その笑い声は、明らかに『人間』の立てる類いのものだった。
 歪んだ喜悦と、他者への侮蔑と嘲笑を含んだ、倣岸にして冷酷な笑い声だった。
 しかしそれは明らかに、一片の曇りもなく、厳しく冷徹に澄んでいた。
 それは確かに、美しかった。
 ――例えそれが、異様な、異形の美であろうとも。
『重畳、重畳!』
 ぎらぎらと輝く金眼で騎士たちを見下ろし、薔薇色の唇を歪めて『核』が言う。どこか芝居がかった大仰なそれは、『核』の姿かたちの流麗さと、業神の醜悪な禍々しさとがあいまって、妙に寒々しかった。
 『核』は、業神の巨大な顔の真ん中に顕現したそれは、若い人間の姿を取っていた。それが、業神の鼻のあるべき位置に、下半身を埋めた状態で『生えて』いるのだ。
 『核』は、黄金の眼と血の色の髪、雪のように白い肌と艶かしいほどしなやかな肢体の、誰もが思わず目を奪われそうな美しさで、男とか女とか、そういうカテゴリではくくれない姿かたちをしていた。
 雄体であれ雌体であれ、それは大した問題ではないのだ。
 『核』の姿かたちが美しいだけに、――否、それが美しければ美しいほど、醜悪で不気味な業神との凄まじい隔たりが、『核』の存在をなお一層禍々しく、寒々しく見せていた。
『今宵は何と佳(よ)き夜だ!』
 歌うように『核』が言う。
 音楽的な、美しい声だった。
 致命的に何かが歪み、狂っているとしても。
『目醒めを迎えたるこの時に、忌まわしき犬どもを喰らう幸運を得ようとは。魔王陛下のご采配に違いない』
 『核』が笑うと、その周囲の魔物たちもゲタゲタと笑った。業神の巨大な顔もまた笑っていた。四十数個の顔が上げる笑い声で、辺りはどうどうと地響きを立てて揺れた。
『さあ宴だ、宴だぞ皆! 今宵は馳走だ、存分に楽しまねばな!』
 嬌声にも似た淫靡な艶やかさで『核』が煽るたびに、いまや業神となった魔物たちが甲高い歓喜の声をあげて笑う。
「……狂ってる」
 顔をしかめたユイが吐き捨てる。
 その、小麦色に日焼けをした顔は、ほんの少し青褪めていた。
 他の騎士たちも、恐怖に折れるような無様はさらしていないものの、ユイ同様あまり顔色が冴えない。
 一騎当千を謳うトップクラスの騎士たちなら気づいただろう、先刻の、触手めいた『指』を蠢かせるだけしか出来なかった業神とは、何かが決定的に違うということに。
 そして、今やこの業神が、神殿騎士たちが束になってようやく倒せる上級魔族よりもなお、手ごわくなったということに。
「どうだろうな。奴らにとっては、あれが清浄であり正常なのかも知れん。魔のものの考えなど、私に判るはずもないが」
 ならば少なくとも、まだ自分は『魔』ではないのだと、わずかに安堵しつつジーンは業神を見上げる。
 己が黄金と、業神の黄金が絡み合った。
『汝が烈火か、神殿都市随一の猟犬よ』
 禍々しい金が、とろりと細められる。
 それは、毒のような慈愛を含んでいた。
『汝がかの翼を負うものか。――これもまた、定めなのか。かの方は、今でも汝をお待ちだぞ』
 かの方、という、様々なものを含んだ表現に眉を厳しくしたジーンは、『核』が更になにごとかを言うよりも早く、きつく剣を握り直し、その巨体に向かって跳躍した。
 その高度、およそ二十アルネル。
 人間に跳べる高さではないが、東方人には不可能なことでもない。
 そしてジーンには、尚更難しいことでもない。
【ジン! 闇雲に仕掛けるでないわ!】
 夜歌の舌打ちが聞こえたが、今のジーンに彼の制止を聞くつもりはない。
「『かの方』など、知らん!」
 鋭く――取りつく島もなく吐き捨てて、業神の腕へ着地するや、鋭い爪を閃かせる『指』の中をかいくぐり、時には斬り払いながら、黒い剛毛に覆われた太い『腕』を駆け上る。
 『核』が笑うのが見えた。
『重畳、重畳。そうでなくては、かの方も退屈されよう』
「いい加減、その口を閉じろ。鬱陶しい」
 紛れもない怒りの感情とともに、構えた剣を業神のこめかみに突き立てようとしたジーンだが、その刃は、ゲラゲラと笑った旋狗の、牙だらけの口によって受け止められてしまった。
 ジーンの剣を咥(くわ)えたまま、漆黒の狼が、喉の奥でゴロゴロと笑いを転がす。
 ジーンは眉間に皺を寄せた。
 手首を縛める二対四本の銀環が、きしきしと音を立てているのが判る。
 その、押し寄せる感情と感覚に身を委ねたいという思いと、律しなくてはという思いとが、プラスとマイナスの双方から押し寄せ、ジーンの動作をほんのわずかに鈍らせた。

【峻王(シュンオウ)アルバ・ストリクトの名において。大地の意志よ立て、剛剣のごとく立て、瞋恚(しんい)のごとく立て】

 朗々とした声がやや早口で言霊を紡いだ、そう思ったとき、業神の肩から『生えた』触手が、ジーンの足首を捕えた。
 何が、と思う間もなく、退避する間も防御する間もなく、『指』が爪をぎらつかせながら飛来し、分厚い頑丈なブーツで覆われていたはずの、左ふくらはぎの部分をやすやすと貫いた。
 まるで、やわらかで瑞々しいくだものでも扱うかのように。
 その衝撃を身体と感覚がはっきり認識するよりも早く、ふくらはぎを貫いたままの状態で『指』が動き、なすすべもなく引きずられたジーンは、空中に逆さ釣りになる。
「隊長!」
「ジーン様!」
 普段見せることのない失態及び醜態に、騎士たちが驚愕の混じった声を上げた。
「……ッ」
 致命的に鈍いのは痛覚も同じで、平素から痛みには強いジーンだが、さすがにこれは強烈にすぎた。
 貫かれ穴の開いた足を『指』が出入りし、その爪が傷口を広げてゆく、なんとも言えない、脳の奥に光る線を刺し込まれるような痛みに、かすかな呻き声が漏れる。
 無論、それで呆けていられるほどジーンは腰抜けではなく、
【大地の峻牙よ高く立て】
 夜歌の魔法が発動し、鳴動し激しく揺れた地面、岩で構成されたそれらが、鋭い剣のかたちを取って業神の足元から突き上がった瞬間、身体を大きくひねって剣を揮い、自分を捕えている『指』を斬り払った。
 自由を取り戻すと、不自由な体勢を整えながら巧く着地して業神から距離を取る。
 研ぎ澄まされた岩から成った巨大な剣に脚をずぶずぶと貫かれ、業神は痛みと怒りの咆哮を上げたが、『核』はひどく楽しげだ。ジーンを追おうともせず、まるで面白い玩具でも観察するかのように、騎士たちを高い位置から見下ろしている。
【この、たわけが!】
 仲間の元へ戻った途端、端正な顔を怒りに燃え立たせ、眦を厳しくした神獣に不機嫌すぎる声で怒鳴られたうえ、固めた拳で、頭のてっぺんにきつい一撃をもらった。目の前に星が散るほど手加減のないそれに、それどころではないのに頭を抱えて思わず呻く。
【阿呆か、己は! 己ひとりで何とかなる相手なら、吾らがここにおる必要はなかろうが!】
 二人称がそなたから己に代わっているのは、夜歌が本当に怒っている証拠だ。実は案外夜歌が短気で怒りっぽく、こういうときに口答えをしても何ひとつためにならないことを、ジーンは彼との五十八年に及ぶつきあいでよく理解している。
 弁明する気も、他者を言葉で納得させられるような技量もなく、いつものように黙ったジーンに、
「何をやってるんですか、隊長。あなたらしくもない」
 かかったケーニカの声は、夜歌に反してどこまでも冷静だ。
「何か面白くないことを言われたらしいというのは判りますけどね。そんなもの、魔のものごときに言われたところで何を気にする必要がありますか。私が神殿騎士であるのと同じように、あなたも神殿騎士です。それ以外、それ以上の事実が、約束ごとが、まだあなたには必要ですか」
 静かで厳しい、しかし無上の救いともなるその言葉、ジーンの背景をわずかなりとも理解した上でのそれに、ジーンは緩やかに苦笑した。そして、首を横に振る。
「――……いや。すまない、頭に血が上った」
【まったく。次に同じことをやらかしたら見棄てるぞ、心せよ】
「まぁでも、隊長のそういうとこを観られると、あぁジーン隊長もちゃんと感情のある生き物なんだなぁって思えてちょうどいいですよ。時と場合は選んでほしい気もしますけどね」
「ユイに同感です。得体の知れない神殿騎士第一位ですもんね、隊長」
「ハル、その順位はいったいどこから来てるんですか?」
「都市内のあちこちから」
「自分が何の何位なのか気になるような気にならないような。――まぁ、それはいいんですけど、どうしましょうか。一気に削ぎに行きますか?」
「しかしこれ、接近戦は面倒臭そうですねぇ。さっきとは動きが段違いです」
 言いながら歩み寄ったルヴァが、引き裂いたマントの端で、まだ血を噴きこぼしていたジーンの脚をきつく縛る。
 どんなにきつく縛ったとしても、ブーツのうえからでは止血も何もなく、青いそれはすぐに赤黒く染まったが、そうされたことそのものが嬉しくて――嬉しい、と感じたこともまた稀有だった――ジーンはかすかに笑った。
「……すまん」
「よしてくださいよ、しおらしい隊長なんか気持ち悪いだけです。ねえ、副隊長?」
「そうとも言いますね。さて……私が指示するのも何ですが、ユイ、ルヴァ、あなたがたは私と一緒に業神の動きを止めに行きましょう。隊長、業神は『核』を落とせば死にますか?」
「死にはしないが、弱るだろうな」
「では、それを狙いましょう。夜歌、補助をお願いできますか」
【うむ、仕方あるまい】
「ならハルベルト、エツカは私と『核』を狙いに行くぞ。全身を自在に変化させられるようだ、接近しすぎには気をつけろ」
「了解です」
「承知した」
「では……行こうか」
 静かに告げて、ジーンはまた走り出した。
 ハルベルトとエツカがその後に続く。
 完全に穴の開いた左足は熱を持って重く、大地を踏みしめるたびに熱い液体が流れ出てゆくのが判ったが、痛みに負けて責務を放棄するほどジーンの矜持は低くない。
 『核』はカラカラと笑っていた。
 どこか晴れやかに、楽しげに。
「さぁて……正念場、行くとしようか……!」
 ルヴァがつぶやくと同時に、彼の身体から不可視のオーラが立ちのぼり、それは物理的な重みすら伴った颶風となって、ゴウという唸り声とともに、真正面から業神へと襲いかかった。
 業神の身体がぐらりと揺らぐ。
 同時に、ルヴァの身体も少し傾いた。
「さすがに、使いすぎだよなぁ……」
 額ににじんだ汗を拭い、呼吸を整えると、再度生み出した颶風を業神へと叩きつける。
「こっちも、連発って、結構キツい、んですけどね……ッ」
 言葉通り、わずかな疲労の色を端正な面に載せてユイが言い、しかしその言葉に反して今までで最大規模の白刃を出現させる。
 百を超える数の、ナイフを髣髴とさせる不可触の刃が、夜気を斬り裂く鋭い音を立てながら、きらきらとした光を周囲に撒き散らしながら、業神の巨体目がけて飛来し、その身体のあちこちを切り裂いた。
 業神が轟々と咆哮する。
 しかし、『核』に迫った白刃は、その美しい姿にひとすじの傷をつけることも出来ないまま、『核』の微笑ひとつで軽やかに砕け散った。
 呼吸を荒らげたユイが顔をしかめる。
 トップクラスの騎士たち、中でも特に第三部隊に属する彼らの多くが有するこれらは、精神力の一部である魔力を元に紡ぎ出す『力』だけに、消耗しすぎると身体に大きな負担がかかるのだ。
 現に、今のユイは、顎から汗を滴らせている状態だった。
「なんか、役立たずって罵られてるみたいな気分だ」
 こぼしつつも怯むことなく、再度白刃の群れを出現させ、ユイは、うねうねと蠢く『腕』や、不気味なかたちをした『翼』を確実に削り取っていった。
「なかなかに、得難い経験、ですね」
 ケーニカは、ひび割れを『修理』し再構成し直した氷の竜を、業神に向けて解き放ったところだった。前のままではダメージを与えられないと判断してか、鬣や角や鱗、牙や爪が、鋭さを増している。
 竜は鈴のような涼やかな音を立てて業神に肉薄し、優美な身体をくねらせて業神へと絡みつき、その巨体を締め上げた。
 バキバキという鈍い音がして、業神そのものは苦痛の絶叫を上げたが、やはり、『核』は喜悦を貼り付けたままだった。
「何故何も仕掛けて来ないんでしょう。かえって気味が悪い」
 こぼすケーニカの声もまた、重い疲労を含み始めていた。
 『指』を避けたエツカが、その『腕』を半ばから切断する。
 素早く業神の背後に回りこんだハルベルトは、銀の火をまといつかせた細剣を揮って、業神の背から突き出た、触手とも手指ともつかぬ奇妙な『翼』の片方を完全に切断した。
 バランスを崩してか、低く唸った業神がまたよろめく。
 激情に駆られてではなく、冷静な計算のうえで二十アルネルを跳躍したジーンは、着地した『腕』に剣を突き立てながら肩へと駆け上がった。
 鋭利な剣によって切り開かれた『腕』がぱっくりと開き、黒々とした肉をさらして粘液のような血を流す。
「夜歌! 毒だ!」
 鋭く言って、『核』へと向かう。
 夜歌がやれやれとつぶやくのが聞こえた。

【奸神(カンシン)ウルグレス・イル・ドゥーガの名において。薔薇の毒よ在れ、腐肉を刺して在れ、死蜂のごとく在れ】

 言霊は強く、よどみなく揺るぎない。
【聖呪の雅毒よここに在れ】
 発動の言葉とともに夜歌の身体から噴き上がった漆黒の霧が、蜂の大群のような音を立てながらジーンの切り裂いた『腕』へ襲いかかる。
 霧の触れた部分が、未だ無残な肉をさらすそこが、ぐずぐずと煙を噴き上げて爛れ、腐り落ちてゆく。毒はそこだけには留まらず、やはり羽音にも似た唸りを上げて『腕』を這い上がると、肩を経由して別の『腕』を舐め、それもまたぐずぐずと腐らせてしまった。
 思わず顔をしかめたくなるような、気分が悪くなるような腐臭が立ちのぼり、自分で指示しておきながらジーンは胸中に毒づく。
 徐々に削られてきているのだろう、『腕』は、『指』は、再生しなかった。
 『核』は――それでも、笑っていた。
 風に、光に、氷の竜にまといつかれ、毒に冒され、幾重にも切り刻まれながら、その美しい面は一片の苦痛も含まなかった。
 それは、崩れ落ちる寸前の、熟しきった果実のような甘さをはらんでいた。
『面白い。面白いな、汝は』
 首筋へ到達したジーンに、『核』が黄金の目を向ける。淫靡な視線に背筋が寒くなる。それはジーンが、生まれて初めて出会う類いの目であり、生まれて初めて経験する類いの表情だった。
 しかしその目は、どこか真摯だった。
『あれらは――……汝の、枷か。汝を縛るものか。あの枷のゆえに、汝は未だそこへ留まるか』
「何の……」
『枷なくば……枷を喪えば、汝は……どうなるのだろうな。怒(いか)るのだろうか、嘆くのだろうか、――――狂うのだろうか。狂った汝は、我らの元へ来(きた)るのだろうか』
「――話をしている」
『決めた』
 ジーンには答えず、端的に言って『核』は笑った。
 ゲラゲラとけたたましく――晴れやかに、そして何故か、愛しげに。
『汝に苦悩をやろう。嘆きと怒りをやろう。我が身を持って礎としよう。かの偉大なる方の御為(おんため)に』
 ジーンは眉根を寄せた。
 持って生まれた宿業のため、この数十年間で様々な困難と直面してきたジーンだが、今までかれの前に立った者たちは、皆、それなりに判る言葉を使い、それなりに理解出来る大義を抱いていた。
 しかしジーンには、今、目の前にいる業神が、歌うように語るそれが、いったいなんのことなのかさっぱり判らなかった。
 ――判らないのなら、倒してしまうしかない。
 魔のものの繰り言につきあう気もない。
 ジーンは無言で剣を構えたが、
『甘くは、見ぬ方がよい』
 それをちらりと横目に見た『核』が、楽しげに言って天を仰いだ。
 『核』から金色の、禍々しい光が立ち上った、そう思った瞬間だった。
 目も開けていられないほどの光が周囲を覆い、光に目を灼かれて思わず呻くと同時に、先刻の『針』にも倍する衝撃が全身を襲い、ジーンは声もなく地面へと叩きつけられた。
 あまりの衝撃に息が止まる。
 何かが――そう、例えば、大きな氷の塊のようなものが――砕け散る、甲高い悲痛な音が聞こえた。
 そこから数十秒で、光に灼かれた目が、徐々に視力を取り戻してゆく。
 激痛を訴える身体をどうにか起こし、今にも飛びそうになる意識を叱咤しながら周囲を見遣って、ジーンは瞠目した。
 先刻まで確かに大地を踏み締めて立ち、苦戦はしつつもそれに怖じることなく、意志が折れることもなく、共に戦っていたはずの同胞たちは、ひとり残らず倒れて、まるで棒切れのように転がっていた。
 武装の、そして身体のあちこちが焼け焦げている。
「夜歌……ケーニカ、ユイ――ハルベルト、エツカ、ルヴァ」
 順に名を呼ぶが、誰も、身動きしない。
 血のにじんだ唇が妙に生々しく、寒々しかった。胸が、肩が、わずかに上下し、その指先が時折ぴくりと動くことだけが、彼らが辛うじて生きている証明だった。
 しかしその呼吸は浅く、苦悶にひそめられた眉や、時々漏れる呻き声は、彼らの身体が深刻なダメージを受けたことを物語っていた。
『それで意識を残す汝が不思議でたまらぬ。神獣ですら、ああして倒れておるものを。――やはり、かの方の血のゆえか』
「だま、れ」
 毒づくと、喉の奥が引き攣れた。
 ダメージは、間違いなく受けている。
『炭になるほど灼きはせなんだが、放っておけば死ぬるぞ、あれらは。その様(ざま)では、汝には救えまいが。死ねば我が喰ろうてやる、無駄にはならぬ、案ずるな』
 『核』が楽しげに口ずさむ。
 何とか上体は起こしたものの、立ち上がることが出来ずにジーンは呻く。
 臓腑のいくつかが、耐え難い熱を持っていた。
『力及ばぬ己が口惜しいだろう。都市の守護者などと粋がろうとも、所詮ヒトはヒトだ。強大な魔に敵うはずもない』
「うるさい」
『我も倒せぬ汝が、真に他者を守り得ると思うか』
「下衆な魔が、やかましい」
 ジーンの悪態に、『核』はカラカラと笑った。
『口達者なことだ。だが、それだけでは、いかようにもならぬ。――我らが元へ来い、宿業の子よ。さすれば、汝の望む力が得られよう』
「口を閉じろ、いい加減に」
『強がるな……意識を保っておるので精一杯のくせに』
 面白がるような声とともにするりと伸びた『指』が、悪ふざけでもするような気安さでジーンを弾き飛ばす。
 大柄ではなくとも小柄でもない、頑丈で剛健な筋肉に覆われているがゆえに、外見から想定されるほど軽くもないはずのジーンの身体は、こどもが指先で弾いた小さな石のかけら程度の軽やかさで吹き飛び、白い岩肌へと叩きつけられた。
「っあ、ぐ……!」
 ジーンはなすすべもなく岩壁に激突し、体勢も整えられぬまま、地面に滑り落ちる。
 みしみしと身体が軋み、目の前が暗くなったが、
『つまらぬ……まったくもってつまらぬな、騎士どの。これでは何のために『生まれ』たやら判らぬ。我は業神、暗黒の業を背負いたるもの。同じく、かの灯火の光臨により生まれ出でたる影なり。我が責務は灯をかき消すこと、我が悦びは灯火の死』
 不思議な音韻とともに告げられたそれに、ジーンは弾かれたような勢いで顔を上げた。
「……貴様は」
『我だけではないぞ。今代の灯火は特に光が強い、これより無数に涌いて出よう。それでこその灯火、それでこその我らだ』
 予感の的中に、ジーンは唇を引き結んだ。
 業神の言うことが確かならば、神殿都市はこれより、灯火不在のためではない危険、終わりのないそれに見舞われることになる。
 そして灯火は、櫻良は、常に命の危機を抱えて生きるしかないということになる。
『おお、そうだ』
 『核』の声はどこまでも楽しげで、どこまでも歪んでいた。
『ならば、汝の前でかの灯火を殺してやろう』
「な、ん……」
『足が砕けるまで……気が狂うまで追い回し、捕えて、犯して、引き裂いて、喰らってやろう、汝の目の前で』
 禍々しい金眼が、狂った喜悦を含んでぎらぎらと輝く。
『小さな、愛らしい乙女だそうではないか。さぞや可愛らしく鳴いてくれるであろうな。その肉は、血は、涙は、さぞや甘く熱いのであろうな。――それを目にしたとき、汝は、狂うのだろうか?』
 ――脳裏をよぎったのは、小さな灯火の、嬉しそうな笑顔だ。
 都市の美しさに驚き、世界の美しさに驚き、まちの優しさに驚いていた、素直で可愛らしい灯火の笑顔だ。
 手首の銀環が、きしりと音を立てた。
「ふ……」
 ジーンは限界を感じていた。
 迫り来る『それ』を、甘受しようとしていた。
 神殿都市を守るためにある同胞が、神殿騎士たちが、戦いによって命を落とそうとも、それはひとつの結末であり、運命だった。そのためにあるも同然の命なのだから。
 ジーンはそれを嘆きこそすれ、憤りこそすれ、そのために狂いはしなかっただろう。
 しかし、灯火は別だった。
 櫻良は、あの小柄な少女は、何も知らずに平和な世界から迷い込み、何も判らぬままに重い称号を得ただけの、罪も咎もない、無邪気で純粋な、ただの人間だった。
 ジーンが、神殿騎士の名をいただくものが、命をかけて守るべき存在のひとつに過ぎなかった。
 そしてジーンは、出会ってたかだか二日のうちに、確かに、彼女を失いたくないと思うようになっている。もっと、彼女を見ていたいと、あのよく動く表情を追っていたいと、確かにそう思っている。
 きっと今、なすすべもなく彼女を失えば、ジーンは正常ではいられないだろう。
 そんな、予感がしていた。
「ふざける、な」
 ぱきり。
 硬いものに、亀裂の入る音がする。
「灯火に害なすものの一切を滅ぼし尽くすことこそ我が務め」
 ぱきんっ。
 銀環の一本が、割れて弾け飛んだ。
 続いて、二本、三本と、次々に割れて砕けてゆく。
「……貴様は、敵だ」
 ジーンはゆっくりと身体を起こし、立ち上がった。
 金の双眸に火がともる。
 身体の痛みなど、今は遠い。
 ぱきんっ。
 最後の、四本目の環が砕けて落ちる。
 『核』は笑いを収めていた。
『――……ああ』
 同じ色の禍々しい目には、やはりどこか真摯な光が宿っていた。
『それで、よい』
 めきめきと、自分の身体が鈍い音を立てるのを、ジーンは意識の端で聴いていた。それが何を意味するのかを理解していた。
『本能に身を委ねよ。感情の赴くままに生きよ』
 業神の顔に張りついた魔物たちが、がちがちと歯を噛み鳴らして同意する。
『努々(ゆめゆめ)忘れるでないぞ』
 ぱりぱりという音を立てて、何かが自分を覆ってゆくのが判る。
 それはひどく懐かしく、ひどく慣れた、そしてひどくおぞましい感覚だった。 ジーンはそれに半ば安堵し、半ば絶望しながらも、すべてを甘受するのだ。
 果たすべき責務を果たすために。
 得た光を守るために。
『心せよ。かの方が、常に汝を待ち望んでおられるということを』
 ――そこまでが、ジーンがジーンとして聞いた、最後の言葉だった。

 次の瞬間、風を切って飛ぶ何かと、獣の絶叫と咆哮と、肉を引き裂く生々しい音とが、辺り一面に響き渡った。
 夜の谷を、その大音響が震わせる。
 そして数分もせずにそれが終わると、やがて谷は、物音ひとつない静寂の中へ落ち込んで行った。