そこからおよそ二時間後、午後二時過ぎ。
 櫻良は、古代ローマのコロッセウムを髣髴とさせる大きな競技場、もしくは闘技場と言うべき場所にいた。
「広いねぇ、夜歌。競技場も広いけど、観客席も広いね。お客さん……っていうか見物の人たちでもいっぱいだし……。ジーンたちは、ここでいつも訓練をしてるの?」
【いつも、というわけではないがな。ここは第三部隊所有の訓練場のひとつだ。時折他部隊との模擬戦も行っておる。観客席が設けてあるのは、外部に神殿騎士団の力を見せ付けるとともに、人の目を気にせず己が戦いが出来るように、という、これまた訓練のためなのだ】
「へえ……じゃあ、騎士さんたちも気が抜けないね」
【そうだな、みっともないところを見せるわけには行かぬとかで、ここで訓練が行えるのは一定以上の実力を有する騎士だけなのだそうだぞ】
「ああ、なるほどー。じゃあ、ここで練習が出来る人たちは、本当に強い人たち、ってことなんだ」
【うむ。第三部隊のみならず、他部隊でも、騎士見習いや準騎士、新米騎士たちにとっては、ここで行われる訓練や模擬戦に参加することが第一の目標になっておるようだな】
「そうなんだ……皆、すごいよねぇ。……あっ、夜歌、ジーンたちが出てきたよ。そろそろ始まるのかな」
 競技場の観客席の最前列に陣取って――ケーニカが座席を確保しておいてくれたのだ――、転落防止用の手すりから身を乗り出すようにして、眼下二メートル先に広がる、広大と言って過言ではないフィールドをぐるりと見渡し、櫻良が言うと、夜歌は座席にゆったりと腰掛けたままかすかに笑った。
【の、ようだな。此度の訓練、嬢は驚くやも知れぬが、まァ……心配は要らぬ。どっしりと構えて見物するがよい】
「? うん、判った」
 小首を傾げつつ、座席に座る。
 闘技場は全体的に石造りなので、座席も双神宮にあるソファのように座り心地がいい、とは言い難かったが、高校の硬い木の椅子に座り慣れている櫻良としては、別に文句を言うほどのことでもなかった。
 その間に、フィールドにはジーンやケーニカを初めとして、次々に騎士たちが姿を現していた。
 ほとんどが第三部隊の騎士たちのようだが、中には、第一部隊や第二部隊の制服も見える。
「あっ、ネイクさんにリコさん。アティさんやメイさんも来てる……なんか、大々的だね」
【そのようだな。此度のこれは、訓練であると同時に示威行為でもあるゆえ、妥当なのかも知れぬが】
 夜歌が言い、目を細めてフィールドを見下ろす。
 団長及び第一部隊長ネイク・ディ・エイトフォレスト。
 第二部隊長リコ・エス・フィールド。
 第一部隊副隊長メイファ・ライラックヒル。
 第二部隊副隊長アーティス・ケイプ。
 第三部隊副隊長ケーニカ・ヘッジ。
 第一大隊長ユイ・スカイツリー。
 第二大隊長ハルベルト・フェイス。
 第三大隊長ユウン・タトゥラ。
 第四大隊長ティーエ・シーダー。
 第五大隊長カルム・ファスマート。
 第六大隊長ネヴァンナ・フォーカス。
 第七大隊長サイオン・ポーラー。
 第八大隊長メリーローズ・シェパード。
 第九大隊長エツカ・ハウンド。
 第十大隊長ルヴァ・グレイエコー。
 各第三部隊大隊長ひとりにつき五人が存在する、補佐役の中隊長たち。
 そして、第三部隊長、ジーン・ヴィ・ダブルリーフ。
 フィールドには、計、六十六人の騎士たちがいて、めいめいになにやら会話を交わしている。
 じわりとした熱気が、ここまで伝わってきた。
「試合かぁ……どんなふうにやるんだろ」
 漆黒の武装を身にまとい、真新しい包帯に包まれたジーンを見つめながら櫻良はつぶやく。
 ちなみに、もちろん、あの包帯を取り替えたのは櫻良だ。
 先ほど、選手の控え室のような場所で、夜歌にやり方を教えてもらいながら傷口を消毒し、包帯を巻いたのだ。
 傷口の深さに胸を痛めはしたものの、だったら自分はそれを癒すことを第一に考えよう、と思えたのは大きかった。
 更に、ジーンの綺麗な身体を見て、綺麗な身体に触れられた、嬉し恥ずかし、なオトメゴコロに関しては脇に避けておくとして、不慣れなりに一生懸命包帯を巻き終えたあとの、ジーンが微笑んで礼を言ってくれたときのあの幸せは鼻血十リットル級もしくは失神&後頭部強打級だ、などと思う櫻良である。
 櫻良の、そんな気持ちになど気づくよしもなく――気づいてもらえるとも思っていないとはいえ、気づかれたら気づかれたで、ごめんなさいすみません自分の欲望に忠実でごめんなさいと土下座して謝るしかないような気もするが――、
「さて……では、始めようか」
 何でもない、いつも通りの淡々とした口調でジーンが言うと、騎士たちの間にサッと緊張が走った。
「じゃあ、僕はしばらく見物してるから」
「わたくしも団長に同じだ。皆の戦いぶり、しかと見せてもらおう」
 と、やはりいつもと変わりないネイクとリコが騎士たちから離れて壁際に移動すると、目敏くそれに気づいたメイファが詰るような視線を向けた。
「また自分たちだけ美味しいところを持って行くつもりですか、団長にリコ隊長」
「人聞きが悪いよメイ。僕はただ、君たちの実力を見せてもらおうと思ってるだけじゃないか」
「そんなもの普段から見ておられるでしょうこのオッサン団長。そんなんだから、奥さんに邪魔になるから休日だからって家にばっかりいるなとか言われるんですよ!」
「オッサンのところとか邪魔になる云々は今のこの場面においてはまったく関係ないと思うけどね!?」
 言いがかりに均しいメイファの言葉に目を剥くネイク、フンと鼻を鳴らすメイファ。それを、アーティスがしみじみと見つめている。
「……ネイク団長、奥さんには弱いからなぁ」
「そうですね、この前も、忙しすぎて坊ちゃんの学校参観に行けなかったのを責められて、一週間、おかず一品減らされたらしいですから。彼が壁に向かって愚痴ってるの、久々に見ましたよ」
「うわぁ切ない」
「そういうアティは、彼女とはどうなんです? そろそろ結婚って言ってませんでした?」
「えー……いや、確かにそれは思うけど、しばらく忙しそうだし無理かなぁ。新米君たちの世話もしなきゃいけないし」
「アティは面倒見がよすぎますよ。新米騎士たちに親切にしすぎて、彼女に愛想を尽かされないようにね」
「それは大丈夫。俺たち、愛し合ってるし」
「……小ッ恥ずかしい台詞ですが、アティが言うと何故か納得してしまいますね」
 ネイクとメイファ、ケーニカとアーティスの、これから剣を用いての訓練が始まるとはとても思えない暢気なやり取りに、この人たちは本当に変わらない、と、櫻良が声を殺して笑っていると、
「アティの結婚式には是非灯火にも出席していただこうというそれはさておき、ひとまず、始めるぞ。せっかちのジーンが痺れを切らしたらどうする」
 やれやれと肩を竦めたリコが言い、騎士たちを促した。
 櫻良には名前も判らない、中隊長たちの表情がきりりと引き締まる。
「ジーン、用意はいいか」
 リコの問いに、ジーンはちいさく頷き、ひとり、他の騎士たちから距離を取った。
「いつでも構わない」
 かれの静かな物言いと同時に、中隊長及び大隊長たちが一斉に身構える。
 ――全員が、ジーンに向かって。
 各部隊の隊長副隊長たちの視線も、すべて、ジーンを向いている。
 櫻良は思わず息を飲み、夜歌の袖口を掴んだ。
「ねえ、夜歌」
【いかがした、嬢】
「この試合って……もしかして」
【いかにも。あやつひとりが、他の騎士たちを相手取るのだ】
「だ……」
【うむ?】
「大丈夫なの、それ? だって、皆、強いんでしょう? いや、その、ジーンが弱いとか思ってるんじゃないけど、でも、ほら」
【ふむ、《憤怒の犬》の凄まじさを周囲に宣伝するためなのでな、案ずるなと言うしかないのだが、まァ……口で申すより、目で見る方が早かろうよ】
 ジーンの強さなら、今までにも目にして来ている。
 かれが神殿騎士団随一の戦い上手であることもよく判っているつもりだ。
 しかし、今ここに集った人々もまた、神殿騎士団内では有数の実力者で、しかも彼らは全部で六十五人もいるのだ。
 地球、廃鬼世界で言えば、それは多勢に無勢と表現すべきもので、櫻良が、本当に大丈夫なのか、と心臓が縮むような錯覚に陥りかけたのも、彼女の常識に当てはめて考えれば、決しておかしなことではなかった。
 ジーンの表情に変化はない。
 かれはまだ、剣すら抜いていない。
 しかし、戦いは……始まっている。
「第一大隊第五中隊長クラウス・ブラウン、参ります!」
 三十代前と思しき青年の凛々しい名乗りと同時に、中隊長たちが口々に名乗り、剣を構え、ジーン目がけて斬りかかる。百人の騎士たちを率いているという中隊長だけに、彼らの動作はこなれており、また、速い。
 五十人もの騎士たちが一気にジーン目がけて殺到する様子は、まるで雪崩か津波のようで、櫻良は呼吸が留まりそうになったのだが、
「クラウス・ブラウンか……お前のことは、覚えている。少し、腕を上げたな」
 かすかに笑ったジーンは、クラウスと名乗った青年が振り下ろした、必殺の気迫すら込められた剣を舞のように優美で滑らかな動作で避け、その剣の腹を手の平で軽く弾いた。――ようにしか見えなかったのに、青年は大きくたたらを踏み、後退を余儀なくされる。
 それでも、何とか体勢を立て直したクラウス青年の灰翠の目に、隠し切れない喜びが見て取れるのは、ジーンの賛辞のゆえだろうか。
 その直後、四方から振り下ろされ、また振り抜かれたいくつもの剣を、神業と称すべき紙一重で交わすと、ジーンは、黄金にも琥珀にも見える稀有な双眸で騎士たちを一瞥し、
「……行くぞ」
 静かに、しかしどこか重々しく言って、前方へと踏み込んだ。
 そう、櫻良が思った瞬間、ジーンはすでに、騎士たちの密集する中へと軽やかに入り込んでいて、
「――ッ!!」
 彼らの驚愕になど頓着する様子もなく、恐るべき速さで騎士たちを翻弄する。
 騎士たちはジーンの接近に互いの距離を広げ、臨戦態勢を取った。
 それは、櫻良の目から見ても速く、統制が取れていたが、ジーンは更に速かった。
「ッ、速……!?」
 かれは、オレンジの目をした青年が驚きの声を上げる背後へいつの間にか回り込み、
「ならば、更に速くなれ」
 わりと無体なことを言いつつ、彼の首筋に鮮やかな手刀を極めた。
「……!」
 見かけによらずジーンが怪力であることはここ一ヶ月で実証済みだが、そのジーンの手刀を首筋に喰らった青年が受けた衝撃はいかほどのものであったのか、彼は、目を見開き、悲鳴すら上げられないままその場に横転した。
 低く呻きながら、何とか身体を起こそうとしているが、相当のダメージだったようで、果たせずにいる。まだ意識を失っていないだけ、見事だと言うべきなのかもしれない。
「……次々、行くぞ」
 ぼそり、と言って、ジーンがまた踏み込む。
 それは、舞うようでもあり、飛ぶようでもあった。
 ジーンの、ひとつに結わえた黒髪が翻り、陽光に煌めくたび、櫻良はときめいていたが、そのたびに、中隊長の誰かがジーンの激烈な一撃の餌食になり、脱落していくのだった。
 あっという間に半分近くに減ってしまった中隊長たちに焦りめいたものが見えるのに反して、ジーンはどこまでも平静だ。平静というより、淡々としている。
 淡々とフィールドを蹴り、競技場を縦横無尽に駆け回っては騎士たちを翻弄し、彼らがあっと思った瞬間には背後にいたり、懐に入り込んだりしていて、次の一瞬で中隊長たちを脱落させていく。
 中隊長の三分の一は女性だったが、彼女らの動きは男性騎士たちと何ら変わりがなく、また、彼女らに対するジーンの扱いも、男性騎士たちと同じだった。勘違いして語られる、俗に言われるフェミニズムなどとは無縁な場所なのだ、ここは。
「なら……これでっ!」
 女性騎士のひとりが気合いを発するとともに、彼女の剣に稲妻が宿った。
 同時に、残った十数人の中隊長たちが、それぞれの異能を開放する。
「すごい……!」
 櫻良はどきどきする心臓を宥めながら、展開される光景をひとつも見逃すまいと見つめていた。
 夜歌やケーニカに教わったところによると、第三部隊は、騎士の数が少ない分、ひとりひとりの戦闘力が高いとかで、この神統世界に迷い込んだ初日に櫻良が見た、部隊長副部隊長たちのような、廃棄世界にはありえない能力を、騎士たちの大半が所有しているのだと聞く。
 といっても、さすがに、戦局を有利に運べるほど強い力は、隊長クラスしか持ち合わせていないようだが。
 雷光、炎、風の渦、不可解な熱、振動、水や氷の矢など、様々な『力』が解き放たれ、ジーンへと向けられる。
「ジーン!」
 櫻良は思わず手すりにしがみつき、ジーンを悲鳴のように呼んだが、ちらりとほんの一瞬こちらを見た黄金が、わずかな笑みのかたちになったので、わけもなく安堵し、ああきっと大丈夫なのだ、と納得もしていた。
 そして、事実、中隊長たちのまとう異能は、ジーンによって、次々と蹴散らされていた。
「く……やはり、ジーン隊長、お強い……ッ」
 稲妻を剣に宿らせた女騎士が焦りとも感嘆とも取れぬ声を上げる。
 身を灼く雷光や炎、斬り裂く風の渦、不可解な熱、フィールドを抉る振動、怜悧で鋭い水や氷の矢は、すべて、剣を抜きもしていないジーンの拳に振り払われ、叩き落され、あっという間に無へと返される。
 それと同時にジーンが騎士たちの間を駆け抜け、脚を引っかけられて転倒させられたり、首筋に手刀を叩き込まれたり、鳩尾を強打されたりして、残った十数名の中隊長たちも次々に脱落していく。
「……次は、お前たちか」
 中隊長五十名、全員が脱落し、フィールドから撤退するまで、大した時間はかからなかった。恐らく、二十分弱の出来事だったと思う。
 ジーンが見つめる先、ずいぶん広さを増したように感じられるフィールドで、緊張の面持ちをしつつ身構えるのは、十人の第三部隊大隊長たちだ。
 そういう風に決まっているのか、それとも今の状況で挑んでも無駄だと思っていたのか、彼らは、ジーンと中隊長たちのある種一方的なやり取りの間、黙って、五十対一の戦いを見ていたのだが、これは、順番がまわって来たと言うことなのだろう。
 男性は六名、女性は四名。
 性別に違いはあれど、立ち居振る舞いや彼ら彼女らのまとう雰囲気に変わりはなく、周囲には、また、ぴりりとした戦意が満ちた。
「さて……では、ちょっと頑張ってみましょうかねぇ」
 先ほど食堂で顔を合わせたルヴァ・グレイエコーが言い、剣を構えると、その隣に、無言のまま戦意をにじませるエツカ・ハウンドが並んだ。
 同じように、大隊長たちが銘々の得物を構え、ジーンもまた、ほんの少しだけ笑って身構えた。戦いなどというものとは無縁な櫻良にすら、ジーンに隙がなく、かれが何の疲労も覚えていないことが判る動作だった。
 その様子は、とてつもなく美しく、流麗で、更に言うならカッコよく、ドキドキするくらい素敵で、――要するに櫻良の心臓は、ときめきのあまり爆発してどこかへ飛んでいきそうなくらい、弾んでいた。
「頑張って、ジーン……!」
 恐らく頑張るべき、応援されるべきは大隊長たちなのだが、恋する乙女にそれを言っても無駄というものだ。
 櫻良は、ひとつも見逃すまいと息を飲み、目を見開いて、戦いの続きを見つめる。