「――姫、結界を」
「ええ」
まったく感情の揺らぎを含まない、ただただ美しいばかりのジーンの言葉に、緊迫感の欠片もなくにっこり笑った神子姫が、華奢なのにしなやかで力強い、褐色の繊手を宙に滑らせると、神殿の周囲、空を含んだ一帯がほんの一瞬きらきらとした光を反射した。
光はすぐに消えたが、櫻良があれは一体何だったのかと訝るよりも早く、
「け……結界を、何故、消してしまわれるのですか……!?」
魔族のあまりの多さに絶句し、その場に座り込んでしまっていた使者のひとり、ウベルが、恐怖のために蒼白となった顔で、何か信じられぬものを見るかのように神子姫を見上げたので、納得した。
「あ……あなたは、この神殿都市を、そして世界を守護する双女神の化身なのでしょう!? そのあなたが、我ら使者を危険にさらすと仰るのですか! 王都との関係を悪化させたくないのなら、今すぐに結界を戻してください!」
恐怖のあまり――つまり、魔族の出現とは死と密接に関わっているのだ――、礼儀や上辺ばかりの丁寧さをかなぐり捨てた女使者もまた、悲鳴に近い金切り声で神子姫の非を詰った。
護衛のふたりは使者たちを守ろうとしてか、彼らより一歩前に出ていたが、その腰が引けているのは明らかだったし、グレイシアはなんとか威厳を保とうと表情を引き締めてはいたものの、時折目の下が、内心の焦りを表すかのようにぴくぴくと動いていた。
それが、恐らく、魔族を前にしたときの、この世界に住まう人々の普通の反応なのだろう。
これこそが、当然の姿なのだろう。
だが、神子姫は容赦なくマイペースだった。
「少し黙りなさい、無粋なお客様方。ここにいる誰もが、これから起きることを理解して口を閉ざしているものを」
「な……」
「王の代理たる使者に対して、なんと、無礼な……」
「あら……わたしの支配するこの神殿都市で、不思議なことを仰るのね。ここではわたしが法なのよ。わたしこそが絶対なの。――おつきあいも長いのに、ご存じなかったの?」
くすり、と笑った神子姫の、ほっそりとした全身から、外見の美しさとは裏腹の、怒り猛る獅子もかくや、というほどの、壮絶にして激烈なオーラが立ちのぼり――何せ気配などというものに疎い櫻良にすら判ったほどだ、きっと周囲にいた誰もが理解しただろう――、使者たちをあっという間に沈黙させてしまった。
お利巧さんね、と、多分に毒を含んだ眼差しで神子姫が言った時、黙ったまま空の向こうを見つめていたジーンの周囲で、オーロラのような光をまとった強い風が吹いた。
それは清廉で、芳醇で、静謐だった。
ジーンの髪を飾っていた宝石の欠片たちは、その強い風によって吹き散らかされ、きらきらと輝きながらかれの周囲に飛び散った。束縛から解き放たれて自由になった黒髪と、はだけられた漆黒の衣装が、舞を舞うかのような優雅さで揺らめく。
(きれい……)
魔族はすでに、肉眼でも人のかたちをしていると判るほどの距離まで近づいてきていた。きらりきらりと時折反射するのは、魔族たちの、メタリックカラーの目だろうか。
そこに、禍々しい、容赦も情けも持たない攻撃性と、他者を傷つけることへの絶大な悦びを感じ取り、櫻良は無意識に拳を握り締めていた。手の平に嫌な汗をかいている。
それは、例えば、櫻良が犠牲になれば魔族たちが退くとかそういう問題ではないのだ。
魔族と人間とは、そんなにも相容れない存在同士なのだろう。
やがて徐々に、魔族たちが、『殺せ』とか『皆殺しにしろ』とか『血の宴だ』とか、そういった、不吉で禍々しい喜悦を含んだ言葉を口々に喚いているのが聞こえるようになってきた。
不安に駆られた櫻良が、拠りどころを求めるようにジーンを見遣ると、かれは、特に感慨もない様子で魔族たちを見上げていた。かれは、他の、別の何ごとかを考えているようだったが、
「……仕方ない、か」
ぽつりとつぶやき、ひとつ息を吐いた。
――その瞬間、ジーンの白い背中に光が瞬いた。
錯覚かと目をこすった櫻良だったが、その光は消えるどころか徐々に強さを増し、ひときわ強く輝き、渦巻いて、ジーンの背中を彩ってゆく。
シャラシャラ、サラサラという、涼しげな音がした。
「え、あ……!?」
光はジーンの背から天へ向かって徐々に実体化してゆき、やがて、大きな翼のかたちになった。
蝶や蜻蛉のような、鳥のような、蝙蝠のような、そのどれでもあるようでどれでもないような、そんな不思議なかたちをした翼の、もっとも奇妙な部分は、それがクリスタルガラスのように透き通っていたことだろう。事実、それはとても硬い材質で出来ているらしく、翼がわずかにはためいて、羽根と羽根が触れるたび、きらきらと光を反射しながら、シャン、と、鈴を思わせる金属音を立てた。
そして更に、そのクリスタルガラスの翼の中で、漆黒の雪か羽毛を髣髴とさせる、気体のような何かが、まるで生きているかのようにふわふわと舞い踊っている。
見れば見るほど不思議な現象だったが、見れば見るほど美しい翼だった。
櫻良は思わず溜め息をついていた。
ここ十日でたくさんの不思議と行き逢ってきたが、まさか、ジーンもまたそんな不思議の持ち主だったとは。
(きれい……夢みたい。羽根があるなんて、もしかしたらジーンは、天使か何かなのかな……)
緊迫した場面であることすら忘れて、うっとりとその羽根を見つめていた櫻良の胸の高鳴りは、
『なるほど……あれが、呪われた幻翅(げんし)か。確かに、不可解で忌まわしいな』
そんな、碩竜王彩の小さなつぶやきが耳に入った時点で、締め付けられるような痛みに変わった。碩竜王の言葉には、ただただ真実を述べているに過ぎない平坦さがあり、意味を云々するよりも先に、その冷淡さに櫻良はたじろがざるを得なかった。
恋する身として、ジーンを悪く言わないでほしいと思いはするが、人知を超えた存在である竜王が言うのだ、何か意味があるのだろう。
『……憐れなことだ。望んで負うた宿命ではなかろうに、ヒトの身で、かくも重い業に縛られるか。なあ、そうは思われぬか、東宮(とうぐう)殿』
【吾に言うておられるか、それを】
『貴殿以外に東宮殿がおられるか?』
【……もはや棄てたつもりでおるのだが】
『瑞帝(ずいてい)聖下は今でも貴殿をお待ちと聴くぞ』
【彼奴の都合など知らぬわ。貴殿が気になさることでもない、捨て置かれよ。もはや彼(か)の明かぬ地へ還る気はない。あれの傍らこそ吾が定め】
『――貴殿の思いも判らなくはない。我ら、永きを生きる神獣にとっては、尚更の幸いだろう。だが、瑞帝聖下は、大事な春宮(はるのみや)が宿業の子に魅入られたとお嘆きになられるだろうな』
【好きに嘆かせておかれよ。彼奴の繰り言にはもう飽きた】
彩と夜歌の、淡々とした……しかし根底に重く深い何かを含んだ会話を、櫻良は、理解できぬままにぼんやりと聞いていたが、視線は常にジーンを向いていた。
目を離すことが出来なかったのだ。
だが、目を離していないにもかかわらず、ジーンの額や頬や首筋に浮かび上がった濃紫色の痣(あざ)、炎か刃を髣髴とさせるどこか禍々しいそれが、いつの間に現れたのかさっぱり判らなかった。
それはまるでホログラフィのように、浮かんだり消えたり、薄くなったり濃くなったりを繰り返してから、ごくごく淡い藤色の痣となってジーンの肌に定着したかと思うと、そこから十数秒で何事もなかったように消えた。
一体あれは何だったんだろう、と櫻良が首を傾げるより早く、ジーンが、ほんの一瞬、何かを堪えるような――痛みを耐えるような表情をして、それから白くすんなりとした喉元、滑らかでしなやかな首筋に右手の平を触れさせ、美しい弧を描くゆるゆると唇を開いたので、あっという間に彼女の意識はそちらに釘付けにされた。
銀色の、二本の環が、かれの両手首で自己主張する。
神子姫が、くすり、と笑った。
――――空気が、震えた。
ジーンの周囲を、オーロラのような光と風が舞い踊る。
そして。
『
』
次の瞬間、ジーンの喉から、『謳』がほとばしった。
朗々と、高らかに、長く遠く。
「――――――――っっ!!」
周囲が音に支配される。
圧倒的な音韻の洪水に飲み込まれ、包み込まれ、蹂躙されるかのように。
――それは『歌』ではなかった。
『唄』でも、『唱』でもなかった。
それは『謳』でしかなかった。
言葉で説明することなど出来そうにない、種族も年齢も性別もすべて超越した、ただただ美しいばかりの、凄絶にして荘厳なる音の塊だった。
「あ……ああ……!」
様々な高低、大小で『謳』われる、旋律だけの、複雑で難解な、たとえようもなく美しいそれは、神殿都市のすべてに行き渡るだろうほど強く、深く、大きく響いていた。
まるで、この都市に反射するかのように。
「なんで、どうして、こんな……」
櫻良の胸は、破裂しそうなほどに震えた。
「どうして、こんなことが、起きるの……!」
日本の、歌の巧みさより流行がものを言う世界の、アイドルグループや人気シンガーなど、この圧倒的な声、圧倒的な『謳』の前には、歯牙にもかからないだろう。
一度だけテレビで見た、オペラの雰囲気に似ているような気もする。事実、テレビで世界的な、世界の宝とすら称されるオペラ歌手の歌を聴いたときも、櫻良は、胸の奥が震えるような錯覚を覚えた。
しかしこの『謳』は、それをはるかに凌駕していた。
生まれて初めて経験する感覚だった。
嗚咽がこぼれそうになって、櫻良は思わず口元を押さえた。
一瞬でも気を緩めたら、その場にしゃがみこんで泣き喚きそうだった。
――涙があふれて止まらない。
止めようとしても止まらなかった。
哀しい所為ではない。苦しいわけでもない。
哀しいとすれば、それは、『謳』があまりにも美しい所為だった。苦しいとすれば、それは、『謳』があまりにも神々しい所為だった。
絶対的な、圧倒的な、美しいという言葉では表現しきれない、胸を、心を、魂を絶望的なまでに打ちのめすその『謳』に、櫻良の思考は千々に乱れた。わけもなく、叫びだしたいような、胸の奥の何かを吐き出さずにはいられないような、そんな奇妙な焦燥に駆られる。
人間とは、あまりに感動するとわけもなく涙が出るのだと、意識のどこか遠くで、冷静な自分が囁くのが判った。
階下へ視線を向けると、神殿前広場に集った人々が、その場にひれ伏し、または呆然と空を仰いで涙を流しているのが見える。誰もが、深い深い畏敬の念と、あまりに美しいものを耳にした感動と、そして隠しようのない恐怖とを、様々な顔に浮かべていた。
しゃくりあげながら背後を振り返れば、その場に集った人々、招かれてきた来賓や、立会人の意味合いで出席している神官たち、その護衛役でもある騎士たちも、階下の人々と何ら変わりなかった。
誰もが滂沱たる涙をこぼし、ジーンの『謳』がもたらす、心を引き裂かれるような――それと同時に魂を蕩かすほどに甘美な『力』の波に身を委ねていた。百戦錬磨のリコやヴァルレイズですら、わずかに目を潤ませ、頬を紅潮させて、『謳』に聞き入っている。
王都からの使者たちも同様だった。王弟グレイシアもウベルと呼ばれた男も、金切り声を上げていた女使者もふたりの護衛たちも、五人ともがその場にへたりこみ、様々な色彩の目に恍惚と恐怖の双方を宿して、『謳』を聞いているようだった。
なにひとつ変わらないのは、『謳』がもたらすオーロラ色の風に長い銀髪をなびかせて微笑む神子姫フォウミナと、ただジーンを案じるばかりの目で見つめる夜歌、そして、深い深い驚嘆と、同等の憐憫とを黄金の双眸に宿した竜王たちだけだ。
息切れもせず、苦しそうな表情を見せることもなく、一定の音量を保って『謳』い続けるジーンの周囲を、オーロラの光が緩やかに舞っている。
それは櫻良が思わず現実を疑ったほど幻想的で、そして、一片の疑いもなく美しく、櫻良の胸は、滑稽なほどに激しく高鳴る。
――魔族たちにも、変化が現れていた。
『彼ら』は、高らかに荘厳に渦巻いた旋律が、自分たちの元へ届いた瞬間、すさまじく唐突にその場で停止した。不自然なほどに――奇妙なほどに突然のことだった。
しかも、ひとりやふたりのことではなかった。むしろ、こちらへ向かってきていた魔族たちのほとんどが、神殿都市から――櫻良たちが集う神殿から数十メートル離れた上空で、何かに、たとえば不可視の壁に道を阻まれでもしたかのように動きを止めていた。
『彼ら』は周囲を見渡し、何故自分がこんなところで止まっているのかを訝しむように首を傾げたあと、またしても唐突に表情を凍りつかせた。
それは、恐ろしいまでの恐怖と、絶望の表情だった。
魔族のひとりが、がくがくと震える手を喉元に当てる。
何十、何百もの魔族が、まったく同じ動作をし、また別の魔族たちが喉元をかきむしり、胸を押さえて身体を折り、絶望の表情で頭を抱え込んだその時、動揺する魔族たちの周囲を、オーロラ色の光の粒が舞った。
それと同時に、魔族たちの身体に白いひびが入った。
断末魔の、甲高い絶叫が上がる。
『あ、ああ、あああああ……ッ!?』
ひびはあっという間に魔族の身体を駆け巡り、『彼ら』はまるで砂糖菓子が自重で崩れるかのように砕け散るや、あの美しい、幻想的なオーロラ色の光になって、消えた。
無論、あとには何も残らなかった。
あちこちで、同じような質の悲鳴、絶叫、慟哭が聞こえる。
そして、そのあとに続く破裂音、何かが崩れ落ちるような音。
――それはあまりにも呆気ない、あまりにも無慈悲で無情な殺戮、虐殺だった。
櫻良は、自分の目の前で起きている非現実を、涙をぬぐうことも出来ずに、息を飲んで見つめていた。
「東方人の名が何故、畏怖と尊崇を持って語られると思う?」
そこへかかったのは、一切の揺らぎを含まない神子姫の声だ。
櫻良は何も答えられず、ただ何度も首を横に振った。
「東大陸は西大陸の十倍以上魔族や魔物の発生率が高いところよ。造物主とともに神々がこの世界を創ったときから、東大陸にはバグが多かったの。神々の力が色濃く残る分、反動で増えたというのもあるんでしょうね」
響き渡る『謳』の中で、魔族たちは、次々と消滅して行った。
なすすべもなく、という表現がもっとも相応しいだろうよどみのなさで。
どこまでも静かな神子姫の声は、あの寒々しい光景が、実は単なる幻だったのではないか、自分は何か夢を観ていたのではないかと思わせるほどに平静で、現実そのものだった。
「だから東方人は創られた。バグを滅する不可思議な力とともに」
「それが……『謳』……?」
「ええ。もちろん、『謳』だけが受けた恩寵ではないけれど。人間が東方人を畏怖し崇めるのはそのためなのよ。この世界において、東方人は絶対的に優秀な対魔族兵器なの。もっとも、その東方人の中でも特別な力の持ち主であるジーンが、……の血を受け継いでいるなんて、世の中は皮肉で滑稽ね」
「あの、それは、いったい……?」
言葉の一部が聞き取れなくて、櫻良が首を傾げると、神子姫は、困ったように――どこか哀しげに微笑んだ。
「櫻良」
「は、はいっ」
「あなたはジーンを怖いとは思わないでしょう?」
「えっ、あ、……はい……」
「あの翼や、『謳』も、ね?」
「ええと、あの、はい。ジーンの羽根、きれいでした。『謳』も、とっても素敵。胸が震えるって、きっと、こういうことを言うんだろうなって。あたしには、そうとしか思えません」
櫻良が思案しつつ口にした言葉に、神子姫はまた微笑んだ。
哀しみと痛みを含んだその表情は、神子姫にとてもよく似合ったけれど、きっと誰も、彼女にそんな顔をしてほしいとは思わないだろう。
神子姫さまはもっと明るく笑ってる方が絶対にきれい、などと櫻良が思っていると、
「――……守ってあげて」
ぽつり、と、神子姫がつぶやいた。
「えっ……?」
櫻良は瞬きをする。
一瞬、何をいわれたのか判らなかったのだ。
「あの宿業の子を、守ってあげて、櫻良。きっと、あなた以外の誰にも、できない」
「……あの、み、神子姫、さま……?」
果実のように瑞々しい、美しい唇に、確かな哀しみを宿した神子姫の言葉に、櫻良は当惑するしかない。
櫻良に何ができるというのだろうか。
何の力も持たず、特別な育てられ方をしたわけでもない、平和な世界で生きてきた平凡な少女に、何が。
それでも、櫻良がつい頷いたのは、頷いてしまったのは、神子姫のひどく哀しそうな顔と、人々の畏れの表情と、そして、断絶すら感じさせるジーンの背中の所為だった。
誰も触れるなと……誰も近づくなと、厳しく、鋭く叫ぶかのような。
「……はい」
こぼれた声は、驚くほどしっかりしていた。
「あたし、ジーンに助けてもらったからこうしてここにいられるんだもの。だからあたしも、あたしに出来ることがあるなら、ジーンを助けなきゃ。ううん、何が出来るか、じゃなくて、出来ること全部やればいいんだ」
自分に言い聞かせるように、迷いを振り切る誓いのように言うと、
「――……ありがとう」
神子姫が、美しい麗しい唇をほころばせ、にっこりと笑った。
「いえ、あの、その……ええと、あたしに出来ることなんて、その、大したことないと思いますけど……」
スタンダードのごとくにしどろもどろになった櫻良は、それでも、神子姫の深い深い笑みに魅了されたが、その頃には、もうすでに、一方的にして圧倒的な虐殺はほとんど終わっていた。
ジーンの『謳』が、空に吸い込まれるように終息してゆく。
ジーンの白い背を彩る美しい翼が、鈴の音を髣髴とさせる金属音を立てながら緩やかにはためく。
櫻良はそれを、溜め息をついて見届けた。
美しい、神々しい『謳』の最後の旋律が空に解けて消えたところで、まだ生き残っていた魔族はたった七体だった。
恐らく、『彼ら』は、先ほどなすすべもなく滅んでいった魔族たちよりも強い力を持っているのだろう。それゆえに、あの『謳』によって虐殺されることはなかったのだろう。
もっとも、その『彼ら』も、身体のあちこちに白いひびが入り、そこから少しずつ崩れ始めていて、辛うじて生き残ったと言うのが相応しいだろう状態だったが。
その中のひとり、メタリック・シルバーの目をした青年魔族が、恐怖と動揺に震える唇を開き、叫ぶ。
『ば……化け物……!』
空から投げ下ろされた言葉、剥き出しの感情に満ちた、斬りつけるようなそれに櫻良は思わず息を飲んだが、当のジーンには何の揺らぎも、変化も見受けられなかった。眉ひとつ、動くことはなかった。
ただ、ジーンは、
「――……覚えおくがいい」
ほんの一瞬、冷ややかな笑みを浮かべると、腰を抜かしている王都の使者たちに黄金の視線を投げかけたあと、
「灯火に危険を及ぼすもの、灯火の幸いの妨げになるものは、ヒトや魔の区別なく、ことごとく滅ぼされる運命にあるのだということを」
そう、淡々と――しかし、強い意志を含んだ厳しい声で断じただけだった。
ジーンの言葉に反応したのか、かれの周囲でまたオーロラ光が舞うと、魔族たちは明らかに怯み、
『――くそっ、退くぞ!』
鋭い舌打ちとともに身を翻した。
そしてそのまま、ものすごい勢いで飛び去っていく。
呆気ない、幕切れだった。
櫻良はひとつ、安堵の息を吐き、それからジーンを見つめた。
ジーンは櫻良には声をかけることなく、ゆったりとしたよどみのない足取りで神殿に向かって踏み出した。その背の、クリスタルガラスのような翼が、サラサラという涼やかな音を立てる。
「……ッ」
櫻良は、一歩一歩近づいてくるジーンを目にした使者たちが息を呑み、身体を強張らせるのを見た。
ジーンは特に頓着もない様子で歩みを進めていたが、
「王に伝えるがいい。神殿都市には呪いの翼持つ化け物が在って、容易く灯火を渡しはしないと」
そう、囁くように言って、使者たちの横を通り過ぎた。
「ジーン、式典は?」
神子姫の、確認のような言葉にもジーンが振り返ることはなく、
「……外を見回ってくる」
静かな、少々素っ気ない声が返っただけだった。
神官たちが次々に道を開ける中、神殿の入口に辿り着いたジーンが立ち止まり、わずかに空を仰ぐと、その背で静謐に輝いていた翼が、またシャラシャラという涼しげな音を立てて解け、風に解けて消えて行った。
夢のような光景だった。
しかし、それと同時に、櫻良は、
「……ジーン……」
神殿へと消えてゆくジーンの後ろ姿、背中だけでも完璧なまでに美しいそれに、どうしようもない苦悩と孤独とを感じていた。