「ジーン……どこに行っちゃったんだろ」
 十分後。
 櫻良は広大な迎賓館の中をうろうろと彷徨っていた。
 格好よく、威勢よく出てきたはいいのだが、あまりの広さに迷ったというか、あまりにも色々な部屋がありすぎて、どこに行ったらいいのか判らなくなって途方に暮れていたのだった。
 あちこちに立っている警備兵のお兄さんたちに、ジーンを見なかったかと尋ねて回ったのだが、申し訳なさそうな表情をする誰もが、残念ながらかれを見ておらず、従ってその行方を突き止めることは出来ていない。
「んー……もしかしたら、もうここにはいない、とか……?」
 華やかな場は好きではないと言ったジーンの、苦虫を噛み潰したような顔を思い出し、呟く。
「……ありそう」
 では、ここを出たとして、かれがどこへ行くだろうか、と、誰もいない廊下の片隅で真剣にシミュレーションしていたら、
「おや、これは、灯火殿」
 前方から、聞き覚えのある美声がかかり、ハッとなって櫻良は顔を上げた。
「あ、ええと……」
 華美だが悪趣味ではない、ものを知らない櫻良でもその高価さが判るような豪奢な衣装を身にまとい、歩いて来るのは、十日ほど前、櫻良がこの世界に来た初日に、ジーンに殺されかけていた青年だった。
「カーズフィアート・ゴールドクロス、と、貴い灯よ。こんな場所に、おひとりで、何故?」
 優美に、恭しく一礼し、エメラルドのような目を細める彼は、どうにも雰囲気が軽薄であることと、仕草が少々芝居がかっている点を除けば真性の美青年というやつで、櫻良がジーンに恋をしていなかったら、きっとどぎまぎしていたことだろう。
「いえ、あの、ジーンを探していて。ジーンを見ませんでしたか、カーズフィアートさん」
「カート、とお呼び下されば結構。君は、僕の命の恩人でもあるし、ね」
 どこか含みのある口調で言って、カーズフィアートが櫻良の前へ歩み寄る。
 何となく、嫌なものを感じて、櫻良は思わず一歩下がった。
 くす、とカーズフィアートが笑った。
「命の恩人である君に、ひとつ忠告を差し上げよう」
 何を、と思う間に、一気に距離を詰めたカーズフィアートに手首を取られ、あっと声を上げる暇もなく壁際へと追いやられ、肩を押さえられる。
「あの、カートさん、何……」
 もしかしてこれは大変まずい状況なのではないだろうか、と、周囲に人が誰もいないことを確認し、若干腰が引けた状態で見上げると、都では並ぶもののない大貴族の一員という青年は、どこか面白がるような表情で櫻良を見下ろし、上体を屈めて、櫻良の耳元に囁いた。
「この迎賓館、美しいとは思わないかい」
「えっ? あ、は、はい。とっても綺麗だと思います」
 それが何なんだろう、と思いながら頷くと、カーズフィアートが呼気だけで笑った。
「ここはね、もう何十年も前に、この桃天華大神殿都市が所属するエス=フォルナの国王陛下が、当時の《女神の灯火》のために建ててくださったものなんだよ」
「あ、そ、……う、なんですか。でも、あの、それが……」
「だからね」
「はい……?」
「この都市のために尽くしてくださる国王陛下に楯突き、引いては都の声を無視するということは、国家への反逆に他ならないんだ。国家に弓引く賊として、明日にも攻め滅ぼされても、文句は言えないんだよ」
「え」
 攻め滅ぼす、などという物騒な言葉に櫻良は思わず固まる。
 カーズフィアートの言う、都の声を無視する、とは、恐らく、神子姫を筆頭としたこの都市の――《女神の灯火》の守護者たちが、櫻良に寄越された、王都を訪問するようにという旨の要請をけんもほろろに切って捨てたあれのことだろう。
「あの、だけど、でも」
 勉強があまり好きではない櫻良は、当然、社会科も好きではなく、世の中の成り立ちや回り方について精通しているわけではないが、それでも、地方分権だとか言って、府や県が、国からの指図ではなく自分たちで身近なまつりごとを動かす、そういうやり方があることくらいは知っている。
 それでゴタゴタすることも少なくはないようだったが、日本という国は、だからといって『××県を滅ぼしてしまえ』などということにはならない。
「だって、ここの人たちはここの人たちで、一生懸命頑張って生きてるだけなのに」
 それなのに、エス=フォルナという国の王様は、その地方の一都市を、逆らうものは滅ぼすなどというのだ。
「そんなことは、王都と国王陛下には、何の関係もないことだよ。それほど、王とは絶対的なものなんだ。――廃棄世界から来た君には、判り辛いかもしれないけれど、それこそが絶対の真理なんだよ」
 櫻良を壁際に追い詰めたまま、狼狽し口ごもる彼女を嬲るようにカーズフィアートが笑う。
 ――そこに偽りが含まれていないことは、櫻良にも何となく伝わった。
 カーズフィアートは神殿騎士だが、神殿都市のために生きてはいない。彼の心は、常に、王都と国王、そして人民を支配し富を享受出来る貴族というものとともにあるのだ。
 国王陛下とやらは、いずれ痺れを切らして、この都市に大軍を差し向けるだろう。櫻良たったひとりのために、たくさんの美しいものを打ち砕き、踏み躙って、火をかけるのだろう。
 その『本気』を、櫻良はカーズフィアートの中から感じ取っていた。
 肺腑の底が、ひゅう、と、冷えた。
 自分を守って、この都市の人々が傷つき、また滅びの危機に瀕するなどということは、何があっても阻止しなくてはならない。
「どうすればいいのか、という顔をしているね。……教えて欲しいかい」
 問いに、小さく頷く。
 カーズフィアートは酷薄に微笑み、答えを櫻良の耳元で囁いた。
「君が王都に来ればいい。それだけだ」
「え、で、でも……」
「都合のいいことに、王弟殿下の馬車がある。――神子姫にも、騎士たちにも知られないうちに、あれに乗ってしまえばいい。そうすれば、この都市は守られる。簡単なことだろう?」
 それから、身体を起こし、カーズフィアートは櫻良の腕を掴んだ。
「やっ、あ、あの……っ」
 軟弱な外見の持ち主だが、腕力は案外強く、櫻良では振り解けない。
「善は急げ、と言うだろう? 王弟殿下も喜んでくださるよ。さあ、貴い灯よ、こちらへどうぞ?」
 優美に、どこか嘲るように言い、カーズフィアートが櫻良を引っ張る。
 櫻良は、長身の彼に引き摺られるように、躓(つまず)くように歩き出すしかなかった。彼は、たとえ櫻良が転んでも、彼女の腕を掴んだままで歩き続けるだろうという確信があった。
 彼に、王都にあるのは、櫻良が……《女神の灯火》が世界を護っているという事実ではなく、その櫻良を手元に置き、もしくは自分たちが管理して、己が威光を知らしめたいという権勢欲だけなのだ、ということを、難しい言葉でではなく感覚的に理解して、櫻良は思わず息を飲んだ。
 冷ややかな危機感が背筋を這い上がる。
「いえっ、あの、もう少し準備をしてからにしたいので、今日は遠慮させてくださいっ……カートさん、手を離して、い……痛い……!」
 腐っても騎士と言うことなのか、カーズフィアートの手に握り締められ、締め上げられるように引っ張られて櫻良は悲鳴めいた声を上げたが、カーズフィアートは彼女を見ることも、立ち止まることもなかった。
「……グレイシア殿下にいい土産が出来た、彼も喜んでくださるだろう」
 ほくそ笑む、というのが相応しい表情でカーズフィアートが呟き、櫻良の腕を強く引く。
 櫻良を、ただの荷物としか思っていないような扱いに、怖くなる。
 このまま王都へ連れて行かれれば、王都の貴族たちにも同じ扱いをされるだろう、という予感めいたものが胸に兆し、櫻良が、助けて、と、今はここにいない漆黒の騎士の名を絶叫しそうになったときだった。
 廊下の反対側から足音が響き、
「そうなんですよ、ジーン隊長。この辺りから灯火の声が聞こえたんですが……」
 やはり聞き覚えのある声が、櫻良の求める人の名を呼んだ。
 カーズフィアートが息を飲む。
 同時に、手を掴む力が弱まったことに気づき、櫻良はパッと彼の手を振り払うと、足音のした方に向かって駆け出した。
「ジーン!」
 カーズフィアートは舌打ちをし、手を伸ばしかけたが、追いかけては来なかった。
 彼は、忌々しげな、毒のある眼差しを廊下の向こう側へやり、
「……覚えておくんだね、灯火。僕が言ったことに偽りはないよ。君が、この美しい都市を火に沈めたくないと思うのならば……君のなすべきことは、たったひとつだけだ」
 それだけ言って、足早にその場を立ち去った。
 櫻良はホッと息を吐き、ジーンの姿を探して視線を彷徨わせたが、そこにかれの姿はなく、
「よかった……巧く行って」
 櫻良と同じく、安堵の息を吐きながら胸を撫で下ろす、淡い茶色の髪にどこまでも透き通った青い目の、騎士の出で立ちをした美しい少年が佇んでいるだけだった。
「あ、えーと……」
 同い年くらいに思える彼が、カーズフィアートと同じく、櫻良がこの世界に来た初日に、カーズフィアートに巻き込まれてジーンに殺されそうになっていた少年だということを思い出し、櫻良は記憶を探る。
「アイレストリアスさん、でしたっけ……もしかして、助けてくれたんですか?」
 言うと、アイレストリアスははにかんだように笑った。
「アイレストリアス・ブルーサファイアと申します。どうか、アイル、とお呼びください、貴い方。敬語など、どうぞ、お使いにならずに。僕は、あなたに命を助けていただいたのですから、そのご恩をお返しするのは当然です。……でも、巧くいって、本当によかった」
 カーズフィアートと同じようなことを口にしているのに、アイレストリアスが言うと、それは誠実さと初々しさをはらんだ。
 それを心地よく思いつつも、櫻良はぶんぶんと首を横に振る。
「あたし、別にそんなすごいことをしたわけじゃないですし! アイルさんの方が、あたしと同い年くらいなのに、このまちのために頑張っていて、すごいですよ!」
「いえ……そんなことは。僕など、若輩者の中でも特に至らぬ身で、常に肩身の狭い思いをするばかりです。ですから灯火よ、どうか、そのような畏れ多い言葉遣いではなく、」
「だったら、あたしのことも、櫻良って呼んでください。敬語も要らないです。そしたらあたしも、アイルって呼び捨てにします」
「……しかし……いえ、本当に、それでよろしいのですか……?」
「だって、同い年くらいの子って、周りにいないんだもの。普通にしゃべれる友達、ほしいし」
 敬語などそもそも得意ではない櫻良が、思わず素に戻って言うと、アイレストリアスはきょとんとし、それからくすりと笑った。
「判りまし……判った、櫻良。僕などでよければ、喜んで」
「うん、ありがとう、アイル」
 アイレストリアスが白い手を差し出したので、櫻良はその手、華奢なようでいて案外力強いそれをぎゅっと握った。
 照れ臭かったのか、少年の白く滑らかな頬が、陳腐な表現ではあるが薔薇色に染まる。とてもではないが、先ほど貴族の傲慢さを隠そうともせず、櫻良を荷物扱いして連れて行こうとしたカーズフィアートと同じ大貴族の一員だとは思えない。
「改めて、あの時はどうもありがとう、櫻良。罰されても仕方がないとは思っていたけれど、やっぱり、都市のため以外に死ぬのは、怖かったし、無念だったんだ」
 居住まいを正し、背筋を伸ばしたアイレストリアスが、美しい動作で頭を下げる。
 櫻良はぶんぶんと手を振り、アイレストリアスに頭を上げるよう仕草だけで頼んだ。
「いいえ、どういたしまして。それにあれは、アイルが悪かったわけじゃないでしょう? ジーンも、それはきっと、判っていたと思うよ」
「……だと、いいんだけど。何にせよ、僕は、櫻良のお陰で、都市を守る貴い責務と、都市のために死ぬ喜びを、もう一度手にすることが出来たんだ。本当に、ありがとう」
 サファイアのような目を、心地よい矜持に輝かせ、アイレストリアスが喜びを語るのを、櫻良は少し、圧倒されながら見つめた。
「すごいね」
「えっ?」
「アイルは……いくつ?」
「僕? 先月で十五歳になったところだけど」
「あたし、十六歳と半年くらい。……あたしの方が、ちょっとお姉さんなのに……アイルは、すごいね」
「えっ、いや、そんなことは」
「あたしは、自分のことで精いっぱいなのに、アイルはそんなに一生懸命、神殿都市のために働いてるんだよね。それって……すごくよく判るけど、あたしもこのまちが大好きだけど、でも、あたしには絶対、真似出来ないもん。アイルも、神殿騎士の皆さんも、ホント、すごい」
「……」
 櫻良の故郷である廃棄世界であれば、アイレストリアスはまだ中学生だ。
 義務教育のただ中で、安穏と、自分のために生きていればいい年頃だ。
 それなのに、彼は、助かった命を、もう一度神殿都市のために使うのだと、神殿都市のために斃れる自分を喜ぶのだと、そう言うのだ。
 いったい、櫻良の故郷の中学生たちの中の、どれだけが、そんな覚悟を持って、日々を生きているだろうか。
「そんなことはない、よ」
 櫻良の、率直な言葉が恥ずかしかったのだろう、首まで赤くなりながら、アイレストリアスが首を横に振る。
「初めは、嫌々来たんだ。カートが行くというから、父上についていけと言われて。――青寶家は、金章家の補佐のような立場にある家だから」
「そうなんだ」
「うん、何百年も前からのことだから、それには諦めもついてるんだけど。でも……都を離れて、見も知らぬ場所で、見も知らぬ場所を護って死ぬのは嫌だ、って、ずっと思ってた。だけど」
「だけど?」
「このまちの人たちは、すごく、あたたかくて。王宮で、息の詰まるやり取りばかりをしているような、お腹の中に色々なものを抱えた人たちとは違って、誰もが素朴で、やさしくて、親切で。――僕は、実を言うと、ここに来てたった数ヶ月で、家にいるときよりも、ずっとずっと、伸び伸びするようになっていたんだ」
「うん、判る気がする」
「家よりも伸び伸び出来るということは、つまり、ここが僕の故郷ということなんだろう。だったら、僕にとっては、この都市を守るために生きて、戦って、死ぬことこそが、務めで、定めで、喜びなんだろうって」
「そっか……」
 神殿都市と、まちの人々を語る時、アイレストリアスの美しい双眸には、きらきらとした希望と、友愛と、矜持とがあふれていた。
 彼はもう、覚悟を決めているのだ。
 年齢も、立場も、出自も関係なく、この神殿都市のために生き、血を流し、斃れても後悔しないということを。
 ――自分も、そうありたいと思う。
 《女神の灯火》だから、というだけではなく、寄る辺のない櫻良を無条件に受け入れ、素朴で率直な好意と愛情を向け、護ってくれる人たちのために、たくさんの希望をもたらす存在でありたいと思う。
「それってさ」
「うん?」
「すっごく、幸せなことだよね。あたし、何の力もない女子高生だけど、それでも、神殿都市の人たちが幸せになれるなら、頑張ろう、って思うもん。アイルとあたし、やることは違うけど、きっと思ってることは一緒なんだよね。同じことを思っちゃうくらい、ここって、素敵な場所なんだよね」
「……うん」
 櫻良が笑うと、アイレストリアスも無邪気に微笑んだ。
 十五歳という年齢よりも、少し、幼く見える笑みだった。
「ね、アイル、ジーンを知らない? あたし、かれを探しに来たんだった、そういえば」
「隊長? いや、見てないな。僕は、櫻良に気づくまでは、外の警護についていたし――……」
「……呼んだか?」
「うわああぁっ!?」
 アイレストリアスの声が情けないくらい引っ繰り返ったのは、当然、背後から唐突に響いた声の所為だ。
「あ、ジーン……いつの間に? 帰ったんじゃなかったの?」
 背後には、漆黒の騎士が、思わず直立不動の姿勢を取るアイレストリアスを不思議そうに見ながら佇んでいる。
「いや、帰ろうかと思ったんだが」
「うん?」
「……何となく、胸騒ぎがして、戻って来た」
「そうなの?」
「ああ。櫻良に、何かあったのではないかと。それで、探していたんだが……大事ないようで、よかった」
 言って櫻良を見下ろす黄金瞳には、かすかで判り辛いものの安堵の色彩が揺れていて、櫻良は夜歌の、『しばらくすれば忘れてしまうだろう』という言葉を思い起こしながら、手を伸ばしてジーンのマントを掴んだ。
 たとえ、先ほどの危機には間に合わなかったとしても、櫻良の不用意な言葉に何かしら苦しい思いをしたらしいジーンが、彼女を気遣って戻って来てくれたのだと言う事実に変わりはなく、櫻良は、自分でも滑稽に思うくらいの喜びと、幸せとを感じていたのだった。
「どうした、櫻良」
「ん、……ごめんね、ジーン」
「? 何かあったのか?」
「ううん、何でもない。あのねジーン、あたし、友達が出来たんだよ。アイルっていうの。……って、知ってると思うけど」
「いや、そんな、櫻良、畏れ多い……」
 と、慌てるアイレストリアスを、ジーンは静かに見ていたが、ややあって小さく頷き、無造作に手を伸ばして、しどろもどろになっている少年の頭をわしわしと掻き回した。
「……!?」
 あまりにも意外だったのか、アイレストリアスが固まる。
「ふむ、夜歌のやるようにやってみたのだが、今ひとつだったか」
「い、いえあの……ッ!?」
「お前はひどく強運だな、アイレストリアス・ブルーサファイア。《女神の灯火》に命を救われ、友と呼ばれ、そして彼女を身近な場所で守る幸いを得たのだから」
 それは淡々とした物言いだったが、アイレストリアスの頬には朱が差した。
「心しろ、魂に刻め。櫻良と、櫻良を愛し櫻良に愛されるものを護ること、引いては彼女を護る神殿都市を護ることこそ、我ら神殿騎士の務め。そのために斃れて悔いぬ気概を、そのために死ぬことを赦された己の幸運を、常に思え」
「はいっ!」
 心臓の位置に拳を当て、アイレストリアスが腹の底からの声を発すると、ジーンはほんのわずか、ごくごくかすかに――しかし、とてもとてもやわらかく――笑って、頷いた。
「……それでいい」
 それからジーンは、櫻良に手を差し伸べ、
「そろそろ宴もお開きのようだ。双神宮から迎えが来ている……行こう」
 そう、櫻良を促した。
「あ、うん、判った。挨拶とか、した方がいいのかな」
「そうだな、一度広間に顔を出すか。アイレストリアス……アイル、お前も来い」
「えっ、あっ、はいっ!?」
 どうやら愛称を呼ばれたことに引っ繰り返るくらい驚いたらしく、とんでもない美少年がとんでもなく声を裏返らせ、跳び上がるようにして、櫻良の手を取って歩き始めていたジーンの背後につく。
「……背後に立つな、櫻良の横を歩け」
「い、いやあのっ、しかしっ」
「刺客と勘違いして真っ二つにするぞ」
「いえっ、そ、それは確かに困りますけれどもっ!?」
「どうしたの、アイル? いいじゃない、一緒に歩こうよ。……手、つなぐ?」
「えええっ!?」
「……それとも、私が首根っこを掴んでぶら下げて行ってやろうか?」
「すみません櫻良と手をつながせてくださいすみませんっ」
 とても大貴族の一員とは思えない、しどろもどろなアイレストリアスの姿に、ジーンに手を引かれ、アイレストリアスの手を引きながら、櫻良はくすくすと笑った。
 吹き抜けの廊下から夜空を見上げると、深い深い藍色をしたそこには、ジーンの目を髣髴とさせる黄金の月が輝いていて、そのとろりと濃密な光は、まるで彼女らを護るかのようにやわらかく降り注いでいる。
 色々あった一日だったが、とてつもなくいい日だった、と、櫻良は思った。
 素晴らしく美しいものを目にした。
 自分が何をするべきか、ほんの少し判ってきた。
 新しい友達が出来た。
 ――ジーンが、どんなときでも自分を気遣ってくれていること、護ろうとしてくれることを知った。
 それを幸いと呼ばずして、何と呼べばいいのだろうか。
「そういえば」
「どうしたの、ジーン」
「双神宮の料理長が、櫻良のために特別な茶とデザートを用意して、首を長くしてお前の帰りを待っていると聴いた」
「わっ、本当? やった、楽しみ!」
 満面の笑顔になる櫻良を、アイレストリアスが眩しそうに見ている。
 ジーンはほぼ無表情だったが、判るものには、その黄金の双眸が、やわらかく凪いでいることが判っただろう。
 それらを見遣りながら、慈愛めいた月光を降らせる月を見上げながら、櫻良は、
(ああ、今日のあたしも、幸せだった)
 胸を満たす幸福に、また、笑ったのだった。





 ――櫻良は、知らない。
 ジーンですら、気づいていたかどうか。
 吹き抜けの廊下の向こう側、濃い緑色の茂みの中で、自分たちを見つめる存在があったことを。
「……」
 その、黒いフードを目深に被った、背の高いふたり連れが、無言のまま……気配ひとつないままで、櫻良たちを見送ってから、静かに身を翻し、迎賓館から姿を消したことも。
 ふたりの訪れが、この桃天華大神殿都市に、また新たな騒動をもたらすだろうことも、櫻良はまだ、知らない。