「すごい……」
 櫻良は息を飲んで眼下の光景を見つめていた。
 公開訓練が始まって約一時間、競技場では、未だ剣を抜いてすらいないジーンが、副隊長三人と渡り合っている。
 アーティスの剣が鞭になり槍になり何十本もの矢になってジーンを襲うが、それらはすべてジーンに振り払われ、叩き落され、蹴散らされた。
 神統世界滞在一日目に見た、自分と他人との間隔をコントロールするというメイファの能力は、彼女の身体能力を超える素早さを有するジーンの前には無力だった。
 ケーニカが空気中の水分を集めて創り出した、三頭もの大きな氷の狼は、普通の人間ならひと噛みで身体を食い千切られそうだったが、高く跳躍したジーンの、踵落としの一撃で粉々に砕け散った。
 たぶん、ジーンも副隊長たちも本気ではないのだろうが、少なくとも副隊長たちは汗だくだ。
 ケーニカに聞いたことがあるのだが、櫻良たちの世界では魔法を髣髴とさせる様々な特殊能力は、能力保持者たちの魔力……精神力に近いなにものかによってかたちづくられ、また発動するものであるらしく、大きな力を使ったり、多用したりすると、精神的にも肉体的にも『ドッと疲れる』のだという。
「何かもう嫌になってきたなぁ。これ、ぶっちゃけた話、俺たちが疲れるだけだよね……?」
「そういう弱音はそっと胸中に仕舞っておくのが神殿騎士というものよ。正直わたしも何もかもなかったことにして回れ右をしたいけど」
「そもそもこっち方面でジーン隊長に勝とうと思う時点で間違ってますよね。どうせなら、書類の決済速度とか競えばいいのに。そうしたら、見習い騎士でも全戦全勝出来ますから」
 ジーンと距離を取り、身構えつつぼやく三人。
 ジーンはというと生真面目に頷き、
「確かに、書類の決済速度を競うと言われたら私には太刀打ち出来んな。むしろ、最初の一枚目で勝負を放棄する自信がある」
「……残念にもほどがありますね、それは」
 ケーニカに深々と溜め息をつかれる始末だ。
 ちなみに、最初の一枚って根気がないにもほどがあるよジーン、とジーンに夢中な櫻良ですら突っ込みそうになったというのは内緒だ。今までの言動からしてデスクワークは苦手だろうな、と思っていたが、そこまで筋金入りとなると、ケーニカたちは苦労していそうだ。
「ふたりに全面的に同感。リコ隊長、そんなわけで俺としてはそろそろ降参したいんですけど、交替をお願いしてもいいですか?」
「却下だ。もっと死力を尽くしてからにしろ」
「ここで死力を尽くす意味が判りませんリコ隊長」
「少なくともわたくしは楽しい」
「鬼ですか。いや確認するまでもないんでしょうけど」
 第二部隊の隊長副隊長のやり取りのあと、メイファが壁にもたれたままこちらを見ているネイクに冷ややかな視線を向ける。
「わたしは充分働きましたのでそろそろ交替しましょうか。駄目とか嫌とか言ったら、奥さんにネイク隊長が奥さんのこと鬼婆だって悪口言ってたって告げ口します」
「いや僕としては交替するにやぶさかではないんだけども、その悪口の告げ口って部分は聞き捨てならないんじゃないかな!? 思い切りガセネタっていうか捏造だよねそれ!」
「いえ、真実ですよ。――……主にわたしの脳内では」
「メイの脳内における真実で僕の家庭を破壊しようとするのはやめてほしいかな!?」
 無表情のメイファに目を剥くネイク。
 神殿都市内でも十指に入る実力者たちの会話にしてはコミカルで間抜け過ぎるそれに、櫻良は思わず、今が結構シリアスな公開訓練中であることを忘れそうになった。
 よくある光景ではあるのか、ジーンの一撃から立ち直った第三部隊の大隊長中隊長たちも笑いを堪えている。
「なんだか、シリアスなのが長続きしない人たちだよね」
 くすくす笑いながら櫻良が言うと、隣の夜歌は小さく肩を竦めてみせた。
【彼奴らの如き実力者ともなれば、公開とはいえ訓練で本気など出せようはずもないゆえな。下手をすればこの競技場ごと吹き飛んでしまう】
「へえー、すごいんだね、皆。だからこそ、この都市の人たちは安心していられるんだろうなぁ」
【そうだな、それでこその神殿騎士団であろうよ】
 そう言って、夜歌が茶目っ気たっぷりにウィンクしてみせた時、フードを目深にかぶった人々が、観客席に入って来るのが見えた。
 妙に気になって人数を数えると、全部で十五人いる。
「夜歌、」
 櫻良が感じたのと同じ何かを察したのか、夜歌が表情を引き締めて彼らを見据えた。
 フードの一団は、迷うことなく櫻良たちに近づいてくる。
【止まれ、何用だ】
 夜歌が厳しい制止の声を発したが、止まる様子はない。
 競技場内の騎士たちがざわりとざわめき、彼らが――特にジーンが、観客席に向かって飛び上がるよりも早く、フードのひとりが、懐から取り出した何かを夜歌に向かって投げつけた。
 それは、夜歌が避けることすら出来なかったほど、不自然なほどに早く、
【何を、……!?】
 初め、何かの粉末のように見えたのだが、投げつけられると同時に液体となり、夜歌の全身に降りかかった。
 液体を浴びた途端、夜歌の渋い美貌がさっと強張る。
【ぐ……】
「夜歌!? ど、どうしたの!?」
 一瞬ののち、苦悶の表情とともにその場に崩れ落ちた夜歌の姿に、櫻良は狼狽する。……と、思ったら、次の瞬間には、あっという間に間合いを詰めたフードのひとりに担ぎ上げられていた。
 世界がくるりと回り、櫻良は思わず息を詰めた。
「櫻良!」
 ジーンの鋭い声が遠くから聞こえる。
 櫻良を担いだまま、フードのひとりが走り出したのだ。
 その周囲を、剣を抜いた数人のフードが取り囲む。
「は、放してください、降ろして!」
 櫻良はじたばたともがいたが、無駄な足掻きでしかなく、すぐにジーンや他の神殿騎士たち、観客席の人々の声までが遠ざかる。
 彼らが、櫻良を担いだひとりを護衛して、神殿都市の厳しい包囲網から抜けるつもりなのだ、ということまでは判らずとも、夜歌に何かひどいことをしてまで櫻良を捕らえたところからして、友好的な相手ではないことだけは櫻良にも理解できた。
 自分は今、何者かに神殿都市から連れ去られようとしている。
 それを妙に冷静に理解しながらも、
「ジーン、お願い、夜歌を……!」
 櫻良はしかし、自分が誘拐されようとしているのに、まず夜歌が心配だった。
 だからそんな言葉が出た。
 あんな、苦しそうな顔をする夜歌を、なすすべもなく崩れ落ちる夜歌を、櫻良は初めて見たのだ。
【吾のことは構うな……!】
 夜歌の叱咤するような声。
 それが不意に途切れたので、フード男の(腕や身体のごつごつした様子から判断した)肩に担がれたままの不自由な身体を捻じ曲げてそちらを見ると、その場に留まったフードひとりが、観客席に飛び上がり、櫻良を追いかけようとしていたジーンに向かって夜歌を蹴り飛ばしたところだった。
「……!」
 ジーンは一瞬躊躇したようだったが、恐らく櫻良の意を酌んでくれたのだろう、夜歌の身体を受け止め、当人(当獣?)の低く罵る声を無視して丁寧に地面へと横たえた。
 そのジーンの前に、五人のフードが立ちはだかり、
「……退け!」
 激烈な怒気とともにジーンが剣を抜く。
 その間に、競技場から観客席上に上がってきた騎士たちが、飛ぶように走るフードの一団の前に次々と立ちはだかったが、誘拐者たちは慌てず騒がず、櫻良の首筋にナイフを当てた。
 刃物で脅されるなど生まれて初めての経験で、櫻良は呼吸すら止めて硬直するしかない。
「……界護の姫の命惜しくば、道を開けよ」
 フードのひとりが低く言えば、誰もがそれに従うしかなかった。
 櫻良もまた、さすがに、自分のことはいいから……とは言えなかった。
 死ぬのは怖いし、今死ぬわけには行かないという思いもある。
「それでいい」
 誘拐者たちはいっそ悠々と、競技場をあとにした。
 視界の隅に、ジーンがフードの五人と斬り結び、次々と斬り倒して行くのが見え、櫻良は不安を押し殺し、悲鳴を堪えて唇を引き結ぶ。
 ――ジーンが、きっと助けてくれる。
 その確信が櫻良を支えている。
 ジーンの仕事が櫻良を護ることならば、櫻良の仕事は、ジーンを信じることだ。ジーンが来てくれると信じて、耐えて待つことだ。
 櫻良は、自分でも驚くほど冷静に――もちろん、恐怖を感じないわけではなかったが――そう判断し、男に荷物のように担がれるまま、大きな競技場がどんどん遠ざかるのを見ていた。