竜?」
「の、子どもだ」
 櫻良が白い何かを指差して問うと、頷いたジーンが付け足す。
 櫻良に指差されたそれは、小柄で俊敏そうな純白の身体に青銀色の鬣(たてがみ)、鮮やかなオレンジの眼と、銀色の小さな爪を持った四肢の、トカゲのような生き物だった。
 そもそもトカゲに鬣はないが、トカゲと明らかに違うと判るのは、純白の鱗で彩られた額に、三つ目の目が張り付いていることと、長い尻尾の先が白い光を放っているからだ。
【……針にかかったのではなく、自分から糸に食いついておったな、こやつ】
「の、ようだ。仙竜と言えば確かにこの辺りを回遊する一族だ、群から離れて遊んでいただけか」
【竜の仔は好奇心が強いゆえな】
「えっ、てことは魚だと思って頑張っちゃったあたしって一体!?」
【……まァ、よいではないか。竜が釣れるなぞ、そうそうないことだぞ】
「釣れたって言っていいのかな、これ。……っていうか、釣れたのが竜じゃ食べられないし!」
 ジーンに自分で釣った魚を料理して食べてもらうという計画がもろくも崩れ去り、櫻良は打ちひしがれて(誇張)頭を抱える。
 といっても、さすがに、あのトカゲもどきを料理する気にはなれない。
 トカゲの料理法が判らないというのもあるが、こちらを見つめる三つのオレンジが思いのほか理知的で、もしかしたら言葉くらい通じちゃうんじゃないだろうか、そんな相手を食べるのはもしかして極悪非道なんじゃないだろうか、という意識に囚われてしまったのだ。
 あーあ、と、がっかりした櫻良が、水を吸って重たくなったワンピースの裾を絞りながら深々と溜め息をつくと、櫻良を見上げていた小竜が、可愛らしい声でキュッと鳴き、オレンジ色の目をくりくりと表情豊かに動かしてから、竿を加えて櫻良の傍へ泳ぎ寄って来た。
 銀色の小さな爪が水をかく様などは大層可愛らしい。
 そして、口にくわえた釣竿を、櫻良に向かって差し出す。
 櫻良は何度か瞬きを繰り返したあと、それを受け取った。
 また、竜がキュッと鳴く。
「あ、ありがと……」
 戸惑いつつも礼を言い、その小さな頭を軽く撫でてやると、小竜はそれを喜ぶようにキュウと声を上げ、先端に光のともった尻尾でパタパタと水面を叩いた。
 愛らしい仕草に櫻良が微笑むと、すっと首を伸ばした小竜は、櫻良の指先に恭しくキスをして――としか思えない動きだったのだ――、深々と頭(こうべ)を垂れたのち、川の流れの中へ身を躍らせ、あっという間に遠くへ泳ぎ去っていった。
 純白の、一本の線となった小さな竜が、滑らかな動きですっと遠ざかるのを、櫻良はぼんやりと見送った。
「――なるほど」
 不意にジーンがつぶやく。
「あれもまた、双女神の門が開かれたこと、その鍵の存在に気づいてここへ来たのか」
【ああ……《女神の灯火》は人間の希望だが、しかし、それと同時に世界に秩序をもたらすものでもある。人間以外の存在が、灯火の訪れを喜ぶのも頷けるというものだ】
 夜歌の言葉にかすかに頷き、ジーンは櫻良に手を差し伸べた。
「……櫻良」
「うん」
「帰るか」
「――うん」
「面白いものを、観たな」
「そうだね、ふたつも観た」
「この世界には、ああいう神秘の生き物がたくさんいる。彼らは物静かで、穏やかで、親切だ。また、会いに行こう」
「うん、楽しみにしてる」
 何故かとても穏やかな心持ちの中、櫻良はにっこり笑ってジーンの手をとった。
 白く、長く、武骨で美しい、力強い手は、やはり暖かかった。
「ジーン」
「ん」
「ありがと」
「何がだ?」
「ここに連れて来てくれて」
「……ああ」
「あたし」
「ああ」
「今日、ジーンと一緒に、ここに来られてよかった」
「――――そうか」
 櫻良の言葉に、また、ジーンが微笑をこぼす。
 それは美しく、穏やかで、どこか幼かった。
 その笑顔を観られたこともまた、櫻良には得難い幸運だった。

 もちろん、募るばかりの恋心に、戸惑わないわけではないのだが。