案の定、【鯨の髭】亭では、美しい女たちに囲まれた夜歌が、上機嫌で酒杯を傾けていた。
 彼女らは夜歌とは特に『親しい』関係で、中には人妻すらいると聴いたことがあるが、夜歌の『交友関係』に口を差し挟む気のないジーンにはどうでもいいことだ。
 その隣では、夜歌同様にたくさんの女に囲まれたヴァルレイズが、赤葡萄酒がなみなみとたたえられた銀色の盃を手に、彼女らや身なりも年も様々な男たちと談笑している。
 五十人ほどが入る【鯨の髭】亭の、十ばかりあるテーブルは、楽しげに盃を酌み交わす人々ですっかり埋まっていた。
 老若男女、様々な顔立ちの、様々な職業の人々が集う酒場だが、今このとき、客の表情は皆同じだった。
 そこに含まれているのは、安堵と歓喜と希望ばかりだった。
 灯火のともっためでたき世を謳歌する人々の――ようやく訪れた平和に歓喜する人々の描き出す、まるで精緻な絵のように鮮やかな光景だった。
 それは、この十年間、決して安穏と生きて来られたわけではない、大きな災禍を何度も経験してここまで辿り着いた彼らが、何度となく口にしてきた、希望の在りようそのものだ。
 エールの追加をする大声、何かを喜び合う笑い声、巻き起こる歓声。
 乾杯の音頭を取る陽気な声と、それに応じ囃し立てる声、打ち合わされるジョッキの音と、エールと葡萄酒と濃い蒸留酒の匂い、ジョッキを乾した人々がもらす盛大な呼気の音。
 あちこちへ注文を訊いてまわる少年、告げられたそれに大声で応える厨房の料理人、泡立つ黒エールがなみなみとつがれた、いくつもの大きなジョッキを運ぶ娘たち。
 大柄な女が、茹でたソーセージの盛り合わせと、色鮮やかな野菜とまるまる肥った海老の炒め物の大盛りと、馬鈴薯と玉葱を油で揚げた肴の皿を軽々と運んでゆく。
 安堵と喜びを含んだ喧騒に、まるで平和をそのままかたちにしたかのような光景に、ジーンの唇がほんの少しだけ緩む。
 よほどつきあいの深い者にしか判らぬ程度ではあれ。
 【鯨の髭】亭は、神讃大祭もかくやの賑わいを見せていた。
 ――――しかし。
 扉の入口近い席にいた男がジーンに気づき、
「あ……じ、ジーン様……!」
 畏怖と驚愕の混じった声でその名を呼ぶや否や――その名が周囲へ伝わるや否や、店内の空気が変わった。
 常に異端のという修飾語とともに語られ、番犬の中の番犬、神子姫の猟犬と呼ばれ、時に狂犬とすら称されるジーンの姿を目にした人々が、敬意と畏怖のこもった眼差しをかれに向け、沈黙してゆく。
 まるで潮が引くように――大風に麦穂が薙ぎ倒されるかのように。
 一瞬のことだった。
 周囲には、息苦しいほどの沈黙が落ちた。
 せっかくの憩いの時間を邪魔してしまったことを、多少申し訳なく思いつつ、方々から向けられる視線に、異端者とはこんなものだろう、と、胸中につぶやき、ジーンは、誰にも気取られぬほどかすかに苦笑したが、何を弁明することもなく、そのままゆっくりと歩を進めた。
 彼らを心底愛しつつ、彼らのために死ぬ覚悟でいる己を当然と思いつつ、彼らの中には真実入り得ない自分を滑稽にも思う。
 半端者のなりそこないとは、物心ついた瞬間から今まで、常々かれが感じていることだったが。
 ――どちらにせよ、なすべきことにかわりはない。
「夜歌、仕事だ」
 淡々と歩き、世界中で一番つきあいの長い神獣の元へ辿り着いたジーンが、抑揚のない声でそう告げると、酒杯を手にした夜歌は、盛大に顔をしかめたあと、深々と溜め息をついた。
 周囲の人々、ジーンの登場に思い切り固まっている男女に真紅の眼を向け、口を開く。
【友よ……なにゆえそなたはいつもいつもいつも、そのように、穏便な登場ができぬのだ……。皆が怖がっておろうが、まったく】
「誰を怯えさせようというつもりもないが」
【つもりがなくとも、事実そうなっておろう】
「……そうか、それはすまん」
 誰かを怖がらせようという意図の元に行動しているわけではないものの、店内の人々に沈黙を強いているのは自分だという自覚はジーンにもあり、そのように責められれば頷こうというものだ。
 ジーンが淡々と詫びると、夜歌はまた溜め息をついたが、彼の隣のヴァルレイズは苦笑して首を横に振った。
「ま、ダンナはそんくらいの方がらしいぜ、番犬らしくていい。それより、なんかあったかよ?」
「昨日北門を襲った賊の本拠地が知れた。今から殲滅に行く」
「なるほど、そりゃあんたの仕事だな。披露目の式典までに、無粋な輩は排除しておくに限る」
「そういうことだ」
【……灯火のともっためでたき世に、美しき夜に、なんとも無粋なことだ。人間とは、なにゆえかくも忙(せわ)しなく、学ばぬ生き物なのであろうな。まったく、嘆かわしい】
 やれやれという大仰な仕草と、三度目の溜め息とともに夜歌が言い、ジーンは小さく首を傾げて彼を見下ろす。
 どうやら彼は、今夜の仕事に乗り気ではないらしい。
「気が乗らないか。だが……そうだな、最近ほとんど不休で働かせたからな、それも判らなくはない。なら、厩舎で他の乗騎を探すことにしよう、お前は休んでいろ」
 そもそも、神殿都市のために働いてくれてはいるものの、夜歌は神殿騎士ではない。その稀有な力をもって、騎士団に貢献してはいるが、その規則に束縛されることもない。
 彼は神獣、世界の理(ことわり)に近く、人間よりも神々に近い神秘の生き物だ。神殿都市の、神殿騎士団の、――人間の誓いや規律に縛られねばならぬという法はない。
 夜歌は、神殿都市にとってはただの客分だ。
 彼はただ、ジーンの友として、ジーンへの友情のために――そこには、多分に溜め息まじりの諦めが含まれているようだが――彼自身がそうと望んでここに留まっているだけなのだ。
 つまり、本来彼は、いつでも、自分の意志でこの都市を出て行けるし、ジーンの乗騎たることを拒絶も出来るのである。
 それなのに、ここのところ、灯火不在による世の乱れのために激務が続き、夜歌より速く強靭な乗騎などこの世に存在しないと思っているジーンは、彼の善意につけ込むかたちでこき使ってしまっていた。
 事実、夜歌ほど速くなくては、神殿騎士団随一の斬り込み要員でもあり、討伐の先陣を切ることも多いジーンの乗騎は勤まらない。
 ジーンと夜歌の組み合わせは、それほど呼吸の合ったものなのだが、それはジーンの事情のみであって、そんな仕事が一年も二年も続けば、夜歌でなくとも嫌になろうというものだ。
 あまり自分の、神殿騎士の都合につきあわせるのも申し訳ない、と、そう言ったジーンだったが、その申し出に機嫌を直すかと思いきや、気難しい部分も少なくない神獣は、再び顔をしかめ、首を横に振った。
 しかめ顔というより、すでに渋面だ。
【戯(たわ)けめ、神獣たる吾以外に、がさつで乱暴なそなたの乗騎が勤まるものか。そなたのように無体な仕打ちをする乗り手では、貴重な乗騎たちが潰れてしまうわ】
「む、そうか。……ではどうしようか、私は別に、お前に無理をさせたいわけでもないんだが。一昨日までならともかく、今宵はすでに、双女神の守護の手の中だ」
 表情にはまったく出なかったが、夜歌の言に実は結構困って、顎に手を当て、ならもう徒歩で行くしかないか、不可能でもなし、などと算段していたジーンの耳を、またしても大仰な夜歌の溜め息が打った。
 それから、
【仕方がない、そなたにつきあうとしよう】
 低くて蠱惑的な声が、そう告げる。
 ジーンは目を瞬かせ、酒杯の残りを乾す夜歌を見下ろした。
 夜歌の、輝く真紅と目が合うと、胸を打つほど鮮やかな赤が、すっと細められる。
 他者を顔で判断はしないが、確かにこの神獣は美しいと思う。
 そしてそれと同じくらい、奇妙な生き物だとも思う。
 その人間臭さと、人間への近さを。
【五十八年間そなたの無体を聞き入れてきたのだ、それが更に一晩重なる程度、何ほどのものでもない】
「……そうか」
【だが、吾ほど親切で働き者の乗騎はおらぬ、ゆめゆめそれを忘れるでないぞ。この貸しは……そうだな、ダルフィアネ産の琥珀酒で返してもらうとしよう。無論、最上級のものだぞ】
「それ確か世界一高価とか言われてる酒の名じゃなかったか、夜歌。大層美味いらしいが、入手困難なうえに、千ルウナでもきかねぇって話だぞ。……あんま親切じゃねぇよな」
 夜歌の要求、エス=フォルナの隣国でわずかに作られる美酒の名を耳にしたヴァルレイズが苦笑したが、ジーンは首を横に振った。
「それでお前の背が一晩買えるなら安いものだ、早いうちに用立てよう。――では夜歌、行くぞ」
 放浪生活が長かったために、財にも富にも贅沢とやらにも興味のないジーンは、神殿騎士としての自分に支払われる給与にも一切頓着しておらず、お陰で金は貯まる一方なのだが、その、金銭などという他愛ないもので贖えるなにものかが夜歌への感謝になるのなら、それも悪くはないと思う。
 ジーンが、催促の言葉とともに踵を返そうとすると、夜歌はかすかに笑ったあと、
【承知した。挨拶を済ませてから行くゆえ、そなたは先に出ておれ。すぐに行く】
 そう言って立ち上がった。
 ジーンは頷き、そのまま歩き出そうとしたが、ふと思い立って、まだ固まったままの周囲へぐるりと視線を巡らせ、わずかに思案してから、胸に右手を当てて軽く一礼する。
「……邪魔をして、すまない」
 それから、緊張の所為か店の隅で硬直中の店主を手招きし、懐に入れたままになっていた麻の小袋を引っ張り出すと、
「これで、皆の勘定を頼む。足りなければ、後日請求してくれればいい」
「あ、は、はい、畏まりました」
 ひどく恐縮する彼に、洒落っ気も何もない灰色の、確かケーニカ辺りに、金銭を持ち歩くときはせめて袋に入れろと言われ、適当に見繕ってきた財布代わりのそれを無造作に手渡す。
「では、楽しんでくれ。今宵は佳(よ)い夜だ、楽しまなくては損というものだからな」
 店主の手に収まったそれの中身が立てる、しゃりしゃりという音を意識の片隅に聞きながら、ジーンは心を残すこともなく酒場をあとにした。
 今のかれの心を占めるのは、果たすべき責務のことだけだ。
 それこそが、それだけが、かれに意味という名の寄る辺を与えてくれる。

 ――だから、もちろん、ジーンは知らない。
 麻袋の中をのぞいた店主が、二十枚ものルウナ金貨、五人家族が一切働かずに半年暮らせるほどの大金に目を丸くし、赤くなったり青くなったりを繰り返していたことも、男たちがかれの計らいに歓声を上げてジョッキを打ち合わせたことも、店員を含む女性たちが、ジーンの消えていった扉をうっとりと見つめていたことも。
 そして、
「さっきの、間違ってるぞ」
【何のことだ?】
「しらばっくれるんじゃねぇよ。お前にしか烈火のダンナの乗騎が勤まらねぇんじゃなくて、ダンナが自分以外の背に乗るのが嫌なだけだろ、夜歌。素直じゃねぇよな、お前も」
 からかうようなヴァルレイズの言葉、
「――しかしまぁ、あのダンナも罪なお人だわな。色んな連中を虜(とりこ)にしといて、本人はちっとも気づいてねぇときたもんだ」
 苦笑の多分に入り混じったそれと、かすかに笑い声をこぼし、真紅の双眸をやわらかく細めた夜歌の、
【そのくらい鈍い方が、あれらしくてよい。あれのために働くことこそ吾が喜びなどと、知られるは業腹ゆえな】
 驚くほど愛情のこもったその物言いも。
 それから、
「東方人の隊長殿は、本当に鈍くていらっしゃる」
「あの潔さもまた美しいが」
「私には真似は出来ないな、とてもああは生きられない」
「夜歌様は、本当にジーン様が大好きなのね」
「ジーン様を観る夜歌様の目、他の誰へ向ける目よりも真摯ですものね」
「ご本人は気づいておられないようだが」
「妬けてしまうわ」
「我々には入り込めない絆だな」
「五十年を共に生きるって、どんな気持ちなのかしら」
 彼らの周囲に集った面々が、羨むように扉を見遣ってくすくす笑った女たちが、かれをなにひとつ否定しなかったことも。

 ――孤独に生きてきたがゆえに、孤独ではない己の何たるかを理解出来ぬかれは、真実自分が孤独ではないことを、知らない。