慎雨(しんう)の森を、馬で一時間ばかり分け入った先に、香玉山と呼ばれるごつごつとした岩山がある。
 そこを更に、内部へ内部へと一時間ほど進んだ辺り、水を失った谷の、奥のまた奥、谷底の果てに、彼らの棲み処(すみか)はあった。
 非常に入り組んだ、ややこしい地形だけに、情報なしにはなかなか探り当てるのは難しかっただろう。
 彼らは、大きな岩と太い材木とを巧みに組み合わせ、情婦などを含めた総勢二百人強が『快適に』暮らせる場を造っていた。奪ってきた財は、集落の奥に蓄えてあるらしい。
 周囲には、太い丸太と削りだした岩とを組み合わせて造った防壁があり、防壁には見張り台と思しき大きな櫓(やぐら)が幾つか設置されている。
 大所帯が暮らす集落だけに、ちょっとした町くらいの規模があり、背後を岩壁に守らせているため、非常に堅固で攻めにくい造りとなっている。
 もともとは川が流れていた所為なのか、それとも谷の構造的にそうなっているのか、空気はひんやりと心地よく、奥の方からは涼しい風が吹いてきて、神殿騎士たちの髪をやわらかく撫でていく。
 あちこちで焚かれた大きな篝火(かがりび)が、辺りを煌々と照らし出し、今が真夜中であることなど忘れそうな明るさだった。
 白い岩壁に反射した光が、広い範囲を照らし出しているのだ。
 明るい所為で、ついでに要らないものも見えるが、そこは致し方ないというものだろう。
 ジーンたちはそのために来たのだから。
「……結構、暮らしやすそうだなぁ。真夏の避暑地にどうだろう」
 馬の背から降りながら、ユイが暢気な口調で言う。
 彼の乗騎、濃い灰色の体毛をした天馬(テンマ)グレンシーラが、主人に同意するように鼻を鳴らした。月光を浴びた純白の鬣(たてがみ)が、神秘的な光の粒をふわりと立ち上らせている。
「じゃあユイ、討伐終了後はここで暮らしたらどうですか? そのときは遊びに行きますから、お茶の一杯も出してくださいね」
 同じように、深い藍色の体毛をした天馬フィルセティーアから降りたケーニカが笑いながら言うと、ふんふんと鼻を鳴らしつつ自分の髪を甘噛みするグレンシーラの横面を撫でていたユイは、
「判りました、じゃあ、全身全霊でもてなさせていただきますので、土産に美味しい茶菓子をお願いします」
 軽く肩をすくめ、飄々と返した。
 大隊長たちからかすかな笑い声が上がる。
 それは楽しげで、緊張など欠片も含まれておらず、今から始まる戦いのことなど、微塵も感じさせない。
「……物々しい雰囲気だな」
 音もなく夜歌の背から降り、ジーンはぽつりとつぶやいた。
 第四大隊長ハルベルト・フェイスが頷く。
「そうですね、そこそこの質といったところでしょう。サイレアナがなかなか討伐に踏み切れなかった理由も判る気がします」
「ああ、確か、あそこは貧しい、小さな地方都市だからな。身を守るので精一杯といったところか」
「でしょうね。今、王都なんて屁の役にも立ちませんし」
「まったく、期待する労力すら惜しいという話だな、国を守るべき中枢たるものが情けない。恐らくこれまでも、様々な被害にあっているんだろうが、何もできなかったんだろう」
 ハルベルトの言葉にジーンも頷いた。
「しかし、奴らは、今回も同じようなものだと高をくくるようなことはしなかったんだな」
「そのようですね。まぁ、ジーン隊長に脅された挙句、我らが神殿都市から逃げ帰った賊が、襲撃を失敗しておきながら枕を高くして眠っているようでは困りますが」
「まったくだ。そのように迂闊な輩では一流の賊とは言えぬ」
「……エツカ。賊に一流とか二流ってあるんですか」
「何だ、知らぬのか、ユイ。もっとも、少なくともあれを一流とは言わぬだろうがな」
「寡聞にして知りませんでした。勉強します」
「うむ、励めよ」
「ユイ、判っているだろうけど、エツカは真顔で嘘を言う駄目な大人だから、真面目に聞くと損をするよ」
「貴様私に何か含みでもあるのか、ルヴァ・グレイエコー」
「いやいやそんな、何もありませんよ偉大にして勇猛なる大隊長、エツカ・ハウンド閣下。オレにあるとしたら、あふれんばかりの親愛と尊崇の念くらいのものです」
「……なんと胡散臭い尊崇の念だ」
「ええと、エツカとルヴァっていつもこんな感じなんですか、ハル」
「ああ、騎士団に入ったときからこんなだから、もう二十年になるのか。仲良しさんでいいじゃないか」
「このような仲良しさんなど要らぬわ」
「意見の一致を見ましたね。オレも同感です」
「……あー、確かに仲良しさんですね……」
 まったく緊迫感のない大隊長たちのやり取りを、神武官タクスが微苦笑とともに傍観している。
 彼の乗騎は、天馬で統一された第三部隊の五人とは違い、深い茶色のからだに鋭い眼光をした壮馬(ソウバ)だ。蹄ではなく鷲の鉤爪のような脚をしているのが特徴である。
 天馬と同じ精霊獣の一種で、天馬と同じく普通の馬たちとは一線を画した駿馬だが、天馬に速度の雄を譲る代わりに、素晴らしく頑丈で持久力に優れており、おまけに気性が荒く、魔物と一対一で戦って相手を蹴り殺す程度には攻撃的だ。
 人間に敵対する種ではないが、基本的に肉食で、意に染まぬ相手が乗ろうとするとそれを食い殺そうとするくらいの悍馬を、見事に制御し乗りこなしているのだ、タクスの手腕のほどが伺えようというものである。
「それはさておき、どうします?」
 篝火に照らし出された棲み処を見遣りながらケーニカが言う。
 こちらにも、何の緊迫感もない。
 基本的に斬り込み隊である第三部隊の、それもトップレベルの騎士たちが、この程度のことで緊張するはずもないのだが、それでも、その視線の先、およそ三百フィリス前方に、完全武装した盗賊たちの姿が映っているのは確かな事実なのだった。
「武装してる女もいますね。みんな、後がないって感じの顔してる」
 逃げ帰った連中がその恐ろしさを吹聴したのか、彼らの表情は厳しく引き締まっている。指揮者らしき何人かが何事かを指示すると、緊張した顔で頷いた何人かがあちこちへ走った。
 それほど外敵からの脅威にさらされているとは思えないが、外から攻撃を受けたときにはそうしてきたのだろう、人が何十人も乗れるようなつくりになっている防壁の上に、分厚い木の盾を設置し、その後ろで身を守りながら、油断なく周囲を伺っている。
 三つある櫓にも、十人ずつの単位で弓を手にした男たちが身構えている。
 篝火の光が、彼らの持つ剣や槍や鏃(やじり)に反射する所為で、辺りには不吉な輝きが散っていた。
 谷の岩影に隠れたかたちになっている彼らが、今ここにいるとは思っていないだろうが、正面からしか拠点へ入れないという点において、大変攻めにくいことに変わりはなかった。
 真正面から突っ込めば、まず間違いなく、無数の矢の餌食になるだけだ。狭くはないが広くもない谷底が戦場では、あちこちから放たれる矢に対して逃げることすら出来ない。
 ――もっとも、それも、普通の軍隊の、普通の兵士たちがここで戦うならば、の話だが。
「神殿都市に喧嘩を売って、無事で済むとは思っていないのでしょう。当然ですが。賊の一味である以上、そして向こうが戦う心積もりでいる以上、女を殺すのは嫌だなどと生温いことを言ってもらっては困りますが、どうしてもと言うのなら、私が引き受けますよ」
「あ、そうですか。大変生温いことにちょっと思ってました。そのときはお願いします、すみません副隊長」
「そのかわり、一ヶ月間お昼ごはんをおごらせますからね」
「……結構高いですね……」
「当然です」
 きっぱりと自分ルールを披露するケーニカに、ユイが判りましたと言って苦笑する。
 それらのやり取りが終わったのを見計らい、彼らが自分の乗騎に、岩陰で待つように指示するのを横目で見遣りながらジーンは口を開く。
 種が違うのに何故かやたら仲のいい、天馬たちと壮馬が、こちらもやはり緊迫感なく、普段のように親交を温めるべく、お互いの匂いをかぎあったり鬣を甘噛みしあったりしているのが見える。
「誰から行く? 誰が的になる? くじでも作るか?」
 実際の話、ジーンの口調にも緊迫感はない。
 別に、容易いことだと気持ちが緩んでいるわけではなく、かれにとっては、いつも通りの仕事のひとつに過ぎないからだ。
 ただ淡々と、なすべきことをなすだけなのだ。
 ジーンの提案に、ルヴァ・グレイエコーが声をあげた。
「ああ、そうだ、隊長」
「どうした、ルヴァ」
「オレんとこのが、また何かやらかしたみたいですね」
「……ああ、あれか。櫻良がいなかったら、今頃奴らの首は胴から離れていただろうな」
「そうだったんですか、灯火には感謝しないとね。どんな問題児でも、一応、オレの隊が預かってる大事な坊ちゃんたちですし。かたっぽはちょっと年食ってますが」
「そう思うならもう少し厳しく手綱を取れ。次はないぞ」
「はい、承知してますよ。次辺り、真剣に不味いだろうなーとは思いますけど、むしろ隊長の堪忍袋の緒が半年も持ってることの方が驚きです」
「……そこは驚かなくていい」
「いや、驚くべきところでしょう、そこは」
「私もルヴァに同感です」
「すみません、俺もかなり同感」
「右に同じです」
「まったく同感だ」
「多分、リコ隊長も同じことを仰ると思います」
「……お前ら……」
 ジーンを狂犬として恐れるよりも先に、まず駄目部隊長として扱う、個性的に過ぎる連中に声をそろえられ、ジーンは思わず眉間を押さえた。
 こういうときばかりは、孤独もクソもないと思いはするが、実際、あまり嬉しくない。
 背後で夜歌が、声を殺して笑っているのが判る。
「まぁ、そんなわけで」
 何の気負いもない風情で、ルヴァが肩を回す。
「罪滅ぼしも兼ねて、オレが一番乗りさせていただきますよ。矢に関しちゃ、ちょうどいいでしょう」
「……ふむ」
 ジーンは頷いた。
「そうだな、では、《颶風扇》に任せるとしようか」
「了解。ま、じゃあ、適当に後に続いてくださいね。実際のとこ、別に、オレがやらなくても何とかなっちゃうんでしょうが」
 気安く言ったルヴァが、無造作な足取りで岩陰を出てゆく。
 篝火のお陰で周囲一帯が明るい以前に、空から降り注ぐ月光のために、谷底には光が満ちていた。
 真昼のような、とまでは行かないものの、少なくとも、夜目の利く盗賊たちから姿を隠すことは出来ないだろう程度には明るい。
 事実、唐突に現れたルヴァの姿に、三百フィリス先の集落がどよめいたのが判る。
 ひとりで何が出来るとか、馬鹿なんじゃないかとか、声高に嗤う声も聴かれたが、世界に名を轟かせる桃天華大神殿都市の、絶対的な守護者たる神殿騎士の恐ろしさは理解しているようで、弓を持った全員が、指揮者の声かけと同時に弓弦を引き絞るのが見えた。
 撃て! という声が轟と響く。
 それと同時に、ルヴァがひっそりと嗤った気配がする。
 ビョオウ、という、解き放たれた矢が空を斬る、不吉な音が夜気を震わせた。
「さてさて……お立ち会い。《颶風扇》ルヴァ・グレイエコーのそよ風、篤と見ていただこうかね!」
 矢は、まるで激しい驟雨(にわかあめ)のように、ばらばらと脈絡もなくルヴァをめがけて飛来した。篝火の光を受けた鏃が、ぎらぎらと凶悪な輝きを放つ。
 それらに貫かれれば、あっという間に――痛みを感じる暇もなく、針山のような姿になって堅い岩に横たわる羽目になるだろう。
 正確に撃ち放たれたものばかりではないが、その数は確かに脅威だった。
 が。
 腰の剣を抜きすらしていないルヴァが、明るい月の輝く空を見上げ、両手で周囲の空気をかき混ぜるような仕草をして、
「さあ……吹け、天威の疾風!」
 飛来する無数の矢と、堅固に閉ざされた集落を両手で指し示し、鋭くそう告げた瞬間。
 彼の周囲から不可視のオーラが立ちのぼり、そして、

 ――――ゴッ!

 鈍い打擲(ちょうちゃく)音すら伴って、激しい風が吹いた。
 物理的な力すら持ったそれは、今まさにルヴァを貫かんとしていた矢を散り散りに吹き飛ばし、更に、まったく勢いを失わぬまま、何が起こったか判らずにいた盗賊たちの、その集落へ襲いかかった。
 ゴウッ、という音とともに、風の塊が、防壁を直撃する。
 それは、地面に埋め込まれた太い丸太が、なすすべもなく傾くほどの力で、防壁から矢を射ていた盗賊たちは、あっという間にバランスを崩し、次々に内外へと転がり落ちた。
「う、うわああぁっ!?」
「な……なんだ、これ……ッ!」
「馬鹿野郎、怯んでる場合じゃない、早く態勢を整えろ!」
「や、櫓が……!」
「おい、大丈夫かっ!」
 悲鳴、狼狽、怒号が入り乱れる。
 三つあった櫓のうちのふたつが、颶風によって倒壊し、粉々になっていた。
 そこから転落した男たちが、低く呻いているのが判る。
 軽やかに笑ったルヴァが、腰から剣を抜く。
「我らが神殿都市を――神殿騎士を敵に回したことを、奈落の底で後悔するといい」
 言うや否や、ルヴァは一直線に走り出した。
 混乱の中、思い出したように放たれる、いくつかの矢を、何でもない風情で斬り払いながら、歪み傾いた防壁目がけて走ってゆく。
 彼の周囲に、風が渦巻いているのが『視』える。
「――行くぞ」
 淡々と告げて、ジーンもまた剣を抜いた。
 他の騎士たちのものとは形状の違う、東大陸民が好んで使う片刃のそれは、ジーンが故郷を出る際、せめてもの守りにと養母がくれたものだ。
 もう、五十八年もの時間を共に過ごし、戦ってきているが、いまだ刃こぼれひとつない。
「番犬代わりの魔物というヤツに気をつけろ。手強いようなら私が引き受ける。あとは……好きにやれ」
 了解の声が響くのを待たず、ジーンは地を蹴った。
 常人の二倍以上の速度で、ゴツゴツとした岩だらけの、足場の悪さなど気にも留めぬ風情で疾走する。
 耳元で風がビョウビョウと鳴いた。
 その隣へ、馬からヒトの姿へ変化した夜歌が並ぶ。
 いつもはゆったりとした衣装をかたちどるのに、今夜ばかりはジーンのものとよく似た武装だ。
「別に、そこまでつきあう必要はないぞ」
【ついでだ】
「……そうか」
 ルヴァはすでに防壁へと辿り着き、傾いた丸太を素早く駆け上がって、手近な場所にいた賊のひとりを無造作に斬り倒していた。
 血を噴きこぼした男が、甲高い絶叫を響かせて防壁から転がり落ちる。
 目前に迫る防壁を見遣り、ジーンはかすかに笑った。
「……そうとも」
【何ぞ申したか、ジン?】
「いや……なんでもない」
【ふむ?】
 これこそが本分だと、魂が囁く。
「さあ……始めよう」
 急な傾斜を描く、滑りやすい丸太を軽々と駆け上がり、逃げ遅れた男の首を、一刀の元に刎(は)ね上げる。
 ぽぉん、と、放物線を描いて飛んだ首が、賊のひとりの後頭部へ当たる。毒づこうとした彼は、それが仲間の首であることに気づくや言葉を失い、憎悪と恐怖を込めた目でジーンを見上げた。
「我らが神殿都市に害なすものに、速やかな死を」
 首を失い、血を噴き上げた身体が倒れるよりも速く、集落内へと飛び降り、男の肩から脇腹にかけてを斬り下ろす。
「ぐっ……が……!」
 常人にあるまじき膂力に、くぐもった呻き声とともに倒れた彼の身体は、真っ二つに別たれていた。血と臓物がぞろりとこぼれ落ち、周囲を赤黒く汚してゆく。
 それを目にした賊の何人かが、恐怖の悲鳴をあげてかれから逃げてゆく。
 その中には、武装した女の姿もあった。
 頓着なく、手近なひとりの首を刎ね、自暴自棄の叫び声とともに突っ込んできた男の懐に素早く入り込むと、その腹を深々と貫く。
 びくり、と跳ねた身体が、剣を引き抜くと同時にゆっくりと倒れ、血溜まりを作ってゆく。

 ――お願い、殺さないであげて!

 不意に、唐突に、ジーンの脳裏をよぎったのは、出会ってたった二日の、ちいさな灯火の声だ。
「……」
 懇願をたたえて自分を見上げる、小柄な少女の目を、何故今思い出したのか、ジーンにはよく判らない。
 判らないし、理解しようとも思わない。
 廃墟と呼ばれつつ幸い多き廃棄世界の、その事情に合わせてやることは出来ないのだ。
「――この手を厭うなら、厭え。私は番犬……神殿都市に弓引く輩に牙を剥く犬なのだから」
 誰にともなくつぶやき、少女の視線と声とを意識から振り払うと、黄金めいた双眸を、次の獲物へ向ける。
 それこそが自分の存在理由だと、胸中に断じながら。