あっという間に夜が来た。
 披露目の式典がすべて滞りなく終わっても、ジーンは姿を現さなかった。
 お披露目用の純白のドレスから可愛いワンピースに着替えた櫻良は、式典後の歓迎パーティ、彩り鮮やかな料理と色鮮やかな衣装と人々の笑顔で埋まった大広間で、主賓として慌ただしい――どちらかというとしどろもどろの――時間を過ごしつつ、いつになったら帰ってくるのかと、やきもきしながらかれを待っていた。
 神殿から少し離れた場所にある迎賓館の大ホールで行われているこれは、五百人以上の招待客が出席した、大規模で立派なパーティだったが、参加者の大半は気心の知れたご近所さん同士らしく、場は賑やかであるのと同時に和やかだった。
 会場の真ん中にセッティングされた何十ものテーブルからは、食欲を刺激するいい匂いが漂ってきていたが、せっかくのご馳走、家では絶対に食べられないような豪華な材料を使った美しい料理の数々も、気がかりがあっては充分に楽しめない。
 しかし、ジーンを気にする櫻良に夜歌が言うには、気まずくて顔が出せないとか、先ほどのあれに含むものがあって人々の前に現れないとかいう可愛らしい理由と言うよりは、恐らく、真剣に、何の疑いもなく、周囲の見回りに夢中になっているのだろうということだった。
 溜め息交じりの呆れ声だったから、慰めや気遣いではなく純然たる事実なのだろう。
 そこでちょっと笑ったら、少し気分が楽になって、櫻良は接客係の青年がちょっとどぎまぎしながら渡してくれた、赤と紫のベリーが浮かんだカラフルなソーダに口をつけた。
 爽やかな酸味と甘味が、櫻良の気分を明るくさせる。
 それで櫻良は、ようやく、思い切りこのご馳走を制覇してやろう、と思うことが出来た。
 そもそも、ぐじぐじうじうじと思い悩まないのが櫻良の長所だ。
 何もかもがなるようにしかならないのなら、導かれるまま、流れるままに進むしかないのだろうとも思う。
「でも……豪華なパーティだよね。お金かかってそう……」
 ソーダで喉を潤しながら櫻良が言うと、かなり強そうな琥珀色の酒が入ったグラスを表情ひとつ変えずに乾していた夜歌が小さく肩をすくめた。
【確かに、これほど大々的な宴は珍しいな。年に一度あるかないかのことだろう】
「へええ……。大変だろうね、準備とかお金とか」
【ふむ、そうだな、楽な仕事ではないだろうよ、少なくとも。だが、幸いにもと言おうか生憎と言おうか、神子姫フォウミナには恐ろしく催しごとの好きな部下や金儲けの巧みな部下がおるのでな。この程度であればそれほど苦労はしておるまい】
「そうなんだ。神子姫さまって、本当に色んな人が部下についてるんだね。人望かなぁ、やっぱり」
【ふむ……そうだな】
 そういうことにしておけ、と笑う夜歌に笑い返した櫻良は、パーティを楽しむ人々をちらちらと見やった。
 列席者の大半は、神殿都市内からものすごい競争率の中抽選で選ばれたという住民や、神殿都市と懇意にしている近隣市町村の人々ばかりなので、そして神子姫の恐ろしさを骨身に沁みて理解している人々ばかりなので、酒を飲んで酔っ払い、周囲に無体を働くような愚を犯すものはいないようだった。
 ちなみに、呼ばれもしないのに王都から押しかけ、魔族の襲撃に腰を抜かして震えていた人々は、現在熱を出し、この迎賓館の五階にある賓客用の部屋で呻いているらしい。魔族の瘴気に中てられたのではないか、という話だったが、櫻良にその辺りの難しいことは判らない。
【ともあれ櫻良、今日は疲れたであろう。美味なるものを食して英気を養ってくれ】
 と、料理のテーブルから取り分けた、様々なご馳走を載せた大きな皿を、夜歌が差し出してくれて、櫻良は眼を輝かせる。
「ありがとう、夜歌。すごーい、豪華ー! こんな豪華なごはん、食べたことないかも……!」
 真っ赤なロブスターを殻ごと焼いて、身を豪快にぶつ切りにしたもの。
 分厚い、赤みと脂身の配合が完璧なまでに美しい牛肉を強火でサッと焼いて一口大にカットし、茸と香草のバター炒めと和えたもの。
 色とりどりの花のサラダ、胡瓜やナスのように見える野菜を、花や蝶、鳥などにカットして、そこに綺麗な色のソースをかけたもの。
 ほくほくのじゃがいも(らしきもの)をからりと油で揚げ、ハーブの匂いのする塩を振っただけのシンプルなもの、バターでじっくりいためた玉ねぎを、卵と生クリームのフィリングと一緒に焼いた惣菜パイ。
 かりかりに焼いたフランスパンのようなパンに、こくのあるにんにくバターを塗って、その上にトマトやベーコンやチーズを載せて焼いたもの。舌触りのいいパスタに、引き締まった鶏肉とキノコ、ピーマンのようなもの、濃厚なクリームと卵黄を合わせたもの。
 櫻良が見たこともないような果物を、白ワインと一緒に煮たコンポートや、口直し用の爽やかなシャーベット。
 それらを、櫻良は満面の笑顔で頬張り、幸せ極まりない表情で咀嚼した。
 食べるって、美味しいって幸せだなぁ、としみじみ思う。
 そんな櫻良の豪快な食べっぷりを、《女神の灯火》の食事を邪魔しては気の毒だから、という理由で少し離れてくれていたらしい人々が、めいめいに食事を続けながら、微笑ましげに見つめている。――ということは、櫻良の与り知らぬところだったが、人々の浮かべる表情、貴い姫君への畏敬のこもった硬いものではなく、素朴で無邪気な少女へ向ける、父や母や兄や姉のようなそれに気づけば、櫻良は更に安堵することが出来ただろう。
【嬢の食する様子は、見ていて気持ちがよいな。食材も、嬢に食うてもらえて喜んでいようよ】
「え、あ、そ……そういうものかな」
【無論。料理を美味に楽しくいただくとは、己がために身を捧げた食材に敬意を持つということであろう】
「ああ、うん、それは判るよ。あたしたち、食べなきゃ生きていけないんだもんね。だけど、あたしたちが食べるっていうことは、何かを犠牲にするってことなんだ」
【うむ】
「あたし、頭はよくないけど、それだけは知ってる。だから、ごはんを食べる時も、料理をするときも、あたしたちのために犠牲になってくれた命に、いつだって感謝しなきゃいけないんだよね」
 それは恐らく、田舎で農業をしている祖父母の影響だった。
 鶏を飼い、時にそこから肉を取りもする家で夏や冬の長期休みを過ごしてきた彼女は、自分たちが食べることは、即ち誰かの命を食べることなのだ、という真実を、言葉でではなく学んでいた。
 だからこそ、櫻良に好き嫌いはなく、出されたものを残すこともないのだ。
【……そうだ】
 夜歌が穏やかに笑う。
【だが、それに気づけぬ輩もまた、この世には多いな】
「うん。あたしのいたところも、そうだったよ。日本には特に多いんじゃないかなぁ」
 物質的に豊かな日々を送るものは、自分たちが恵まれていること、幸せであることになかなか気づけない。
 それを、櫻良は、この神統世界に来て、強く思わされた。
 だとすれば、それに気づけた自分は幸せなのだろうとも思う。物質的なものだけではなく、精神的な豊かさを多く持つこの世界に来られた自分は、きっととてつもなく幸運だったのだろうと。
「うーん、あともう少し、何か食べたいかな……」
 夜歌の取り分けてくれたものをぺろりと平らげ、双神宮に戻ったら美味しいお茶と超豪華なデザートが待っている(らしい)から少し控え目に……と思いつつ、櫻良が、テーブルの上の、野菜と海老が固められたコンソメゼリー寄せや、鴨肉とトマトのテリーヌ、魚のすり身を香草と一緒にパン粉で揚げたと思しきものなどに食指を動かしていると、不意に空気がざわりとざわめき、
【……戻ったか】
 呆れたような夜歌の声とともに、パーティ会場へジーンが入って来た。
「あっ、ジーン!」
 華やかな衣装の人々の中に在っては異質なほどに漆黒の色をした騎士は、人々の向ける畏怖や敬意、憧れの視線などには一切興味を示さず――気づいていないのかもしれない――、まっすぐに、櫻良の元へ歩み寄ってくる。
 その、極上の琥珀のようにも、稀有な黄金のようにも見える眼に、先ほどのあの断絶が見えないことを何となく理解して、櫻良はホッとした。
「よかった、ジーン、元気になったみたい」
【と、いうよりは、夢中で見回りをしておる内に忘れたのであろうな】
「……ああ。なんか、ジーンらしいよね」
「そうだな、心の底から呆れる程度にはな」
 などと言っている間に、世話係の人々の差し出す杯をすべて断りながら、ジーンがこちらへとやって来た。
「ジーン、お疲れ様」
「いや」
【なんぞ、危険なモノはおったか。なかなか顔を出さぬゆえ、嬢が心配しておったのだぞ】
「ん、そうか、それは済まなかったな。見回りに専念していたのも確かなんだがな、灯火の訪れを喜んで、月があまりにも美しく輝くものだから、北部桃璃門の天辺で一杯やっていたんだ」
【……そなたのその朴念仁ぶり、いっそ清々しくすらあるな……】
「あー、うん、でも、ジーンらしくていいよね、うん」
【嬢、あまりこやつを甘やかしてやるでない】
「えっ、いやあの、別に甘やかしてるってわけじゃ……」
 遠い目と生温かい目の中間のような眼差しで夜歌が櫻良を見遣る。
 夜歌もきっと苦労しているのだろうな、と櫻良は思った。
 思ったが、ジーンが来てくれたという喜びがすべてを凌駕してしまったので、彼女はそそくさとテーブルに走り寄り、飲み物の置いてある場所から綺麗な色のソーダを取ってやはりそそくさと戻った。
「はい、ジーン。見回り、お疲れ様」
「ん、ああ、いや……そうだな、ありがとう」
 彼女がジーンにソーダを手渡したのは、かれが接客係の勧める飲み物をすべて断っていたという数分前の出来事を思い出した直後だったが、ジーンは、櫻良の手から汗をかくグラスを受け取り、少し笑って口をつけた。
 もしかしたら自分はものすごい幸せ者なんじゃないだろうか、という、今更過ぎる認識が脳味噌を横切り、櫻良は鼻血を噴きそうになった。
「……どうした、櫻良」
【いかがした、嬢】
 こんなところでそんな赤黒いものをお見せするわけには、と、思わず手で口元及び鼻を覆うと、騎士と乗騎双方が小首を傾げる。
「な、なななななななな、何でもないです、ハイ」
「……?」
 とんでもなく裏返った櫻良の声に、またジーンが首を傾げ、きょとんとした、と言うのが相応しいそれは、どことなく幼く、邪気もなく、美しくて、櫻良はいつものようにどぎまぎする。
 夜歌は、それを面白そうに見遣りながら、琥珀の液体が入ったグラスを傾けていたが、ややあって窓の外を見遣り、問いを口にした。
【魔族どもの動きはどうなのだ、ジンよ】
 すると、オレンジとベリーのソーダを飲み干して、ジーンが肩をすくめた。
「どうとも言えんな。先ほどの『あれ』は、恐らく上級魔族にも伝わっただろうから、そうそう群れをなして襲ってくるとも思わんが」
【そうか。だが……まァ、用心するにこしたことはあるまい】
「そうだな。四方門の警護は、今までに増して強化する必要があるだろう」
「あの、ジーン、あれって……さっきの『謳』のこと?」
 櫻良がそのときつい口を挟んだのは、東方人という特別な存在であるらしいジーンの、あの凄まじい美を思い起こしたのと、――何よりも、神子姫フォウミナに、かれを護ってほしい、と言われたことが脳のどこかにあったからだった。
「……ああ。怖がらせただろう……済まなかったな」
 だから櫻良は、どこか自嘲的なジーンのそれに、首を横に振った。
「ううん。だって……どんなだって、ジーンはジーンだもの」
「…………そうか」
「それにね」
「ん?」
「きれいだったよ」
 だから、櫻良がそう言ったのは、心からの賛辞のゆえだった。
「あの時の『謳』も、あの翼も。とってもきれいだった」
 かれにとってそれが痛みをもたらすものなのだとしても、櫻良はそれをとてつもなく美しく思ったのだと、心の底からそう思っている人間がここにいるのだと、櫻良は伝えたかったのだ。
 しかし。
 ふと見れば、ジーンの眼差しは、遠くを見据えて凍っていた。
 空になったグラスを持つ手が、青白くなっている。
「ジーン? どうし……」
「――……馬鹿なことを、言うな」
 ぱきんッ!
 ジーンの手の中で、華奢なグラスが砕け散る。
「ジーン!?」
 欠片でどこかを切ったのだろうか、白い手に赤い色が見え、驚愕した櫻良が近寄ろうとするよりも早く、
「寄るな、櫻良」
 表情の一切を失った目で、ジーンが櫻良を見る。
 冷え冷えとした断絶に、櫻良は立ち止まるしかなかった。
 その目の奥のかすかな揺らぎ、動揺とでも言うべき感情には気づかなかった。
「ッ!」
【ジン、またそなたはそういう……】
 苦虫を噛み潰したような顔で、夜歌がかれを諌めようとするよりも早く、真っ直ぐな、どこか悲壮な、稀有な黄金の眼差しで櫻良を見つめ、
「我が身は呪い、私は“在ってはならなかったもの”。――……お前が穢れる、寄ってはいけない」
 それだけ言って、ジーンは踵を返した。
 ばさり、と、漆黒のマントが翻る。
「ジーン、待っ……」
 引き止めようとした手は、声は、すぐに力なく項垂れる。
 立ち止まることも、振り返ることもなく去っていく背中から、強く厳しい断絶が感じ取れたから、櫻良は、悄然と立ちすくむしかなかったのだ。
【やれやれ、繊細なことだ】
「ど、どうしよう……」
 溜め息をつく夜歌の、古代中国を思わせる服の裾を、櫻良は掴んだ。
【いかがした、嬢】
「ジーン、怒っちゃったのかな。どうしよう、夜歌。ジーン、あたしのこと、嫌いになっちゃった……!?」
 あれは櫻良の、心からの賛辞だった。
 そして、ジーンはジーンなのだから、という揺るぎない思いの発露だった。
 けれどそれは、ジーンにとっては、ひどく苦い思いを呼び起こす物言いであったらしいのだった。
 櫻良の言葉が、ジーンの白い指に血を流させ、あんな、ひどい孤独の匂いのする、凍るような断絶の目をさせたのだ。
「どうしよう、夜歌……!」
 櫻良の声が涙を含んで震えたのも、当然と言えば当然だった。
 今や、彼女の世界の大半は、ジーンで成り立っているのだから。
 しかし夜歌は、そんな櫻良を見下ろすと、ほんの少し笑い、彼女の頭をくしゃくしゃと撫でた。少し乱暴だが親しみに満ちた、そしてどこか喜びを含んだ仕草だった。
【案ずるな、嬢。あれは嬢の責ではない。――否、誰の責でもないのだ】
「でも、だけど、あたしの所為で……ッ」
【吾はむしろ、喜んでおるのだ。――そなたのような娘御が、あの朴念仁の傍に在ってくれることを】
「……夜歌?」
 そこに何がしかの感慨を感じ取り、櫻良は夜歌を見上げる。
 夜歌はもう一度笑って櫻良の頭をくしゃくしゃと掻き回し、肩をすくめた。
【何、彼奴のことだ、すぐに忘れてしまおうよ。……それでも納得が行かぬとそなたが思うのならば、後を追ってやるがよい】
「……うん!」
 言外の励ましに力強く頷き、櫻良もまた踵を返す。
「ありがとう、夜歌」
【礼を言われるほどのことでもないが、な】
 人間臭い神獣は、器用にウィンクをしてみせた。
 櫻良はそれに少しだけ笑い、ジーンを追って走り出す。
 彼女が通り過ぎるたび、祝宴の参加者たちが不思議そうな顔をしたが、今はそれを気にしている場合ではなく、櫻良は彼らに軽く一礼してホールから飛び出した。
「ジーン。それでもあたしはジーンが好きだよ。……ジーンがあたしのことを嫌いだって、あたしはジーンが好き」
 嫌われたかもしれないという、胸の奥が冷えるような恐怖ならばある。
 けれど、それよりも大切なことがあると、櫻良は知っている。忘れてはいない。
 ――あの、凍った眼差しを、解かしたい。
 何の力もない自分に、何がどこまで出来るかは判らないけれど。
 重苦しい何かがかれを苦しめているのだとして、悲壮な何かがかれを取り巻いているのだとして、その取り巻くもの全部、まとめて好きだと、ジーンはジーンなのだと、きちんと伝えたい。
 あの『謳』を聴き、あの翼を見て、神子姫の言葉を聴いて、決めたことだった。
 そして、それこそが、神子姫フォウミナが自分に望んでいることなのだと、櫻良は気づいていた。