9.ふたりの廃王子

 夢だ。
 そうはっきりと認識して、その光景を見ていた。

(あと、どのくらい一緒にいられるのかな)
(……判らない。だが……そう、長くはないだろう)
(判っている……けれど。でも、もっと、もっと、ずっとここにいたい)
(ああ……私も、お前にここにいてほしい。ずっと、お前を抱いていたい)
(わたしだって、いられるものなら……許されるものなら、永遠にここにいたい。ここで、あなたに寄り添っていたい。あなたを温め続けたい……)

 輝くような黒髪に、神秘的ですらある蒼の眼の、ほっそりとしていながら驚くほどの力強さを有した女と、打ち延べた鉄を思わせる灰色の髪に眩しいほどの黄金の眼をした男とが、不思議な色合いの空が広がる風景の中で、肩を並べ寄り添っている。
 女も、男も、驚くほどに――現実味を欠くほどに美しかった。
 女は優美で神秘的な、男は雄々しくありながら静謐な、他に並ぶものがないと称してもおかしくないほどの美しさを持っており、ふたりが寄り添うとそこだけ別の世界のようだった。
 そして、女は身重らしかった。
 彼女の、ほっそりとした身体の中で、そこだけが異質なまでにふくらんだ下腹を、男が壊れ物に触るかのように、それでいて愛しげに、そっと……やさしく撫でている。

(……もうじき、なのだな)
(ああ、あと、もう少しだ)
(どんな子が……生まれるのだろう)
(あなたとわたしの子どもなのだから、可愛いに決まっている)
(……そうだな)
(名前は、何にしよう? わたしたちの流儀と、あなたたちの流儀で、ひとつずつ、与えようか)
(そうだな……美しくて強い名前がいい。この子が、惨いさだめを切り開いてゆけるような)

 男女は顔を見合わせて笑い合い、それから、どちらともなく手を伸ばして互いを抱き締めた。
 男を抱き締める女が泣きそうな笑顔になり、女を抱き締める男が痛みを堪える表情をする。

(どうか……覚えていて)
(……ああ)
(わたしは、この子を抱くことなくこの世を去る。予言など享けずとも、それが判る。わたしは、この子を産むと同時に死ぬだろう)
(……)
(わたしはわたしの死を惜しむけれど、あなたと別れなくてはならない自分を哀しむけれど、後悔はしていない)

 女は今にも泣き出しそうだったが、同時にひどく晴れやかな顔をしてもいた。男は痛みに満ちた表情をしていたが、同時に息の詰まるような幸福をにじませてもいた。

(わたしが、命を落としてでもこの子を産もうと思ったのは、たとえ抱くことが出来ずとも母親になろうと決意出来たのは、父親があなただから)
(――……祥貴(サキ))
(グレン……わたしの、グレンヴィレイド。愛している……誰よりも)
(ああ……私も、愛している。すべての運命を投げ捨てて、ただお前とともに生きたいと願ってしまう程度には)

 蕩けるような愛の言葉を交わしつつも、すでに決定づけられた未来を口にするふたりの間には、悲壮な別れを孕みながら、新しい命をふたりで創り出す喜びがあふれている。
 ――もうじき生まれてくる、子どもへの愛があふれている。

(どうかこの子を護って……愛して。星のように、導いて)
(……)
(わたしはあなたに、あなたを解き放つ運命をあげる)
(……ああ)
(だから……どうか、哀しまないで。絶望せずに……待っていて)
(――……ああ……)

 男は瞑目し、深く頷き、掻き抱いた女の唇に、己のそれを重ねた。
 至福の表情で目を閉じた女が、男の首に腕を回す。
 新しい命を授かる喜びと、避けようのない別れへの哀しみと、それにも増してふたりを包む深い深い愛。
 そんなものが、ただひたすらに満ちる夢だった。

 * * * * *

「……あれ?」
 目を開けると朝だった。
 繊細な彫刻が施された美しく大きな窓、開け放たれたそこから、眩しい朝日と、清々しい朝の風とが入り込んで来ている。
 陽光も風も、やはり、どこか芳しい喜びを含んでいた。
「……」
 櫻良はしばらくの間、手触りのいいブランケットに包まったまま、精緻だが決して目に煩わしいほど自己主張はしない文様の刻まれた天井を見つめていたが、ややあってゆっくりと起き上がった。
「なんだったんだろ、あの夢」
 小首を傾げ、つぶやく。
「綺麗な人たち、だったけど……」
 見ているだけで、とてつもなく哀しかった。
 ふたりの、胸を掻き毟るような哀惜が、櫻良の心にも突き刺さるかのようだった。
 事実、夢の中で、夢と知りながら、櫻良はずっと泣いていたのだ。
 哀しくて哀しくて、寂しくて寂しくて、涙が止まらなかったのだ。
 あの女の人は、もう死んでしまったのだろうか。
 あの男の人は、待ち望んだ赤ん坊を抱くことが出来たのだろうか。
 そんなことをぼんやりと考える。
 ――櫻良には、何故か判っていた。
 あれが、この世界のどこかで現実に起きた、もしくは起きている出来事なのだということが。
 何故なのかなど、櫻良に答えられるはずもない。
 しかし、櫻良には、愛し合う男女が伴侶の死によってその仲を引き裂かれ、今も尚深い深い哀しみの中にあるのだということが、漠然と、しかし確信として理解出来ていた。
 と、そこへ軽やかな足音がして、両脇に女官を従えた双神宮の女官長が、いつもの、朝の世話にやって来た。
 名をカーラレイ・ブロックという彼女は、この広い双神宮をたったひとりで取り仕切っているとは思えぬほど小柄で、今年で五十二歳になるとはとても思えないほど若々しい。決して絶世の美女などではないものの、いつも朗らかで笑顔を絶やさぬカーラレイに、櫻良は、この双神宮に滞在するようになって一ヶ月ですっかり懐き、母親のごとく慕うようになっていた。
 そのカーラレイは、いつものように笑顔で櫻良に朝の挨拶をしかけ、唐突に驚愕の表情になって櫻良に駆け寄った。
「おはよう、櫻良。今日のご機嫌はどうかしら――……っ? 櫻良、どうしたの、何かあったの?」
「あ、カーラさん、おはようございます。今日もいい天気で気持ちい――……え?」
 何のことか判らず、ベッドに腰掛けたまま、瞬きをしてカーラレイを見上げると、彼女は懐から手触りのいいハンカチのようなものを取り出し、そっと櫻良の目元を拭った。
「泣いていたの、櫻良。怖い夢を見た? 大丈夫?」
 そう言われて、櫻良はようやく、自分が本当に泣いていたことを知った。
 夢の中で、しゃくりあげるほどに泣いたあれは、現実だったのだ。
「いえ、あの、ちょっと……哀しい夢を見ただけです。大丈夫。心配かけてごめんなさい」
「そう……なら、いいのだけれど」
 照れ臭く、気恥ずかしくなって、櫻良は頬を赤らめながらそう言った。
 カーラレイがホッとしたような表情をし、そっと櫻良の肩を撫でる。
「うん……ありがとう」
 カーラレイの気遣いを嬉しく思いつつベッドから降りて、ふたりの女官に手伝ってもらいながら着替えを始める。
 二十代前半から半ばと思しき女官たちは、どこかうきうきと楽しげに、櫻良の身体をいい匂いのする布で拭き清め、それからいつものような、決して派手でも華美でもないが、櫻良がついついときめいてしまうような、綺麗で可愛い服を着せつけて行った。
 年端も行かぬ幼児でもなし、着替えくらい自分で出来るから、と、初めのうちは世話を断っていたのだが、《女神の灯火》に関わりたくて仕方ないらしい双神宮の人たちの、縋るような視線に負けて、今に至る。
 ということで、櫻良の朝の世話、夜の世話をする係は日替わりだ。
 噂によると希望者が殺到して順番に回しきれず、くじ引きで決めているらしい。
 そこまで頑張ってもらうような人間では、と思いもするが、それがお世話になっている双神宮の人々を喜ばせるのなら、お尻がむずむずするような感覚を我慢するくらいは何でもないことだろう。
「ありがとうございます、サナさんリューネさん」
「いいえ、どういたしまして、櫻良」
「少し髪が伸びられましたね。煩わしければお切りしてもいいですが、きっと櫻良なら、リボンで結ってもお可愛らしいわ」
「あら素敵。わたくし、仲良くしている仕立屋さんに頼んで、綺麗な絹のリボンをたくさん手に入れてもらおうかしら」
「じゃあ、わたくしは、細工屋さんに頼んで、絹の布で出来た花飾りを作ってもらおうかしら」
「いえあのっ、ふつーに! 普通にゴム紐で結構です! いやもうむしろその辺に落ちてる糸くずとかで結構ですので!」
「あら……だって、ねえ、リューネ。櫻良だったら、絶対に綺麗なリボンじゃなくちゃ」
「ええ、そうよね、サナ」
 当然のようなふたりの口調に、ものすごい脱力感が襲い掛かり、櫻良は深々と溜め息をつく。
 櫻良がこの世界にやってきて一ヶ月が経っていた。
 それはつまり、《女神の灯火》が双神宮で暮らすようになって一ヶ月が経ったということなのだが、それらの日々は、廃棄世界という場所の、日本という国で暮らしていた櫻良には驚きばかりで、特に双神宮の人々の、櫻良の甘やかしぶりは凄まじく、この一ヶ月で櫻良はすっかりツッコミ体質になっていた。
 ――突っ込んでも完全にスルーされてしまうだけなのだが。
 こんなに至れり尽くせりじゃ、この世界で『普通に生きて普通に幸せになる』なんて不可能な気がする、と、たまに遠い目をしたくなる櫻良である。
 都市外の情勢が不安定な所為もあって、街中でたくさんの人たちと触れ合いながら暮らしたい、色々な勉強をして、いつかは定食屋か菓子屋、もしくはカフェのような場所で働きたい、という櫻良の希望はまだ叶えられていないし、この先しばらくは難しそうだ。
 救いと言えば、ごはんやお菓子が作りたい、という櫻良の希望に、週三回は、料理長が彼女に午後のお茶用の菓子や夕飯を作らせてくれること、太っちゃうと困るから、と言ったら散歩やジョギングには自由に行かせてくれるようになったことだろうか。
 ちなみに、櫻良が焼いて「皆さんで食べてください」と詰め所にプレゼントしたクッキーや焼きケーキが原因で、女官や女性神武官たちの間ですさまじい争奪戦が巻き起こっているという噂をほんのりと耳にするが、怖いので真実は確かめていない。
 とにかく、双神宮は、櫻良を甘やかすことにかけては神殿都市随一と言って過言ではない場所なのだった。
 櫻良はそれを、自分が《女神の灯火》だからなのだろうけど、自分はただの女子高生で何も返せないのに、といつも恐縮していたが、しかしそれが、櫻良が界護の姫だからというだけでなく、彼女自身の可愛らしさ、他者へ向ける心の真摯さ、感謝を忘れぬ気持ちのゆえなのだということには、櫻良は気づいていなかった。
 彼女が神殿都市にすっかり馴染み、まちと人々のことを大好きになっているように、その素朴さ、決して奢らぬ初心な愛らしさを、双神宮のみならず神殿都市の人々は愛しているのだった。
「さあ、櫻良、では朝ごはんにしましょう。今日は、騎士様が山葡萄を採って来てくださったので、素敵なジュースが出来たのよ」
 カーラレイと連れ立って――サナとリューネは部屋の掃除をしてくれるらしい――大食堂へと向かう。
「あ、いい匂い」
 広々として、一度に百人以上の人間がごはんを食べられるここは、この双神宮で働く女官や女性神武官、双神宮の守護を司る女性神殿騎士たちが食事を摂る場所だ。
 櫻良は、ここで、たくさんの女の人たちに囲まれて賑やかに食事をするのが好きだった。
 初めは、貴い界護の姫君にこんな雑多な場所で、と恐縮していた人々も、櫻良が彼女らの話を喜び、また感心して聞きながら、旺盛な食欲を見せるのを目にして、進んで一緒に食卓を囲んでくれるようになった。
 やはり、ごはんというのは、ひとりで食べては味気ない。
「おはようございます、櫻良」
「おはようございます、《女神の灯火》。今日も、とてもよいお天気ですね」
 様々な衣装に身を包んだ女性たちが、朗らかな笑顔で声をかけてくれるのへ挨拶を返しながら、いつもの席に向かう。
 今日の朝食は、ふわふわのバターパンに胡麻を練り込んだパン、こくと風味が素晴らしいバターとすもものジャム、黄身が鮮やかなオレンジ色のベーコンエッグ、瑞々しいブロッコリーとアスパラガス(のような野菜)のサラダ、少し変わった歯応えの蕎麦の実のスープに蜂蜜入りヨーグルト、そして神殿騎士の誰かが櫻良にと届けてくれたという山葡萄のジュースだった。
「わあ、美味しそう」
 厨房の向こう側の料理長(当然、女性だ)に、挨拶がてらトレイを受け取りに行き、明日の夕飯のメニューについて語り合ったあとテーブルに戻ると、そこには同じ朝食を手にしたケーニカがいた。
「あっ、ケーニカ、お早う! 今日も、とっても気持ちのいい朝だね」
 どこか少女めいた雰囲気を宿しながら、実は神殿都市でも十指に入る猛者という神殿騎士は、にっこり笑って頷いた。
「おはようございます、櫻良。よく眠れていますか?」
「うん、あそこのベッド、すごく寝心地がいいから、いつもぐっすり」
 ケーニカの隣に腰掛け、両手を合わせて「いただきます」を言う。
 それからおもむろにパンを手に取り、食べやすい大きさに千切って、バターとジャムをたっぷり塗る。
 夢の中で思い切り泣いたというのもあったからか、お腹がぺこぺこだった櫻良は、しばらく無心で朝食と向き合う。お皿の半分を綺麗にした辺りでようやく人心地がついて、山葡萄のジュースの濃厚な美味しさをしみじみと味わうことが出来るようになった。
 それと同時に、いつも通りの質問を口にする。
「ケーニカ、ジーンは?」
 流麗な動作で蕎麦の実のスープを口に運んでいたケーニカがくすりと笑った。
「今日は、用事で朝から少々遠出をしておられます。午後からは第三騎士団内で公開訓練がありますし、お昼ごろには帰ってくるとのことでした」
「あ、そうなんだ。じゃあ……お菓子か何か、焼いておこうかなぁ」
「そうですね、櫻良が焼いてくれるお菓子なら、隊長も喜ぶと思いますよ。櫻良は、今日は……確か、午前中が読み書きのお勉強でしたよね」
「うん、読むのはかなり出来るようになって来たかな。書く方は、もう少しで基本の文字が全部覚えられるんだー。頑張る」
「ええ、頑張ってください。午後からはどうします? また走りに行きますか?」
「あ、うん、付き合ってもらってもいいかな。なんか……美味しいものを食べて、家の中でじっとしてたら、あっという間に真ん丸になっちゃいそうだし、鈍るのも嫌だし」
「もちろん、喜んで。ああ、もしも櫻良がよければ、公開訓練を見学に行きませんか? 隊長がね、他の騎士たちと手合わせをするんですよ」
「へえ……そうなんだ。じゃあ、行ってみようかな」
 そんなカッコいいジーンを見たら鼻血が出るかもしれない、などと思いつつ、櫻良はバターをたっぷり載せたパンを頬張った。
 大食堂の大きな窓の向こうにある、朝の明るい風景を見遣りながら、今日も頑張ろう、と自分に気合いを入れる。