神殿騎士団第三部隊の胃袋を担う十箇所の食堂のうち、東に位置する“狼の昼寝”亭は、これがいつものことなのか、ものすごい人ごみでごった返していた。大賑わいと言って過言ではない状況だった。
 大抵は、この世界の言葉で『三』を意味する文字を美しく意匠化した刺繍が肩口にされた、彼らが第三部隊の騎士団員であることを示す制服を身にまとった人々だったが、中には、明らかに一般人にしか見えない人や、明らかに神官と思しき人もいて、お陰で三百人がいちどきに入れる食堂にも収まり切らず、窓から中を覗き込んでいる人までがいる。
「あの、ジーン……」
「どうした、櫻良。あまり種類はないが、好きなものを注文するといい。字は読めるようになったんだろう」
「あ、うん、日常的なものは、わりと。……じゃなくて、なんか、すごい人だね。あたし、邪魔じゃない?」
「先に席を取った者の勝ちだ」
「そういうものなの?」
「……いや、こういうところにはあまり来ないものでな、私もよくは知らんが、ユイやルヴァが言っていた」
「ユイさんルヴァさん……あー、えーと、ジーンの部隊の、大隊長さんたちだっけ。ケーニカが言ってたような気がする」
「そうだ。今日の公開訓練で手合わせをすることになっている、あとで紹介しよう」
「あ、うん、ありがとう」
「だから、まずは、昼飯だ。好きなものを食べればいい」
「えーと、お金は? あたし、持ってないよ」
「騎士団の食堂は、双神宮や市役所内のそれと同じく無償だ。市民の納める税金によって賄われているから、それが神殿都市民であれば、誰に対しても金銭を要求しない」
 淡々と言ったジーンが、白い指先でメニューが書かれた紙片をつまみ、櫻良に手渡してくれる。
 櫻良は礼を言ってそれを受け取り、流麗な文字をまじまじと見つめた。
 もちろん、まだ、すらすらと読むには不慣れだからだが、故郷の廃棄世界で、英語と格闘していたのが嘘のように、語学なんて、と思っていたのが嘘のように、この世界の文字を学ぶことは楽しく、また、その習得は速やかだった。
 言葉自体は通じるのだから、あとは文字さえ読めるようになれば、それほど難しくない、というのもあったかもしれないが。
 食堂の職員だろう、白い前かけをした青年が、レモンの輪切りの浮かんだハーブ水を運んでくれ、若干緊張した面持ちで注文を尋ねてくれるのへ、あまり待たせたら悪い、と、一生懸命文字を追う。
「えーと……ランチセットなんだね、これ。えーと、えーと……鶏と茸のクリーム煮込みか、鶏と白菜のグラタン焼きか、秋鮭の東大陸風ソテーか、鹿肉の串焼きとサラダか、海老と青菜のピリ辛煮込み。パンと、デザートがどれにもつくんだね……うーん、どれも美味しそう」
「食べたければ、ふたつでも三つでも頼めばいい」
「ちょっと惹かれるけど、それやっちゃうとあたし、女子高生として色々まずいから、やめとく。ん、秋鮭の東大陸風ソテーにしよう。ジーンと夜歌は?」
「……別に、どれでもいいんだが」
【それでは注文が出来ぬであろうが。嬢、この朴念仁はな、大変残念なことに、こういうところではまったく優柔不断なのだ。済まぬが、なんぞ、選んでやってはくれぬか】
「え、そういうものなの? じゃあ、茸は身体にいいから、鶏と茸のクリーム煮込みでどう?」
「ああ、なら、それで」
「夜歌は?」
【吾は、そうだな、その海老と青菜の何とやらにするか】
「じゃあ、鶏と茸のクリーム煮込みと、海老と青菜のピリ辛煮込みと、秋鮭の東大陸風ソテーでお願いします」
 と、櫻良がメニューを読み上げると、櫻良の様子にも、ジーンや夜歌の様子にも目を奪われていたらしい青年が――といっても、櫻良は自分が見られていたことなど気づいていなかったが――、ハッと我に返り、大急ぎで内容を復唱してから九十度くらいのお辞儀をして、足早に立ち去っていく。
 自分に関する評価がすっぽり抜け落ちているため、やっぱり、部隊長さんってすごい存在なのかなぁ、などと思っていた櫻良だったが、その傍らで、夜歌は、
【酒でもつけばよいのだが、ここでそれを求むるは無体というものか】
 残念そうにそんなことを言った。
 しかし、ジーンはというと、冷淡だった。
「お前は昼間から飲み過ぎだ、この酒乱神獣め」
【そなた、その物言いは、酒に酔ってそなたに暴力でも揮えと言うものと解釈してよいのだな……?】
「好きにしろ、そのときは返り討ちにしてやる」
【……】
「……」
 胡乱な目つきになった夜歌に、フンとどこか子どもっぽく鼻を鳴らしたジーンがハーブ水のグラスを手にしながら返し、無言で睨み合うふたりの姿に、櫻良は思わず噴き出した。
 ふたりが深く信頼しあい、互いを大切に思っていることは一ヶ月の付き合いでしかない櫻良にすら判るのに、それと同じくらい、このふたりはよく、こういう、他愛ない、くだらないことで妙な小競り合いをしている。
 それも、信頼があるゆえの、じゃれあいのようなものなのだろうか、と、
「ジーンと夜歌って、仲よしさんだよね。見てて微笑ましいもん」
 櫻良がくすくす笑いながら言うと、騎士と乗騎は大層嫌そうな顔をして目を逸らした。
 そのコミカルな様子を含めて、食堂からあふれ出しそうなお客たちや、給仕や調理に精を出す職員までが、ちらちらとこちらを伺っている。
 しかし櫻良は、まさか、彼らの大半が、いつも双神宮で食事を摂る《女神の灯火》がやってきて、こんなむさ苦しい場所で昼食を食べると聞いてそれを見に来たのだとは知らず、そして、第三部隊長と灯火と神獣という組み合わせに声をかけたくてもかけられずにいるとも知らず、滅多にこういうところではごはんを食べないジーンがいるからだろう、と勝手に納得していて、ジーンってなんやかや言って人気者だよね、などと暢気に思っているだけだった。
 と、そこへ、
「いやぁ、しかし、すごい賑わいですねぇ。いつもの三倍くらいいやしませんか、これ」
 短く切り散らした赤茶色の髪にやわらかな若葉色の目をした痩躯の青年と、
「……ジーン隊長と灯火、それに神獣殿までがいるのでは、当然かも知れんがな」
 肩までの黒髪をきちっと結い、整えた、鋭い薄青の目をした偉丈夫とが並んでやってきて、三人のテーブル前で立ち止まった。
「あ、えーと……?」
 どこかでちらりと目にした気はするが、基本的にこの一ヶ月間、双神宮と神殿、そして街中を行き来するだけの生活を送っていた櫻良なので、神殿騎士団の人々に関する知識は薄く、小首を傾げてふたりを見上げた彼女に、
「エツカ・ハウンドとルヴァ・グレイエコー。第三部隊第九大隊長と、第十大隊長だ。……向こうで紹介する手間が省けたな」
 ジーンの、静かな声がかかる。
 すると、ルヴァと呼ばれた痩躯の青年が、飄々と笑って胸に手をやり、恭しく一礼した。
 身体つきと同じく、線の細い、中性的な顔立ちの青年だが、ひ弱だとかか弱いとは思わないのは、騎士団の制服から覗く彼の素手が、ジーンと同じように力強く、武骨だからだろう。
「お初にお目にかかります、貴き灯よ。オレは、桃天華大神殿騎士団第三部隊第十大隊長を拝命しています、ルヴァ・グレイエコーと申します。どうぞ、お見知りおきを」
 言ったルヴァが、椅子から立ち上がって、ご丁寧にどうも、などとお辞儀をしていた櫻良の手を取り、その甲に――当然のように――口づける。
 もちろん、一ヶ月経っても慣れぬ、姫君のような扱いに櫻良は固まった。
 が、やはりもちろん、騎士たちはそれには頓着してはくれず、
「……私は第三部隊が第九大隊を率いる長、エツカ・ハウンドと申す者。どうぞ、よしなに」
 身の丈二メートルを超えていそうな巨漢なのに、鈍重さをいっさい感じさせないエツカもまた、大きな手で、壊れ物に触れるような丁重さで櫻良の手を取り、その手の甲に、恭しい口づけを落とした。
 あたしはいったいどこまで行くんだろう、などと、見事に固まったまま、櫻良が遠い目をして思っていると、
「お待たせいたしましたっ!」
 先ほどの青年が、注文したランチセットを運んできてくれて、それでなんとか彼女は現実に帰還することが出来た。
「えーと、あの、ルヴァさんエツカさん、お世話になります。どうぞよろしくお願いします……」
 何とか失礼ではないように挨拶をして、席に着く。
「わ、いい匂い! 美味しそう」
 それを微笑ましげに見下ろして、
「隊長、ご一緒してもいいですか?」
「ん、ああ、構わんが」
「ありがとうございます。邪魔をしたいわけじゃないんですが……こうも人が多くっちゃねぇ。エツカ閣下と同じ席ってのが若干アレですけど、お可愛らしい灯火が目の前にいてくだされば、問題はありませんよね」
「貴様にはその言葉をそっくりそのまま返してやろう」
 飄々と笑うルヴァの隣に、むすっとしたエツカが座り、同じメニューをふたり分注文する。
「……今勝手に注文しましたね、閣下」
「貴様の舌なら何を食っても一緒だろう。向こうの手間を省いただけだ」
「それ、エツカ閣下に言われちゃお終いですよ」
 淡々として、冷ややかな、しかしそれでいて、どこか先ほどのジーンと夜歌と同じ空気を感じるやり取りに、騎士団って仲良しさんが多いんだなぁ、仲良しっていいことだよね、などと思っていると、すぐにルヴァとエツカの分のランチが運ばれて来て、櫻良は両手を合わせて『いただきます』の挨拶をした。
 こちらではそういう慣習がないらしく、ルヴァやエツカが少し不思議そうな顔をしている。
「あ、おいしー」
 脂の載った秋鮭、バターと醤油に似た調味料でソテーしてあるそれを頬張り、櫻良は満面の笑顔になった。
 それを見て、夜歌が笑みを浮かべる。
【そうか、それはよかった】
「やっぱり……魚って、火の通し方が一番大事だよね」
【なるほど、そういうものか】
「うん、やっぱりね、美味しいものが作れるってすごいことだと思うんだ。あたし、頑張って美味しいお昼ご飯、作るね」
【うむ、楽しみにしておる】
 ほのぼのとした会話を交わす櫻良と夜歌の隣では、
「……隊長、気づいておられますか」
「ああ。十七人……といったところか。昨日から、三人減ったな。同時に、別に、ふたり増えたようにも思えるが……こちらは驚くほど気配が希薄だ。ほとんど動きをつかめない」
「そうですね、概ね同じ意見です。別働隊、でしょうかね。別の意向を受けた誰かが動いているのか……それとももしくは、手柄を巡っての争いか」
「さて……どうだろう。連中も、約束の十日とやらを更に半月ばかり過ぎても表立っては何も言ってこないからな。このまま大人しくしていてくれればと思いもするが、まぁ、無駄なことだろう」
「隊長のあれに相当脅かされたのだろうが、その分、力尽くで、といったところか」
「まァ、その方が私にはやりやすい」
「ああ、言うと思いました。ひとまず、双神宮や神殿のみならず、神殿都市全域での警戒を怠らないよう、第一部隊第二部隊とも連携を取ります」
「ああ」
「ひとまずは、公開訓練だ。あれはいい示威になる。私も存分に腕を揮おう」
「それは確かにその通りだ、特に第三部隊の公開訓練は独特だからな。……ん、なんだ、お前も出るのか、エツカ。私は別に構わんが」
「最初はそんなつもりはなかったのだがな、副隊長が、大隊長中隊長クラスは全員出ろと」
「まぁ、オレたちが束になってかかったところで、隊長がどうこうなるはずもないでしょうけど、やるからには勝ちを狙いますよ。ついでに、どさくさに紛れてエツカ閣下をぶん殴る、っていうのも面白そうですけどね」
「では私はどさくさに紛れて貴様を微塵切りにしてやろう」
「言っておきますけどそれまったくどさくさに紛れられてませんからね、閣下」
 深刻なのかコミカルなのか判らない会話が繰り広げられている。
 櫻良には判らないことの方が多かったので、昼食に没頭したが、不吉なイメージがあって、そのことが顔に出ていたのだろう。
「櫻良、心配は要らない」
 櫻良を真っ直ぐに見つめたジーンが、
「いかなる脅威も嘴も、それがお前を危機に陥れるものならば、私が……私たちが、すべて斬って捨てるから」
 静かに、しかし断固とした意志を載せて言ったので、
「……うん……」
 櫻良は、隠しきれない不安と、それにも増した信頼とを込めて微笑み、頷いた。
 きっとなんとかなる、それが、最近の櫻良の思考だ。
 そして、それが何とかなるように、自分に出来ることを全部やる、それだけのことなのだ。