銀の馬車が、大神殿をぐるりと取り囲む壁、籐細工を思わせる不思議な質感のそれをくぐった瞬間、大きな――歓喜を含んだ声が上がり、空から花びらが降ってきた。
「わあー……!」
赤、白、黄色、桃色に紫色、金色や銀色。
色鮮やかな、やわらかな花弁が、まるで羽根や雪のように宙を舞うのを、櫻良は感嘆とともに見上げた。
みっともないことに、ぽかんと口が開いていた気がして、慌てて両手を口元に当てる。
しかし、この場に集った人々、喜ばしい日の訪れに沸き立つ都市民たちは、櫻良のそんな内心になど気づかぬ様子で、次々と手にした花びらを宙へ撒き、また風に舞わせた。
馬車の前後を毅然と歩く、パレード要員兼護衛を務める神殿騎士団第二部隊の騎士たちが、目を細めてそれらを観ているのが判る。
ちなみにパレードの先頭を行くのは、第二部隊副隊長のアーティス・ケイプだ。
このパレードを一番楽しみにしていた、第二部隊隊長であるリコが神官としての参加を要請されたために、指揮官として駆り出されたらしい。飄々とした青年ではあるが、時折諦観めいた感情がその顔をかすめるのは致し方ないことだろう。
しかし、何にせよ、一糸乱れぬ騎士たちの歩みを含め、この空間は美しかった。
「きれい。なんか……夢みたい」
まさか、自分がこんな美しい式典に参加することになるなんて、しかも式典の主役になる日が来るだなんて、故郷にいた頃、わずか十日ほど前には予想もしなかった。
隣のジーンは、櫻良のつぶやきに対して何も言わなかった。
ただ、どこまでも洗練された所作で立ち上がり、白くて長い、優美で武骨な手を櫻良に差し出しただけだ。
櫻良はその一連の動作にさえ魅了されて、ぼうっとかれを見上げたまま、思わず溜め息をつきそうになった。事実、今のジーンは、衣装の美麗さもあいまって、ひたすら完璧に美しかった。
「えーと……?」
ジーンがなおも手を差し出したまま微動だにしないので、何のことだろう、と、櫻良は思い切り間抜け顔で、またしてもぽかんとジーンを見上げたのだが、周囲へチラリと視線を向けてみると、夜歌の曳く美しい馬車が、神殿都市の最中央部、大神殿と呼ばれる白亜の建物の前で止まったところだった。
美しい動作で立ち止まった騎士たちが、馬車の前後左右で、道を指し示すかのように神殿を向いてひざまずく。
それで櫻良は、自分のなすべきことをようやく思い出した。
「あ、降りるの?」
ジーンからかすかに頷きが返る。
櫻良は頷き返して、ちょっと照れながらジーンの手をとった。
レースの手袋越しに伝わる体温に、頬が熱くなる。
「……きれいなところだね」
それをジーンに気取られぬよう――といっても、間違いなくジーンは気づかないだろうが――顔を引き締めてから、櫻良はジーンの手に引かれるようにして馬車から降りる。
大神殿前広場に集った人々、今日の式典の参加者たちが、櫻良が地に降り立つと同時にまた歓声を上げた。それと同時に、再び色とりどりの花びらが宙を舞う。
その歓迎ぶりに恐縮しつつも、櫻良は、花吹雪の美しさに目を細めた。
色とりどりのやわらかな花びらが、式典用の、凛々しく豪奢な衣装に身を包んだ神殿騎士たち、まるで精緻な彫像にでもなったかのようにその場にひざまずく彼らの、様々な色合いの髪にふわりと舞い落ちる様もまた美しかった。
――こんなに美しいものを、こんな美しい空間を、櫻良は今までに見たことがなかった。
それだけで、ここにこうしている自分を幸運だと思う。
たくさんの優しい人たちに出会えたこととともに。
「行こうか、櫻良」
「……うん」
ジーンに促されるまま、瑞々しい花束で象られた二本のライン、神殿前広場の真ん中を、神殿に向かって真直ぐに貫く『道』をゆっくりと――何せドレスというやつは驚くほど動きにくい――歩くたび、周囲から歓喜の声が上がり、花びらがやわらかく舞った。
《女神の灯火》を讃えその来訪を祝福する声と、《烈火の剛翼》ジーンの働きを讃える声とが、熱っぽさを伴ってあちこちから聞かれる。
櫻良は時折はにかんだ笑みとともに手を振りつつ、ジーンに遅れぬよう、そしてジーンに恥ずかしい思いだけはさせないようにと、背筋をぴんと伸ばして歩を進めた。
馬の姿から人型を取った夜歌が、ふたりの背後からゆったりとした足取りでついてくるのが判る。
櫻良の通っていた学校が二つくらい入りそうな広さのそこには、白くてすべすべした手触りのいい石のタイルが敷き詰めてあった。
そして、花束のラインの内側、櫻良とジーンが通る部分にだけ、まるでおとぎ話の体現のように、金の糸で縁取られた赤い絨毯が、長々と神殿に向かって敷かれている。
絨毯は、白亜の神殿の高い位置、神子姫フォウミナの待つ階段の先にまで続いていた。
ジーンに導かれ、櫻良はその階段をゆっくりと昇る。
式典とはまったく関係のない懸念、ドレスの裾を踏んづけて引っ繰り返らないだろうか、などという意識にハラハラしつつ。
その背へ、その耳へ、人々の歓喜の声が次々に投げかけられる。
「貴き灯に幸いあれ!」
「ああ、灯よ、麗しき神々の門よ。あなたを通じて差し伸べられる神々の手に感謝を!」
「ご来訪を歓迎いたします、界護の姫!」
「ああ……今日はなんて素晴らしい日なのかしら。わたしたちはなんて幸運なのかしら。《女神の灯火》を、その訪れをこうして目の当たりにすることが出来たのですもの」
「なんて可愛らしい方。ほら……あんなに、恥ずかしそうに。ああ、見て、でも手を振ってくださったわ」
「灯火を奉じ、守る責務を再び与えられた我々は幸いだ。それは、世界の平和を守るのと同義なのだから」
分不相応とさえ思うほどの敬意と、そして紛れもない親愛の情が、櫻良の胸を熱くする。
彼女自身は特別な力を何も持たない少女でしかないが、櫻良がここにいることで、それだけで、彼らは平和が与えられ、幸せになれるのだ。少なくとも、この場に集った人々は皆、そう信じて櫻良に笑顔を向けるのだ。
だとしたら、今のこの瞬間、この場で一番幸せなのは、間違いなく櫻良自身だった。
自分にやわらかな感情と好意とを向けてくれる人々の、その安らぎと幸いのために存在できる、自分を大切にしてくれる誰かを幸せにできる、そのことを得がたい喜びだと思う。
そして、そのために自分が何をすべきなのか、何が出来るのかを、少しずつ模索していかなくてはとも思う。
「あたし……」
「どうした、櫻良」
思わずこぼしたつぶやきに、隣を行くジーンが彼女を見る。
うん、と、櫻良は頷いた。
「あのね」
「ああ」
「神殿都市の人たちが、本当に好きになっちゃったなぁって」
「……そうか」
「あたしがここにいたら、皆幸せになれる?」
「ああ」
「そっか」
「いや……違うな」
「え?」
「今、もうすでに、皆幸せだ」
「……本当に、そうなの、かな……」
「無論。己を賭してでも守るべき、貴いものを得た」
「あたし、よく判んない。だってあたし、本当に、普通の、なーんにもない子どもなんだもん」
「――少なくとも、私たちは皆そのために生き、そう生きられる己を何よりの幸いと思っている」
「うん……だったら、頑張らなくちゃ、だめだよね。あたしに出来ること、いっぱい探さなきゃ」
「……ああ」
ぽつりぽつりと、言葉を探しながら言う櫻良に、ジーンが穏やかな笑みとともに頷く。ジーンが向けてくれる笑顔が嬉しくて、櫻良は無邪気に笑み崩れ、その喜びを噛み締めた。
それと同時に、ふたりは桃天華大神殿本殿への入口、今日の式典が執り行われる場所へと辿り着いた。
ちょっとした広場程度の広さがあるそこには、高位神官や来賓のための席が左右両端にしつらえてあった。
神官たちの中に、まぶしい金髪を美しく結い上げ、式典用の正装に身を包んだリコ・エス・フィールドの姿がある。櫻良と目が合うと、南国の海のような青い目がやわらかい笑みをかたちづくった。
無性にホッとして、櫻良もまた笑い返す。
そして最奥部中央、つまり本殿への入口付近には、馬車と同じ銀色の蔦で作られた、繊細優美な花篭を思わせる椅子が据えつけられ、ふたつあるそれの片方には、背後を長身の男前に守られるようにして、銀の髪の神々しい乙女が腰かけている。
彼女は、淡い青と白を貴重とした、櫻良の衣装と同じような、シンプルだがラインの優美なドレスを身にまとい、レースのショールと同じデザインの手袋、ダイヤモンドを思わせる宝石が輝くネックレスを身につけていた。
それは決して豪奢ではなかったが、その簡素さはむしろ、神子姫フォウミナの圧倒的にして絶対的な美を引き立てるばかりで、彼女の美しさ神々しさを損なうことは一切なかった。
神子姫の座す空間だけが、まったく別の世界のように思える。
その背後に控える渋い男前が、神武官ヴァルレイズだということに気づくまで時間がかかったのは、彼が髭や髪を整えられ、神官用の豪奢な正装に身を包んでいたからだ。
ジーンが、洗練された美しい動作で、櫻良に銀の椅子を指し示した。
「さあ、神子姫がお待ちだ、《女神の灯火》。碌でもない主だが、お前に無体を働くほど非情でもない。どうかともに、今日の喜びを分かち合って差し上げてくれ」
「う、うん」
無論、神子姫への気後れを感じなくなったわけではない。
ジーンと神子姫とが、本当に騎士と主人というだけの関係なのか、きちんと確かめられたわけでもない。
それでも、ゆったりと立ち上がり、その輝かんばかりの美貌に偽りのない親愛の色彩を載せて自分を見る乙女に、自分勝手な悪感情を抱くことは出来そうになかった。
ドレスの裾を踏まないよう、行儀悪く見えないように努力して歩き、神子姫の元へ辿り着くと、フォウミナが月長石の目をゆるりと輝かせて櫻良の手をとった。
そして、その場にひざまずくや、レースの手袋で覆われた櫻良の手の甲に、ゆったりと口づける。
「え、あ、うぁ、あ、あの、そそそ、その……ッ」
まさか神殿都市一の貴人にそんなことをされるとは夢にも思わず、櫻良は絶妙にテンパった。
櫻良の手を押し頂くようにした神子姫が、麗しく恭しい仕草でその手を自分の額に当て、なにごとかをつぶやくのへ、辛抱たまらんパニック寸前状態になる。
「あ、ああああの、み、神子姫様……!?」
事情を知らぬ廃棄世界の民に多くを強いては可哀相だという理由から、式典の内容そのものを聞かされておらず、「とりあえず座っていればいい」程度の認識でいた櫻良は、何がどうなっているのか、何をどうすればいいのかと、救いを求めて周囲を挙動不審者そのものの動きで見渡すものの、誰もが微動だにしない。
恐らく、披露目の式典としては、何の奇妙さもない行為なのだろう。
階段付近に留まったジーンと夜歌も、ごくごく普通の、当然の事柄を見るかのような目でこちらを見ているだけだ。
(うひー、み、神子姫様のおでこが汚れちゃったらどうしよう! ううううう、あたし一体どうすれば……!?)
そんな、櫻良の内心など知らぬげに、神子姫はなおもなにごとかをつぶやいていたが、ややあって、満面の笑みとともに立ち上がり、櫻良を促して階段付近へと再度近づいた。
広く高い階段から、神殿前広場を見下ろす恰好になると、広場をびっしりと埋める人々から、ひときわ大きな歓声が上がった。
フォウミナが麗しいとしか表現しようのない笑みでその美貌を彩る。
そして、その唇がゆっくりと開かれたかと思うと、
「平安の時は来(きた)れり!」
朗々と美しい、どこまでも澄んでよく通る声が響き渡る。
わああっ、と、人々がそれに応えた。
「神なる灯は光臨せり、神々の門は開かれたり!」
それは、平素の神子姫の言葉遣いではない、古めかしい、櫻良にはイマイチ理解出来ない言い方だったが、食い入るように神子姫を、櫻良を見つめる人々の目は、フォウミナが言葉を重ねるたびに、怒涛のごとき歓喜に彩られていった。
「さあ、讃えましょう、《女神の灯火》を。そして守りましょう、わたしたちのすべてをかけて!」
ようやく普通の口調に戻ったフォウミナが、櫻良の背を抱くようにしながら、そう高らかに告げると、神殿が揺れたかと錯覚するほどの大歓声が上がり、そして割れんばかりの拍手が巻き起こった。
フォウミナを、女神たちを、櫻良を呼ぶ声があたりに満ちる。
それと時を同じくして、薄紅の灯が燃える真珠塔から、灯がともった瞬間のものと同じ、不可視の鐘の音が鳴り響いた。
高らかに力強い、喜びと希望を含んだそれが周囲を震わせ、その音に触発されたかのように、神殿の後方にある真珠塔の天辺に揺れる、薄紅の灯が輝きを増した。
幻想的で美しい、まさに夢のようなと表現するのが相応しい空間だった。
櫻良はそれらを、自分が何故ここにいるのかすらも忘れてしまいそうなほどに、ぼうっと……うっとりと見上げ、また聞き惚れていたが、
『……ご挨拶を申し上げてもよろしいか』
不意に、背後から、驚くほど美しい、どこか人知を超越した声が響いたので、それでハッと我に返った。
声を聞いた神子姫が、美しい弧を描く唇を深い笑みのかたちにする。
「ええと……、っ!?」
首を傾げ、後ろを振り向いた櫻良は、そこにいた人々を目にするや思わず絶句し、固まった。
「あ、あの……」
何故なら、櫻良の背後、広場の中央に集った人々は、明らかに人間ではなかったのだ。
一目でそれと判るほどに。
いつの間に彼らがここに来たのか、いつこの場に現れたのか、さっぱり判らなかったことも混乱に拍車をかけた。先刻ちらりと見遣った来賓席には、間違いなくいなかったと断言出来る。
「――……四櫂(シカイ)の竜王。まさか、姿を現すとは」
ジーンの声、わずかな感嘆を含んだそれが、どこか遠くに感じられる。
そこにいたのは、四人の美麗な男たちだった。
真珠色の髪をした長身の青年と、深いブロンズの髪をした大柄な男と、光沢のある青い髪をした細身の若者と、燃えるような真紅の髪をした小柄な少年とが、美麗な衣装を身にまとって佇んでいる。
肌は一様に白く、目は一様に目映い黄金だ。
しかし櫻良は、それらの色彩が明らかに地球ではありえないものだったから、彼らを人間ではないと思ったわけではなかった。
「え、あ、そ……」
彼らの耳は一様に長く尖り、額の真ん中には髪と同じ色の、楕円形の宝石がはめ込まれていた。否、はめ込まれていたというよりは、埋まっていると表現する方が正しいかもしれない。
そして何よりも、彼らを人間とは違う存在だと主張するのは、その美貌や首筋に貼りつく鱗だった。全身にあるわけではないが、額の宝石の周囲や眼元、顎や頬などを、幾何学的に覆うそれらは、明らかにシールや飾りの類いには見えない。
一枚一枚が宝石のようなそれらは、さんさんと降り注ぐ陽光を受けてきらきらと輝いていた。
混乱を極める櫻良の傍で、フォウミナがにっこりと笑い、ドレスの裾を優雅につまんで一礼する。
「来てくださったのね、四櫂を統べる竜王よ。同じ神代の生き物として、共にこの喜びを分かち合えることを嬉しく思うわ」
神子姫の言葉に、竜王と呼ばれた四人が微笑む。穏やかでやわらかい、理知と慈悲の見える笑みだった。
口を開いたのは、真珠色の髪に白銀の鱗の青年だ。
神々しい黄金の目が、櫻良を見つめている。
おずおずとその目を見つめ返したとき、櫻良の脳裏をよぎったのは、十日ほど前にジーンと出かけたシェリア花丘と、そのはるか高い空をゆったりと飛ぶ、巨大で美しい生き物の姿だった。
『――……可愛らしい灯がともったと聞いて、いてもたってもいられず駆けつけたのだ。なるほど確かに、今代の灯は強く美しいな。これならば、神々の光が世界を温めるまでそう時間はかかるまいよ』
そう言ってから、青年は櫻良の元へ歩み寄り、彼女の目の前でゆったりとひざまずいた。これまでの経緯から何となく予想はしていたものの、ビバ一般人的人生を爆走してきた櫻良はそれに慣れることも出来ず、見事に固まる。
青年はそれに構うことなく櫻良の手を取り、
『お初にお目にかかる、貴き灯よ。私は四櫂の一、西の白櫂を統べる碩竜王(せきりゅうおう)、名を彩(ハヤ)と申す者。遠き地よりの、界護の姫のご来訪、心より歓迎申し上げる』
朗々たる声で告げると、またしても櫻良の手に口づけた。
そのときの櫻良の狼狽たるや並のものではない。
ぅひいっ! という間抜けな悲鳴は何とか櫻良の内心に留まるだけで済んだが、
『彩、姫君を独り占めするでないわ。我らにも挨拶させぬか』
ブロンズの髪に鋼色の鱗をした男の声とともに、残り三人の竜王たちが歩み寄ってきたもので、櫻良は思わず真っ白に燃え尽きそうになった。心臓に悪いほどの美形に囲まれ、分不相応な扱いを受けてもあっけらかんとしていられるほど、櫻良は特別な人生を歩んできたわけではないのだ。
しかし、櫻良のそんな焦りやパニックなどまったく理解していない風情で、鮮やかな色彩をまとった竜王たちが櫻良の目の前で深々と一礼する。
『ご光臨お喜び申し上げる、界護の聖姫よ。某(それがし)は四櫂の一、東の青櫂を統べる擁竜王(ようりゅうおう)、顕(アラタ)と申す。何卒(なにとぞ)、よしなに』
四人の中では一番としかさに見えるブロンズの髪の男が、そう名乗ると、碩竜王彩を押し退けるようにして櫻良の手を取り、その甲にそっと唇を触れさせた。彩よりも背の高い、どちらかというと武骨な、男性的な美貌の持ち主だったが、その手つきはやさしく、触れた唇はやわらかかった。
『順番ですよ、顕。用が済んだら場所を空けてください。――初めまして、姫君。お目にかかれたことを本当に嬉しく思います。わたくしは四櫂の一、北の黒櫂を統べる渦竜王、名を慈(ウツミ)と申します。聞けば姫君は廃棄世界から来られたとか。どうかこの世界をお楽しみになってください』
地球ではありえない青い髪にサファイアのような鱗をした、どことなく女性的な面立ちの青年がそう名乗り、擁竜王顕を蹴飛ばすようにして立ち上がらせ、今度は自分が櫻良の前にひざまずいた。
細くて白い指先が櫻良の手を取り、紅も差していないのにほんのりと赤い唇が、櫻良の手の甲に口づけを落とす。
もう何が何やら判らず、あうあうあう、と、声にならない悲鳴でいっぱいの櫻良に、慈が華やかな笑みを向けた。
『なんとも可愛らしい方ですね。時勢さえ許せば、我が花嫁に望みたいくらいです』
「うえっ!? い、いえあの、その……っ」
本気とも冗談とも取れぬ口調で言ってくすくす笑う慈に、櫻良は首まで真っ赤になった。
情けないと笑われるかもしれないが、眩暈がするほどの美人さんにそんなことを言われて動転しない一般的地球人がいたら是非ともお目にかかりたい。そしてその強心臓の秘訣を教わりたいものだ、と思う。
『ええい、この変態め、そなたの論理で灯火を困らせるでないわ。いいからその手を一刻も早く放せ、わしが挨拶できぬであろうが』
渦竜王慈の後頭部に見事な手刀を食らわせ、顔をしかめて立ち上がった慈を押し退けて櫻良の前にひざまずいたのは、櫻良と同じくらいか、もしくはほんの少し年上のように見える小柄な少年だった。
真紅の髪と、夕日のようなオレンジ色の鱗をした彼は、忌々しげに慈を睨んだあと、深々と一礼してから櫻良を見上げた。
『失礼仕(つかまつ)った、《女神の灯火》よ。あれはほんに可愛らしいもの美しいものが好きでな、あのような戯言を言っては人を困らせるのだ。嫌がる乙女に無理を通すほど非情ではないゆえ、ご安心召されよ』
「え、あ、はい、あの……その、ええと、すみません、どうもありがとうございます……」
『――ふむ、慈の気持ちも判らなくはないがな。わしは四櫂の一、南の赤櫂を統べる熾竜王(しりゅうおう)、皙(アキラ)と申す。貴き灯のご来訪、心よりお喜び申し上げる。姫の幸いと安寧を祈ろう』
黄金の目をきらめかせた皙が、スタンダードであるかのように櫻良の手を取り、その甲に口づける。櫻良は少々現実逃避気味に、一番年下に見える少年竜王がもっとも年寄り臭い口調なのはどうしてだろう、などと考えていた。
夜歌が以前に言った言葉、竜王たちは一万年でも十万年でも生きる、というそれが脳裏をよぎる。
きっと、恐らく、彼らは櫻良の想像も及ばぬ長い時間を生きているということなのだろう。
怒涛のごとき展開に、危うく燃えつきかけていた櫻良だったが、歓迎してもらったからにはきちんとお礼を言わなくては、という意識の元、己を叱咤して口を開く。
「あ、あの」
それはまさに、蚊の鳴くようなと言うのが相応しい、情けなさ全開の声だったが、
「皆さん、あの、本当に、ど……どうもありがとうございます。あの、あたし、頑張ります」
櫻良が必死で言葉を搾り出し、フォウミナがしたようにとは行かぬものの、みっともない印象を与えないようにと気を配りつつ、ドレスをつまんでたどたどしくお辞儀をすると、四櫂の竜王のみならず、席についた神官や来賓たち――そのほとんどが神殿都市の近隣市町村の長たちだ――、そしてこの場の守護を司る騎士たちの顔にも、やわらかな友愛を含んだ笑みが浮かんだ。
あちこちからこぼれる、好意を含んだ笑い声に、櫻良は自分が迷い込んだのがこの世界で本当によかった、と思った。
ふとジーンに目をやると、竜王たちのものとよく似たまぶしい黄金の目は、無表情に――しかし決して無感動ではなく――、一連の挨拶劇を観察している様子だった。
時折周囲に視線を移すのは、危険がないか確認しているからだろう。
この一件でどっと疲れた櫻良は、あとは何があるんだろう、と小さく息を吐いた。
その時、ジーンの目が、階下の神殿前広場へと向けられ、
「……ジーン?」
そしてあからさまに剣呑な光を宿した。
何かに気づいたのか、神子姫が、四櫂の竜王たちが、ジーンと同じ動作をする。
フォウミナが大げさに溜め息をつき、滑らかな繊手を褐色の頬に当てた。
「招かれざる客ね」
『仮にも所属国だろう。誰も招かなかったのか』
「あら、彩。あなたは気に食わない馬鹿を、こんなにめでたくて楽しい日に同席させてあげようと思うほど心が広いの?」
『……広いとは言わんが、姫ほど狭くもないぞ』
「だって、招待状を書くことすら面倒臭かったんですもの。今日お招きしたお客様たちは、皆、いつも神殿都市と仲良くしてくださってる素敵な方たちばかりなのよ? その中に、あんな無粋な連中を招きいれては失礼でしょう」
『私に同意を求められても困る。そもそも、人の世のことは我々には無関係だからな』
「まったく、神獣族のそういうところが嫌いなのよ、わたしは」
神子姫と碩竜王とが、淡々と仄かに恐ろしい会話を交わす中、櫻良が階下を見下ろすと、広場に集った人々を蹴散らさんばかりの勢いで、豪奢な馬車が突っ込んでくるところだった。
四頭立ての、黄金で彩られた大きな馬車には、薔薇と獅子が描かれた旗が掲げられている。
「ええと……?」
いつの間にか、なにごとかと首を傾げる櫻良の隣に歩み寄っていたジーンが、いつにも増して淡々とつぶやいた。
「……王都からの使者だろう」
「って、どういうこと?」
「灯火の披露目の式典に招待されなかった抗議文でも持って来たかな。あそこの国王陛下はプライドばかり高い」
「え、お、怒ってるの?」
「多分な」
「それって、すっごく困ったことになるんじゃ……」
「はっ、威信を失った王家など、何を恐れる必要がある」
「そ、そういうもの、なの……?」
「お前は何も心配しなくていい、櫻良。いかなるくちばしも、いかなる危機も、お前に害なすものならば、私が斬って捨てるから」
謳うように告げられたそれに、櫻良が絶句するのと同時に、馬車から五人の男女が降りてきた。
櫻良はそれを、何とも言い難い表情で見つめていた。