『それ』、知る者には業神(ゴウシン)と呼ばれる魔のものは、一切の光を反射しない禍々しい黒をまとっていた。
 光のすべてをかき消し、吸い込んでしまうかのような黒だった。
「……なんて不吉な色でしょう」
 ケーニカがつぶやく。
 身の丈で言うならおよそ三十アルネル。
 ちょっとした館くらいの大きさであり、規模だ。
 『それ』は、四対八本の脚と二対四本の腕とを持っていた。
 黒く硬い毛で覆われた、太い頑丈なそれらは、ヒトとケモノとムシを混ぜ合わせたかのような、不可解で奇怪で不気味なかたちをしていた。
 怪物が立った状態でも地面へ触れるほど長く垂れ下がった四本の腕は、それぞれが肘の辺りで更に二対に別れており、触手めいた動きでさわさわと蠢いている。
 その各腕に『手』があり、五アルネルは下るまいという長さと、成人男性の大腿くらいの太さを持った『指』が、『手』のひとつひとつに二十本ずつついていることも、それらを不気味な蟲のように見せる一因となっていた。
 人体における指にあるまじき角度でうねうねと蠢くそれらは、ある種の滑稽ささえ含んで醜悪だった。
【……いい面構えをしておるな】
 夜歌の軽口も、さすがに多少の緊張をはらんでいる。
 上位魔族と同じくらい、規模によってはそれ以上の力を持つ業神が相手では、それも致し方ないことなのだが。
「戒白紋(カイビャクモン)も鮮明だ、――厄介なことになったな」
 八本の脚で立ち上がり、こちらを睥睨する『それ』の腹には、渦や迷路や魔法陣を髣髴とさせる、白い紋様が浮かび上がっている。
 この紋様の規模と色調、かたちが、業神の強さを決定づけるのだが、
【神獣として生を受けて三百有余年、彼奴(きゃつ)らと行き逢(お)うた数も十を超えるが、あのように巨(おお)きな業神、あのように巨きな戒白紋は目にしたことがない】
 夜歌が言うとおり、『それ』は近年稀に見る巨大さであり、強大さだった。
 ジーンは故郷にいたころに一回、西大陸を放浪していた頃に二回会い見(まみ)えているだけだが、それでもあれは、今まで目にしたどの業神よりも際立って巨大で、邪悪だった。
「剣で斬れば死にますか」
 問いはハルベルト・フェイスのものだ。
 ジーンは頷いた。
「無論だ。この世界に顕れたからには、実(じつ)ある器を持たざるを得ない。だが……硬いぞ」
「でしょうね。俺の細剣では、無理かな。仕方ない、火を使いましょう」
「どうしますか、隊長。誰から行きます? 俺の『刃』は通りますかね?」
「誰から、というやり方では無理だろうな。観ての通りの腕だ。『力』は有効だが、食われることもあるぞ、無駄に消耗しないよう気をつけろ」
「了解だ、隊長どの。しかし、何と醜悪でみっともない化け物だ。美的感覚を試されているような気分にすらなる」
「アンタの美的感覚なんか最初から崩壊してるじゃないですか」
「ルヴァ、貴様このようなときにまで……!」
「馬鹿をやってる場合じゃありませんよ、仲良しさんたち。――隊長、指示を。私たちは業神との戦い方を知りません。有効な手立てと、攻め方を指示してください。それに従います」
 どこまでも冷静なケーニカの声に、ジーンは小さく頷いた。
 そして、恐ろしく醜悪で不吉な、業神の顔を見上げる。
 ――巨大な顔だった。
 顔の部分だけで七、八アルネルはあるだろう。
 だが、それが恐ろしいのは、何もその巨大さだけではなかった。
「……飼っていた魔物だけが融合したわけではなさそうだ」
【の、ようだな。惹かれて集まったか】
「四十……一、二……いや、四か。辛うじて生き残った下等なのも混じっているな。それだけ集まれば、巨きくもなろうというものだが。確かに、見るに耐えないな、あれは」
「あんなニキビが出来たら発狂しそうですね」
「ユイ、もう少し緊張感のある例えはありませんでしたか」
「え、うーん、じゃあ……人面疽?」
「それも微妙すぎますね。そもそも人面ではありませんし。まぁ、どちらにしても、顔に出来て嫌なものであることに変わりはありませんが」
 ユイとケーニカの交わす、どうにも緊迫感のない会話を意識の端に聞きつつ、ジーンは業神の顔、巨大な人間の顔に、様々な魔物の頭部及び身体の一部が埋め込まれた、おぞましいとしか言いようのないそれを見上げていた。
 顔のベースは、恐らく核となった頭目のものだろう。
 禿げ上がった頭と、頬骨の張り出したごつい造作のそれは、人間の中にあっては特別にどうということのないものだ。しかし、その顔一面を、融合した魔物たちの顔や身体が覆い尽くしている様は、人間としての顔立ちの美醜を云々する以前の問題だった。
 眼球だった場所の片方には獣蟲(ケモノムシ)が、もう片方には牙蟲(キバムシ)が収まっていた。蟲系の魔物独特の節足、内部に収まりきらなかったらしいそれらが眼窩からはみ出し、さわさわと蠢いている様など、悪夢以外のなにものでもない。
 両頬には五匹ずつ、額には十匹、眉間に一匹、こめかみに二匹ずつ。顎に特別大きな岩熊(イワクマ)。耳だった場所からは旋狗(センク)と剣凶鹿(ケンキョウカ)の頭部が突き出ていたし、開いた大きな口からのぞく歯は、すべて魔物の顔をしていた。
 髪の毛があったであろう場所からは、蛇とも芋虫とも触手とも取れぬものが生え出て、うねうねと気味悪く蠢いている。
 それは恐ろしく狂った造作だった。
 何かが決定的に食い違った存在だった。
 この世にあるまじき、魔物よりもなお恐ろしいそれの姿に、捕虜となった盗賊たちが発狂しそうに目を見開き、言葉もなくガタガタと震えている。
 業神は、まだこちらの世界での『調整』が済んでいないのか、全体的に動き出してはいなかったが、それも時間の問題だろう。
 ジーンはひとつ息を吐き、そして口を開いた。
「ケーニカ」
「はい」
「そこの連中を、もう少し安全な場所へ」
「……彼らを、ですか? 珍しいですね、隊長が神殿都市に害なす者に温情を与えるなんて」
「与えているつもりはないが。どうせ、サイレアナか神殿都市で、死んだ方がましだという責め苦を与えられるだけのことだ」
「それは確かに、そうですが。なら、ここで死ぬのも同じことでは?」
「……犯した罪を贖うに死が妥当だとしても、少なくとも彼らは、あんなふざけた化け物の手にかかって死ななくてはならないほど、罪深いわけでもないと思う」
「なるほど。判りました、『檻』を移動させましょう。それから、どうしたらいいですか?」
「私と、夜歌が出る。まだ慣れているからな。お前たちは、あの『腕』の撹乱及び破壊を。落としても生えてくるが、繰り返すことで力は削れるし、削れば削るほど消耗させられる。基本的に、少しずつ削ってゆくしか倒す手立てのない相手だ。だが、下手に近づくと『力』ごと食われるぞ、今この場で業神に生まれ変わりたくなかったら重々気をつけろ。危険だと思うのなら、遠方から『力』で援護してくれるだけでいい」
「了解です。あんなものに取り込まれたら、美味い飯も酒も、綺麗な女も関係なくなっちまいますからね、精々注意しますよ」
「なに、貴様なら似合うかも知れぬぞ」
「その言葉、そっくりそのままアンタに返しますよ、エツカ閣下」
「……」
「……」
「そこ。誰に向かって剣を抜こうとしてるんです? 仲がいいのは結構なことですが、こんなところで骨肉の争いは止めてください。そんなに殺し合いたいなら、これが全部終わってから、神殿都市で決着でもなんでもつければいいでしょう。何なら死合い(しあい)の手はずも整えて差し上げますから。せっかくですから場所はセンティエラ闘技場にでもして、見物客も集めましょうね。――――お金を取って」
「それ、もしかしなくても得をするのは副隊長だけですよね」
「ええ。ルヴァとエツカの死合いなら、少なくとも千人は集まるでしょうから、ひとりカラファ銀貨一枚としても、相当な収益になりますね。そのお金で姫様と櫻良に何かプレゼントしようかしら」
「あ、じゃあついでに俺にもなんかおごってください。準備のお手伝いしますんで」
「ええ、いいですよ。そのときは見物客の整理をお願いしますね」
 どこまでも緊迫感のない会話に、ジーンは胸中に微苦笑する。
 それでこそのトップクラスだが、せめてもう少し真面目な話は出来ないものか、とも思う。
 無論、恐怖と緊張のあまり戦いを放棄して泣き喚かれるよりはマシだが、そもそも、そんな無様をさらすものは、都市を守護する神殿騎士団にはいないし、もちろんのこと第三部隊にも要らない。
 不意に、業神の身体がゆっくりと動き出した。
 再度、この世のものとも思えない咆哮が大地を震わせる。
 捕虜たちが絶望すらこもった悲鳴を上げ、泣き叫んだ。
 神殿騎士たちは表情を引き締める。
 ケーニカが、氷の檻を後方へ移動させ、更にその上から、氷を編んで創った防護用のネットを被せる。これならば、ジーンたちが戦っている間に別の魔物に襲撃されたとしても彼らの安全には問題ないだろう。
 ――それが、普通の魔物なら、だが。
「さて……では、行くか」
 言ったジーンが、業神に向かって走り出すと、その隣にひょいと並んだ夜歌が、少々恨めしげな言葉をこぼした。
【そういえばジン、そなた、何の躊躇もなく吾を数に入れたな……】
「ついでと言うからには、つきあえ。業神にお前の魔法は有効だ、地形が変わるくらいなら好きにしていい」
【まったく……神獣(ひと)使いの荒い……】
「今更だな」
 淡々と言い、前方およそ一イリスにわだかまる闇に向かって疾走する。
 到着までには一分もかからなかった。
 業神の周囲には、生温かい、生臭い風が轟々と吹き荒れていた。
 小山のようなそれが、異様な威圧感をふりまいている。
 ユイがかすかに顔をしかめた。
「腐臭? 死臭……かな?」
「どちらもだろう」
 言いつつ、ジーンは愛用の剣を手に、業神へと斬りかかった。
 シャッ、と音を立てて、『腕』が襲いかかって来る。
 よく観ると、その『指』の先端には目がついていた。
 金色に光るそれに、かすかに顔をしかめる。
「……これでは、私が魔のものだと、奴らと同じ位置に在るものだと、白状しているようなものだ」
 それを知られることを怖れてなのか、知られても仕方がないという諦観なのか、ジーン自身にもよく判らないまま、誰にも聞こえないほど小さな声で言い、剣を揮って、その『指』を斬り飛ばす。
 ぎゅいっ、と、『目』が鳴いた。
 金のそれを明らかな怒りと憎悪に燃え立たせ、他の『指』が襲いかかって来る。まるで、蛇が舞い踊るかのようだった。
 表情を厳しくした騎士たちが、ちょっとした大蛇くらいのサイズのある『指』に剣を向ける。
 騎士たちの揮う正確にして巧みな剣は、狙い過たず『指』を切断していったが、切断され黒ずんだ体液をこぼすその傷口は、ものの数秒で塞がり、数十秒で再生した。
 徒労とでも言うべき作業を思ってか、誰かが溜め息をつくのが聞こえた。
「完全に『目醒める』前に倒したいが……どうかな」
【なかなか、難しいところであろうな、それは】
 夜歌がかすかに息を吐き、
【……仕方がない】
 言って、右手を宙に掲げた。
 その指先に、赤い光がともる。
 かたちのよい唇が、朗々とした言葉を紡ぎ出す。

【裁神(さいしん)イルアーリアの名において。フィエルティーダの業火よ在れ、獄土の元に在れ、責め苦のごとく在れ】

 その言葉とともに、夜歌の周囲を熱波が渦巻いた。
 指先にともっていた赤い光が、彼の周囲をふわりとたゆたう。
【天の裁火よここに在れ】
 どこかしら優美ですらある、歌のようなそれが紡ぎ上げられると同時に、赤い光が炎と化し、『指』及び『腕』をめがけて襲いかかった。
 それは、朱と黄金とが絡み合った、幻想的な色をしていた。
 火に絡みつかれた『指』が、ばちばちばちっ、という音を立てて爆(は)ぜ、無残な瘢痕(ケロイド)をさらして項垂れる。焼かれたためだろう、再生は遅かった。
 焼けた『指』は数十本。二本の『腕』がひとまず動きを封じられた。
「さすがは神獣。お見事です」
 ケーニカの言葉に夜歌が肩をすくめる。
【このようなことばかりが見事でも、神獣として『さすが』とは言い辛いのだがな】
 ジーンは、ごわごわとした剛毛を足場にして、ここぞとばかりに動きの鈍った『腕』を駆け上がった。
 背後から、前方から、無礼な羽虫を払い落とそうとでもするように『指』が襲いかかるが、それを巧みに避け、または斬り払いながら、業神の首筋まで辿り着く。
 確かに生き物として脈打つそこへ、剣の切っ先を突き入れようとした瞬間、凄まじい衝撃が全身を打ち据えた。
「……ッ!」
 それが、業神の背から今まさに『生え』た、触手と手指を混ぜ合わせたかのような奇怪な『翼』の一撃によるものだと理解するよりも早く、ジーンはなすすべもなく吹っ飛ぶ。
 目の前がチカチカするくらいの衝撃だった。
 非常識に頑丈な東方人のジーンだからこそこの程度で済んだものの、普通の人間なら恐らく、この時点で五体がばらばらに砕けていただろう。
【ジン!】
 小さく舌打ちをした夜歌が脚に力を入れて跳び、あまりの衝撃に受身も何もなく、その辺りの岩肌に叩きつけられそうになっていたジーンをふわりと抱きとめた。
 そのまま、そっと地面へおろしてくれる。
【油断するでないわ、戯(たわ)けめ】
「……すまん」
【まァ、よい。大事ないな?】
「ああ」
 といっても、少々頭がぐらついていたが、それもすぐに収まり、ジーンは再度剣を構え直した。
「大丈夫ですか、隊長!」
 駆け寄ってきたユイが、業神を見上げて眉を厳しくする。
 三十七イルアルネル(一イルアルネル=五cm)という長身の、よく鍛え上げられたその身体から、無数の白銀の光が舞い上がった。
 それらはすべて、鋭利で危険な刃のかたちをしていた。
「こんなので効くかどうか……ちょっと、微妙ですけどね……!」
 ユイの、気合いのこもった呼気とともに、刃のかたちをとった白光が、業神向けて飛来する。
 それらは、鋭い音を立てて空気を切り裂きながら『腕』と『指』へ襲いかかり、今まさにジーンたちへ向かってこようとしていた『腕』をずたずたに――細切れのように斬り散らした。
 完全に破壊された『腕』の一本が、力なく項垂れる。
「……まぁまぁ、かな……?」
 ユイは、そう言いながら剣を構え、また『指』の群れの中へ飛び込んでゆく。その周囲には光の白刃が舞い踊り、彼を狙って飛来する『指』を次々と斬り裂いて行く。
「うお、おおお……ッ!!」
 巨体に相応しい大音で轟と吼えたエツカが、巨体には似合わぬ軽やかさで大きく跳躍し、大剣『斬月』を揮って、神業というのが相応しい見事さで『腕』の一本を斬り落とした。
 『腕』の一本一本に意識があり意志があるのか、斬り落とされたそれはギュイギュイと気味の悪い音を立てて蠢いた。
 タクスの手にした剣が、流麗な光の線を描いて『指』を斬りおとす。
「……残念ながら、ここでは私の『力』は無意味ですからね……」
 彼の声がひどく残念そうなのは、錯覚ではないだろう。
 ルヴァの放った颶風が、業神の身体をぐらりと傾(かし)がせた。
 銀色の火をまといつかせたハルベルトの細剣が、業神の『腕』を斬り裂き、同じ銀の火で燃え上がらせる。
「少し、荒っぽく行きますよ……!」
 鋭く告げたケーニカが、その場で両手を広げると、バキバキという音とともに彼女の背後の大地が割れ、そこから、全長二十アルネルはあろうかという氷の竜が姿を現した。優美な鬣(たてがみ)と角、しなやかな肢体を持った魔力の竜だ。
 青と銀の中間にあるその身体が、月光や星の光、篝火を反射させた様は幻想的に美しいが、その姿は凶悪の一言に尽きた。
 声なく咆哮したそれが、業神へ向かって突進する。
 ズン、という腹に響く衝撃があって、怒りの咆哮とともに業神がよろめく。
 氷の竜は、そのまま業神の身体に喰らいついた。
 夜歌が再度放った魔法の火が、業神の身体を緩やかに――しかし無慈悲に舐めてゆく。
 騎士たちは攻撃の手を休めない。
 ――――戦局は有利なように思われた。
 業神は、『腕』は、『指』は、騎士たちを傷つけ得なかった。
 だが、何故か、ジーンの意識は危険を叫んでいた。
 何故なのかは判らない。東方人として、神代の力を身に帯びるものとしての動物的な勘だと言うしかない。
 そしてそれは、業神の身体が激しく震えた、そう思った瞬間に起こった。
 そのときジーンは、あまりに激しく警鐘を鳴らす危機の感覚に、一旦退くように指示しようとしていた。退け、と、言葉を口にしようとしたそのとき、業神の、黒い剛毛で覆われた身体が膨れ上がったのだ。
 否、それは身体が膨れ上がったのではなく、剛毛が蠕動し浮き上がっているのだと、気づいたときにはもう遅かった。
 眉をひそめる間もなく、何かを言葉にする暇もなく、それは激しい勢いで弾け飛び、剛毛は鋭い針となって騎士たちを襲った。

 ――ゴオォッ!

 避ける間もなかった。
 盗賊たちが撃ち放ってきた矢、正確ではなくとも決して弱くはなかったそれの数倍の速度で弾け飛んだ『針』に貫かれ、ジーンも、夜歌も、第三部隊の騎士たちも、全員がなすすべもなく吹き飛ばされた。
 針は、同時に颶風をも伴っていた。
 お陰で、吹き飛ばされた騎士たちは皆、大岩や岩壁に身体のどこかを打ち付ける羽目になった。
 ケーニカの生み出した氷の竜が、その衝撃によってひび割れる。
 何にせよ、咄嗟に身体をひねり、庇って、致命傷を避けたことそのものが奇跡であり、彼らが手練れであることの証明だった。
「……さすがに痛いな、これは……」
 ジーンは、叩きつけられた岩肌で盛大に背中と腰を打ったうえ、左肩に三本、右脇腹に一本、右太腿と右腕に二本ずつの針を喰らっていた。
 一本一本の規模はそれほど大きくなく、東大陸で使われるハシ程度のものだったため、どれも重傷には至らなかったものの、痛いことに変わりはないし、これを無数に身体に受ければ間違いなく危険だ。
「っつ、う……ッ」
「く、そ……なんだ、今のは……!」
「大丈夫ですか、皆さん! 今、治癒魔法を……」
 あちこちから針を生やしながら騎士たちに這い寄ったタクスが、すべての台詞を言い終わるよりも早く、その身体が唐突に吹き飛んだ。まるで紙くずのように容易く。
 決して小柄ではないその身体が、岩肌に激突して地面へと転がり落ち、
「ぐ……ッ!?」
 驚愕の表情を貼り付けたまま、小さな呻き声とともに動かなくなる。
「タクス!?」
 そこへ迫ったのは――あの、触手めいた『指』だ。
 しかしそれは、先刻とは比にならぬ速さであり、長さだった。恐ろしく伸縮し、自由自在に蠢いていた。
 そのうえ、『目』があった場所からは、鋭い爪が生えていた。あれに貫かれれば、生きてはいられないだろう。
 全身の筋肉を駆使したとしか言いようのない勢いで跳ね起きたユイが、あちこちから針を生やしたままの姿で、やはり少々痛いらしく顔をしかめながらも、素早く彼の元へ走り寄ると、今まさにタクスを貫かんとしていた『指』を、剣の一閃で斬り飛ばした。
 更に、ユイを狙って飛来した『指』を、ハルベルトの銀火が斬り払い、焼き尽くす。
 その向こう側では、身体が大きい所為でたくさんの針を受けてしまったらしいエツカが、呻きながら上体を起こしたところだった。
 そこへ、十本以上の『指』が、獲物を狙う肉食獣さながらの動きで飛来する。篝火を受けてぎらりと光る爪は、下手な刃物よりも凶悪だった。
 エツカは舌打ちをして剣を手に取ろうとしたが、指先に針が刺さっていた所為で果たせず、こぼれた血のために咄嗟に飛び起きることも出来ず、表情を険しくした。
 勝利の、だろうか、耳障りな、軋むような音を立てた『指』が、もがくエツカの元へ肉薄する。
 しかし、『指』には、エツカを引き裂くことは出来なかった。
「ったく、ぼうっとしてんじゃありませんよ、エツカ・ハウンド」
 呆れを含んだ声がして、刃のような風が吹き、『指』を引き千切りながら吹き散らかしてしまったからだ。
「……ルヴァ」
 エツカが、自分の目の前に立った長身痩躯の男の名を呼ぶ。
 呼ばれた方は、彼を振り返ってにやりと笑ってみせた。
「別に、助けたわけじゃありませんよ。恩を売っただけのことです」
「貴様の恩か。値が張りそうだ」
「そりゃ当然です。末代まで語り継ぎますよ。――それにね」
「……?」
「こんなことでアンタがいなくなったら、オレは誰とくだらない喧嘩をしたらいいんです? そんな馬鹿げたことに二十年もつきあってくれんのは、アンタくらいのものなんですから」
「…………違いない」
 憎まれ口に苦笑したエツカが身体を起こし、指先の針を引き抜いてから拾い上げた大剣で、気味の悪い音を立てて迫り寄る『指』を斬り払い、その『腕』を半ばまで両断した。
 それを観て、ルヴァが笑う。
 ジーンは針を引き抜き、無造作に投げ捨てながら、身体のあちこちから針を生やして自分の足元に転がるふたりに声をかけた。
「夜歌、ケーニカ。大事ないか」
【……うむ、今のは、さすがに効いた……。美しい女子に慰めてもらわねば死んでしまいそうだ……】
「大丈夫じゃありませんよ。こんなみっともない姿、姫様には見せられません」
「大事なさそうだな。――目醒めたぞ」
 ふたりの愚痴を完全に無視して告げる。
 肩に刺さった針を引き抜きながら立ち上がり、それを確認して、夜歌が小さな息を吐いた。
【やはり、こうなるか】
「仕方あるまい」
「何ですか、あれは?」
「『核』だ。業神という意識集合体を統率する中枢のようなものだな。調整に時間がかかるらしく、こちらへ降誕してしばらくは出てこないんだが……それまでに倒してしまえるほど容易い相手ではない、か」
【なにせ、あれがおるのとおらぬのとでは、困難の度合いがまったく違うからな。ますます面倒なことになった】
「……さて、どうするかな。――ユイ! タクスは大事ないか!」
「はい、隊長! 完全に気絶してますけど、瘤(こぶ)が出来たくらいで済んでます!」
「あれに弾かれて瘤だけなら重畳というものだろう。お前たちはどうだ。まだ行けるな?」
「行けるか? じゃないところが隊長ですね。問題ありませんよ」
「右に同じだ」
「こちらも問題ありません」
「ではユイ、タクスを岩影に。残ったもので一気に行くぞ。夜歌、魔法で援護してくれ。ケーニカ、あの竜はまだ行けるな?」
【……仕方ない、最後までつきあうとするか】
「ええ、私の意識が失われない限りは」
「なら……行くぞ。あんなものを世に解き放っては、神殿騎士団第三部隊の名折れだ。斬り込み部隊の名を返上しなくてはならなくなる」
 ジーンが淡々と、きっぱりと言うと、騎士たちは少しも意志の折れない、強靭な笑みとともに剣を構えた。
「「「「「了解!」」」」」
 声が重なる。
 ジーンは頷き、そして、業神を見上げた。
 業神の『核』、元々は鼻のあった位置に盛り上がる、完全に人間のかたちをしたそれを、見据える。
 それは、笑っていた。ゲラゲラと、甲高い声を立てて。
 そのあまりの異様さに、ジーンの眉根が寄る。
 無論、それで彼らのなすべきことが変わるわけではないが。