7.犬と氷

 原初の異界より来(きた)った少女は、眠りにつく瞬間まで、かれの服の裾を掴んで放さなかった。
 彼女は、眠くて眠くて仕方がないといった表情で、時折目をこすりながら、今日は楽しかった、とても嬉しかったと、何度も何度も繰り返し、また行きたいね、行こうねと、やわらかく……幼く笑った。
 それはひどく無垢で、平らかだった。
 十年の歳月を経て、ようやく訪れた平和の象徴そのものだった。
 この十年、魔族と魔物の横行によって、神統世界は――人間たちは、たくさんのものを失っていたが、それもじきに癒されていくことだろう。
 《女神の灯火》とは、そういう存在なのだから。
 下等な魔物に襲われていた少女が廃棄世界からの迷い人だと知った瞬間から、廃棄世界民と並々ならぬ因縁を持つかれは、何があっても彼女を守らなくてはならないと、半ば刷り込みのように思っていたが、まさか彼女が《女神の灯火》だとは想像できなかった。
 それくらい、稀有な事例だったのだ。
 しかし、少女がすべての始まりたる地より来って二日、たかだか二日間で、その存在は、彼女が廃棄世界民だから、貴い灯火だからという以上の意味合いを含みつつあった。
 少女が眠りに落ちると同時に、彼女の小さな、戦いや辛い労働を知らぬ滑らかな手は、かれの黒い衣装からするりとほどけてブランケットに収まった。その、どうとも言い難い感慨、奇妙な感覚は、かれが生まれて初めて味わう類いのものだった。
 ――――かれは不要な存在だった。
 この世に生れ落ちた瞬間から、赦されぬ存在だった。
 そのためにかれは、まだこどもと言って間違いのない時期に、ただひとり、故郷を離れたのだ。
 今更それをどうこう言うつもりはない。
 故郷に恨みはないし、執着もない。
 ただ、二度と帰ることはないだろうと思うだけだ。
 そういう運命だったのだろうと思うだけだ。
 故郷を離れて五十年、西大陸を巡る旅の途中、様々な廻り合わせの結果この場所で神殿騎士となり、ジーン・ヴィ・ダブルリーフという西大陸風の名を与えられて八年。
 その間、生まれてから今に至るまでずっと、異端の、異質の、変異のと呼ばれ続けてきたかれにとって、こんな風に何の屈託もなく、何の恐れもなく笑顔を向けてくる人間は稀有だった。
 戸惑いすら感じるほどに。
 そして、過去の記憶に責められるほどに。
「……」
 ジーンは黙ったまま、穏やかな顔で眠る少女を見下ろす。
 櫻良は小柄な少女だった。
 小柄で、可愛らしい少女だった。
 東大陸人の常で、西大陸人と比べるとやや背の低いジーンより、頭ひとつ分は小さいだろう。
 それでも、櫻良は決して弱々しくはなかった。彼女の小さな身体に秘められた、弾むような躍動感と、瑞々しく鮮やかな――強靭なエネルギーを、ジーンは感じ取ることが出来た。
 きっと、故郷――かの原初の廃墟たる始めの世界では、家族や周囲からたくさんの愛を与えられてきたのだろう。
 それゆえの、靭(つよ)さなのだろう。
「……」
 彼女のその屈託のなさは、ジーンに、はるか昔に失ったとある友人を思い起こさせ、それを懐かしませたが、同時に、重く深い悔恨を胸の奥底から揺さぶり起こし、かれを更に沈黙させた。
 慣れぬその感覚に困惑していることは確かだった。
 そんな気持ち、筆舌に尽くしがたいそれが、自分の中に存在するのだということすら、ジーンは知らなかったのだ。
 純粋な眼差しを向けて来る櫻良に――彼女の屈託のない言動に、常日頃の調子を狂わされても仕方がないが、ジーン自身、それを嫌だとは、不快だとは思っていない。
 そんな自分自身もまた稀有だと、かれはひっそりと思う。
 ――何にせよ、今、ジーンがなすべきことはひとつだけだ。
 それだけが、今のジーンが負う責務だ。
 ふっ、と溜め息をひとつつき、ジーンは櫻良が眠るベッドから離れた。
 扉の外に、誰かが来ていることに気づいたのだ。
 恐らく……間違いなく、用事の相手はジーンだろう。
 やわらかな絹の夜着に身を包んだ彼女が、穏やかかつ安らかな表情で、静かな寝息を立てているのを確認してから、小さな光が白々と輝く華奢な銀のランプに息を吹きかけ、その火を消す。
 そのあと、星と月の光が差し込むこの部屋、歴代の《女神の灯火》が披露目の式典までの時間を過ごしてきたこの場所から、ゆっくりとした足取りで出てゆく。
 世界が、空気が、夜が、静けさと穏やかさを増していることを、ジーンは身を持って理解していた。
 ――その功労者が、誰であるのかも。



 部屋を出ると、案の定、扉の傍に女性が控えていた。
 胸元に、シンプルだが流麗な花の刺繍がされた白い衣装は、双神宮内部の業務を取り仕切る女官の制服だった。
 《女神の灯火》の眠りを邪魔してはいけないと、自ら声を上げるようなことはしなかったのだろう。双神宮の住人たちとは、そういうものの考え方をする連中だ。
 ジーンが、黄金にも琥珀にも見える双眸で彼女を見遣ると、女官は恭しく一礼してから口を開いた。
「表で、第三部隊の方々がお待ちです、ジーン様」
 静かに告げられたそれに頷き、女官に、恐らく双神宮に来ているであろう副隊長への伝言を頼んでから門へと向かう。
 神子姫の絶対的な統制下にあり、世界の平和を担う《女神の灯火》のために存在すると言って過言ではないこの双神宮は、基本的に男子禁制だ。
 この神統世界を守護する偉大な双神、創造神桃華と生命神天華に仕える神官の中には無論男子もいる。割合でいえば半分ずつぐらいだが、双女神の遺物とも呼ばれるこの双神宮に足を踏み入れられるのは女性神官だけだし、その女性神官に仕える侍従も女性だけだ。
 当然、双神宮内部を守護するのも女性騎士もしくは女性神武官だけということになる。
 いかに厳しい規律と制約とに縛られ、自らを誓いによって律する神官、騎士と言えども、男という性が世界一貴い姫君である《女神の灯火》に何らかの不都合、不具合を与えてはいけないと、もう何百年も何千年も前からそのように決められているのだ。
 一般には男性と見なされ、自分もまたそう振る舞っているジーンが、双神宮内部へ入ることを赦されているのは――かれがここにいても誰も何も言わないのは、かれが性別というものを超越し、女性に不埒な行為を働く可能性を一切持たない東方人だからという理由もあるが、双神宮を棲みかとしている神殿都市の主、神子姫フォウミナに、よく問答無用で呼びつけられるため、というのが一番大きい。
 もちろん、フォウミナの棲みかだけあって、ここの安全性に疑問を差し挟む余地はなく――なにせ神子姫フォウミナは世界最強の女だ――、そういう意味では、櫻良の身の安寧は完璧に守られている。
 男だとか女だとか、そういうカテゴリでものを見ることのないジーンにとっては、それさえ確実ならば他に言うことはないのだ。
 しかし、他の男性騎士がここに近づけないことに変わりはない。
 不便であることも確かだ。
 誰かが、何かの用事で来たのだろう。
 午後十一時を大幅に回った今の時間から言って、あまり碌でもない用事だ。
 常に血と戦いと共にあるがゆえに、思い当たる節を幾つも持っているジーンが、どれだろうかと脳裏に思い描きながら双神宮を出ると、門の向こう側には、数人の男性騎士の姿があった。
 四人は神殿騎士団第三部隊の制服を、ひとりは神武官の制服を着ている。
 五千人もの隊員を率いている関係上というよりも、覚える気がないという理由で、第三部隊に所属する騎士の顔と名前をほとんど覚えていない駄目部隊長のジーンだが――実際、団長ネイクなど、第一第二第三部隊合わせて二万五千人の正規騎士のみならず、準騎士や騎士見習の顔と名前までもが完璧に一致する――、彼らには見覚えがある。
 というより、ほぼ直属に均しい大隊長クラスや、近しい神武官すら覚えられないような貧弱な記憶力では、さすがに部隊長は務まらないだろう。
「――ユイ・スカイツリー。ハルベルト・フェイス。エツカ・ハウンド。ルヴァ・グレイエコー。それに……タクス・ピースウッドか」
 ひとりひとりの名を呼んだジーンが彼らを見渡すと、色彩も顔立ちも様々な男たちが、統制立った動きでその場に膝を折った。
「ご報告に上がりました」
 その中のひとり、短く切り散らした黒髪と、闊達な光を宿した表情豊かな灰瞳を持つ長身の青年、ユイ・スカイツリーが口を開く。
 他の四人が黙っているのは、ジーンが、いちどきに方々から話されても内容を認識出来ない、覚えられない駄目な部隊長であることを、すでに身をもって経験し、理解しているからだ。
 ちなみにユイ・スカイツリーは、第三部隊第一大隊、総勢五百人を率いる大隊長だ。第一第二部隊と比べて人数が少ない分、ひとりひとりが高い戦闘力を求められる第三部隊内では、ジーンやケーニカに次ぐ実力の持ち主で、たったひとりで数十人の盗賊を殲滅し、規模の大きい魔物たちとも対等に渡り合う猛者である。
 神殿騎士となって六年、第一大隊長に大抜擢されてわずか一年、まだ二十二歳と若いが、第二部隊副部隊長アーティス・ケイプの直接の後輩でもあり、民のために身を削って悔いない姿勢と、裏表のない、物怖じしない明るい性格から、ジーンやケーニカからは絶対的な信頼を得ている青年だ。
「どれのだ?」
 様々な案件、多分に血みどろなそれらを抱えているジーンがそう問うたのは当然だったが、それに対してユイは、ああそうでした、と笑うと、
「昨日隊長が捕えて来られた賊の件です」
 と、端的に答えた。
 ジーンの眉がぴくりと動く。
「たかだか一日の責めで吐いたか。……容易いな」
「呆気なかったみたいですよ、担当した騎士によると。もっとも、他者から力で物を奪って悔いない連中などそんなものでしょう。他者の痛みに鈍感なものほど、自分の痛みには弱いものです」
「違いない。それで?」
「ああ、はい。ここから山を三つ越えたところにある、慎雨(しんう)の森はご存知ですよね?」
「ああ」
「その向こう側に山があるんですが」
「香玉山(こうぎょくさん)か?」
「それです。その、東へ少し入った位置に、水のない谷があるとかで、そこの奥に砦を築いているようです」
「総勢は?」
「およそ百五十人と聞きました。めいめいに情婦や娼婦を連れ込んでいるようですが、男は全員が戦闘員で、武装の質も悪くないようです。更に、飼い慣らした魔物を数頭から十数頭、番犬代わりに置いているとか。あの辺りはエス=フォルナの一都市、サイレアナの管轄ですが、その『番犬』たちのお陰で討伐も思うようには行かないようですよ」
「……ふむ」
 つぶやいたジーンが顎に手を当てたとき、背後に見知った気配が現れ、大隊長たちが再度一礼する。
「どうしますか、隊長」
 声はもちろん、ケーニカ・ヘッジのものだ。
 話は聞こえていたらしい。
「百五十人程度なら私ひとりでも何とかなるが、その、番犬と言うのが未知数だな。灯火がともったのちも存続し続けることの出来る魔物なら、魔族と同等に油断は出来ない」
「夜が明けてから一般騎士たちを派遣しても構いませんが、せっかく大隊長たちがいるわけですし、番犬対番犬でちょうどいいでしょう。月の綺麗ないい夜です、殲滅戦にはもってこいですよ」
「……そのようだ。お前たちもそのつもりでここへ来たんだろう?」
「はい。それに俺たちは、常日頃からジーン隊長の動向に目を光らせるよう、神子姫様から言い付かってますしね。隊長が暴走し過ぎなくてもいいようにお手伝いしますよ」
「……心配されているのか信頼されていないのか微妙なところだな、それは……」
 過保護なのか冷淡なのかイマイチ判らない神子姫の所業に、ジーンはぼそりとこぼす。
 彼女と知り合って五十年、彼女を主と仰いで八年、つきあえばつきあうほど恐ろしさを増す神子姫フォウミナだが、無論ジーンにとって、彼女がなくてはならぬ存在であることも確かだ。
 彼女がいなければ――彼女にそうと導かれなければ、ジーンは未だに、世界を放浪し続けていただろう。
「神子姫様は愛だと仰ってましたが。自分の、海より深い愛に驚嘆しろとも」
「……」
 ユイの言にジーンが沈黙すると、その隣で膝をついていた男、ただひとり神武官の制服をまとった彼が笑いをこらえるようにしながら口を開いた。
「私はリコ隊長から言い付かって参りました。ジーン様が暴走しすぎぬよう、多少なりとお手伝いするようにとのことでした。至らぬかとは存じますが、精いっぱい努めさせていただきます」
 きちんと整えられた濃い茶色の髪に淡い青の目をした彼は、タクス・ピースウッドという。
 神殿騎士でありながら神官も兼任するリコ・エス・フィールドの、神官としての彼女に仕える神武官で、ずんぐりした体型と穏やかな性質に似合わぬ剣の腕を持つ、リコが特に信頼している男だ。
 彼がここへ遣わされたのも、その関係だろう。
 タクスの言、つまりリコの命は、多分にフォウミナのそれと似通っていたが、神殿内の女性の中では最恐に位置するふたりに自分が敵わないことを正しく理解しているジーンは、特に何を言い募るでもなく、ひとつ大仰な溜め息をついてから小さく頷いた。
「多少疑問に思わなくもないが、今は素直にありがたがっておこう。では皆、準備を。そうだな……十分後に、北門集合だ」
 ジーンが淡々とそう言うと、大隊長四人と神武官ひとりは声をそろえて「了解」と返し、自分の武装と馬の装具を調えるため、めいめいに――素早く散って行った。
 かれの傍に残ったのは、第三部隊副隊長だけだ。
「……お前も行くのか、ケーニカ」
 ジーンの問いに、ケーニカは首を傾げた。
「不思議なことを訊かれますね。私が行かない道理がありません」
「……そうか」
「隊長?」
「いや……なんでもない」
「本当に何でもないなら、あなたがそんな妙なことを言い出すはずがないでしょう。そこで言葉を止められても気色悪いだけですよ」
「いや、……ああ」
 ジーンは微苦笑した。
 そのことに今更のように気づかされた自分をおかしく思い、また、それを気づかせたのが誰であるのかと、その存在を奇妙な感慨とともに思う。
「討伐のあとの血にまみれた手で、今夜も彼女を抱くのかと、それは彼女を傷つけはしないかと、そう思っただけだ」
 ジーンがそう言うと、ケーニカが明るい紺碧の双眸を丸くした。
 少女めいた容貌の所為で幼く見られがちな彼女だが、十歳という異例の幼さで神殿騎士となっただけにその胆力は並のものではない。
 丸腰で盗賊の根城に放り込まれても表情ひとつ変えない女だ。
 そのケーニカが目を丸くしたのだから、ジーンの言はよほど彼女を驚かせたらしい。
 無論、ジーンとて、人間として駄目な己を多少自覚はしているが。
「……あなたがそんなことを気にするなんて、天地が引っ繰り返るんじゃないでしょうね?」
「夜歌にも同じようなことを言われた気がするな……」
「それは、夜歌もさぞかし驚いたのでしょう。誰でも多分、この世の終わりを疑いますよ」
「まったく……どいつもこいつも……」
 あまりといえばあまりな言い様に、顔をしかめたジーンがぼそりとこぼすと、ケーニカはかすかに声を立てて笑った。
「心配ご無用、今日はもう、夜の挨拶は済ませてきましたから」
「……そうか」
「神殿都市を守ることがあの方をも守ることにつながるのですから、私は、あなたと同じく、血に穢れる自分を忌避はしません。神殿騎士ではない私は私ではありませんからね。あなたも、あの方も、それはご存知でしょう?」
「ああ。だが……誰よりもこの神殿都市のために尽くし、そして世界のために働く彼女が、これ以上重荷や穢れや悼みを負わぬようにと。――そんな気になっただけだ」
「ええ……私もそう思います。もっともあの方は、歯牙にもかけられないでしょうけどね、そのようなことは」
 肩をすくめ、事実を言う口振りで言ったケーニカが、ふと真摯な眼差しを向ける。
 明るい紺碧の双眸が放つ強い意志を、ジーンは表情の少ない黄金で受け止めた。
「――あなたがそんなことを言い出したのは、そんなことに気づいたのは、もしかして彼女のお陰ですか?」
「さあ……どうだろう」
「深く追究はしませんけどね」
「そうしてくれ。問われても、判らん」
「言うと思いました。やっぱり駄目な人ですね、あなたは」
「言われ慣れたな、それも」
 溜め息とともに言ってから、ジーンは歩き出した。
 ケーニカがその隣に並ぶ。
「夜歌は……いつもの酒場か」
「ええ、多分。灯火のともっためでたき世ですからね、ここしばらくは酒場も大賑わいでしょう」
「ふむ、違いない。酒が過ぎて、右も左も判らぬような事態に陥っていなければいいが」
「あの夜歌が酔っ払って前後不覚になるようでも、私はこの世の終わりを思いますけどね。では私はフィルセティーアを連れてきます」
「――ああ」
 凛とした後ろ姿を見送ったのち、腰の剣を確かめ、夜の空を見上げてから、女好きで酒好きの神獣を呼びに、ジーンもまた歩を早める。

 ――これこそが自分の本分なのだと、都市に禍(わざわい)をなす者に死を撒くことこそが自分の責務なのだと、魂の根っこが囁いている。