ジーンが双神宮前に姿を現したのは、お昼ご飯まであと少し、といった時間だった。
 一週間前にも同じようなことがあったのだが、厄介な魔物を相手にしたらしく、いつも通りの黒ずくめをしたかれの身体中に、思わずハッとなるほど白い包帯が巻かれていて、もちろん櫻良は心配したけれど、
「……すぐ治る」
 ジーンの返答もまた、いつも通りだった。
「でも……」
「私の仕事だ、厭うものでもない。これが、お前と、神殿都市とを護るということなのだから」
「……うん……」
 ジーンにとっては、本当にそれは、ごくごく当然のあり方で、日常茶飯事に過ぎないのだろう。恐らく、かれにとっては本当にすぐ治るかすり傷同然のもので、櫻良がやきもきするだけ無駄なのだろう。
 それでも心配で仕方ない、ジーンに痛い思い辛い思いをして欲しくない、というのが、櫻良の、かれに恋する少女としての正直な気持ちではあったが、ジーンならば大丈夫だという信頼があるのも確かで、ならば自分がやるべきことは、かれが望むように幸せでいること、そしてあまりにも自分に無頓着なかれを気遣うことだろうとも思うのだ。
 幸いなことに、櫻良にも順応力というものはある。
 そのお陰で彼女は、この世界に滞在して一ヶ月で、闇雲に案じハラハラし続けるだけでは意味がない、という大切なことに気づけたのだった。
【まったくそなたは果報者よな】
 人型を取った夜歌が、目を細めて櫻良を見遣りながら言う。
「……そういうものか」
【そうとも。このような幸運、他にはあるまい】
「そうか……なら、肝に銘じておこう」
 生真面目に頷くジーンを、櫻良は小首を傾げて見遣った。
「夜歌、カホウモノって何?」
【幸せ者、ということだ】
「ふーん……? でも、そっか、ジーンは幸せなんだね。よかった」
 何故幸せ者なのかは今ひとつ判らなかったが、市民からは絶大な敬意と信頼を受けつつも、どことなくこの神殿都市内でも浮いているような気がする――というよりもジーン自身が一歩退いているのかもしれない――ジーンが幸せであるのなら、櫻良にそれを厭う要素のあろうはずもない。
 よかった、と言いつつ櫻良がにっこり笑うと、すでに事情を完全に察しているらしい――といっても、あれだけ駄々漏れでは、櫻良に近しい人々の大半が察しているだろうが――夜歌が魅力たっぷりの悪戯っぽい笑みを見せて彼女を呼んだ。
【おお、そうだ、嬢】
「え、なに、夜歌」
【昼食のあとでよいのだがな、こやつの包帯を替える手伝いを頼めぬか?】
「えっ」
【傷口を清潔に保つには、やはりこまめな消毒と交換が一番なのだ】
「そ、それはその、あの、えっと……」
【午後より公開訓練も行われる、しっかりやっておくに越したことはない。そうであろう?】
「ぅ、あ、う、うん、その……うん、そうだよね……!」
 茶目っ気たっぷりにウィンクしてみせる夜歌の意図を悟り、櫻良はかくかくと奇妙な動きで頷いた。
 ジーンの、美しくしなやかな、白い身体のあちこちに巻かれた包帯。
 それを取り替えたり、消毒したり、あの綺麗な刺青を見たり、あの綺麗な身体を見たり、あの肌に触れたり、ジーンの体温を直接に感じたり、あんなことやこんなことまでしてみたり。
「そ、そそそそそ、そんな……」
 ほんの一瞬で、若干ピンク色のものすごい妄想が脳裏を駆け巡り、思わずしどろもどろになった櫻良に、
「……夜歌、櫻良が困っている。私は櫻良の手を煩わせたくはないし、廃棄世界の少女にそれを強いては気の毒だとも思う」
 あまりにも挙動不審な様子に、彼女が躊躇っている、嫌がっていると感じたのだろうか、ジーンは淡々とそう言ったのだが、櫻良はぶんぶんと首を横に振り、力いっぱい右手を挙げて主張していた。
「いえあのっ、やるっ、やります、やらせてください! もう、何が何でも是非っ!」
 耳の先まで熱いのは、お恥ずかしいにもほどがある、とんでもねー妄想が脳味噌から漏れ出ていたらどうしよう、という羞恥のためだったが、ジーンがそれをどう見たかは謎だ。
「……櫻良、無理はしなくてもいいんだぞ。お前たちの基準で考えれば深いものもある、見ていて気持ちのいいものではないだろう」
 恐らく櫻良の、恋するピンク色の脳内など想像もつかないだろう朴念仁は、単純に彼女を案じる言葉だけを口にして、櫻良が思わず、すみません自分の欲望に忠実でごめんなさいすみませんと土下座したくなったような静謐な眼差しで彼女を見つめた。
 が。
 ――好きな人の傷の手当てが出来る、などという素晴らしいシチュエーションを、どうして見逃すことなど出来ようか。
 そしてそれは、同時に、ほんのわずかであれ櫻良がジーンの責務の手伝いを出来るということでもあるし、かれが普段どのくらいこの都市や、櫻良を守るために頑張ってくれているかを知るよすがでもあるのだ。
「ううん、あのね、あたし……ジーンの力になりたいから。ちょっとだけでも、お手伝いしたいから」
「……そうか」
 自分の欲望の部分は脇に避けての櫻良の言葉に、ジーンはちいさく頷き、そしてかすかに、どこか嬉しげに笑った。
「ありがとう」
「……!」
 神秘的な美貌に浮かぶ笑みは無垢ですらあり、櫻良の脳味噌が、ありとあらゆる事情や背景や感情を超越して、その一瞬で鮮やかな薔薇色に染まったことは、想像に難くないと思われる。
「いっ、いえっ、その、ほらっ、あたし……その、保健体育委員だったし! 毎日、健康観察カード集め頑張ってたし!」
 しどろもどろになり、この場においてはあまり意味のないことを口走ったあと、このままだとそろそろぼろが出る、と、
「あっそうだジーン、そろそろお昼だよね! いっしょに食べよう、ねっ!」
 かなり強引に話題を変えた櫻良だったが、声を殺して笑っている夜歌はともかく、致命的に鈍い朴念仁は気にするでもなく頷いた。
「……そうだな、そうしようか」
「うん! ええと、双神宮の食堂?」
「残念ながら、我々はそこへは入れんな。私が表立っての立ち入りを許されているのは、神子姫と櫻良の居室だけだ。それも、実際にはあまり褒められたことではない」
「あ、そっか」
「ふむ、櫻良が嫌でないなら、一度第三部隊の食堂のどこかで食べてみるか? この時間帯なら、空いている場所もあるだろう」
「いいの?」
「ああ、別に、一般人の立ち入りが禁止されているわけではないし、櫻良はこの世界の賓客だ、きっと第三部隊の者たちも喜ぶ」
 言って、ジーンが櫻良に手を差し伸べた。
 戦いが終わったあとだからか、絆創膏のようなものが貼ってあるだけで、今は手袋もしていない。
「うん、じゃあ……第三部隊の人たちにも、挨拶、したいし」
 白くて長い、綺麗なのに力強い指先に、デフォルトのように照れながらも、櫻良はかれの、このときばかりは自分だけのために差し出された手を取り、ジーンとともに歩き出した。
 そんな櫻良の隣に、笑いを堪えたままの夜歌が並び、かれらと歩きながら、なんか幸せだなぁ、と笑った櫻良は、
「あっ、そうだ、ジーン、夜歌」
 ふと思い立って、その思い付きを口にしてみた。
「どうした、櫻良」
【いかがした、嬢】
 黄金と真紅の美しい双眸が、ほぼ同時に自分を見下ろしても、最近では、ときめいたりどぎまぎしたりするよりも先に、家族がすぐ傍にいるような、温かい気持ちが胸を満たすようになっている櫻良だが、もちろん、どきどきしないわけでもない。
「う、うん、あのね。あたし今、双神宮の料理長さんにお願いして、一週間のうちの三日間は夕飯を作らせてもらってるんだけど」
「ふむ」
【ああ、それは聞いた。料理長殿が、筋がよいと褒めておったそうではないか】
「えっ、そうかな、だったら嬉しいな。こっちの世界って、電気とかガスとかもないし、どうなるかと思ったんだけど、かまども石焼きオーブンも、使ってみるとなんとかなるものだよね。それに、電気やガスを使ってつくるより、なんか、美味しい気がするし」
「ふむ、楽しんでいるようだな、いいことだ」
「うん、すごく楽しいよ。あ、それでね、あたし、一度……って言わず二回でも三回でも、ジーンと夜歌にお昼ご飯、作ってみたいなぁって。ほら、ふたりとも、すごく頑張ってるから、ちょっとでも疲れが取れるように、献立とか作ってみたくて、その……」
 言っているうちに、これはものすごく出しゃばったことなんじゃないだろうかというネガティヴな思考が頭をもたげて来て――どんなに、いつも前向きに! と思ってはいても彼女はただの女子高生に過ぎないのだ、自信のないこともへこむこともたくさんある――、尻すぼみになりかけた、櫻良の『思いつき』という名の願望に、
「……それは」
「えっ何、ジーン」
【ああ、とてつもない幸運だな】
「えっ」
 顔を見合わせたジーンと夜歌が、かすかに微笑んだ。
「なら、美味い昼飯のためにも、命を賭して励むしかないだろうな」
【うむ、それを思えば、多少の労苦などは、食事を美味にいただくための準備運動と言うべきなのやもしれぬ】
「ええっ、そ、そんな大袈裟な……!?」
 ふたりの物言いに思わず目を剥きかけた櫻良だったが、どことなく嬉しげな空気をにじませたジーンが、
「……楽しみにしている」
 そう、端的に言ったので、
「うん……!」
 頬を紅潮させて大きく頷いた。
 ――頷くしか、ないではないか。
 あまり食べることに興味も執着もないらしいジーンと、食べずとも生きられるが美味しい不味いは判ると言う夜歌、初めてのお客としてはなかなかに敷居が高いが、櫻良にとってふたりは特別な人たちだ。
 その、特別な、大切な人たちのために腕を揮えるなら、そして彼らを元気づけられるなら、それこそがきっと、櫻良がこの世界でなすべきことなのだろうと思う。
 それと同時に、
(好きな人の帰りを待ってごはんを作るとか、……まるで新婚さ……いやいやいやいやそんな、めっそうもない!)
 お帰りなさいあなた、ごはんにする? お風呂にする? それとも私? 的なピンク色の妄想が脳内いっぱいに展開され、櫻良が、あまりにもフリーダム過ぎる――多分、ここでの生活に慣れてきて、容量に余裕が出はじめたからだ――脳味噌に、思わず自分の行く末に不安を抱いてしまった、というのはまた別の話だ。