「無礼を許されよ、貴い姫」
 人通りの少ない路地裏を駆け抜け、そこから一体どこへ行こうというのだろうか、鬱蒼と繁る森の中へ駆け込んだ一団は、迷うことなく森の奥へ奥へと進んでいた。
 その最中に、櫻良を担いだ男が小さく囁いたのだった。
 彼は……彼らはもうフードをかぶってはいなかった。
 全員が男で、全員がまだ若かった。
 皆、二十代後半から三十代前半ではないかと思われた。
 途中、連絡を受けて追いついてきた騎士団員と戦うために数名が残り、そのまま合流しては来なかったので、誘拐者たちは五人に減っていた。
 彼らは、ギリシャ神話の彫刻を思わせる彫りの深い顔立ちに、紛れもない苦悩と櫻良への憐れみ、畏怖を浮かべていたが、まっすぐに前を見た、ぴんと背筋の伸びた様子からは、彼らがこのまま櫻良を解放してくれることはないだろうとも察せられた。
 その頃には櫻良は、荷物のように担がれてはおらず、両手両足首を細い紐で拘束された状態で男のひとりに横抱きにされていた。
 櫻良は決して大柄ではないものの、中学生の頃から陸上部で頑張ってきたため、実は結構筋肉質なのだが、見かけによらず体重のある――何キロなのかは口が裂けても言わない――彼女を抱えていながら、彼らの走る速さに変化はなかった。
 あたしたちの世界だったら世界新記録があっという間に塗り替えられるんだろうな、と、冷静なのか現実逃避なのか判らない思考で櫻良は思った。
 そんな彼女を見下ろしての、
「世界一貴い姫君の命を危機に晒した責任は取る。覚悟は出来ている……罪は死を持って償おう。だが……俺たちは、なすべきことをなさなくてはならない。これが、俺たちの仕事だからだ」
 すでに死を覚悟していると思しきその言葉は、櫻良に心臓を握り締められるような痛みを与えていた。
 彼らが自分を誘拐しようとしている相手だとか、神殿都市とは敵対関係だとか、そういうことは関係がなかった。神殿都市的には些細ではないはずなのだが、櫻良にとってそれは些細なことだった。
「嫌だ……」
 不自由な手を伸ばして、男のまとったフードを掴む。
 男は、そして一団は、櫻良が誘拐されるのが嫌だ、という意味で言ったと思ったのだろう、
「すまぬ。だが……命には逆らえぬ」
 囁くような声で詫びを口にした。
 櫻良は男に抱えられたままの姿勢で首を横に振る。
「違うよ、違います、死んで罪を償うなんて嫌だ! あなたたちが誰だって、どんな悪人だって、自分が悪いことをしてるって判ってるんなら、ちゃんと生きて償って。責任って、そういうことじゃないんですか……!」
 ――きっとこの世界では綺麗ごとなのだろうと思う。
 この世界に来たはじめての日、ジーンが失態を犯したふたりの神殿騎士たちに向かって言った、命で贖えという言葉は、きっと、この世界では当たり前のことなのだろうとも思う。
 けれど、櫻良は嫌だった。
 自分は《女神の灯火》という貴い何かだったお陰で大切にしてもらえている。
 彼女の命は、世界を温める貴い光なのだと、誰もが言う。
「あたしは廃棄世界人です。あたし、自分のいた世界では、タテマエだけのことなのかもしれないけど、命はどれも平等だって、どれも大事なんだって教わったんだもの。死んで何もかも終わりにするなんて、絶対におかしい……!」
 命は大事だ。
 生きていることが楽しいから、嬉しいから、幸せだから、櫻良にはそれが判る。この世界に来て、尚更それを理解できるようになったし、強く感じるようになった。
 人間も、動物も、植物も、その他のたくさんの生き物も、生きたいと、生きようと思って生きているから、どれもが貴い。
 命は、生きたいと願う意志は貴いから、大好きなジーンに人を殺して欲しくない。
 同じく、大好きなジーンが、誰かに殺されるようなことがあってほしくない。
 櫻良の根本は、結局それだ。
 無理な、難しい願いだなどと、言われずとも判っている。
 廃棄世界には――日本にはないたくさんの困難が、この世界には満ちている。そのくらい、判っている。
 けれど、願わずにはいられないのは、櫻良がジーンを大好きなように、夜歌や、ケーニカや、たくさんの人たちが大好きなように、他の誰かのことを大好きな人たちが『世界』を創っているのだと判り始めているからだ。
 この男たちにも、きっと、そう言う人がいるのだろうと思うから、櫻良は、死んでお終い、などというやり方は嫌だと叫ぶしかないのだ。
「……姫は優しいな」
 男たちは走りながらわずかに目元を和ませたが、しかし、
「だが……無知で、愚かで、残酷だ」
 どこか哀しげにそう言った。
「……ッ」
 息を飲む櫻良に、
「俺たちは、生まれてから死ぬまで生き方を決められている。これ以外の生き方、死に方は、許されていない。……そういう人間も、世の中にはいるということだ」
 静かな、断絶めいた言葉が落とされる。
「でも、だけど、そんなの……」
 平凡だが平穏で温かい環境で育ってきた櫻良に、それ以上のことが言えるはずもなかった。
 そこで会話はすべて終わり、唇をきゅっと引き結んで黙り込んだ櫻良を抱え直して、男たちが更に速く走り出そうとした時、
「確かに、この世界においては残酷なことかもしれない」
 静かな声が唐突に響き、
「そうだな……あなたの言うそれはとても難しいけれど、とても心地よい」
 彼らの前に、灰色のフードをかぶった背の高い人物が立ちはだかった。
「痛い思いをしたくなければ退け」
 誘拐者たちが短剣を抜き、身構える。
「それはこちらの台詞だ」
 声は、もうひとつ――櫻良たちの背後からも。
「!!」
 男たちに振り返る暇も与えず、一陣の颶風が吹き抜け、誘拐者たちのくぐもった呻き声が聞こえたかと思うと、気づけば櫻良は別の誰かの力強い腕に抱きかかえられていた。
「え、あれ、ええと……」
 何が起きたのか判らず、そうかジーンが来てくれたのか、と思い至って腕の主を見上げてみれば、相手は、夏場の太陽光のような金髪に、夜の穏やかな闇を髣髴とさせる藍黒色の目の、繊細優美な美貌の青年だった。
 当然、見たこともない人物だ。
「すみません、ええと、すみません、あの、どちら様でしょうか……すみません、あの、重くてすみません、もう降ろしてもらってもいいですか」
 そこで謝り倒し、言わなくてもいいようなことまで口走ってしまうのが、櫻良の小市民ぶりを如実に示していると言える。
 しかし青年は微動だにしない。
「何、小鳥を指先に留まらせているようなものだ、どうということもない」
 静かにそう言うだけで、櫻良を姫抱きにしたまま動かず、
「兄上、どうだ」
 自分が打ち倒した誘拐者たちを縛り上げている人物に声をかけた。
 兄上と呼ばれた人物がフードを取り、素顔を晒すと、
「あ、あなたは……!」
 誘拐者のひとりが低く息を飲み、声を上げる。
「やはり……君たちは、父上直属の。……そうまでして、権威を示したいのかな。虚しい話だ」
 哀しげに首を横に振り、言った青年は、櫻良を抱える青年とそっくり同じ顔をしていた。ただ、髪は雪原のような銀髪で、彼の方が髪が長く、また目は朝焼けのような鮮やかな朱色だ。
 彼もまた、繊細優美な、どこかジーンや神子姫と似通った系統の、神秘的な美貌の青年だった。
「生きておられたのですか、エルリヴァリース様、エルファンドール様……」
 男のひとりが、半ば呆然と言うと、エルリヴァリースと呼ばれた銀髪の青年は静かに微笑んだ。
「人間というのは、そうそう簡単に死ねるものじゃないみたいだな。色々あるけれど、割合楽しくやっているよ」
 青年がそう言い、男たちが言葉をなくしたのと、遠くで高らかに馬がいなないたのとはほぼ同時だった。すぐに蹄の音が幾つも聞こえて来て、地響きとともに騎士団の人々が駆けつけてくる。
「あっ、ジーン!」
 夜歌ではない普通の馬に乗ったジーンの姿を先頭に認め、櫻良が目を輝かせると、エルファンドールと呼ばれた金髪の青年は、櫻良の両手両足首を縛める紐を、彼女を片腕で抱いたまま器用に片手で解き、それから櫻良をそっと地面に降ろしてくれた。
「あ、ありがとうございます……」
「界護の姫に礼を言われるとは名誉の極み。まぁ、気にするな」
 エルファンドールが飄々と言い、
「それに」
「え、はい、なんですか」
「あなたがジーンの大切な方であると言うのなら、俺たち兄弟にとっても大切な女性ということだ。護らないわけにはいかないだろう」
「えっ……?」
 櫻良が言葉に詰まる間に、エルリヴァリースへ視線を向けた。
「なあ、そう思わないか、兄上」
 問われた方はやはり穏やかに微笑み、ちいさくうなずく。どんどん近づいてくるジーンを見つめる、エルリヴァリースのあかい双眸には、思慕と憧憬が満ちていた。
「ああ……そうだな」
 櫻良は、ふたりの青年とジーンとを交互に見遣りながら、また何かが起きるのだろうか、いやきっと起きるのだろう、と、妙な確信と、不安のような疼きを胸の奥に抱いていたのだった。