戦いは実に五時間にも及んだ。
森の木々をへし折り、大地を陥没させ、最終的には直径一イリス周辺を何もない更地に変えての、壮絶な戦いだった。
「……まったく、手間をかけさせてくれる」
最後の、渾身の一撃で、『核』である額の血珠を破壊した頃には、さすがのジーンも満身創痍だったが、そいつが地響きを立てて倒れ、動かなくなるのを、かれは、自分のダメージなど欠片も頓着せぬまま、何の感慨もない眼で見ていた。
完全に死んだことを確認してから、軽く咳き込み、鉄の味のする唾液を吐き出して、ジーンが腰に剣を戻すと、
【亜結界とは言え、神子姫の力の及ぶ領域内でありながら、毒王竜まで湧くか……】
人の姿を取った夜歌が、長々と伸びる巨大な魔物の骸を見下ろしながら、どこか感慨深げに呟く。
全体に、昆虫の脚のような鋭さを持つ触手を生やし、はばたきひとつで民家の十や二十を軽く跳ね飛ばす巨大な翼、そして生きとし生けるものを喰らい尽くすあぎとを持った、全長五十アルネル(約二十五メートル)もの巨大な化け物である。
食欲を基準に行動し、あまり知能は高くないものの、肉を持ってこの世に顕現するという意味では業神に次いで厄介な魔物で、ジーンと夜歌は、早朝と呼ぶには早すぎる時間から、この討伐に当たっていたのだった。
神殿都市から夜歌の脚で一時間の場所にある深い深い森の奥の、神子姫がそれと意識して張る結界の『影』とでも言うべき亜結界、本来の結界の半分から十分の一程度しか影響力がないとしても、世界を守護する双女神の化身たる彼女が及ぼす力の中にあって存在出来る魔物だ。
巨大さと頑強さなどから考えれば、中級から上級下位の魔族よりも危険で厄介な魔物との戦いに、異端とは言えヒトに属するジーンが相当なダメージを受けているのは当然として、今日はさすがに夜歌も疲れた顔をしている。
彼の場合は衣装や髪型までが神霊力によってかたちづくられているので、夜歌が相当なダメージを受けて弱りでもしない限り、それらが破れたり乱れたりすることはないのだが。
「低級な魔物は消えたが、規模の大きい魔が湧く。……強い光とは、そういうものなのかも知れん」
【ああ。討伐の回数自体は減ったが……毎回これでは、そなたの身体が持たぬぞ、いかにそなたが非常識なほど頑丈で、回復力も早いとは言うてもだ。一週間前にも火焔鮫の大群とやりおうて同じような傷を負ったばかりであろうが】
「激務には慣れているし……それでこその私だろう」
【しかしだな】
「……それに」
【なんだ】
「お前は、こうして私を助けてくれるだろう、どちらにせよ」
【……むう】
「なら……まァ、何とかなるだろうさ」
血のにじんだ口元を拭いながら、ジーンが当然のように言うと、夜歌は盛大な、人間くさい溜め息をついた。
「どうした、夜歌」
【かようなことを言われては、最後まで付き合うしかなかろうが】
「……そういうものか?」
【そういうものだ、この性悪め。まったく、業腹なことだが……それも吾が宿命やもしれぬな。――まぁよい、大事ないか、ジン】
「ないことはないが、慣れている」
【そなたらしい返しよな】
呆れた風情で言い、荷物の中から水の入った大きな皮袋と塗り薬、膏薬、それから包帯とを取り出して、夜歌がジーンを手招きする。ジーンは素直に頷いて、彼の傍らに歩み寄った。
放っておけば治る、というのが、自分に頓着のないジーンの、己が肉体への認識だが、ジーンが東方人の中でも特に頑丈で治癒力も高いと言う事実を知りつつ、それでも手当てしようという気になっている夜歌に逆らっても無駄だし無意味だということを知っているので、ありがたく受けることにする。
【ひとまず服を脱げ、傷口を洗わねば。毒王竜の【棘】は時として厄介な病をもたらすゆえ】
「ん、ああ」
言われるままに、あちこちに穴が空いた武装を解き、漆黒の衣装を脱いで、あちこちに穴の空いた身体を晒す。
【しかしまァ……派手にやったものだな】
ジーンの身体と傷口をまじまじと見つめ、夜歌が呆れた声を漏らした。
性別云々の問題ではなく、そもそもジーンは羞恥心が薄いし――薄いのは羞恥心だけではないが――、夜歌とは故郷の人々よりも付き合いが長いくらいなので、今更何を見られたところで恥ずかしいなどという可愛らしい感情は浮かんでこない。
夜歌の魔法ですっかり更地になってしまった地面に立ったまま、促されるまま手を差し出して、ジーンは答える。
ちなみに、自然に、世界に属する神獣がこんな大規模な森林破壊を行っていいのか、などと言ってはいけない。彼は彼で、我が身を顧みず無茶ばかりする相棒を護るために相当必死だったのだ。
「左上腕の骨にひび、左手薬指と小指は折れたな。あとは肋骨が一本……いや、二本、か。裂傷の深いのは、【棘】に刺さった脇腹と背中、あとは右大腿。打撲は数えたところで無駄だ。まぁ……毒王竜と二対一でやってこの程度なら儲けものだろう」
【中身はどうだ】
「少し傷が入った……と思うが、それほどのダメージではない。すぐに治る。あとは、吹き飛ばされたときに口の中を噛み切ったくらいのものだな。……ああ、それと、さすがにちょっと疲れた」
【ふむ。まァ……この程度ならばまだマシな方か】
「だろうな」
淡々と答えながら、夜歌が傷口を皮袋の水で洗っていく。
脇腹にぽっかり開いた大きな穴、わさわさと蠢く【棘】に絡め取られ、ぶん投げられて別の【棘】に刺さったお陰で出来たそこを大きな手でごしごしと力いっぱい洗われて、さすがのジーンも顔をしかめた。
「……夜歌、痛い」
【おお、それは重畳。鈍いそなたが痛いと訴えるくらいならば相当痛いのであろうが、痛みを感ずるとは生きておるのと同等だ、よかったではないか】
常人なら悶絶して失神してもおかしくない痛みに、それをよかったと言っていいんだろうかと思いつつ、口で勝てる相手ではないのでジーンは黙る。
恐らく判っていてやっていると思しき夜歌は、ジーンが口答え出来なくて棒切れのように突っ立っているのを少々楽しげに見遣りつつ、手際よく傷口を洗い――当然、どれも痛い――、消毒をして薬を塗り、膏薬で傷口を保護したあと、慣れた手つきで包帯を巻いていく。
この辺りの手際のよさは、あまり回復魔法の効かないジーンと五十八年間付き合ってきたお陰で培われた、培われざるを得なかったものだと、鈍いジーンも認識していて、一応、申し訳なく思っているし、感謝もしている。
【このように手当ての巧みな神獣など、吾以外にはおらぬぞ……まったく】
「ああ、それは判っている」
ちなみに、これらの水や医療品のみならず、荷袋の中で出番を待っている体力回復用の糧食も、討伐命令が下った際、夜歌が準備したものだ。
ちょっとした切り傷や打撲ならば半日とおかずに回復し、三ヶ月程度なら飲まず食わずでも生存出来る東方人だからという理由だけでなく、ジーンは、戦い以外に関する認識が低い。迂闊すぎると言っても過言ではない。
深い森の中でどこからともなく木の実や魚や獣を手に入れてきたり、食べられる植物や茸の類いを百発百中で見抜いたり、石と木切れを使ってあっという間に火を熾してしまったりと、生きるすべはたくさん持っているくせに、神殿騎士の中ではもっとも都市生活が出来ていない騎士のひとりとして神殿都市民にも認識されているほどだ。
【よし、これで終いだ。まァ、大事ないとは思うが……帰ったら、神子姫に傷を看てもらうがよい。彼女の神威魔法ならばそなたにも有効であろう】
「ん、ああ、ありがとう。……神子姫は私で遊ぼうとするから出来れば遠慮したい」
【なんだ、貞操の危機にでも遭(お)うたのか】
「貞操なんぞはどうでもいいが。……前、この刺青の禍々しいのが気に食わんと言って、星や花や仔猫や仔犬、果てはハート型の刺青を、可愛らしい明るい桃色で入れようと言い出した。本人は冗談だと笑っていたが、あれは絶対に本気の眼だった」
【想像すると笑えるな、それは】
「笑うな。その時の私に同情しろ、せめて。気に食わんと言われても、私のこれはアクセサリではないのだから、どうしようもないんだがな……」
姿かたちだけならば世界一美しいのに、その実世界一腹黒で世界一無体な主のことを溜め息混じりに話しつつ――鈍いジーンに溜め息をつかせるのだから、相当だ――、あちこちに穴の空いた衣装に再度袖を通し、武装を整える。
「……櫻良に会う前に着替えておかないと、また心配させるな」
腰に丈夫なベルトを巻き、剣帯に剣を戻しながら言うと、夜歌が驚いたような感心したような顔をした。
【包帯があればどちらにせよ心配はするであろうが……しかし、そなたがかような気遣いをするとは……嬢は偉大だな】
「む、そうか?」
【そうだとも。嬢が廃棄世界人で――日本人であったことも、同時に《女神の灯火》であることも、そなたにとっては幸運だったのだろうな】
「…………そうか」
ジーンは、廃鬼世界の日本人には特別な思いがある。
だからこそ、森の奥で保護した少女が同じであることを知った時、何をおいても彼女を護らねばならないと思ったのだが、その少女が神子姫より命をかけて守れと命じられた《女神の灯火》であったことは、確かに、ジーンにとっては運命だったのかもしれない。
「櫻良の幸いを護ることが、私の務め。……同時に、今の私の願いだ」
【ああ】
その時のジーンは、少し、途方に暮れたような顔をしていたかもしれない。
ジーンが廃棄世界人に……日本人に抱いているのは、そういう類いの思いなのだ。
「――……なあ、夜歌」
【いかがした】
「……櫻良を護り抜ければ、彼女の幸いを見届けられれば、駿一郎(しゅんいちろう)は私を許してくれるだろうか? それとも……虫がいいと嘲るだろうか?」
【そなたは、どう思うのだ】
「判らん」
【ならば、判らぬままでよい。今はなすべきことをなせ……吾が言えるのは、それだけだ】
「……ああ」
どこか苦笑するように言って、夜歌が、朴訥に頷くジーンの頭をわしわしと掻き混ぜる。
それは、世界中の誰よりもジーンと付き合いの長い神獣が、ジーンを慰める時、励ます時、自分は何があってもジーンの味方なのだと、何があっても裏切ることはないのだと、言外に伝える時にする親愛の動作だった。
それで子ども扱いするなとふくれるような感情はジーンにはなく――何せ、子どもの時から子どもとしての扱いを受けてきていないため、子ども扱いの何たるかが判らないのだ――、黙って夜歌のそれを受け、そのあと、ぼろぼろになった防刃マントを羽織る。
空を見上げると、ここへ辿り着いたときにはまだ眠りについていた太陽は、ずいぶん上の方へと昇って来ている。身体の感覚から言って、時刻は午前十時前くらいだろう。
「今日は……午後から公開訓練だったな。……二時からだったか?」
【騎士団員でもない吾に訊くでないわ。己が日程如き、自分で管理せよ】
「……ケーニカと同じことを言うんだな」
【ああ、それはさぞかしケーニカも苦労しておるのだろうな】
「……」
やはり口では敵わないのでジーンは黙り、やれやれと溜め息をついた夜歌が馬の姿に転じたその背へひらりと飛び乗る。
手綱を掴むと、小さな欠伸が漏れた。
ここのところ不眠不休での大規模な討伐が続いているのもあって、さすがに疲弊しているらしい。
【……眠っておれ、風よりも速く神殿都市まで運んで進ぜるゆえ】
それを耳聡く聞きつけて言う夜歌に、ジーンは微苦笑を浮かべた。
「お前は私に甘過ぎる」
【今更だ。――違うか?】
「はは、確かに」
ブルルッと鼻を鳴らした夜歌が、地面を蹴る。
ジーンは彼の鬣と手綱とを握り締め、彼の首にもたれかかるようにして、眼を閉じた。
じわじわと疲労が、痛みが身体を侵食していくのが判る。
だが、不思議と、それは心地よかったし、ジーンはどことなく満たされてもいたのだ。
それが、騎士としての務めを果たせたゆえなのか、それとも、あの小さな《女神の灯火》を間接的に護れたという満足感のゆえなのかは、自分の感情の機微にすら疎いジーンには判らなかったが、何にせよ悪い気分ではなかった。
「そういえば、昔は……よく、こうやって大陸を移動したな……」
夜歌のたくましい首筋に我が身を預け、彼の体温に安堵めいたものを覚えながら、まだ、櫻良に出会うどころか騎士ですらなかったころのことを思い起こし、かすかに笑ったところで、ジーンの意識はあっさりと深い眠りの中へ落ちて行った。